幕間H
1
「おかしくなる。そう。おかしくなる、ね」
今江は指先でテーブルを叩きながら、三宅千尋の言葉を繰り返した。喫茶店の空調の音がうるさく感じる。
「具体的に、何がおかしくなるの」
三宅千尋はのどに何か大きなものを詰まらせたような表情をみせた。グラスの冷水をひと口で半分以上を飲みこんでから、口を開く。
「九重さんは小学一年生の夏休み明けに転校してきたんです。いつもは猿山みたいにうるさい小学一年生の教室が、九重さんが教室に入ってきたとたんシンと静まり帰ったことをよく覚えています。九重さんはあの頃から綺麗だった。モデルみたいに細くて、アイドルみたいな顔立ち。地味なシャツと長ズボンっていう大人びた服装も、実際に大人びた外見の九重さんにピッタリでした」
質問と答えが噛み合っていない。だが今江は静かにうなずいて話の先を促した。
「すごく美人で、休み時間になるとクラスの皆が九重さんの席に集まりました。質問攻めです。だけど、九重さんは何も答えなかった。『はい』のひとつもいわずに、半開きで口を開いているだけ。転校初日で緊張しているのかと思いました。矢継ぎ早に飛んでくる質問に辟易しているのかと思いました。そうではありませんでした。二日目も、三日目も、一週間経っても変わらないんです。九重さんは病的なまでに寡黙で、病的なまでに他人と関わろうとしなかった」
「美人を鼻にかけて、周りを見下していたのかしら」
「あれはたぶん。怖がっていたんだと思います」
「怖がる?」
「上手い例えじゃないかもしれませんが、ほら。お客さんが家に来ると、隠れちゃう猫っているじゃないですか。ものすごい人見知りで、ぴゃーってどこかに消えちゃう猫。九重さんはそんな猫みたいな性格をしていたんだと思います。知らないひとが怖い、ストレスを覚える。だから接しない。九重さんはすぐにクラスの中で浮いた存在になりました。人並外れた美貌のせいか、子どもらしい罵詈雑言を浴びせられたり、ものを投げられたり隠されたりみたいなイジメはされません。存在しないもの、もしくは教室に置かれた歩く芸術品みたいな……そんなふうにわたしたちクラスメイトは九重さんを扱いました。だけど、小学三年生の夏休み明けに、九重さんはおかしくなったんです」
話が元に戻ってきた。今江は努めて穏やかな表情をつくってみせる。
「普段は以前と何も変わらないんです。だけど時々、急に笑顔で話しかけてきたり、感情的になって怒りだしたり泣き出したりするようになりました。以前の九重さんだったら絶対にありえません。情緒不安定です。とても不気味で、怖くて、でも普段は静かで大人しくて。大きなトラブルを起こすわけでもないので、先生も問題児扱いするわけにもいきません。いつ鳴りだすかわからない壊れた目覚まし時計が教室に置いてあるような気分でした。あの夏休みに何があったんだろう。何が九重さんの心を変えてしまったんだろう。不思議で仕方がなくて、クラスの皆で遠回しに九重さんに訊ねてみました。だけど九重さんは質問の意味がわからないのかキョトンとするばかりでした」
DIDだ。今江は確信した。小学三年生の夏、九重愛のDIDの症状が始まったのだ。
「小学三年生の夏に何があったのか。気になるわね」
今江はコーヒーカップの縁を指でなぞりながらいった。何の気もなく口にした言葉だった。だが不自然な沈黙が場を支配した。今江のほほが波を打った。千尋の目が泳いでいる。不自然に、身体を揺らして、窒息しそうな表情で、両目を泳がしている。
「知っているのね」
千尋の身体が、椅子の上で飛び跳ねた。
「ただの噂です。本当かどうかわかりません。わたしたちが中学一年生の時に、同じ学年の子のお母さんがママをしているスナックに九重さんのお母さんが雇われたんです。お店の中で、シングルマザーの九重さんに恋人はいないのかって話になったらしくて、その時に、その。昔は結婚を考えている男がいた。九重さんたちが名古屋から東京に引っ越してくる要因になった恋人がいたんだけど、そのひとが……」
ごくりと音を立てて、千尋のつばをのみ込んだ。
「四年前。小学三年生の愛さんに手を出したから、別れたっていうんです」
今江は表情筋を動かさなかった。静寂に満ちた美術館でたたずむようにその表情は静かだ。
しかしその表情の裏側で感情が燃えていた。名も知らぬ九重恵の元恋人に対する憤怒の炎が、猛り、狂い、爆ぜていた。
「男の会社はお盆休みで、九重さんのお母さんはその時はスーパーで働いていたそうです。昼間、九重さんはひとりで家にいて、それで……」
「その情報の信憑性は高いの」
「嘘ではないと思います。九重さんのお母さんは、いつもより早くパートを終えて帰宅して全てを目撃したといっていたそうです」
小学三年生の九重愛は、母親の恋人に性的暴行を受け心的外傷を負った。夏休みのその一件が、母親の元恋人にとって九重愛に対する初めての傷害だったのかはわからない。
だが、夏休みのその日に九重愛は壊れた。いや、壊された。名古屋にいたころから九重愛は母親から虐待を受けていた。幼いころからその精神には虐待による傷が刻み込まれていたことだろう。深く深く、繰り返し繰り返し、身体の内側にめり込んでいく傷。蓄積された傷は、ある年の夏に九重愛を壊した。彼女の周りの無責任な大人たちが、ひとりの少女の心を壊したのだ。
千尋と別れ、今江は帰宅した。
陽光が注ぎこむ和室で、今江は畳に直に座りこんでいた。窓の外から子どもたちの笑い声が微かに聞こえた。犬の鳴き声も聞こえる。平穏な町。平穏な世界。そしてそんな平穏の裏には、九重愛のように人間の残虐性に蝕まれるひともいるのだ。
時刻は午後の三時だった。その気になれば、九重愛の過去について新たな情報を探しに行くこともできるだろう。だが今江にはそのつもりはなかった。彼女は疲れ切っていた。九重愛の陰鬱なる過去に触れて、心が疲れ切っていた。
今江は思う。自分は不幸だ。決して幸せとは言い難い。夫とは死別し、一人息子は両腕のない先天性の障害児として産まれてきた。これを不幸と評して何が悪い。もし夫が生きていたら。もし息子が両腕をもって産まれてきてくれたら。過去に何度も、そんな“もし”を想像してきた。不幸ではない幸せな自分を想像してきた。
ある人は今江にいった。不幸などと口にしてはならない。亡き夫と出会えただけでも、息子がこの世に生を受けて産まれてきただけでも幸せだと。だが今江は反駁した。不幸から目を反らし、偽りの笑顔という仮面をつけて幸福を唱える。それのどこがまともだというのか。
大切なことは不幸を逃れ得ぬ現実として認めること。そしてその不幸を凝視して、逃げることなく、その実在を否定することなく立ち向かうことだ。
――わたしは生きていく。どうしようもなく汚いこの世界の中で、汚れながら生きていく――
かつて恒河沙氷織はそんな言葉を口にした。思えば今江が恒河沙の名をもつ探偵たちに心を許すようになったのは、長女である氷織のこの言葉があったからかもしれない。恒河沙の兄妹たちも、その過去は決して幸福とはいい難い。十年前に実父である恒河沙理人の裏切りにあい、五人の兄妹はどん底に堕ちた。それでも法律は、氷織は、そしてLAWは戻ってきた。他の二人の妹だって同じだろう。恒河沙の兄妹には不幸に立ち向かう力だがある。だから今江は、あの兄妹に惹かれるのだ。
では、九重愛はどうだろう。
彼女は不幸だ。その生い立ちを、純白なる“幸福”のヴェールで覆い隠すことはできない。彼女の過去は汚濁の渦に犯されており、ヴェールの繊維の間を通って汚濁は漏れ出す。
九重愛は自身の不幸をどう捉えているのか。今江は思った。九重愛と話してみたい。好きな料理をつくってあげて、いっしょに食べながら話してみたい。傷のなめ合いと笑いたければ笑うがいい。それで心が癒されるなら、不幸との付き合い方が学べるなら十分ではないか。
時刻は間もなく午後九時を迎える。今江のスマートフォンが鳴った。
氷織からのメール――定時報告が届いたのだ。
今江はそれを読むと、まず先に青森にいる籐藤巡査部長のアドレス宛に転送した。昨日の氷織のメールを読んだ恒河沙法律は、今日届くメールも必ず送ってくれと籐藤を介して伝えてきた。籐藤と法律、そして恒河沙の兄妹の三女である“縛”は現在青森でずいぶんと奇妙な殺人事件に巻き込まれているらしい。そんな時に事件とは関係ない妹のメールを要求するとは、恒河沙法律のブラコン精神ここに極まりといったところかと、今江は多少呆れた。
今江は時間をかけて氷織へ返すメールをつくった。今日一日で聞き及んだ事項を、辛く苦しい九重愛の悲しい過去をメールに打ち込む。文字にして読むと吐き気を覚えた。だが逃げるわけにはいかない。他人のものであれ、不幸から逃げるわけにはいかないのだから。
メールを送信し、今江は深く息を吐いた。これにて三日間の調査は終わった。氷織たちは明日の午後には東京に帰ってくる。どんな土産話を聞けるのかと考えながら、今江はスマートフォンをテーブルに置いた。




