第九章
1
二月二十二日 月曜日。
朝食の席で相も変わらない旺盛な食欲を見せつけた恒河沙LAWは、食後、応接間のロッキングチェアに座り前後に揺られていた。
「探偵さん。建山から聞きましたよ。事件の真相が……犯人がわかったとか」
二日酔いが苦しいのか、苦い表情をした鳥羽が頭に手を置きながら訊ねる。LAWは返事をせずロッキングチェアの動きに身を任せたまま暖炉を見つめている。鳥羽の眉間にシワが寄ったのを見て、須貝は大きく咳ばらいをした。
「九時になるまで待ってください。九時になったら、皆さんにこの居間に集まっていただき全てをお話しします。そうですよね、LAWさん」
LAWは何も応えない。白いアネモネをあしらった羽織を着こみ、ただただ前後に揺れている。
現在の時刻は八時三十分。九時まではあと三十分だ。
「居間に全員を集めるそうだが、彰もいなければならないのかね」
鳥羽は須貝に訊ねた。彰は相変わらず遊戯室に幽閉されたままだ。
「お越しいただくつもりです」
「気に喰わんな。愛を居間に呼ぶのはまぁ仕方がないとして。彰と愛を同じ部屋にいさせたくはないんだが」
「我慢してください。先ほど彰さんの様子をうかがってきましたけど、かなり落ち込んでいましたよ。一晩経って自分が何をしたのかやっとわかったんでしょう」
「そうだな。彰め。大人しくしていれば、社の幹部クラスには取り置いてやったというのに。馬鹿なやつだ」
使用人の二ノ宮が居間に入ってきた。その後ろに三崎も続く。二人とも朝食の皿洗いを終えたのか、両手が赤く湿っていた。
「あの、何かご入り用のものはございますか」
二ノ宮が訊ねるが、相変わらずLAWは応えない。二ノ宮の視線が須貝に移る。須貝は苦笑いをしながら首をふった。
「特にありません。ありがとうございます。それより、お二人も九時には居間にいらしてくださいね。この別荘にいらっしゃる方全員に居間に集まっていただきます」
「構いませんが……本当に犯人がわかったんですか?」
不安そうな表情で二ノ宮が訊ねる。
「本当に、確信をもっていえるんですか。あの時、包丁を握りしめていたのが誰だったのかなんて、外見からじゃわからないじゃないですか。『わたしが殺しました』って自供したわけではないんですよね。それなのに――」
「ま、まぁまぁ。とにかくぼくたちに任せてください。皆さんに納得していただける答えを必ず提示しますから」
そういい繕ったものの、須貝の心のうちは不安でいっぱいだった。昨夜の時点でLAWは犯人が誰なのかわかったという。氷織もまた、昨夜遅くにLAWから犯人の名前とその根拠を説かれ納得したそうだ。須貝はまだ犯人の名前を知らない。今朝の時点では“説明する時間がない”と断られたのだった。
「飲み物だけご用意しましょうか」
「そうですね。お願いします」
二ノ宮と三崎はキッチンへともどった。
二人の使用人と入れ違いで廊下から神崎が現れた。その後ろには、氷織と優里、そして愛の姿がある。
「愛様をお連れしました」
ブラックスーツの神崎は一礼して横に退くと、腕を前に伸ばして愛を先に行かせた。愛は戸惑いを隠しきれない怯えた様子で、ひとり掛けのソファーに座った。
「神崎。“誰”なのかな」
「愛様です。ご本人様ですよ」
「おぉ、そうかそうか。それはよかった。ははは」
優里もソファーに着き、氷織は暖炉のそばにある椅子に腰をおろした。神崎は壁に背を向け、両手を後ろに回して立ちつくしている。
秘書の建山が廊下から現れた。その直後に二ノ宮と三崎がティーセットを載せたお盆をもって居間に入ってきた。
「あとは彰だけか。神崎、彰を連れてこい。少しでもおかしな動きを見せたら痛めつけてやると脅しておけ」
神崎は満面の笑みを見せてから遊戯室に入った。遊戯室の中からか細い悲鳴が一度聞こえる。三角巾で右腕を吊った彰が、神崎に連れられて出てきた。
「探偵さん、全員そろいましたよ。お話しを始めてもらえますかな」
「まだや」
強風のような鋭い声がLAWの口から発せられる。
「まだ九時になってへん」
一同は壁掛けの時計を見つめた。時計の長針は10のあたりで止まっている。
「強情なひとだ! くそ。紅茶なんて飲めるか。三崎。酒をもってこい。誰か相伴を預かってくれるやつはいるか? いないよな。ははは」
室内には十一人ものひとがいるのに、誰も声を出さず時計の針が動くのを待っていた。やがて長針が12をさすと、LAWはロッキングチェアから跳びはね、暖炉の火を背中に向けた状態で室内を見回した。
「須貝はん。うちにお茶を」
ティーセットを指さしながらLAWがいう。須貝は左手で紅茶をカップに注ぎ、それをLAWに渡した。湯気が立っている紅茶をLAWは頭を上げてひと口で飲み干した。
「さ。始めよか」
下唇に垂れた紅茶を親指で拭いながらLAWがいう。
「誰が都センセを殺したのか、教えたるわ」
2
「まず議論の前提を抑えとこか。殺されたのは都虎次郎。死因は出血性のショック死と考えてええやろ」
再びロッキングチェアにもどったLAWは、人差し指を指揮棒のようにふり回しながら話しだした。
「実は腹の傷は大したことなくて、本当の死因は毒殺や脳挫傷なんて可能性も、まぁゼロとはいわんけど、そんなもん司法解剖にかけてみなわからんことやし、こんなへんぴな別荘では考えるだけ無駄や。都センセの腹には三か所の刺創があった。この刺創からの出血が都センセを死に至らしめた。ここまでで何か反論は? なしっと。よっしゃ、そしたら次いこか。その前に、愛さん」
LAWは指をピタリと止めて愛の方を向いた。
「愛さんだけやない。愛さんの中におる、愛さん以外の全員にいうとくわ。もし、うちの推理に水を差しとうなったら、かまへん。何回でも水を差しにくるとええ。あんたらのちゃちな反論なんか全部返り討ちにしてくれるわ」
「トーキングスルー、ですか」
須貝が横の椅子に座る氷織に小声でいった。
「愛さんを介して全員に語りかけている」
「挑発的だこと」
氷織は紅茶の入ったカップを両手で覆うように掴んでいた。
「らしくないわね、LAW。ひょっとして緊張……? まさか。あのLAWが?」
「二日前の昼!」
氷織の小声はLAWの張りあげた声にかき消された。
「昼食の最中に、都センセは九重愛さんと二人で庭を散歩しとった。そして、愛さんは隠し持っとった出刃包丁を都センセの腹に突き刺した。このことは、この部屋にいるほとんどの人間が目撃しとった。この点で反論があるひとは?」
「反論というわけではないが、口をはさませてもらおう」
鳥羽がむすりとした表情で手をあげた。
「都先生は愛と散歩をしていたといったな。だがその場にいたのは“愛”ではない、別の人格の可能性もあったわけだ。まるで、愛本人が都先生を殺したかのような発言は慎んでいただきたい」
「あほか。便宜上愛さんの名前を使っただけやん。茶々いれんといて」
酒に赤く染まっていた鳥羽の顔色に、怒りの色が加わる。秘書の建山が鳥羽の前に手を伸ばして必死になだめ始めた。
「まぁ、鳥羽はんがいいたいことはよーわかるわ。ん。その通り。庭先で九重愛さんは出刃包丁で都センセの腹を刺した。では殺人犯は愛さんかというと、そうすんなりと話は済まん。解離性同一性障害。愛さんはDIDを患ってはる。都センセを刺したのは“九重愛”の中に宿る“九重愛ではない別の誰か”という可能性が残っているわけや。ハヤテ。柴田徹。しおり。ブラッド。姫子。シスター。そして暴風雨。愛さんを加えた八人の中で、誰が都センセを殺したのか」
室内の視線が愛に注がれる。愛は空気の抜けたボールのように身体を縮こまらせ、膝の上に視線を落としていた。
「“誰が殺したのか”を導く方法はいろいろとあるけど、今回うちは消去法で推理させてもらうわ。“誰が殺したのか”を導くためには、“誰が殺せなかったのか”を提示すればええわけや。八人のうち、七人の“犯人ではない理由”が提示されれば、否が応にも残ったひとりが犯人になる」
「理屈上はそうなりますね」
秘書の建山が小声でいった。同意を求めるように周囲を見回している。
「建山はん。ちょっと思い出してほしいことがあるんやけど。建山はんも昨日の昼、この居間から窓越しに犯行現場を見とったよな。建山はん。犯人はどちらの手に包丁をもっていた?」
「……え? 手? えっと? たしか。右手です。そうです。都先生はこちらの方を向いていて、顔が見えたことを覚えています。そして愛さんはわたしたちに背中を向けていた。愛さんの右側に包丁はあった。包丁をもっていたのは右手です」
「正解や。うちもよぅ覚えとる。『いや包丁をもっていたのは左手だった』というひとはおらんね。ん。そしたら次によー考えてみて。ひとを殺す。刺して殺す。失敗は許されへん。そんな時に凶器はどちらの手にもつ。右か左か。もちろん利き手や。都センセを殺した犯人は右手に包丁をもっていた。つまり、左利きのひとは犯人やない」
「え、ちょっとまってください」
優里が話を遮った。
「あの、よくわからないんですけど。多重人格者は、人格によって利き手が異なるなんてことあるんですか。同じ身体を動かしているなら、利き手も同じなんじゃないんですか」
「同じとは限りません」
氷織が鋭く異議をとなえた。
「DIDの多くの研究者が、人格による利き腕の差異を報告しています」
「信じられない……」
「信じてもらうしかないわ。帰ったら図書館でも行ってDIDについて調べてみるとえーわ。まぁとにかく。八人の中で左利きのひとは三人おる。ひとりはブラッド。あんたや」
LAWは愛に向かって人さし指を向けた。
愛はソファーの背もたれに両腕を乗せて、鼻で笑ってみせた。そこにいたのは愛ではなかった。ブラッドだ。愛はブラッドに変わり、ブラッドは猛禽類のような目で天井を見つめていた。
「おれが左利きってどうして知ってる」
ブラッドが訊ねる。
「あんた、左手で絵を描いとった」
首まわりを撫でながらLAWがいった。
「うちはあんたがキャンバスに向かっているところを二回も見た。最初は初日の夜、あんたの部屋で。二回目は昨日の昼間、うちら三人を描いてくれたな。両方ともあんたは左手に鉛筆を握っとった。絵を描くのに利き腕と逆の腕を使うはずがない。故に、あんたは左利きや」
「……正解だ。おれは左利きだよ」
ブラッドは神崎に紙とペンを持ってくるよう命令した。神崎は一礼して部屋を出ると、すぐにメモ紙とボールペンをもって戻ってきた。
ブラッドは左手にボールペンをもって、メモ紙の上で躍らせた。一分にも満たない短い時間で、ブラッドは苦悶の表情を浮かべる都医師の顔を描いてみせた。
「これでおれは犯人じゃないって信じてもらえたな」
「そうやな。ありがとう。左利きの人間はまだおる。姫子。あんたや。あんたは左利きやな」
「ど、どうしてわかったの。わたしは、ブラッドみたいに絵なんか描けないのに」
ブラッドの声色が一瞬にして変わった。両手で自身の身体を抱きかかえるように締め付けている。カタカタと全身を震わせ、視線は弾むスーパーボールのように飛び交った。姫子がいた。そこにいたのは姫子だった。
「うちらが初めて会った時のことや。あんたはベッドにくるまってうちらに左手の人差し指を突き立ててきた。この場にいる全員に試してもらおうか。もし自分がひとに指を向けるとしたら、右手と左手どちらを使う? だいたいのひとは利き手を使うはずや。試しに利き手とは逆の手で指を立ててみぃ。ほら。どっかぎこちない感覚があるやろ。人差し指を立てるってのは意外と難しいもんや。中指薬指小指を曲げて、親指は軽う曲げるに留め、人差し指は相手の心臓を貫かんとピンと伸ばす」
「姫子さんを左利きと判断した理由はそれだけではありません」
氷織が髪を撫でつけながら口を開いた。
「姫子さん。覚えているかしら。都先生の死を伝えたあと、あなたはワンピースのポケットからペンを落とした。あなたはそれのことに気づかず、わたしがそのペンを拾って渡した」
「そん時あんたは」
LAWはスッと鼻を鳴らした。
「左手でペンを受けとった。目の前に差し出されたペンを取る時、ひとはどちらの手を使う。普通は利き手や。状況証拠としては充分やろ。あんたの左手のあらゆる動きが、あんたの利き手を教えてくれたわけや」
「……よく見てるじゃない」
姫子は下唇を突きだしてみせた。
「あんたが見せてくれたからな」
LAWは飄々とした口調でいう。
「ブラッド、姫子に続いてもうひとりの左利きは、誰だかもちろんわかるよな。愛さん。はよきよし」
ちょいちょいと手首を曲げて手招きをする。姫子の身体の震えが止まり、泰然自若とした“九重愛”が戻ってきた。
「愛さん」
「はい」
愛はかすかに頭を下げた。
「愛さんは左利きやね」
「そうです。食事の時に、ハシを持つ手でも見られましたか」
「いや。チョコレートや」
「チョコ?」
「覚えとらんの。あんたの部屋を邪魔した時のこと。チョコをしおりちゃんに渡してもらおうと、うちはあんたにチョコを投げた。ドアの前に立つうちに背中を向けていたあんたは声をかけられて振り返ると、自分に向かって飛んでくるチョコの姿が目に入り咄嗟に左手をあげて身を守った。反射的に身を守ろうとする時、ひとは可能な限り利き手をあげる。わざわざ使い慣れていない利き手とは逆の手で身を守るなんて不合理なこと、人間の身体が行うはずはないんや」
「そうです。そうですよ。愛様はいつも左手で食事をされています」
二ノ宮が両手を合わせて両目をしばたたかせた。
「いわれるまで気づきませんでした。たしかに愛様は左利きです。つまり愛様は右手で包丁をもって都先生を刺した犯人ではあり得ない。そういうことですよね」
張りつめた空気の室内に安堵の息があちこちで漏れた。
「愛は犯人ではない。よかった。あぁよかった」
酒をあおり、息を吐き、鳥羽は鼻息を荒くした。
「そうだ。その通りだ。愛は、わたしの娘が殺人なんて犯すはずがないんだ。都先生を殺したのは病気だ。愛の身体を蝕む病原菌が殺したんだ。わはは。愛は犯人じゃない。愛は犯人じゃないんだ」
「おめでとうございます、社長」
建山が小さくガッツポーズを作って鳥羽に向かう。壁際の神崎は笑いながら両手を繰りかえし叩いた。憮然とした態度だった彰も、聞こえるか聞こえないかの声で『おめでとう』とささやいた。
ブラッド。姫子。そして愛。三人が被疑者のリストから外された。残りの被疑者は五人。いったい誰が犯人なのか。須貝は音を立ててつばをのみ込んだ。
3
「しおりちゃんは――犯人やない」
LAWは掲げた指をふりながらいった。
「昨日、うちらはしおりちゃんとサッカーをした。しおりちゃんの身体能力は、年齢相応に貧弱なものやった。DIDの患者の身体能力は、その時身体を支配している人格に相応したものに変化することがある」
LAWは昨日氷織があげたビリー・ミリガンの例を提示した。
「つまり二十一歳の筋肉量をもちながら、子どものような体力しか発揮できないということですか」
驚きに目を開いた優里が、口もとをおさえながらいった。
「その通り。凶器の出刃包丁は六三〇グラム。六歳の子どもが容易にふり回せるものやない。だが犯人は高々と包丁をふりあげて、都センセを三回も刺した。よって、しおりちゃんは犯人やない。次に――ハヤテ。出てきてくれへん」
愛の背筋が垂直に伸びた。両足をスマートに組み、あごを突きだして見下すようにLAWに向き合う。
「何かな」
その声は――ハヤテのものだった。
「ハヤテ。あんたは理性的で、情緒不安定なところも少なく、ある意味じゃもっとも犯人に近い存在かもしれへん。計画的に包丁を持ち出して、計画的に都センセを殺す。あんた達の中で“計画的”って言葉が一番似合うのはあんたや」
「嫌われたものだ」
「うん。嫌いや。だけどうちは確信しとる。ハヤテ。あんたは犯人やない。あんたは都センセを殺せない」
「わからないね。わたしは――」
「あんたはうちらと初めて会った時に、“何か聞きたいことがあったら自分を呼べ”といった。自分がいちばん性格的に落ちついているからって。それなのにあんたは、事件があったあの日、うちらが呼びかけても出てこんかった」
「そうだ。そうでしたね」
須貝が左手で太ももをハデに叩いた。
「都先生が殺されたあと、姫子さんに話を聞いていたら泣きじゃくってしまって、泣き止んでもらおうとハヤテを呼んだのに、あなたは出てきてくれなかった」
「それは――」
ハヤテは貧乏ゆすりをしながら口ごもった。呼吸が荒く、肩が上下している。
「――それは、たまたま、外に出る気になれなくて、わたしにだってそういう日があっても――」
「完璧を装うのはやめとこ」
LAWは諭すようにつぶやいた。
「人間は誰しも欠点を抱いて生きとる。どんな聖人君子も人間的な欠点をもって生きとるもんや。あんたは他人に弱みをみせるのが嫌なんやな。スキをみせるのが怖いんやろ。でもな、そういうところをみせな他人はあんたを信用してくれへんよ。ハヤテ。うちはあんたの欠点を見抜いとる。その欠点のせいで、あんたはうちらが声をかけても“外”に出てきてくれへんかったんや」
「何ですか。ハヤテの欠点?」
須貝が首をかしげる。氷織が立ち上がり、咳ばらいをしてから口を開いた。
「わたしたちの事務所にお越し下さった建山さんは、残念ながら九重愛さんについて十分な情報を教えてくださりませんでした」
建山は委縮しきった様子でうなずく。
「しかしわたしたちは探偵事務所です。他人を疑うのが仕事です。九重愛とは何者なのか。わたしは信頼のおけるパートナーに九重愛さんについて調査、報告するよう依頼しまし、毎晩九時にパートナーと定時報告を交わしました。一昨日の夜。わたしのスマートフォンに、九重愛さんの過去についてある情報が届きました。それは――高校卒業後、デリバリーピザのお店でアルバイトをしていた時の情報です」
「デリバリーピザ……ですか?」
エプロンの裾を握りしめていた三崎が眉をひそめてハヤテを見た。ハヤテはというと、下唇を噛みしめ、焦燥の表情で氷織を見つめている。
「パート―ナーはピザ屋の店長さんに“九重愛さん”について訊ねました。店長さんはとても興味深いことを教えてくれました。九重愛さんは、『勤務態度はまじめで社交的。しかし店が多忙の日に限って普段なら何の造作もなくできる作業でミスを繰り返すことがあった』そうです。建山さん。あなたはメールを確認されましたね。わたしの述べたことはたしかにメールに記載されていたと証言してください」
「え、えぇ。たしかに。そんなこと書いてありましたね」
建山は首をしきりに縦にふった。
「だけど。多忙の日に限ってミス……? それがハヤテとどんな関係があるんですか」
「建山さん。デリバリーピザのお店が忙しい日とはどんな日のことですか。仕事量が多くなる日とは、皆がデリバリーピザを注文する日。雨が降って外に出られない日のことですよ」
「いわれてみればその通りですね」
「“九重愛さん”の勤務態度は真面目で社交的。失礼ですが、愛さんは決して社交的とはいえません。しおりちゃんも、柴田さんも、ブラッドも姫子も暴風雨も右に同じ。ハヤテだけが社交的なんです。デリバリーピザのアルバイトをしていたのは、ハヤテだった。では何故ハヤテは雨の日になるとミスをするのか。それは、雨の日にはハヤテ以外の人格が働いていたからです。ハヤテ。あなたは、雨の日になると“外”に出られないんでしょう」
「そうか。事件があったあの日、ぼくたちがこの島に来て二日目の日は一日中雨が降っていた」
須貝は声を荒げて立ち上がった。
「だからハヤテはぼくたちが呼んでも“外”に出てこなかったんですね」
「どうなの。ハヤテ。わたしの考えは間違っている?」
氷織がハヤテに近づいた。ハヤテは目を大きく開き、微かなうめき声を漏らしながら氷織をにらみつけている。
そんなハヤテの手に、氷織はそっと自身の手を重ねた。
「……雨の日が怖いのね」
「怖くなんか……怖くなんかない!」
「ハヤテ。人間には誰だって弱点があるの。弱点を無くすことで強くなれるんじゃない。弱点を認めることで、ひとは本当の意味で強くなれる。あなたの過去に、雨の日に何があったのかは知らない。だけど認めなさい。わたしたちを信じて。あなたの弱点をわたしたちに教えて」
ハヤテの双眸から涙がこぼれだす。嗚咽を漏らしながら氷織の両手を強く握りしめる。
「わたしは、わたしだけは強くなければいけないと。愛も、しおりも、暴風も、みんながみんな困った性格で、だからわたしだけでも強くなければと思って――」
「そんな必要はない。繕った自分はただの人形。人形は人形で自分《人間》ではない。ハヤテ、教えて。あなたの弱点を教えて」
「……わたしは、雨が怖い」
ハヤテがいった。
「雨の日は“外”に出られない。身体が動かない。“外”に出られないんだ」
「前提①」
ロッキングチェアに揺られるLAWが、両手を高々と掲げて叫んだ。
「事件があった一昨日は、朝から翌早朝まで雨が降り続いとった。前提②。ハヤテは雨の日には“外”に出られへん。二つの前提から導かれる結論。ハヤテが都センセを殺すのは不可能……故に、ハヤテは犯人やない。あぁ、しごく論理的やね。あっはは」
須貝はLAWに、ハヤテが昨日の早朝自室を訪れたことを話した際、LAWがその時間を気にかけていたことを思い出した。
ハヤテが須貝の部屋を訪れたのは朝の四時。その時、雨は止んでいた。LAWも同じく、朝の四時には雨が止んでいることを知っていたに違いない。だからハヤテが須貝の部屋を訪れた時間を確認したのだ。雨が降っていると“外”に出られない、ハヤテの性質を確認するために。
4
「柴田はん。悪いけど、出てきて」
LAWが柴田の名を呼んだ。ハヤテの手が、その手に添えられていた氷織の手を乱暴に払った。
「失礼」
しわがれた声が居間に響いた。ハヤテの背中が丸みを帯び、泣きはらした目はあずきのように小さくなった。
「女性に触られていると落ちつかないから」
「どうも、柴田はん」
LAWが不敵な笑みを浮かべて声をかける。柴田はもごもごと口を動かしてLAWの方に顔を向けた。
「あいにくタバコは用意しとらんよ」
「別に、ヘビースモーカーってわけじゃないからね」
「そ。まぁなんでもええわ。いまうちらが何をしとるかわかっとる?」
「犯人捜しだね。ぼくが犯人だと疑っているんだろう」
柴田が応える。生えてもいない髭をさするように、細長い指があごを撫でている。
「いや。あんたは犯人やない。それは自分でもわかっとるやろ。だけどあんたは自分が犯人ではない根拠をいいだせない。その理由はハヤテと同じ。柴田はんにとって、犯人ではない根拠を提示することは自身の弱さをさらけ出すことになる。つまりは、弱点やから」
「何を。まさか。ぼくに弱点なんて」
「ん。あんたはよーやっとったと思うよ。実際、この別荘の人間は全員騙されとったみたいやね。でも、うちには無理や。うちにはあんたのペテンは通じん」
「騙された? わたしたちが……ですか?」
ブラックスーツの神崎が直立不動のまま言葉を曇らせた。
「柴田はんはお年寄りやけど、あの出刃包丁をもってひとを刺すことぐらいはできるやろ。体力的には犯人たり得る。だけど、犯人やない。都センセは最初に刺された直後に、こんなポーズをとりはった」
LAWはロッキングチェアを降りると、床の上に膝をついて左腕を伸ばした。
「そうだな。覚えてる」
彰が首を激しくふりながらいった。
「膝から崩れ落ちて、抵抗するように腕を伸ばした」
「そう。そして、都センセの血に染まった凶器をもった犯人は、突きだされた都センセの腕を邪険にするように振り払った」
LAWは自身の左腕を横に払う。室内の何人かが『その通りだ』と首肯した。
「ポイントはこれや。柴田はんにはこれができへん」
「ど、どういうことだ。都先生の腕を振り払うことができないだと」
ウィスキーグラスを手にした鳥羽が困惑の表情を浮かべる。その視線がLAWから柴田へと移った。当の柴田は、顔を歪ませてしきりに首筋を撫でている。
「できへん。だって、柴田はんには、都センセの腕が見えへんから」
「腕が見えない?」
「そう。柴田はん。あんたの両眼はものが見えない。あんたは盲人や」
柴田の顔が真っ青に染まる。かたかたと震える指先をにぎり拳の中に隠す。しかし今度は、腕がぶるぶると震えはじめた。
「柴田さんが盲人なんて、本当なんですか」
須貝が驚嘆の声をあげた。
「ん。最初に愛さんの部屋で、柴田はんと会った時のことや。ベッドに座っとった柴田はんはタバコの箱を足元に落としはった。腰を曲げて拾おうとしたけど、上手くつかめなくてうちがかわりに拾ってあげた。覚えとる?」
「覚えています。ハヤテから柴田さんに変わって、最初に一服したいといってタバコを吸い始めたんだ」
「最初はな、お年を召していて身体が弱っているからタバコが拾えないのかと思ったんや。だけどその後、柴田はんはしっかりとした足取りで洗面所に向かって歩き出した。腰は曲がっとるけど身体のつくりはしっかりしとる。少なくとも、足元のタバコが拾えないほど弱っとらん。これは矛盾や。どうしてタバコが拾えなかったのか。それは、目が見えないから。どこにタバコが落ちているのかわからんかったからや」
「思い出した。あの時柴田さんは、ベッドの横のミニテーブルに置いてある灰皿をしっかりと手に抱えて吸い殻を落としていた。もし灰皿が見えていたら、わざわざ灰皿に触れず、吸いさしを灰皿に当てますよね。柴田さんにはミニテーブルのどこに灰皿があるのかはわからない。だから手を伸ばして、灰皿を持ってその中に吸い殻を落としたんだ」
「ちょっと待ってください」
使用人の二ノ宮が声をあげた。
「いまの探偵さんのお話は……それこそ矛盾しています。探偵さん、こうおっしゃいましたよね。柴田さんはしっかりとした足取りで洗面所に向かって歩き出したって。もし目が見えていなければ、一人で洗面所に向かうことなんて――」
「できる」
氷織が鋭い声を発した。
「ベッドから洗面所までは数メートルに満たない直線距離。途中に障害物もなく、ひとがいるかどうかは聞こえる声の方角から判断できる。この別荘に来てから柴田さんが何度“外に出て”いたのかは知らないけれど、ベッドから洗面所に向かうなんて日常的な行為、何度も繰り返していれば目が見えなくても容易にできるわ」
「いい歳した男が自身の弱点を認めるのは辛いものがあるんやろうなぁ。だけどな、柴田はん。うちにはあんたの弱点がしっかりと見えるんや。あんたは目が見えない。目が見えないひとには、都センセの手を払うことができない。ましてや、包丁をもって刺そうとするなんてもってのほか。故にあんたは、犯人やない」
「そ、そうだ。たしかにぼくは都先生を殺してはいない」
柴田は震える声を咽喉から絞り出した。
「だけど認めない。目が見えないなんて、ぼくは認めないぞ」
「強情なひとですね。素直に認めれば無実が証明されるんですよ」
須貝が声を張りあげた。しかし柴田は首を横に激しくふる。
「認めない。わたしは認めないぞ。わたしの目は見えるんだ。く、くそ。認めてたまるか」
「……柴田はん。あんただけなんよ」
LAWはそういいながらロッキングチェアに戻ると、再び椅子を前後に揺らし始めた。きぃきぃと小動物の鳴き声のような音がリズミカルに響く。
「あんただけが、須貝の右腕についてなにもいわなかったんや」
「み、右腕?」
柴田の声が狼狽に濁る。
必然的に、須貝の右腕に周囲の視線が集まった。骨折したその腕は今もまだ三角巾で肩から吊られている。
「あんたはうちらがこの別荘に来た初日に須貝と会った。次に須貝と会ったのは昨日の午後。その間の一昨日のことや。須貝はとんでもない不幸に見舞われた。骨折や。須貝は神崎さんに腕の骨を折られて、そん時からずっと三角巾で応急処置しとるんや。だけどな、昨日の午後。うちらが愛さんの部屋に行った時、あんたは三角巾で吊った須貝の腕について何も言及せんかった。前回会った時はなんともなかった人間が、今回会った時は三角巾で腕を固定して現れたんや。普通のひとなら『それはどうした』と訊ねるもんや。ハヤテも、しおりも、ブラッドも、愛さんもそうした。健常な右腕と、三角巾に吊られた右腕という差異を確認したひとは、全員須貝に右腕のことを訊ねた。あんただけが何もいわんかった。それは、あんたが盲目だから。須貝の右腕が見えなかったからや」
須貝は左手で口もとを隠して『あ』とつぶやいた。
昨日、愛の部屋で柴田と会った時、LAWはその部屋にいた自分以外の人間――須貝と氷織と三崎に人さし指を向けて黙っている様にいった。あの時点でLAWは柴田が盲人であると疑っていた。もし目が見えているならば、須貝の右腕について言及するだろう。他人の口から須貝の右腕についての情報を得て、さもそれを自分が目にしたかのように言及させないために、LAWは須貝たちに黙っているようにいったのだ。
柴田はがくりと肩を落とした。両目を手で隠し、しばらくしてから手をのける。
「見えないんだ」
か細い声が発せられた。
「何も見えない。いつだってぼくは暗闇の中にいる。ばれないように隠していたのに、探偵さん。いや、LAWさん。あんたには隠しごとは通じないんだね」
「柴田はん。もう一度訊ねるわ。あんたは、目が見えない。故に都センセを殺した犯人ではない」
「認めるよ。ぼくは都先生を殺していない。ぼくには殺せないんだ」
5
「すまないが、少しつかれた。もういいかな」
柴田が小声で訊ねる。
「ん。なんかあったら呼ぶさかい。そん時はよろしゅーな」
柴田がかすかな笑みを浮かべると、愛の身体ががくりとゆれた。両目をこすり、呼吸を整えようとしているのか、大きく息を吸った。
「柴田さんも犯人ではなかったのですね」
その声は愛のものだった。柴田から愛にもどったのだ。
「すると犯人は……」
「先走るのはあかんよ。ひとつひとつ事実を検証。ひとつひとつ論理を展開。千里の道の一歩なう。焦らずゆっくりいこ。な?」
LAWはなだめるようにいうと、愛に向かって手招きした。
愛は疑問符を頭の上に掲げながら立ち上がり、LAWが座るロッキングチェアのそばまできた。
LAWも立ち上がり、愛に対峙する。LAWは大きく両腕を広げ、まるで抱擁を期待するかのように笑ってみせた。
「シスターをだして」
笑顔のままLAWがいった。美麗と評するに値する笑顔ではあったが、その口調は有無をいわせぬ鋭さを擁していた。
「シスター、ですね」
愛は目を閉じて眉間にしわを寄せる。
「だめです」
愛はいった。
「嫌がっています。絶対に出ないと。出られないと。そんな。シスター。どうして」
「大丈夫。うちには全部わかっとる」
「いけません。許してください。わたしなんです。わたしが都先生を――」
愛の声がシスターの声に変わった。悲壮感がこもった声色がのどの奥からこぼれだす。愛の――シスターの下半身が小刻みに揺れる。右足を半歩前に出して、身体が傾く。
「やめとき。うちは“反嘘”や。あんたみたいな誠実な人間の嘘は通じんて」
「嘘ではありません。都先生を殺したのはわたしです。わたしが――」
「だったら、“外”に出てきよし。そんな中途半端なことせんで、“外”に出てはっきりといったらええやん」
「わたしは、わたしは、わたしは――」
シスターの身体が――前のめりになってその場に崩れ落ちた。
糸の切れた人形のようなシスターの身体を、大きく広げた両腕でLAWが受け止める。両ひざが床上数センチのところで止まった。LAWはゆっくりとシスターの身体を降ろし、二人は膝を突き立てて抱き合った。
「シスター」
LAWがいった。シスターは髪がかかった顔を伏せている。
「あんたは犯人やない。犯人なわけがない。下半身が動かないあんたには無理な話や」
「な、なんですって。下半身が動かない?」
建山は手のひらで顔を拭いながら声を荒げた。他の皆も同じだ。LAWと氷織を覗く全員が、驚嘆の色に染まった表情でシスターを見つめている。
「DIDのある種の人格は、脳内のミラーニューロンによって形成されます」
氷織が自分の頭を――脳を指さしながら語りだした。
「ミラーニューロン。この特殊な脳神経細胞は、他者の行動を知覚した際、それを自身の行動であるかのように脳内で処理します。他者と自己を区別せず、他者の行動を自己という鏡に映して欺瞞の処理を行う。それがミラーニューロンの働きです」
氷織はLAWといっしょにシスターの身体を持ち上げ、そばにある椅子に座らせた。
「愛さんは幼少期を過ごした名古屋で、ひとりの宗教者に会いました。母親から虐待をうけていた愛さんを憂い、母親の代わりに慈愛の言葉を与えてくれたプロテスタントのシスターです。愛さんの中にいるシスターは、愛さんのミラーニューロンがこのシスターを知覚してつくりだした人格なのです。故に、愛さんの中のシスターは、このプロテスタントのシスターと多くの点で同じ性質をもちあわせています」
「シスターは、うちらに会う時はずっと座っとった」
LAWは自身の脚を両手で叩くと、ちょこんと正座で床に座りこんだ。
「立っているところも、歩いているところも見たことあらへん。そしてそれは、名古屋にいたシスターも同じなんや」
「どういうことだ。ふたりはその名古屋のシスターに会ったことがあるのか」
鼻息を荒くした鳥羽が訊ねた。しかし氷織とLAWはそろって首を横にふる。
「会ったことはありません。ですが、本土にいるわたしのパートナーが名古屋まで足を運んで、故人であるシスターの写真の画像をわたしのスマートフォンまで送ってくれました。建山さん」
氷織に呼ばれ、困惑顔の建山は『はい』と応える。
「わたしのスマートフォンをもってきてください。その中に、名古屋のシスターの写真が四枚あります」
建山は居間を出ると、鳥羽の寝室から氷織のスマートフォンを手にして戻ってきた。
建山は氷織にスマートフォンを差しだす。
「画像を表示するだけです。助けを呼ぶなんて、馬鹿なことはしないでくださいね」
建山の注意を無視して氷織は画像を表示した。初日の夜に、今江から送られてきた四枚の写真の画像だ。
「どうぞ、ご覧ください」
氷織はスマートフォンから手を離す。建山がスマートフォンを抱えて鳥羽のもとにもどると、氷織とLAW、そしてシスター以外の全員が吸い寄せられるようにスマートフォンに集まった。
一枚目は四月の復活祭の写真
縁側に座るシスターのそばに幼い日の愛がいる。愛は左手にもったゆで卵のカラを必死になって剝いており、それをシスターが慈悲に溢れた笑顔で見つめている。
二枚目は五月の子どもの日。
スーツを着た身なりのいい老人が縁側に座るシスターに頭を下げながら歩み寄っている。シスターは笑顔で老人を迎えているが、傍らの愛は警戒心のこもった目で老人を見つめている。男性は当時の区長で、区民が集まる教会のイベントにあいさつ周りで訪れていたと、氷織は今江から説明されたままのことを伝えた。
三枚目は六月のフリーマーケット。
シスターは他の写真と異なり焦燥した表情で縁側に座り何か声を張り上げている。見ると縁側から離れたところで小さな男の子がしりもちをついて泣きじゃくっている。男の子に駆け寄る修道服姿の女性が写真の左側に見切れていた。愛はシスターの横でぼうっと座っている。
四枚目は七月の工作大会。
愛は縁側から数メートル離れた場所にいた。台においた細長い木材を左足で押さえつけ、両刃のこぎりで切ろうとしている。刃物をもった愛のことが心配なのか、縁側に座ったシスターは前のめりになり不安そうな表情で愛を見つめている。
「ご覧の通りです」
氷織は一度大きくうなずいてみせた。
「写真の中のシスターは、四枚すべての写真で縁側に座っています。足腰が悪いのか、病気なのかはわかりません。ただ、愛さんにとってシスターとは下半身が動かないひとだったのです」
「そういい切ることはできないのでは」
神崎が歯を見せて笑った。
「シスターが四枚全ての写真で座っていたことはたんなる偶然ということもあり得るはずです。この写真と、恒河沙様が愛様の中のシスターが常に座っていらしたという事実だけで、写真の中のシスターの下半身が動かないと結論づけるわけにはいかないでしょう」
「それはそうだ」
鳥羽が神崎の反論に同調して首をふった。それにつられて、建山をはじめ写真を見ていた全員が同調する。
「ふわぁ……観察力が足らんな」
大きなあくびを口にしてから、LAWが気怠い表情で神崎を見つめた。
「写真をよく見ればわかるやろ。子どもの日の写真。なしてシスターは区長なんてお偉い客人を相手に、偉そうに縁側に座って待ち構えているんや? 普通は自分から挨拶に行くか、せめて区長が視界に入ったら縁側から立つのが当然やろ。それからフリーマーケットの写真。虐待されていた愛さんを憂うほど子どもに優しいシスターが、なして転んだ子どもを前にして縁側に座り続けてるんや。自分が立ち上がって子どもを助けにいかず、画面の端にいる別のシスターに助けるよう声をかけているのはなんで。おかしいやろ。この二枚の写真、シスターは立って然るべき状況におる。それなのに座り続けているのは、立てないから――下半身が動かないからに決まっとる」
「な、なるほどぉ」
優里は両手を合わせて尊慕のまなざしをLAWに送った。その背後で恥をかかされた神崎が憤怒のまなざしをLAWに送った。
「幼い日の愛さんにとって大事な存在であるシスターの下半身は動かず、そのシスターを参考に作られたが故に愛さんの中の“シスター”もまた下半身が動かない」
氷織は耳たぶをいじりながらいった。
「しかし都先生を殺した犯人は、皆さんが目撃された通り、雨の中を歩いていました。よって、シスターは犯人ではありません。シスターには都先生を殺せないのです」
「だが彼女はさっき自分が殺したと口にしたぞ」
鳥羽が顔をこわばらせていう。
LAWは首をふって鳥羽の言葉を打ち消した。
「慈愛の精神にあふれたシスターらしい発言やないか。最初に会った時にシスターはいっとった。誰かを罰することでうちらの気が済むなら、自分を犯人として贄に捧げろって。だがそんな気遣いうちにはいらへん。うちはうちの方法で犯人を見つけだす。生贄なんて必要あらへん」
6
「あ。あれ?」
建山は右手の親指から順に指を曲げていった。右手の指を全て曲げ、左手の親指と人さし指を曲げたところで表情が固まる。
「社長。七人です。七人が犯人ではないということは……」
「残りのひとりが犯人というわけだな」
にたにたと舌なめずりをしながら鳥羽はウィスキーをあおった。空になったグラスを差しだすと、二ノ宮がそれを受けとってキッチンに向かった。
「だが、残りのひとりは誰だったか」
「暴風雨ですよ」
須貝がいった。
「暴風雨以外の全員が犯人ではないことが証明された以上、消去法で考えると犯人は暴風雨ということになります」
「暴風雨……おれをひどい目に合わせたやつか」
彰は前かがみになりながら爪を噛んでいる。それを見て優里が呆れたように鼻を鳴らした。
「なるほどな。暴力的な事件の犯人は暴力的な人格だったというわけだ。愛の身体を使い勝手なことをしおって。暴風雨。ふざけた名前だ」
二ノ宮からダブルのウィスキーを受けとり、半分近くをひと口で飲みこむ。熟れたトマトのように赤い顔の鳥羽は、重苦しい息を吐きながら愛の方を向いた。
すでにシスターはいなかった。椅子に座った愛は、顔を伏せ石像のように固まっている。いや、それが本当に愛なのかはわからない。そこにいるのは誰なのか。そもそも、誰かがいるとはどういう意味なのだろう。本当の意味での存在を誰が説明できるというのか。ひととは何だ。存在とは何だ。九重愛は存在する。だが九重愛は、複数の九重愛ではない様相を擁している。それら様相を収斂して存在するものとは何だ。それは九重愛ではない。何故なら九重愛もまた様相のひとつでしかなく、他の様相と同じように存在し、他者とコミュニケーションをとっているから。それら様相を同格に扱わない理由はない。しかし――
「暴風雨が犯人? んなわけないやろ」
あたまの後ろをかきながらLAWが爆弾的な発言を投下した。室内は沈黙に包まれる。みなは驚きを越えて、声を失ってしまった。
「暴風雨は犯人やない。あんまりにも当然が過ぎるんで、説明するのを忘れとったわ」
「あんた、何をいってるんだ?」
彰が語気を荒げた。
「自分がいったことを忘れたのか。八人のうち、七人の“犯人ではない理由”を提示すれれば、否が応にも残ったひとりが犯人だって」
「彰さんのいう通りです」
須貝が顔をしかめて苦言を呈した。
「いくらぼくでも、LAWさんの味方をするわけにはいきません。LAWさんが提示された、暴風雨を除く七人が犯人ではない理由には説得力がありました。すると必然的に犯人は暴風雨ということになります。それに、暴風雨が犯人だとしてもおかしな話ではない。高校時代と中学時代に喧嘩をして相手に大けがをさせたのも暴風雨です。その凶暴性は確かなもの。彼女が犯人で間違いありません」
「凶暴? 暴風雨が凶暴? はは。ほんま笑けんなぁ。ややこが扇風機に手ぇつっこんで怪我して、扇風機が悪いいうようなもんや」
「たしかに、暴風雨と暴行は切っても切れない関係にあります」
氷織が髪をかき分けながらいった。
「暴風雨あるところに暴力あり。暴力が必要だから暴風雨が存在するのです。われわれは九重愛さんの三つの暴行事件について把握しています。ひとつ、中学時代の同級生女子との暴行事件。ふたつ、高校時代の他校男子生徒を相手にした暴行事件。そして最後に、昨日起きた彰さんによる未遂に終わった暴行事件」
彰はバツが悪そうに首をすくめた。優里が流し目と舌打ちを彰に送る。
「“九重愛”さんの過去を探れば他にも何かしらの暴行事件が発掘されるかもしれませんが、サンプルの数としては三つで十分としましょう。たしかに、この三つの暴行事件で相手を痛めつけたのは暴風雨であることは間違いありません。しかし、考えてください。いえ。想像してください。この三つの事件の端緒は何でしょう。どんないきさつでそれらの暴行事件は――暴風雨は始まったのでしょう」
氷織は建山が手にする自身のスマートフォンを指さした。
「過去の二つの事件については、わたしのパートナーが調べてメールで教えてくれました。中学時代。“九重愛”は恋愛話のもつれで、裁ちばさみを手に襲いかかってきた同級生に反撃して、その結果相手は指を切断するほどの大けがを負いました。高校時代。十名の他校男子不良生徒を相手に大立ち回りを見せたことも、その端緒は相手が“九重愛”さんを取り囲み、手を握ってきたからです。そして最後の事件。昨日行われた彰さんの悪行については――いうまでもありませんね。彰さんは愛さんに強姦を試みた。三つの事件の端緒に共通する点。暴風雨が“外”に出る前に何があったのか。それは、愛さんが直下の身体的危機に面しているということです」
「暴風雨は自身の暴力性を誇示するために暴れまわっとるわけやない」
LAWは顔を伏せたまま微動だにしない愛を見つめた。
「“九重愛”を災いから防ぐため、“九重愛”の身を守るその時だけに現れる守護天使。それが暴風雨の正体や。それ以外のタイミングで暴風雨が“外”に出てきたという事実は存在しない。つまり、暴風雨は“九重愛”が他者に襲われかけた時その時に限り“外”に出てくる。能動的に他者を傷つけることは暴風雨には不可能。包丁を隠し持ち、都センセを殺すことなんて計画的かつ能動的な犯行は暴風雨にはできへん話や。故に、暴風雨は犯人ではあり得ない」
室内が沈黙に満たされた。それまで狼藉者としか認識されていなかった暴風雨の正体を知り、一同は言葉を失った。
「……待ってください」
最初に言葉を取り戻したのは、使用人の三崎だった。
「都先生が愛さまに害を与えようとしたという可能性があります。都先生は愛さまに“直下の身体的危機”を与えようとして、その結果として暴風雨が“外”に出て出刃包丁で応戦した。出刃包丁を用意したのは暴風雨ではなかった。どんな理由で出刃包丁を隠し持っていたのかはわかりませんが……こう考えれば暴風雨が犯人であるという可能性も残るはずです」
「鋭いなぁ」
からからと笑いながらLAWが応える。
「……けど。及第点はあげられへんわ。まず、都センセが愛さんに“直下の身体的危機”を与えようとした目的はなんや。雨が降っていて視界が良好ではないとはいえ、二人がおったのは庭先で、時刻は昼食時。目と鼻の先の食堂には別荘の人間全員が集まっとるわけや。誰かに目撃される可能性は十分をすぎて十二分。そんな場所でどうして都センセは愛さんに危害を加えようとしたん? そのつもりなら、この居間の窓から見えない客室棟の裏でやろうとするのが当然やないか」
三崎は口を閉ざして軽く首肯した。反論を試みる様子はなさそうだ。
「いやいやいや。そいつは話がおかしくなる」
鳥羽が腕をかきむしりながら声を荒げた。
「あんた、いったじゃないか。消去法で推理するって。八人のうち、七人の“犯人ではない理由”が提示されれば、否が応にも残ったひとりが犯人……それなのにあんたは、八人全員が犯人でない理由をあげやがった!」
そうだ、その通りだと皆が口にする。反感的な視線がLAWと氷織に集められる。だが恒河沙の姉妹はそれらの視線に動じることなく、凛として淡として、ただただ確かな存在として、それらの視線を享受した。
「どういうことですか、LAWさん」
須貝が頭痛を訴えるように顔をしかめた。
「ぼくはもう、わけがわからない」
「反転」
ぽつりとLAWがつぶやいた。
「事件はここで反転する。うちらがこれまで見とったのは事件の裏の姿でしかなかった。真実は背中に描かれるもんやない。顔や。ひとをひとたらしめる顔にだけ真実は刻みこまれとる。だから事件を反転させる必要がある」
LAWはぱちんと両手を叩いて一同を黙らせた。
「しおりちゃんは体力的な理由で犯行不可能。ハヤテは雨の日は“外”に出られないので犯行不可能。柴田はんは目が見えないので犯行不可能。シスターは歩けないので犯行不可能。暴風雨は身体的危機に面しないと“外”に出てこれないので犯行不可能」
――つまり――
「この五人は、どうあがいても都センセを殺せない。身体的条件のせいで犯人たり得ないことになる」
――では、残りの三人は?――
「ブラッド。姫子。そして愛さん。この三人が犯人候補から外されたのは、犯人が右利きなのに対し、揃って三人とも左利きだったからや。だけど左利きの人間が右手で出刃包丁を持つことは、決して不可能というわけやない。先の五人と比べて、この三人の方が被疑者としてのランクは上や」
「ふざけるな!」
鳥羽が手にしていたグラスを投げつけた。琥珀色のウィスキーを溢しながら宙を舞うグラスは、壁に当たって砕け散った。
「あんたはさっき、愛は犯人じゃないといったのに、今度は一転して犯人扱いするのか」
「被疑者といっただけや。まだ犯人とはいっとらん」
LAWの視線は鳥羽には向いていなかった。愛を見つめていた。愛は未だに顔を伏せたままだ。
「ですが、その。三人は左利きなのでしょう」
恐る恐るといったていで二ノ宮が発言した。
「包丁は右手に握られていた。つまり、三人のうち誰かは両利きで右手でも凶器が使えたというわけですか」
「もしくは、左利きであるフリをして恒河沙様を騙していたか」
三崎が続いた。二人の使用人は互いに視線を交えて首をかしげた。
「いいえ。ブラッドも姫子も愛さんも左利きよ」
氷織がいった。
「利き手とは逆の手であれほど上手に絵が描けるとは思えない。左手を突き立てるのも、ペンを左手で受け取るのもとてもスムーズだった。そして愛さんは飛んできたチョコレートを反射的に左手で防いだ。三人とも左利き。厳密にいうと、右手よりも左手の方が器用に扱えるといったところかしら」
「なんだ。どういうことだ。あたまがこんがらがってきた」
彰は両脚を揺らしながら、両手で髪をかきむしった。
「結局誰が犯人なんだよ」
「難しく考えるから難しくなるんや。①。包丁を右手で握っていたのはブラッド、姫子、愛さんのうちのひとり。②。この三人は左利き。①と②から導かれる結論はひとつ。犯人は、利き手とは逆の手を使って都センセを刺したというわけや」
「ですがそれは不合理です」
神崎が声をはりあげた。
「ことは殺人です。ひとを殺そうというのです。それは確実に遂行せねばならない。ならば利き手で包丁を握るのが当然。利き手と逆の手を使うなんて、あまりにも不合理です」
「不合理。その通りや」
LAWは鷹揚に大きくうなずいてみせた。
「だけどな、この世に不合理なんてことはめったに起きひん。たいがいは観測者の目が濁っとるせいで“合理”が“不合理”に見えとるだけや。それとな、不合理は包丁を持つ手のことだけやない。他にもふたつ、うちらは不合理を見つけてきた」
「さらにふたつ? いったいなんのことです」
「都先生のこと」
氷織は暖炉のそばにより、燃え盛る火に手を向けた。
「腹部を刺され出血した都先生は、治療道具がある自室へじぶん運ぶよう依頼した。これはまぁ合理的。だけど、その場に居合わせた元看護士を部屋から追い出したのはあまりにも不合理だと思わない? 治療の邪魔? 自分の腹が三度も刺されたのに? その判断はあまりにも不合理。先生は頼りない看護師だけではなく、他の全員も部屋から追い出した。まるで部屋に誰かが残られると困るかのように――」
「さらに不合理がもうひとつ」
LAWは白いアネモネをあしらった羽織の懐から半透明のビニール片を取りだした。
「事件があった日の夜。うちの須貝がこんなもんを暖炉の中から見つけた。なんやろこれ。どうしてビニールが暖炉で燃やされとったんやろ。ゴミ箱に捨てるでも、庭に埋めるでも、海に投げるでもなく、どうして暖炉で燃やされとったんや。これが三つ目の不合理や。で。これら三つの不合理を揃えて並べると、三つ全部が“合理”に変わるんや」
①:右手を使った左利きの犯人。
②:元看護士でさえも自室から追い出した被害者。
③:暖炉に捨てられた謎のビニール片。
「結論からいおうか」
二度目の大あくびをはさんでLAWがいった。
「一昨日の昼間に庭先で起きた殺人事件。あれは芝居や。都センセは包丁で刺されたふりをしていただけや」
7
「し、芝居? あれが。冗談でしょう。だって、え。えぇ!?」
建山は奇妙な叫び声をあげながら鳥羽の身体を揺さぶった。あまりのパニックで自分が何をしているのか気づいていないようだった。鳥羽もまた、ぽかんと口を開けて揺さぶられるがままになっている。
「刺されたふりって、そんなわけはない。おれは都先生を客室まで運んだ時にはっきりと鉄臭い血の臭いを嗅いだぞ」
彰が両腕を深く組んで反駁する。
「服だって血だらけになった。都先生の腹からはたしかに血が流れ出ていた。なぁ、そうだったろ」
彰は須賀に同意を求めた。須貝は繰り返しうなずいた。
「貧相な想像力やなぁ」
LAWは誰も座っていないロッキングチェアの背側に回る。背もたれにあごを預けて、前後にゆっくりと動かし始めた。
「その貧相な想像力の手助けになるのが、これや」
そういってLAWは例のビニール片を掲げた。
「このビニール片を見た時、ひぃねぇだけが『見覚えがある』と口にした。うちと須貝にはまったく心当たりがなかったのになぁ。ま、当然やろ。なんといっても、ひぃねえはほんの二か月前まで毎日これを仕事で使っとったんやから」
「わたしは二か月前まで病院の手術室で働いていました。手術室でわたしはこのビニール片を何度も手にしました。輸血パックです。都医師は、輸血パックを服の中に隠していたんです」
「輸血パック。なるほど。出刃包丁が刺したのは都先生の肉ではなく、輸血パックだったわけですね」
三白眼を見開きながら、神崎は感心したようにうなずいた。
「そういえばわれわれはあの時庭先で都先生の地肌を目にすることはなかった。都先生の服の上から止血をしたので、そんな余裕はなかったから」
「輸血パックは、都先生が偽装のために用意したものです。違法な手段で入手したのか、都先生が自身の血液を採取して用意したのかはわかりません。ですが本土にもどり都先生の周りを調査すれば、答えはすぐに見つかるはずです。先生のご自宅にカラの輸血パックがあるかもしれない。彼と関りがあった医療従事者をことごとく揺すってみてもいいでしょうね」
氷織はLAWの手からビニール片をとると、それを持ち上げて過去を懐かしむように指でこすった。その目がかすかに憂いの色に染まる。
「もちろん。都センセは自分が刺されることを予期し、刺されるであろう場所に輸血パックを用意しとったわけやない」
LAWがいった。
「役者はふたりおった。ひとりは被害者役の都センセ本人。そしてもう一人が、犯人役の“九重愛”……いや、ブラッド、姫子、愛の誰かや。都センセは共犯者と事前に腹のどの部分を刺させるのかを決めて、その箇所に輸血パックを忍ばせとった。あの事件は茶番やった。都センセは逃げない。抵抗するふりをするだけ。だから犯人は利き手とは逆の右手で出刃包丁を使えたわけや」
「このビニール片を暖炉で処分した理由がわかりますね」
氷織がビニール片を掲げる。
「犯人は、偽装の証拠となる輸血パックを完璧に処分しなければならなかった。ゴミ箱に捨てれば誰かに見られる。地面に埋めても掘り返される可能性がある。海に投げたら、波に押されて島の周囲の岩礁まで戻ってくるかもしれません。方法はひとつしかなかった。圧倒的な火力で燃やすのです。だから犯人はこの暖炉に全ての輸血パックを放った。須貝くんが燃え尽きる直前のひとかけらを手にしたというわけです」
「愛。そうなのか。本当に、探偵がいっていることは」
のどと身体を震わせながら鳥羽が愛に訊ねる。愛は応えない。ゆっくりと顔をあげると、無表情で、無言で、大きく目を開いて恒河沙の姉妹をにらみつけている。
「愛? 違う。誰だ。愛じゃない、よな? 誰だ。誰なんだ……あぁ。酒を、酒をもってきてくれ。もう、何が何だか」
頭を抱えた鳥羽はキッチンの方へ向けた指をくるくると回した。使用人の二ノ宮が席を立ち、キッチンからウィスキーとグラスを手に戻ってくる。鳥羽はグラスを使わず、ウィスキーの瓶に口をつけてあおり始めた。
「しかし、どうして右手で出刃包丁を握ったのでしょう」
三崎がボブカットの髪に指を巻きつけながら訊ねた。
「別に、利き手である左手でも問題はなかったわけですよね」
「Non(いや)。問題だらけや」
LAWも対抗するように髪を指に巻きつけた。
「偽装ってのはいうなれば演劇や。都センセは自分が刺される姿を観客に見てもらう必要があった。皆が食堂に集まる昼食時に、食堂の目と鼻の先の庭先でことに及んだ理由はこれやね。“愛”さんに大声を出させて皆の注意をひき、居間の窓にひとが集まったことを確認してから出刃包丁で刺させる。そう。そこのフランス窓を通して、出刃包丁が自身の腹にめりこむところを観覧してもらう必要があった。ふたりが右側にある客室棟側から左手の方に歩いていたのも、演劇の上手と下手を意識しとったのかもなぁ。都センセは舞台監督として最高の仕事をしてみせた。自身は客席の方に身体を向け、“九重愛”さんには客席に背中を見せつつ、出刃包丁を客に視認させてから腹を刺させた。この時、左手に出刃包丁をもっとたらあかんのや」
「なにがあかんのですか」
「傘や。あの日は雨がザーザー降ってて、都センセは右手で傘をさしとった。右手で傘をさすと右腕はどこにいく? 上半身右側の前のあたりやね。すると包丁を刺すべき場所はガラ空きの上半身左側ということになる。右腕がある上半身右側を刺すなんて、あまりにも不自然や。ではこの時、もし“犯人役”が左手で出刃包丁をもって、“被害者役”のガラ空きの上半身左側を刺すとどうなる。うん? 口でいうとわかりにくいなぁ。実践してみよ」
LAWは立ち上がり、須貝に手招きをした。
暖炉を背に須貝が立つ。
「三角巾で右手を吊っとるからちょうどいいわ。右手で傘を差したら、右腕はこれと同じ位置になるわな」
犯人役はLAWだ。LAWは須貝の前に立ち、“観客”に背中を向ける。
「左手で出刃包丁をもち、相手の上半身左側を刺す。すると――」
「あの、よく見えません」
優里が呆けた声をあげた。数秒の沈黙。そしてその沈黙を経て、優里は自身の発言の意味を理解した。
「そう。見えないんや。出刃包丁を持つ左手は右斜め前方に伸びて都センセの上半身左側を刺す。すると出刃包丁は“犯人役”の身体に隠れて“観客”からは見えなくなるわけや。じゃ、右手でもつと?」
LAWは何かを掴むように右の拳を丸めると、それを須貝の上半身左側に当てた。
「よ、よく見えます」
優里がいった。
「右手で出刃包丁をもち、目の前の相手の上半身左側を刺す。この場合は右腕をまっすぐ伸ばすだけでええ。これなら、“客席”から凶器の姿が、あふれ出す赤い血液がしっかりと見える。だから“犯人”は利き手とは逆の右手で出刃包丁を握っとったわけや。あんたの考えやない。口うるさい都センセに細かく指示されたんとちゃう?」
LAWはからかうような口調を“九重愛”に向けた。返事はない。彼女はただLAWを凝視するだけだ。
「偽装の目的は何でしょう。どうして都先生はそんなバカげたことを計画されたのですか」
三崎が訊ねた。伸びた左手が隣に座る二ノ宮の右手と重なっている。
「『いい金づるを見つけた』」
氷織が低い声をつくってみせた。
「二か月前、都先生は顧客である反社会組織のひとりにそんな言葉を漏らしています。これもわたしのパートナーが調べてメールで教えてくれました。そうですよね、建山さん」
建山は水のみ鳥のおもちゃのように大きく首肯した。
「二か月前とは、ちょうど愛さんの診療が始まったころのことですね。それと、都先生のお部屋で診察ノートを確認しました。……ノートには、各人格の名前と性格が記載されているだけで、それ以外には何も書いてありませんでした」
「なにがいいたいんだ」
鳥羽は人さし指を嚙みながら訊ねる。
「都先生は、九重愛さんのDIDを治療するつもりはなかったのです。治療のふりを続けて、未来永劫あなたから報酬をもらい続けるつもりだった。DIDの治療には時間がかかる。これは事実です。都先生もそうおっしゃっていました。一年。三年。五年。十年と治るはずのない治療を続ける。いい金づるとは、鳥羽さんのことですよ」
「な、な、な。あのヤブ医者め!」
鳥羽は両手をテーブルに叩きつけた。反動でウィスキーのボトルが倒れ、琥珀色の液体がテーブルに広がる。横にいた建山が慌ててボトルを立てた。
「想像してください。いくら治療を続けても、愛さんのDIDは回復する兆しをみせない。当然です。都先生はろくな診察をしてないのですから」
氷織の言葉が鳥羽には呪いのように聞こえていることだろう。鳥羽は頭を抱えてうめき声をあげ始めた。
「いっこうに愛さんのDIDはよくならない。すると鳥羽社長は都先生を解任して別の医者を呼び寄せるでしょう。都先生はこれを避けたかった。だから、あなたが敬愛する“九重愛”さんに自身を“刺させた”のです。ヒポクラテス精神あふれる都医師は、自身に大けがを負わせた患者の治療を献身的に続ける。負い目ができた鳥羽社長は、どんなに愛さんのDIDが回復しなくとも、その負い目のために都先生を解雇するわけにはいかなくなる……というわけです」
「わたしがいった通りじゃないですか。正規の医者を呼ぶべきだと」
建山が苦言を放った。
「黙れ。まともな医者がこの別荘まで通ってくれるか。精神病だぞ。あたまがおかしいやつの病気だ。この鳥羽鉄也の娘が精神病などと世間に知られるわけにはいかないんだ。金さえ払えば、闇医者の口は堅い。それなのに、都め。ちくしょう。ちくしょう!」
「愛さまはどうして都様にご協力なされたのですか」
三崎が愛に訊ねる。応えない。愛は三崎を無視した。代わりにLAWが口を開く。
「さぁなぁ。理由はわからん。ただ、自分にとって都合がよかったんやろうね」
「都合がよかった、ですか」
「治療が進まない状況。この島に居続けることが自分にとって都合がよかった。だから協力したんと違うの」
「都先生と協力したのは誰ですか。ブラッドですか。姫子さまですか。それとも、愛さま?」
「知らん。わからん。興味ない」
けろりとした口調でLAWはいう。
「だって、事件の偽装に協力した理由は、都センセが殺されたこととは関係ないやろ」
室内の空気が凍った。事件の偽装という予想外の展開のせいで、皆の思考は本題から外れていた。偽装事件はたしかに起きた。しかしそれとは別に、都医師はたしかに殺されたのだ。
「都センセは大けがを負ったフリをして、自身を自室に運ばせた。皆を部屋から追い出し、その後は自分で浅い傷口をつくって縫って『治療は成功した』って名医を誇るつもりやったんやろうね。ただ、その計画は失敗に終わった。犯人は都センセの部屋を訪れ、センセを殺した。本当の犯行現場はあの客室や」
「犯人は誰なんです」
建山が裏返った声で叫んだ。
「誰が都先生を殺したんです。ブラッドですか、姫子ですか。それともまさか……愛さまが?」
「は? んなわけないやん」
あざけるように笑いながらLAWは応える。
「偽装殺人のあと、“九重愛”の身体はどこにあった。本棟の鳥羽はんの寝室や。“都センセの腹を刺した凶暴犯”は鳥羽はんの部屋に閉じ込められとった。都センセの部屋まで行けるわけがないやろ」
「え、え、え。でも、それじゃあ……」
言葉を詰まらせる建山を無視し、LAWは室内の全員の顔を見回した。
――反転――とLAWの代わりに氷織がつぶやいた。
そうだ。事態は反転した。恒河沙の姉妹により盤面は乱暴に返され、推理は更なる次元へと展開した。高次の段階。誰もが予期しなかった展開――
「あんたら、自分は客席の人間やと思ってのんびり観覧しとったんとちゃう」
LAWは短い髪をいじりながらいった。
「とんでもない。都センセは確かに殺された。そして、都センセが殺され得る時間帯、 “九重愛”に犯行は不可能やった。わかりやすくいったろか」
ピタリと指が、止まった。
「殺人犯は“九重愛”やない。この部屋にいる他の誰かや」




