第八章
1
愛の部屋を出てから階段まで向かう途中、先頭を歩くLAWが軽やかに飛び上がり半回転してニッコリと笑った。
「三崎さん。お願いがあるんやけど」
「何でしょう」
最後尾を歩く三崎が応える。
「二週間前に愛さんが『殺してやる』と叫びはった場面を再現してもらいたい。その日その場所に居合わせひとたちに寸分違わず全く同じ行動をしてもらう。恐縮やけど、皆さんを集めてもらえるやろか」
「おもしろそうね」
氷織はくちびるの端を微かに上げてみせた。
「構いませんが。お誘いしても断られる方もいらっしゃると思われます。例えば、愛さまとか」
「愛さんはいま“柴田さん”ですからね」
須貝が愛の部屋を見つめながらいった。
「あんな険悪なムードで別れた以上、協力してくれるとは思えませんよ」
「やめとこやめとこ。愛さんにとっては気分のいい話やないし。愛さんは抜き」
「それと都先生はどうなさるつもりですか。まさか死体をお連れしろとでも」
真顔で怖いことをいうなと須貝は呆れた。そんな三崎に向かって、LAWは両手をあげてけらけらと笑った。
「ホトケさんは連れてこんでえーて。とにかく、みんなを連れてきて。あ、無理強いはせんでえーよ。断られたらそれはそれ。しゃーないしゃーない」
「かしこまりました。では……三十分後。三時からでよろしいでしょうか」
「ん。よろしゅーな」
三十分後。三人は本棟の居間に行くと、食堂から三崎が出てきた。
「みなさん、こちらへどうぞ」
「ん? 愛さんが『殺してやる』って叫びはったのは、居間やないの」
「ことの発端は夕食の席です」
三崎の背後に黒い大きな影が現れた。ブラックスーツの神崎が食堂から現れたのだ。神崎の姿をみて、須貝が短い悲鳴をあげる。それを聞いて神崎は白い歯をちろりとのぞかせた。
「神崎も現場に居合わせたものですからお連れしました。よろしかったでしょうか」
「もちろん。おおきに」
食堂に入ると、LAWは室内にいる人間を見回して満足そうに鼻を鳴らした。
壁際にたつ二ノ宮は氷織たちをみて一礼した。社長秘書の建山はぼんやりとした表情で椅子に座りこみ、両手で抱えたカップを親指でなでている。テーブルを挟んで建山の反対側では、優里が身体を縮めて座っていた。
「あれ。優里さんは当時別荘にはいらっしゃらなかったのでは?」
氷織が訊ねる。優里は『そうでしたが……』とか細い声を出した。
「探偵さんが皆さんをこちらにお呼びになると聞いて。何かご協力できればと思いまして」
「いやー助かるわ。おおきになぁ」
LAWは優里の肩を大げさに叩いた。どう応えればよいのかわからず、優里は粘土をこねて作ったような笑顔をみせた。
「鳥羽は泥酔して、寝室で横になっております。とても参加できる状態ではありません」
三崎がいった。
「彰さまにも一応声をおかけしましたが、興味がないと断られました」
「んー、なるほどな。おっけおっけ。それじゃあみなさん、始めよか。三崎さんから説明があったと思うけど、これから、二週間前の夜に九重愛さんが『殺してやる』と叫びはった時のことを再現してもらうわ」
LAWは嬉々とした様子で音頭を取り始めた。
「構いませんが、目的は何です。それで何か分かるというのですか」
建山が後頭部をかきながら茶々をいれた。
「真実」
さも当然といったていでLAWはいう。
「ほら、ちゃっちゃと済ませよ。最初に念のため確認しとこか。建山はん。現場に居合わせたのは誰か教えて」
「えっと。鳥羽社長と、愛さん。ぼくと都先生と、二ノ宮、三崎、神崎さんの三人で全員です」
「他にはいなかった? 絶対に? この部屋だけやない。建物にも、この島にも他にはひとはおらんかった?」
「いません。あの日、この島を訪れていた人間は全員この食堂に集まっていました」
建山がいい切ると、LAWは納得したように大きくうなずいた。
「それでは次。さっき神崎さん、『ことの発端は夕食の席』ていいはったよな。ふんふん。夕食ね。そしたらみんなその夕食の時と同じ位置に座って」
室内の皆が一斉に動き出した。記憶をたどりながら、二週間前に自分がいた場所に移動する。
建山は縦長の長方形のテーブルの、キッチンより西側の席に着いた。神崎は東側の壁際に立ち止まった。二ノ宮と三崎はキッチンのドアを開け、一歩中に入った位置で足を止めた。
「建山はんはうちらといっしょに食事をする時と同じ位置やね」
LAWの言葉に建山はうなずく。
「社長の定位置がここなんです」
建山は右手を伸ばして、長方形のテーブルの短辺――所謂お誕生日席――のあたりでぐるぐると回した。
「お酌をしたりと、横にいた方が都合いいですから」
「神崎さんはそこ?」
「はい。基本的にはこの位置に立っております」
「なるほど。で、二ノ宮はんと三崎さん。お二人はキッチンにおったの? ずっと?」
キッチンの中に入った二人にLAWが訊ねる。
「キッチンと食堂と出たり入ったりをくり返していました。火をかけたお鍋や焼き魚の様子を見ながら給仕をしていましたので」
「なるほど。それで愛さんはどこに座っとったの」
「そこです」
神崎が長方形のテーブルの短辺――鳥羽が座っていたというお誕生日席の反対側――を指した。
「なるほど。そしたら須貝。愛さんの席に座って」
「え、ぼくが女性の代わりですか。氷織さんに任せればいいのに」
「つべこべいわんとチャッチャと動く。で、次。優里さん。恐縮やけど、鳥羽社長の席についてもらえます?」
「えぇ。構いませんけど……」
三人の後ろにいた優里が、おずおずとした態度で席に着く。どこか居心地の悪そうな表情。左隣に座る建山が同情するように顔を向けた。
「最後。都センセの席は?」
「ここです」
神崎が左手を伸ばして、優里の右隣の席を指した。
「都先生はこちらの別荘で鳥羽と酒を嗜むのを何よりも楽しみにしておりましたので、当夜も鳥羽の横に着いて値の張るワインをご賞味なさっておりました」
「なるほど。ひぃねえ。都センセの位置に着いて」
氷織は何もいわず妹の指示に従った。
「これで、分布は完了っと。ふーん。男三人はキッチン側の席に集まって楽しそうにご歓談。愛さんはひとりポツンと反対側のお誕生日席に座っていたわけね。ふんふん。それで、そこからどんなふうに『殺してやる』まで繋がるのか、だれか説明してくれる?」
「夕食が始まって十分ほど経ったころ、愛さんが突然、食事の乗った食器を壁に向かって投げつけたんです」
建山は渋面を浮かべながら東側の壁を指さした。
「髪をかきむしりながら大声をあげ、椅子を倒して立ち上がると居間の方へ向かい、今度は居間のものを壊し始めました」
「Patientez(ちょい待ち)」
LAWが片手を挙げて制止する。もう片方の手は指をピンと伸ばし、小刻みに自身の額を叩いている。
「お皿を投げる前、愛さんは何の話をしてはった?」
「愛さんは何も話していませんでしたよ。あの日は鳥羽社長と都先生がワインで酩酊しながら取り留めのない話をするばかりでした。ぼくと神崎さんは時々話題を振られてひと言ふた言は返すこともありましたが、自分から進んで話をすることはありませんでした」
建山の言葉に神崎は『その通りです』と肯定した。
「わたしたちも同じです」
二ノ宮がキッチンから首だけをのぞかせていった。その下で三崎もキッチンから首だけをのぞかせている。
「ワインを飲み過ぎたのか、社長も先生も下品な笑い声をあげていらしたので。あまり相手にせず、こちらからお声がけすることもありませんでした」
「社長は都先生とお話しするのを楽しみにしているようでした。愛する娘を治療してくれる都先生を頼りにしていましたからね」
「つまり、夕食の席で口を開いてぺちゃくちゃ喋っていたのは、鳥羽社長と都センセばかりってことやな。うんうん。それで、二人は具体的にどんな話をしとったのか覚えとらん?」
「どんな話って……本当に他愛もない下品な話ですよ。株価の話、会社の役員の愚痴、ひと昔前の女優の話もしてましたね。それから流行りのソーシャルゲームを『理解できない』と鼻で笑ったりも」
「愛さんを中傷するような話は」
「なんですって?」
建山は顔を上げて聞き返した。
「愛さんを傷つけるような話はしとらんかったの。愛さんを傷つけたり、怒らせるようなことをふたりは口にせんかった?」
「そんなこといいませんよ。社長は愛さんを目に入れても痛くないほど可愛がっていらっしゃる。都先生にとってそんな社長は大事なクライアントですので、愛さんを傷つけるようなことを口にするはずがありません」
「神崎さんはどう? 二ノ宮はんと三崎さんは?」
「わたしたちが耳にした範囲内では、愛さまを傷つけるようなことはおっしゃっておりませんでした」
三崎が答えると二ノ宮もうなずいた。神崎は腕を後ろに組んだまま『右に同じです』とつぶやいた。
「言葉の暴力はなかった。それなら、物理的な暴力はどう? 意図的でもそうでないにしても、食事が始まってから何か愛さんに物理的な暴力がふるわれることはなかった?」
LAWは四本の指で額を叩きながら訊ねた。
「ありませんよ、そんなこと」
呆れたように建山が声を張り上げた。
「どうして我々が愛さんに暴力を」
「意図的でもそうでないにしてもっていったやん。給仕している最中、スープのお皿を落として愛さんの身体を火傷させたとかなかった?」
LAWの視線はキッチンの方へ向けられていた。二ノ宮と三崎は『まさか』と応えた。
「わたしたちそんなことしていません。自分たちでいうのもなんですけど、あの日の給仕は完璧でしたよ」
「あの仕事ぶりで文句をいわれるようではたまったものではありません」
二人の使用人はそろって抗議の声をあげた。
「神崎さんは? 物理的な暴力といえば、神崎さんのお家芸かと思うけど」
礼節を欠いたLAWの問いかけに、神崎は薄い笑みを浮かばせた。
「仮にわたしが愛さまを憎み暴力をふるってやりたいと願っていたとしても、過大なる愛情を注ぐ父親の前ではやりません」
「意図的な暴力は注いでいない。非意図的な暴力を注いだということもなかった。そういうこと?」
「そういうことです」
神崎が大きくうなずく。
LAWは額を叩いていた四本の指をピタリと止めると、顔を下に向けてニヘラと笑った。
「おもしろうなってきたわ。本当にこの事件は……」
「LAWさん?」
LAWの様子を心配して須貝が声をかける。しかしLAWは須貝の心配を払拭するように勢いよく顔をあげて叫んだ。
「よっしゃ次いこ。愛さんは食事中に、突然皿を壁に向かって投げつけた。それからどうした。何があったのか、うちに教えて」
2
「愛さんは皿を投げつけてから、髪をかきむしり、居間の方へ移動しました」
建山が座ったまま、居間の方を指さす。
「須貝。お皿を投げるフリをして。それから、髪を『わ~』とやりながら、居間の方に移動」
須貝は左手で東側の壁に向かって皿を投げるフリをした。利き腕は右なので何とも不格好なフォームになってしまう。
「わ、わー……こんな感じでいいですか」
覇気のない声をあげ、髪を弄りながら居間に移動する。居間に足を踏み入れたところで、LAWが『Patientez(ちょい待ち)』と声をかけた。
「愛さんは声をあげながら居間に移動しはった。この時、テーブルのみなさんはどないしたの。ひとりひとり答えて。記憶違いってこともあるから、誰かが違ったことをいったらそれも指摘してな」
「わたしが最初に席を立って、居間に入りました」
建山は席から立ち、テーブルを西側の壁に沿って時計回りに動いた。
「建山はん一旦Patientez(ちょい待ち)。他のひとは? 建山はん以外の人はこの時点では誰も動かなかったの?」
「わたしたちは二人ともキッチンの中におりました」
二ノ宮が三崎の手を握りながら答える。
「お鍋の火加減を見たり、盛り付けを行っていたので、愛さまの悲鳴が聞こえるまで騒動に気づきませんでした。ドアも閉まっていたので、お皿が割れる音にも気づきませんでした。悲鳴が聞こえて初めて何事かと思ってドアを開けて食堂を覗いたんです」
『ね』と三崎に訊ねる。三崎も無言のまま首肯した。
「わたしは愛さまが皿を投げた瞬間、愛さまの方に身体を向けて警戒態勢をとりました」
テーブルと東側の壁の間に立っていた神崎が、身体を動かして愛の席に対峙する形に立ちはだかった。
「社長を守ることがわたしの第一義的な使命ですので、錯乱した愛さまが社長に向かってきたら取り押さえるつもりでした。愛さまが居間に移動されて、建山もそれに続いたのでわたしも加勢しようと居間に向かいました愛さまが投げつけた皿の破片と、こぼれた煮魚が床に飛び散っていてそれをジャンプして避けましたよ」
神崎が大きな身体を動かして居間に向かった。居間から顔だけ出して食堂を見ていた愛役の須貝は『ひぇ』と小動物のような悲鳴をあげた。
「神崎さんPatientez(ちょい待ち)。いったん最初の位置にもどって。そしたら次に、鳥羽社長と都センセの動きについて教えて」
「社長は……かなり酔いが回っていらしたので、座ったまま呆然とされていましたね」
居間の一歩手前で足を止めている建山がいった。鳥羽の席に着いていた優里がワイングラスを持つフリをして『ひっく』と声を漏らす。居間から顔をのぞかせた須貝は『意外と愛嬌があるな』と思った。
「都先生は、わたしとほぼ同時に立ち上がったのですが――」
建山は神崎に視線を向けた。
「その、神崎さんが立ちはだかっていらしたので困っていたようでした」
「そういえばあの時背中に何かが当たったような気がしましたね。あれは都さまだったわけですか」
東側の壁際に立っていた神崎は、愛が皿を投げた次の瞬間、愛の方に身体を向けた。都医師は愛とはテーブルの正反対の位置に座っていた鳥羽のとなり――東側に着いていた。キッチンに近いその席に座っていた都が居間に向かう愛を追いかけると、必然的に神崎が邪魔になる。
都医師役の氷織が席を立ち、神崎を避けようと背中に手を置くが、神崎の巨体はびくともしない。
「なるほどなぁ。そしたら次にいきましょ。愛さんが居間に入って、それから?」
「手あたり次第に調度品を壊し始めました」
建山は重い息を吐き出しながら、気怠そうに首をふった。
「花瓶を割り、雑誌を暖炉に放り投げ、ロッキングチェアーをなぎ倒し、カーテンを引いてレールから引きはがし、それから再び悲鳴をあげたんです。正直にいってぼくは怖くなって、愛さまの狼藉をただ眺めていることしかできませんでした」
「須貝。再現」
「え。本当に壊すんですか。無理ですよ、骨折してるのに」
「なわけないやろ。フリでいいから、はよはよ」
「う、うわー……」
須貝は居間の中で暴れまわるフリをしてみせた。最後にカーテンに近づき、レールから引きはがす代わりに遮光カーテンを開いた。建物の外は明るく、午後の日差しが須貝の身身体に突きささる。須貝は一瞬『自分はなにをやっているんだろう……』と太陽の光に目を涙で濡らした。
「カーテンを引きはがしたところで、愛さんが動きを止めました。そこでぼくは、愛さんに飛びかかって床に押さえつけたのです」
建山がおずおずとした様子で、須貝に近づく。
「えっと、須貝さん。そこで倒れてください。うつ伏せです。そしたら僕が上から押さえつけますので……」
「ちょ、ちょっと。 そこまでする必要はないでしょう。ぼくは怪我をしているんですよ。演技とはいえ、そんなことされたら……」
「須貝。早よして」
いつの間にか居間に移動したLAWが目を見開いて須貝を諫める。
「早よしてじゃない! だいたい、愛さんが最後には押さえつけられることは既に聞いていたじゃないですか。それならどうして怪我をしているぼくに愛さんの役をやらせるんですか」
「え、だって。服が汚れるやん。女性にやらせるのは気が引けるわ」
さも当然といった口調でLAWは答える。LAWの後ろでは、鳥羽社長役の優里が苦笑し、都医師役の氷織がLAWと同じくさも当然といった冷たい視線を須貝に送っていた。
「須貝さん、それじゃあいきますよ。わたしは後ろから愛さんに飛びついて、愛さんは前のめりになって膝から崩れ落ちていきました」
建山が遮光カーテンを掴んでいた須貝の背中に組みついた。二人の身体は海岸の波が引いていくようにずるずると下がっていく。
「それから、愛さんの背中をこんな風に両腕で押さえつけました」
「いた、いたたた! 建山さんまって!」
床に腹ばいになった須貝が声をあげた。
「そんなに力を入れてませんよ!」
「こっちは骨折しているんです。痛くて当然でしょ!」
「愛さんは骨折なんかしとらん。余計なことはいわんと、演技に集中して」
「ひどいよぉ!」
「こう、背中を両腕で押さえつけたんですけど、まだ愛さんは暴れていて、そしたら」
「遅ればせながらわたしが登場したわけです」
ブラックスーツの神崎が半笑いの表情と共に居間に入ってきた。
「面倒なので建山ごと愛さまを押さえつけました。三人の身体が重なった形になりますね」
神崎は須貝と建山に近づく。背中を向けていた須貝は、神崎の気配に気づき『え、ちょっと。待って』と雛の鳴き声のような声をあげた。
「それで、こんな風に拘束しました」
神崎の巨体が、須貝と建山の身体を覆うようにしてのしかかった。最下層にいる須貝が朝を告げる雄鶏のような悲鳴をあげる。
「神崎さん。やかましいから少し力をゆるめて。それで、食堂とキッチンにいた残りの人たちは何をしてたん」
LAWは食堂の方にふり向いて訊ねた。
「全員で神崎さんのあとを追いました」
三崎がいった。
「わたし、二ノ宮、鳥羽と都さまの四人でほぼ同時に居間に入りました。神崎さんの身体の下に建山さんと愛さまがいるのがわかりました」
食堂に残っていた四人が居間に移動してきた。三崎が言葉を続ける。
「愛さまのお顔が見えなかったからか、都さまが暖炉の方に回ったんです」
組み伏せられた須貝の身体は、足が西にある食堂を向き、頭が東にある暖炉の方を向いている。たしかに、食堂からでは須貝の顔が見えない。
三崎の言葉に従い、都医師役の氷織が暖炉の方に移動した。続いて残りの三人も移動する。
「で、それから?」
「例の言葉です」
唾を飲みこんでから二ノ宮がいった。
――殺してやる。絶対におまえを殺してやる――
当夜のことを思い出したのか、二ノ宮は顔を両手で覆ってのけぞった。氷織がその身体を支え、『だいじょうぶだから』とつぶやく。
「愛さまは必死に身体を動かしてわたしの拘束から逃げようとしました」
神崎がいう。
「手足をばたつかせたので、窓に手を打ちつけてしまい赤く腫れあがっていました」
「須貝。再現」
須貝には既に不平の声をあげる元気もなかった。力のない水平チョップがフランス窓にぶつかる。
その時、須貝は自身の視界の隅で何かが動いたことに気づいた。窓ガラスの向こう。外だ。物置の陰から、双眼鏡を須貝たちの方に向けている男がいる。
彰だ。この再現劇には興味がないと不参加を表明したはずの彰がこちらを観察していたのだ。
彰は双眼鏡を降ろすと、そそくさとその場を後にした。彰の存在に気づいたのは須貝だけのようだった。室内の誰もが、目の前の再現劇に集中している。
「その直後に愛さまはぴたりと動きを止められました。気を失われたのです」
神崎は須貝と建山から身体を離した。
「わたしはすぐに愛さまを担ぎ上げ、都様の指示のもと、愛さまのお部屋までお運びしました。それも再現いたしますか?」
神崎は建山の身体を須貝から引きはがすと、満面の笑みを浮かべながら須貝の左腕をつかんだ。床に伏せていた須貝の身体が宙を浮く。須貝の悲鳴が再び室内に轟いた。
「いや。客室棟まで行くのは面倒や」
LAWは両手を掲げて神崎を制止した。神崎は不満そうな表情のまま須貝から手を離した。
「こないなとこか。うん。だいぶ参考になったわ。みなさんおーきにな。はい、解散解散」
パンパンとLAWが手を叩く。皆は解散の指示に従い、自分たちの仕事にもどった。
「重ねておーきに。須貝」
カーテンを直す氷織の後ろでLAWはいった。
「痛い思いをさせて悪かったわ。だけど、いまの再現劇のおかげで大事なことが証明されたわ」
「な、なんです。なにが証明されたんですか」
「まだいえん。うち説明するのが下手やから、誤解させるかもしれへん」
LAWはテーブルのかごに盛られた苺大福を齧りながらいった。見るとジャージのポケットにはすでに苺大福の包みがいくつか入っている。
「うちは部屋に戻るわ」
「お昼寝ですか」
「あ。馬鹿にしとるん? ちゃうちゃう。あたまの中が情報でぱんぱんでな。いったん落ち着いて整理したいだけ」
須貝も自分の部屋に戻ることにした。
「夕食の時間までに一度愛さんと話がしたいわね」
客室棟に入ったところで氷織がいった。
「二ノ宮さんと三崎さんに、柴田さんから他の誰かに代わったら伝えるようお願いしておいたか――」
「鳥?」
突然、LAWが脈絡なくつぶやいた。小さな顔が階段の方を向く。LAWは全速力で階段を駆け上り始めた。
「LAWさん!」
須貝が後を追う。氷織も怪訝な表情のままロングスカートの裾を掴んで走り出した。
「ひいねぇはひとを呼んできて!」
踊り場を回ったところでLAWが叫ぶ。氷織はLAWの指示に迷うことなく従った。踵を返し、スカートをたなびかせながら本棟へと駆けていく。
「どうしたんですか。鳥? 鳥っていいました?」
一段飛ばしで階段を駆け上りながら須貝が訊ねる。二段飛ばしのLAWは応えない。その表情は焦燥に満ち溢れている。
三階まで駆け上り、直線に伸びる廊下の北側へ走る。三階には階段を間に挟んで北南に二つずつ部屋がある。氷織は北側の階段側の部屋の前を通り越した。目的地は最奥の角部屋。愛の部屋だ。
LAWは愛の部屋のドアを乱暴に開けた。LAWと須貝は、室内の状況を見て息をのんだ。
室内には彰と愛がいた。下着姿の彰が、ベッドの上で愛を組み伏せていたのだ。口もとと左腕を押さえつけられた愛は、身体を左右に動かしながら抵抗を試みている。人形のように白い愛の両脚が力なく飛び跳ねている。
愛が履いていた黒のジーンズは背の高い木が覗く窓の下でくしゃくしゃになって崩れ落ちていた。その横には小さな目覚まし時計が転がっていた。
かける言葉もなく須貝は愛を助けに走った。彰は背後から迫りくる気配に気づいた。愛の腕に膝を乗せ、空いた右手で窓際のサイドボードに置いてあった小さなナイフを取った。
「近づくな。近づくなよ!」
彰は愛を押さえつけたまま、身体をねじってナイフの刃先を愛に向ける。
「近づくな。近づくんじゃない。すぐに終わるのに。この女が抵抗するから……」
「彰さん。やめてください。ナイフを下ろして。愛さんから離れてください。痛がってますよ」
口もとを押さえつけられている愛は苦悶の表情で天井を見つめている。
愛のオーバーシャツは第二ボタンが引きちぎられており、水色の下着が微かにあらわれていた。
「彰はん。やめといた方がええって」
入り口でドアに手をかけているLAWは、至極冷静な声で語りかけた。
「あんた、うちらに見られとるのにまだ勃っとるんか? とんだド変態やな」
「う、うるさい。準備はしてきたんだ。挿れさえすれば……」
「うちは知らんよ。やめといた方がええって忠告したからな。あんたのためにいったんや」
LAWがそういうと、室内に悲鳴が響いた。
愛のものではない。声の主は彰だった。ナイフを握る彰の手首を、愛の白い手が握りしめている。
彰の表情が苦悶の色に染まっていく。震える五指からナイフが離れ、ベッドのわきに落ちていった。
ほんの数センチ――彰がほんの数センチ愛から身体を浮かせたその瞬間、うつ伏せの愛は腹部を勢いよく上げて彰の身体をふき飛ばした。彰は前のめりになり、壁に顔面を叩きつけた。
愛の動きはヘビのように素早かった。彰の両脚の間を抜けるとすぐに振り返り、顔を打ちつけて悶絶する彰の背中を勢いよく踏みつけた。
背中を押される形になり、再び彰の頭が壁にぶつかる。今度は左側頭部。彰はベッドから床へと転がり落ち、這いつくばりながらドアの方に近づいた。
三秒にも満たない一連の流れを、須貝は茫然と見ていることしかできなかった。五秒が経過してやっと自身がなすべきことに気づいた。止めなくては。愛を止めなくては。
「危ない。須貝は離れて」
ドアの前にいたLAWが手を伸ばしながら愛に近づいた。愛は床に落ちたナイフを拾い上げ、虫のように床を這う彰を凝視した。
「あかんって。もうやめとこ。な」
LAWは四肢を大きく開き愛の前に立ちはだかった。この時になって須貝はやっと愛の表情を見た。それは愛でありながら愛ではなかった。ハヤテでも、しおりでも、柴田でもブラッドでも姫子でもシスターでもない。そこにいたのは――須貝のまだ会ったことのない愛だった。
LAWの後ろで、彰が頭をおさえながら力なく立ち上がり、廊下に向かって転がるように駆けて行った。
しかし、廊下に出ようとした瞬間、彰は再び壁にぶつかり尻もちをついた。いや、壁ではない。それは壁ではなく、ドアの前に立っていたブラックスーツの神崎だった。
神崎は室内を一瞥すると、犬歯をのぞかせて一度笑った。
その笑顔を見て須貝は寒気を覚えた。それはあの時と同じ笑顔だった。
神崎は震えている彰を無理やり立たせると、右腕の上腕と前腕を両手で締め付け、その真ん中に片膝を叩きこんだ。
折れる音がした。
彰は神崎に腕を握られたまま、床の上に崩れ落ちた。一瞬にして顔は灰色に染まり、苦悶の表情のまま荒い呼吸で身体を震わせた。
「この男はわたしが連れていきます。皆さんは愛さまをお願いします」
神崎はパンツ一枚の彰を連れて部屋を出た。入れ替わりで廊下にいた氷織が室内に入ってくる。神崎は氷織に呼ばれて本棟から客室棟まで駆けつけてきたのだった。
「暴風雨やね」
LAWは訊ねた。相手は何も応えない。握りしめていたナイフをベッドに向かってほうり投げる。ナイフは一度だけベッドの上で小さく跳ねた。
そこにいたのは、愛でありながら愛ではなかった。警戒という鎧を全身にまとい、大きく見開いた両眼はサーチライトのように動き続けている。人間でありながら人間ではない何かのような、そんな不気味な様相を彼女は擁していた。
「とりあえず、ズボン履こか? こっちは若い男がいるんやし、パンツ姿は目に毒やって」
LAWは床のジーンズを拾って手渡した。彼女はそれを奪うように受け取り、三歩下がってから履いた。
「もう一度聞くけど。あんた暴風雨やね」
「医者のことならシスターから聞いた。死んだんだろ」
「質問に答えて。あんたが暴風雨やね」
「……そうだ」
暴風雨は嫌悪感に顔を歪ませながら重い息を吐いた。
「あんたらが探偵か。それで。なんだよ。おれが医者を殺したって疑ってんのか。違うな。そう思いこんでいる。確信している。他人の身体を刃物で刺せるような無骨者はおれしかいない。だから犯人は暴風雨に間違いない。違うか」
「うん。違うわ。確信的に違う」
けろりとした表情でLAWは答えた。
「あんたは都センセを殺してない」
「LAWさん。どうしてそこまでいえるんですか」
須貝が批判の声をあげた。
「『犯人かどうかわからない』ならわかります。ぼくだって、暴力的な人間ってだけで犯人だと決めつけるつもりはありません。だけど、『犯人ではないかどうかもわからない』じゃないですか。それなのにどうして――」
「あたりまえやん。暴風雨は都センセを殺せへん。殺せへんさかいに犯人やない。そうやろ?」
「あんた、わかるのか。おれのことが……わかるのか?」
「ようわかる。もうわかっとる。だからあんたの口から聞かせて。暴風雨。あんたは都センセを殺した?」
「……殺していない」
くちびるを噛みしめながら、暴風雨は声を張り上げた。
「おれは殺していない。殺してやりたいと思ったことはある。だけどおれは殺していない。殺せないから殺してないんだ」
4
「みなさん」
ドアの方から声がした。建山が暗い顔をして立っている。声は氷織たちに向けられていたが、視線は暴風雨を捉えていた。
「それが、その人が。いや。それよりも。話は神崎から聞きました。社長がお呼びです」
建山の横から二ノ宮と三崎が現れた。二人ともそろって沈痛な面持ちだ。
「そのひと……愛さまのことはこの二人に任せます」
「大丈夫なんですか。あれは愛さんじゃないんですよ」
須貝は建山に近づいて小声でいった。
「暴風雨です。ぼくは見ました。暴風雨に変わった瞬間、彰さんを簡単にのしてしまった。もしまた暴れたりしたら……」
「しかし、誰もそばに置いておかないわけには。神崎さんは彰さんを拘束されてますし」
「安心しい」
LAWは建山の背中を押して廊下に出た。
「二ノ宮はんと三崎さんなら大丈夫。ほら、はよいこ」
「ちょっと待って。納得できません。どうしていい切れるんですか」
廊下を行くLAWの背中に須貝が問いかける。しかしLAWは足を止めない。
「暴風雨は噂の通り暴力的な人格です。LAWさん、さっきなんていいました。暴風雨は殺人犯じゃない? どうして。むしろ逆だ。あんなにも暴力的な人間なら、殺人犯の烙印がぴったりだ」
それでもLAWは足を止めない。下くちびるを噛みしめる須貝の横を氷織が通りすぎた。
「氷織さん」
「とりあえずLAWに従って。この子がいうなら大丈夫。LAWはね。わたしたち五人の兄妹の中でいちばんこの世界に通じている」
「いちばん……なんです。世界に?」
「通じている。正しい判断を取り得る。わたしたち兄妹はたくさん間違えてきた。間違えて、間違えて、間違えながらこれまでを生きてきた。失敗を恐れ、過去の自分を憎み、そんな自分を打ちのめす世界を恨みながら生きてきた。だけどLAWは、わたしたちの中でいちばん立ち直るのが早かった。この世界を見つめ、凝視し、順応するのがいちばん早かった。LAWは知っている。この世界のことをよく知っている。だから正しい判断がとれる。暴風雨は殺人犯じゃない。理由はわからないけど、LAWがそういうならわたしは信じる。だってあの子は、誰よりもこの世界に通じていて、誰よりも賢い子だから」
「わからない。ぼくにはあなたたちのことがわかりません。ぼくは恒河沙じゃないんです。あなたたちとは違う、ただのつまらない人間なんです」
「この世につまらない人間なんていない。つまらない“自分”がいるだけだよ」
氷織も足を止めない。恒河沙のふたりは――止まらない。
「わたしたちのことを理解する必要なんてない。いっしょにいるのに、わかりあう必要なんてない。ただ心地よければ、いっしょにいる理由なんてそれだけで十分。どう。わたしたちといっしょにいて、辛い?」
「辛いです」
忌憚なく須貝は答えた。
「警察手帳を取り上げられ、重たいスーツケースを運ばされて、不愉快な人物が蔓延する孤島の別荘に連れてこられた。わけのわからない殺人事件が起きて、さらにぼくは腕の骨を折られた。辛い。辛くて仕方がない。だけど。あぁクソ。どうして。わけがわからない。あなた達といっしょにいるのは、そんなにイヤじゃない」
本心だった。
そんな想いが、須貝の心の底に確かな実在をもって鎮座していた。
得体のしれない不可思議な感情。恒河沙の姓をもつ二人の探偵に対する奇怪な感情。
それは決して心地よいものではない。恒河沙は禍と不可分な存在だ。犬養の言葉がいまになってよくわかる。こんな無茶苦茶な人間といっしょにいては、凡にして凡なる凡人の精神はたまったものではない。だから辛い。恒河沙と共にいるのは辛い。だがどういうことだ。艱難辛苦の叫びのとなりに、輝きを放つ丸く小さな宝石が転がっている。わけがわからない。矛盾に満ちた空間だ。二律背反の感情が席を連ねて自分の中に鎮座している。なんなんだ。恒河沙の兄妹。彼らはいったい、何者なのだ。
「そう」
氷織は小雨のような声でつぶやいた。
「それなら、どうする? あなたはどうするの」
氷織の背中が遠ざかる。LAWの姿はもう見えない。
須貝の心は混沌と歪んでいた。為すべきことは何だ。正しい判断とはなんだ。わからない。何もかもがわからない。
ただひとつ、そんな混沌の中で、この両手の中でしっかりと掴んだ何かがある。輪郭に触れる何かがある。
それだけだ。頼りになるのはそれだけだ。暗闇の中ではその正体は見えない。触れることしかできない。ただ、それはそこにある。たしかにある。その正体を知るためには、光だ。光が要る。光はどこだ。混沌を照らす光はどこにある。
光をもとめて、須貝は歩き出した。
5
遊戯室のうす暗い証明のなか、岩石のような表情の鳥羽がしきりにタバコをふかしていた。室内の空気は重苦しい。ビリヤード台もミニバーも、今日ばかりは場の空気を盛り上げてくれることはなさそうだ。
彰はマージャン台の椅子に力なく座っていた。服を与えられたのか、ティーシャツとチノパンというラフな格好だ。右腕をおさえ、身体は小刻みに痙攣している。顔を伏せているので表情は読み取れない。
彰の横に立つ神崎は、ビリヤードのキューを手に例の不気味な笑みを浮かべていた。
「どうも。みっともないところをお見せしたようで」
鳥羽はタバコを灰皿に押しつけながら氷織たち三人にいった。灰皿にはまだフィルターの長い吸い殻が幾本も横たわっていた。
「何かお飲みになりますか。建山にお申し付けください」
「結構です。話を聞くだけでお腹いっぱいになりそうで」
氷織はしっかりとした足取りで彰に近づく。神崎がその前に立ちはだかったが、氷織は手にしていた小型の救急箱を突きだした。
「治療をします。どいてください」
「自業自得ですよ。愛さまに手を出すなんて、とんでもない男です」
「聖人も罪人も関係ない。わたしの前でけが人の存在は許しません。どいてください」
氷織は手際よく処置を行った。途中、神崎の方を見て『本当にお上手だこと』と皮肉を口にした。須貝の時と同じく、治るように折れているらしい。
処置が終わった。三角巾で腕を吊った彰は、小動物のように怯えた視線を足元に泳がせている。鳥羽がウィスキーグラスを片手に立ち上がり、『さて』と口を開いた。
「探偵さんたちがこのケダモノから愛を救ってくださったとか。本当にありがとうございます」
「ケダモノ。その通りですね。腹違いとはいえ、彰さんと愛さんは兄妹でしょう」
須貝は軽蔑の視線を彰に向けた。
「違う。誤解なんです。お父さん、聞いてください。おれは……」
「黙れ。お前にお父さんなどと呼ばれる筋合いはない。勘当だ。二度と鳥羽を名乗るな。九州の片田舎に帰るがいいわ」
「九州?」
氷織は眉を潜めていった。LAWは話に興味がないのか、ミニバーに入ってカルピスをつくっている。
「社長。探偵さまたちが困っていらっしゃいます。ご説明なさったほうがよろしいかと」
「……そうだな」
鳥羽は彰に背を向けてタバコに火をつけた。背中越しに紫煙が宙を舞う。
「疑問に思った事はございませんか。どうしてわたしが愛にそれほど固執するのか。どうして二十年前のほんの短期間に付き合いがあった女性との間にできた子どもにこれほどまでに執着するのか。愛が生きているだけでは駄目だ。愛の生活を支援するだけでも駄目だ。わたしは愛を正式に鳥羽家の人間として迎えいれたい。わたしの唯一の子どもとして、わたしの跡を継がせたいのです」
「唯一のって――」
須貝が息をのんだ。
「彰さんはあなたの子どもじゃ……」
「それは養子です。三十年以上も前に、遠い親戚から勉強のできる次男坊を引きとってきただけです」
彰は背中を曲げてうなだれていた。治療のおかげで痛みは引いたのか痙攣は収まっている。
「わたしはいわゆる男性不妊というやつでしてね。精液内の精子量が極端に少ない。不妊治療にも励んだが、結局妻との間に子どもはできなかった」
「造精機能障害ですね。不妊治療というと女性のものをイメージするのが一般的ですが、男性のものも決して少なくはありません」
数か月前まで医療従事者であった氷織が口をはさむ。鳥羽はタバコをくわえたままうなずいた。
「四十路が近づいてきたころになると、わたしはもう不妊治療に諦観の想いを抱くようになっていた。同い年の妻も年齢的に子どもを産むのが難しくなってきた。血にこだわっていてはどうにもならない。わたしは鳥羽の名を継ぐにふさわしい頭脳明晰な子どもを養子としてもらうことにしました。それが、そこにいる大馬鹿者です」
鳥羽は言葉で彰を突き刺した。
「たしかに子どものころは優秀だった。名門校に通い、教師や周りの大人からの評価も高かった。だが齢をとることに化けの皮が剥がれ始めた。高校生になってから成績が落ち始め、大学受験には何度も浪人した。妥協してそこそこの大学に入ってみると、今度は酒と女遊びに溺れて学業を疎かにし始めた。わたしの会社に就職させてみたものの、ろくな仕事もできず、今はお飾りの専務なんぞをやっているわけだ。一年前、愛を名古屋で見つけた時は狂喜したよ。これで彰を捨てられる。自分の血を分けた本物の子どもに会社を継がせられる。だが愛は病気を患っていた。多重人格! なんたること。精神病患者に会社の仕事を任せるわけにはいかない。ましてや、このわたしに精神病患者の子どもがいることを世間に知られてはたまったものではない。だからわたしは愛をこの別荘に連れてきた。会社の中でも信用のおける人間にしか愛のことを話さなかった。だが人の口に戸は立てられない。彰は愛の存在に気づき、この別荘へやってきたわけです」
「彰さんは愛さんの存在を知り焦ったでしょうね」
氷織はあきれ果てた表情でいった。
「愛さんは自身の安寧の座を脅かす侵略者です。聞けばその侵略者は精神病を患っているという。敵情視察のつもりで彰さんはこの別荘にやってきたわけですね」
「だけど敵情視察は視察に終わらなかった」
須貝は苦々しい感情とともにいった。
「あなたは愛さんを傷つけるつもりだった。怯えさせ、心に傷をつけることで、自ら望んで鳥羽家を去るよう仕向けるつもりだった」
「違うよ。大ハズレだ」
顔を伏せたまま彰がいった。ゆっくりと顔をあげ、ふて腐れた様子をみせる。
「愛をビビらせて名古屋に帰りたいといわせたところで、親父が愛を手放すと思うか? まさか。この親父がそんなこと許すわけないだろ。おれはな、あの女に俺の子どもを産ませようとしたんだよ」
場の空気が凍りついた。その空気の中、鳥羽はウィスキーをひと口であおり、神崎は相変わらず悪趣味な笑顔を浮かべている。
「愛の存在を知りおれが焦ったことは事実だ。親父が仕事のできない俺を快く思っていないことはわかっていた。だが今さら俺を鳥羽家から追い出すこともできない。そんなことをして、誰に後を継がせる。また親戚からガキを連れてくるのか? まさか。優秀でない子どもは追い出されるという前科をつくった以上、すき好んで子どもをやる親がいるはずないだろう。おれの将来は絶対だった。その絶対を壊し得る存在が現れた。一昨日親父はおれにいった。会社は愛に継がせる。おれは後継者の座から転がり落ちたんだ」
『馬鹿げている。そんな話ってあるもんか!』
『おれは納得していない。納得……できるはずがない!』
須貝は一昨日耳にした彰の叫び声を思い出した。愛について追及された鳥羽は、この時愛を自身の後継者に選んだことを彰に伝えたのだ。そうえいば鳥羽は須貝に彰と何の話をしていたのかと問われ、『会社の人事のことで少しね』と答えた。人事。つまりは、次期社長の件について。
「何とかして愛を排除せねばならない。だけど愛を見ておれは考えを変えた。愛はいい女だった。そうだ。愛が鳥羽の名を継ぐというのなら、おれは愛を利用して絶対の存在になればいい。父親だ。おれは愛の子どもの父親になるんだ。親父にとって愛は絶対だった。ならば親父にとって絶対の存在である愛のその子どもの父親になれば、おれもまた絶対の存在になれるんだ」
「だから、優里さんを邪険にし始めたんですね」
氷織は首をふって嫌悪の感情をあらわにした。
「昨日、あなたは優里さんを部屋から追い出しましたね。愛さんとの新しい生活のためには、優里さんと離婚する必要がある。優里さんはあなたの絶対の未来にとって邪魔な存在でしかなかった。嫌われたところで、むしろ望むところというわけだ」
「待ってください。理解できません。どうして彰さんが愛さんに子どもを産ませたら絶対の存在になれるんですか」
須貝が頭を抱えた。
「そんなこと鳥羽さんが許すはずがないじゃないですか。鳥羽さんは彰さんにいい印象を抱いていない。仮に子どもができたとしても、彰さんを父親として認めず鳥羽家から追い出すことには違いないでしょう」
「いや。親父はおれを鳥羽家から追い出さないよ」
彰は鼻を鳴らしながら鳥羽を見つめた。
「おれが愛の子どもの“父親”となった時点で、親父はおれを追い出せなくなる。何故なら、それは“父親”が“子ども”と離れることを認めることになるからだ。親父は長年自分の子どもを欲した。自分の子どもが、自分の知らないところで育っていたことにショックを受けた。父親を子どもから引き離すことで、自分の経験した悲劇と全く同じ図式の悲劇を自らが起こすことになる。父親を引き離した瞬間、あんたは愛を自分の子どもとして迎えいれる資格がなくなるんだよ」
「そんな倒錯した論理が認められるはずが……」
「認めているみたいよ」
氷織は須貝の肩をたたいた。
みると、鳥羽はグラスをもつ鳥羽の手が震えている。顔中に脂汗を浮かせ、荒い鼻呼吸をくり返していた。
「氏より育ちってやつね。血は繋がっていなくてもこの親子はよく似ているわ。それで鳥羽さん。この男をどうするおつもりですか」
「本当なら殺してやりたいところだがな。とりあえず、明日の昼にヘリコプターが来るまでこの部屋にいろ。わたしの許可がない限り一歩も外に出るな。こんなケダモノを愛に近づかせるわけにはいかないからな」
一同は彰を残して遊戯室を出た。居間に落ちつくと、廊下から優里が現れた。
「二ノ宮さんたちから話を聞きました。夫は……あの男は本当に?」
一同のなかで比較的冷静な様子の氷織が、優里に室内で彰が口にしたことを伝えた。それを聞いて優里は落ち込むではなく、むしろぱっと顔を明るくしてみせた。
「つまり、夫は不貞を働こうとしたわけですね。最低。最低な男。お義父さん。わたし、あの男と別れます。愛さんに色目を使って、わたしを邪険にした時点でおかしいと思ったんです」
「好きにするといい。彰とわたしはもう他人だ。他人が誰と離婚しようが、知ったことじゃない」
鳥羽は建山と神崎を従えて自室に向かった。優里は陽気に鼻歌を奏でながら、遊戯室のドアを見つめている。
「とりあえず、愛さんの様子を見にいきましょうか」
氷織が提案する。LAWと須貝はうなずいた。
客室棟三階。愛の部屋のドアをノックすると、ドアが静かに開き使用人の三崎が姿を見せた。
「お静かに。いまは落ち着いて、眠っていらっしゃいます」
室内をのぞくと、なるほど愛はベッドに横になりすやすやと眠っていた。愛の横には二ノ宮が付いており、憂いを帯びた表情で愛の寝顔を見つめている。
「暴れたりしなかったんですか」
須貝が訊ねる。
「“暴風雨”ですよね。わたしたちも始めて会いました。噂には聞いていましたが、特に危険な感じはしませんでした。わたしたちが『部屋から出ないでくれ』と伝えると、黙ってベッドに腰を下ろして、そのうち眠り始めました」
「何か話はせんかったの?」
LAWが訊ねる。三崎も二ノ宮も首をふった。
「『のどが渇いてませんか』とか、簡単な言葉ならおかけしましたけど、全部無視されました」
「なるほどなぁ。あ、そうそう。彰はんは遊戯室に閉じ込められたさかいに、愛さんが起きたら安心するよー伝えっとて」
三人は部屋を出て氷織たちの部屋にもどった。
「それにしてもLAWさん。どうして彰さんが愛さんの部屋にいるって気づいたのですか」
愛の部屋で起きた凶事に最初に気づいたのはLAWだった。客室棟一階から三階に向かって階段を駆け上ったのは、LAWが最初だった。
「それとあの時、何かをいいましたよね」
「“鳥”やね」
LAWは遊戯室のミニバーからくすねてきたフルーツカルピスの瓶を抱きしめながらいった。
「 “鳥”って何ですか。バードの鳥ですか」
「そう。チキンの鳥や。鳥がな、愛さんの危機を知らせてくれたんや」
わけがわからない。須貝は助け舟を求める視線を氷織に向けた。しかし氷織は須貝の疑問に追従するつもりはないらしく、平然とした様子で椅子に座っていた。
「形は最悪やったけど。結果として愛さんの中にいる全員と話ができたわけやね。全員と言葉を交わして、わかってきたことがある。同じくらいわからんこともあるけど」
「ぼくはわからないことだらけですよ」
突然、天井の照明がぱちりと音を立てて消えた。窓の外から太陽の光が注ぎこむ室内はほんの少しうす暗くなった。
「停電?」
氷織は照明のスイッチを押してみたが、反応はない。
「またですか。二ノ宮さんは大丈夫かな」
「また?」
「二ノ宮はん?」
「「なんのこと?」」と姉妹がそろって須貝に詰め寄る。
「て、停電のことですよ。今朝も停電があったんです」
須貝は早朝に起きた停電のことをふたりに話した。
「二ノ宮はんは暗闇が苦手ね。ふーん。かわいらしいなぁ……うん?」
LAWはピクリとほほをひくつかせた。
「須貝はんが拾った眼鏡を受けとらなかったの?」
「いえ、電気がついたらすぐに受け取ってくれましたよ」
「いやそうやなくて。ん? あれ。まさか……」
LAWはフルーツカルピスの瓶をぺちぺちと叩きながら、何か考えてごとを始めた様子だった。
「あかん。暗なったら眠なった。おやすみ」
LAWはフルーツカルピスの瓶を抱きしめたままベッドの上に倒れこんだ。数秒とせずに心地よい寝息が聞こえてくる。ときおりまぶたがひくひくと動いていた。
電力が復旧したのか天井の照明が点いた。室内は明るくなったが、LAWは起きる気配はみせない。須貝は一度ため息をつくと、氷織とアイコンタクトを交わしてから部屋を出た。
6
「このメンバーで夕食を囲むのはこれで最後になるわけですなぁ。いやぁ、寂しくなる」
スープの中の豆をつまみにウィスキーばかりを口にする鳥羽は、酩酊した視線を左右に動かした。
客人たる氷織は何も応えない。無視を決め込む氷織に続いて、須貝は言葉をのどに詰まらせた。LAWはといえば、一心不乱にスペアリブに齧りついている。鳥羽の声など馬耳東風といったところだ。
だが鳥羽は三人の態度に腹をたてる様子はない。一人で笑いながらハイペースでウィスキーを飲んでいる。トマトのように顔は赤く、閉じかけた両目は波をうっている。
食堂に彰の姿はない。彰は今もまだ遊戯室に幽閉されており、夕食として鳥羽はロールパンを二個遊戯室の中に放りこんでおいたらしい。
愛と神崎も食堂にはいなかった。愛はまだ部屋で眠っている。神崎は愛の警護のために愛の部屋にいるとのことだった。
「ところで、今夜も定例報告はするのかな」
デザートのシャーベットをスプーンで崩しながら鳥羽が訊ねる。
「もちろんです。毎晩九時に行うと約束しましたから。もしわたしからの連絡がなければ、先方は何かあったかと訝しむはずです」
「そりゃいかん。そいつはいかんなぁ。それじゃあ今夜も、昨日と同じくメール送ってもらおうか」
「あ、今日はうちらも参加するから」
三杯目のシャーベットを食べ終えたLAWが横に座る須貝の左腕を持ち上げた。
「え、ぼくもですか?」
「うん。昨日はひぃねえからメールの内容を聞いたけど、やっぱちゃんとスマホの画面越しに見ときたいと思ってな。ええやろ。鳥羽はん」
「断る理由はありませんな」
午後八時三十分に三人は鳥羽の部屋を訪れた。
鳥羽はソファーに横たわった姿勢のままウィスキーグラスを傾けている。シャツの襟周りはこぼしたウィスキーで黒く濡れている。
「こちらを」
氷織は昨夜と同じく、今江に送るメールの文面を記した紙を建山に渡した。建山はそれを鳥羽に渡したが、泥酔した鳥羽は『読めん』とつばを飛ばした。
「送っても問題ないかどうか、お前が判断しろ」
「大丈夫そうです。スマートフォンに打ち込みますね」
午後九時数分前の時刻に、建山は氷織のスマートフォンから今江宛にメールを送った。
「あの、ぼくはまだ読んでないんですが。読ませていただいてもいいですか」
須貝がおずおずと折れていない方の手をあげる。
氷織がメールの原稿を書いたのは、暴風雨と彰の騒動のあと、須貝が氷織たちの部屋から自室に戻ってからのことだった。須貝はまだ氷織が今江に送ろうと意図したメッセージの内容を把握していない。LAWは食事の前に一度確認したとのことだった。
「どうぞ」
特に変わったところのないメールだと須貝は思った。端的に今日別荘で起きたことを報告している。彰の強姦未遂については載っていないが、メールに載せようとしたところでどうせ削除されるに決まっているので、初めから書かなかったのだろう。
十五分後。今江からの返信が届いた。
返信を読む建山の表情が不穏な色に染まった。頼りなく泳ぐ視線が鳥羽の方へ向けられる。しかし当の鳥羽はソファーに横になったままいびきをかいていた。
仕方なしに建山はスマートフォンを三人に向けて見せた。今江からのメールを読み、三人は一様に表情を曇らせた。
「そんな。氷織さん。こんなことって……」
「……予想していなかったわけじゃない。残念なことだけど、DIDの患者にとっては決して珍しくない話よ」
「頻度の多寡なんて悲劇には関係あらへん」
LAWはスマートフォンから離れると、耳たぶをいじりながら部屋の隅をジッと見つめた。
「もうよろしいですね」
建山は奥の寝室に入り、スマートフォンを金庫の中に閉まった。書斎に戻ってくると、咳ばらいをしてから三人にいった。
「それで、実際のところどうですか。誰が都先生を殺したのかはわかりましたか」
「わかった」
けろりとした様子でLAWが応えた。
「「え」」
吃驚の声が重なった。須貝と建山は声色と同じく、表情もまたそろって吃驚としている。氷織はといえば、特に驚いた様子もなく妹を見つめている。
「今のメールを読んで確信したわ。犯人はわかった。間違いないわ」
「だ、誰です。犯人は誰なのですか」
「説明するのは難しいなぁ。今夜ひと晩、じっくりと頭の中で整理して、そうやねぇ、明日の朝九時に、居間で皆さんのお耳を拝借といきましょうか」
からからと笑いながらLAWは鳥羽の部屋を出た。氷織と須貝はその後を追う。
「LAWさん。本当に犯人がわかったんですか」
「ん。たぶんやけどね。間違っとらんと思うよ」
信用していないわけではないが信じ難い。須貝は不安そうな表情で氷織を見たが、氷織は無表情のままだった。
LAWはくるりと振り返り、須貝に向けて小声でいった。
「須貝。ひとつ約束してほしいんやけど。明日は、うちとひぃ姉の指示には絶対に従って。うちらが“お手”といったら右手を出してもらうし、“おかわり”といったら左手を出してもらう」
「犬にできることならぼくにもできますよ」
「須貝くん。犬って、どうしてリードを付けられていると思う」
氷織が訊ねる。
「逃げ出さないためでしょう」
「正確には飼い主の制御を受けるため。好き勝手に走り回った犬は、トラックに跳ねられて死ぬか、保健所に連れていかれて処分される。命の危機から遠ざけるために飼い主はリードで犬を制御するの。わたしからもお願い。明日は、絶対にわたしとLAWの指示に従って」
氷織は首筋に手を当てて冷たい息を吐いた。
「でないと、本当に死ぬかもしれない」
8
恒河沙の姉妹は一台のベッドの上に二人で座っている。風呂上りの氷織の髪をLAWがドライヤーで乾かしていた。
「説明されてやっとわかった。まさか犯人は……とんでもない話ね」
ドライヤーの音に負けないよう氷織は声のヴォリュームを上げていた。
「動いたらあかん。余計な熱を髪に与えとうない。正面を向いて、大仏様みたいにピタッと止まって」
「はいはい。それにしても、わたしの思った通りになったわね」
「ん?」
「最初に建山さんから話を聞いた時点でね、これはLAW向きの依頼だって思ったの。まさか殺人事件が起きるとは思いもしなかったけど」
「あんまり嬉しくないなー。うちの推理なんか、ひぃねぇに比べたら地味なもんやって」
「謙遜」
「いや、本気。うちは精神病のことは何も知らんからな。ひぃねぇがDIDのことを説明してくれへんかったら、真相はわからんかった。絶対に」
「知識量だけは自信があるの」
氷織は耳たぶに軽くふれた。LAWが再び『動いたらあかん』と声を張りあげる。
「ひとにはそれぞれ、できることとできないことがある。うちは勉強は嫌いやし、医療の話なんかちんぷんかんぷんや。だからひぃねぇがいてくれてよかった。うちができないことはひぃねぇがやってくれる。その代わりに、ひぃねぇができないことはうちがやったる。明日で終わりや。都センセを殺した犯人を告発して、とっとと東京に帰ろ」




