幕間G
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二月二十一日 日曜日。
目覚まし時計が鳴る五分前に目を覚ました今江は、ふとんの中で横たわったまま思案を巡らせていた。
恒河沙一行が駿河湾に浮かぶ孤島の別荘に赴いて今日で三日目。その間今江は別荘にいるという重要人物“九重愛”の情報を求めて本土を飛び回っていた。
初日の一昨日は名古屋へ行き、九重愛の幼少期と二十歳前後の成年期について調べてきた。
九重愛は七歳の時に名古屋から東京へ引っ越した。そこで二日目は東京に戻り、彼女の高校時代と、再び名古屋へ戻るまでの生活について調べた。
恒河沙一行は明日の午後には依頼を終えて東京へと帰ってくる。夜九時の定期連絡も今日で最後。九重愛の遍歴をたどる今江の調査も今日で終わりを迎えるというわけだ。
今江は当初から三日目は九重愛の小中学校時代について調べようと決めていたが、ここにいたってどうしたものかと思い悩んでいた。
アプローチの方法が思いつかないのだ。
九重愛が生まれ育った名古屋市内については、運よく幼少期の彼女を知る人々に出会うことができた。だが九重愛が東京で住んでいたアパートは繁華街にあり、名古屋の教会のような地域コミュニティには臨めないだろう。そのアパートも半年前に取り壊され今は駐車場になっているとのことが桂副総監から送られてきた報告書に記載されていた。アパートの住民を訊ねることも叶わない。
では、同じく報告書に記載されている小・中学校に足を運んでみたらどうか。それもどうだろう。九重愛は二十一歳だ。彼女の中学時代とは五年以上も過去のことであり、現在の同中学校に“九重愛”を知る者がいるとは思えない。たしか東京都の公立学校の教師は五年前後を目安に他校への人事異動を命じられるはずだ。現在の同中学校教師はほとんど九重愛のことを知らないだろう。中学校教師が知らないとなると、小学校教師も右に同じ。現役生徒にいたっては、赤の他人もいいところだ。
今江は検索サイトで九重愛が通っていた中学校の名前を調べてみた。藁にもすがる思いでやってみただけだ。
「あ」
藁は手元にスッと入ってきた。しかもそれは藁ではなかった。確かな密度をもち水に浮く木製の足場とでも呼ぶべきか。
今江は布団から飛びだし、ほんの数分後には大通りを走るタクシーに向かって手を挙げていた。
今江はとある豪邸の前でタクシーから降りた。
半地下の車庫がついた四階建ての豪邸。玄関ドアへと続く数段の階段には朝陽を照らして輝く白いタイルが張り巡らされていた。
インターフォンを押し、しばし待つ。今江はドアスコープの向こうから視線を感じた。先方は怪しんでいる。それもそのはず。朝六時半の予期せぬ来客など、碌なものでないに決まっている。
ドアの向こうで小さな悲鳴が聞こえた。
「思い出してくれたかしら」
今江が笑う。ドアが開く様子はない。今江は焦ることなくドアから離れる。白いタイルの階段を降りて、シャッターに閉ざされた半地下の車庫の前で仁王立ちに構える。カタカタと静かな音を立てながらシャッターが上がっていく。車庫の中には一台の白いハイッブリドカーがエンジンをふかして外に出ようとしていた。運転席の中年男性が後光に照らされた今江の姿を見て再び小さな悲鳴をあげる。
「朝早くからごめんなさいね」
今江はコートのポケットに手をいれたままいった。
「ちょっと、聞きたいことがあるんだけど」
男の名前は英田和敏。東京都西部で確固たる基盤をもつ政治家一族英田家のひとりである。
三年前、英田はコンビニのトイレで脱法ドラッグを使用したところ、偶然コンビニに居合わせた今江に取り押さえられ薬事法違反で逮捕された。
当時の英田は現職の都議会議員であり、逮捕後すぐに『一身上の都合』で議員職を辞職した。現在は執行猶予期間中であり、実家でひっそりと無職生活を送っていた。
「あんた白髪増えた?」
英田家のキッチンでホットコーヒーを嗜みながら今江は訊ねた。英田は借りてきた猫のように縮こまり、その横で大樽のような体型の家政婦が今江をにらみつけていた。
「け、刑事さん。こんな朝早くから何の用ですか。非常識ですよ」
「警察に常識を期待しないで。それと政治家が常識を語らないで」
「いまのぼくは無職です」
「ほとぼりが冷めたらまた政治活動に勤しむつもりでしょ。あんたは骨の髄まで政治家よ。褒めてるわけじゃないからね」
今江はひと口でホットコーヒーを飲み干した。
「あんた、久慈田中学の卒業生なんだってね」
今江は布団の中でみたインターネットのページを思い浮かべていた。久慈田中学校出身の有名人一覧。その中に英田和敏の名前があったのだ。
「それが何か」
「政治家ってのはガキの頃から金のかかる私立に通っているものだと思っていたけど、あんたは地元の公立校に通っていたのね」
「家の方針でしてね。中学までは公立校に通わせて、地元住民に親しみを覚えてもらうというわけです」
「地元に根付いた政治家一族というわけ。そんなあんたにお願いがあるんだけど。二〇一五年三月に久慈田中学を卒業した三十四期生を誰か紹介してちょうだい」
「それをお伝えしたら帰ってもらえますか」
「それを教えてもらえたら帰らせていただきますとも」
「……少々お待ちください。カネさん。電話帳を。早くしてよ」
英田は樽のような体型の家政婦と一緒にキッチンを出た。今江はコーヒーポットから勝手におかわりを注ぎ、冷蔵庫から高級そうな牛乳を取りだしてカフェオレをつくった。
今江は三年経っても英田が自身に対してあそこまで萎縮した態度をみせるとは思わなかった。三年前の夏。都内の某コンビニのトイレから出てきた挙動不審な男。それが英田和敏だった。英田は肩を上下させ、飲料売り場の女子高生を舐めるような眼で見つめていた。今江が肩を叩くと男は過剰に反応して暴れ出し、今江は応戦した。商品棚はスナック菓子やカップラーメンを床にぶちまけ、コピー機の蓋は外れて宙を舞った。最後は英田をアイスケースに頭から突っ込ませることで今江は彼を制圧した。
もう三年も前の話ではないか。いい歳をした大人が、あの程度のことでまだ刑事一人に対して畏怖の念を抱くはずがない。もしかしたらまたクスリをキメているのかもしれないと今江は勘繰った。
英田が紹介してくれたのは、都内の名門校に通う男子大学生だった。
「前科者とはあまり関わりたくないんですけどね」
中内田俊輔は寝癖を抑えながら今江にいった。ワンルームの室内で座卓をはさんで二人は向かい合っている。彼もまた、英田と同じく政治家一族のひとりとのことだった。
「あまりにも鬼気迫る声色だったので、つい引き受けてしまいましたよ。それで、こんな朝早くからおまわりさんが何の御用です? ニチアサが始まるまでには帰ってくださいよ」
「あなた、久慈田中学出身でしょ。同級生で九重愛って覚えてる?」
「九重?」
俊輔は立ち上がり、クローゼットから卒業アルバムを取りだした。
「よくアルバムなんて持ってるわね。普通実家に置いてこない?」
「人脈に縛られて生きるのが政治家です。人脈の宝庫たる卒アルを手離すわけがないでしょう。あぁ、思い出した。九重さん。あの事件の」
開いたアルバムを手に俊輔はからからと笑う。
「事件?」
「ご存じない? へぇ」
開かれたアルバムが座卓の上に置かれる。二ページをまたいで三年一組の生徒の顔写真が並んでいる。その中に九重愛のものもあった。長く伸びた黒い髪。体温を感じられない冷たい表情。他の生徒はカメラを前に満面の笑みを浮かべているが、愛はただ一人微笑みの断片さえも見せずに佇んでいた。
「たしか二年生の時だったかなぁ。九重さんが同級生と喧嘩をしたんです。口喧嘩じゃありませんよ、好戦的かつ物理的な接触を含む喧嘩。それで、相手の女の子が指を切り落としちゃったんです」
「物騒だこと」
「幸いなことに、搬送先の病院で手術をうけて元に戻ったそうです。もともと友達もいなくて浮いた存在だった九重さんですけど、この件を境に誰も彼女に関わらなくなりましたよ」
「同じクラスだった?」
「いいえ。話したこともありません。えらい美人がいるってことは認識していましたけど、美貌を越える不気味さも兼ね備えていたのでね。触らぬ神に何とやら」
「事件のことについて詳しく聞きたいんだけど」
「詳しくっていわれても。実際に見たわけじゃないし、喧嘩の相手もよく知らない女子でしたから。正直、九重さんについてご説明できることはもうありませんよ」
「それなら、その喧嘩の相手を教えて。直接会いに行ってみる」
「ちょっと待ってください」
俊輔はスマートフォンを操作し始めた。メッセンジャーアプリで連絡を取っているらしく、頻繁に通知音が鳴る。
「昔の友だちが教えてくれました」
スマートフォンに視線を落としたまま俊輔はいう。
「喧嘩の相手は柿原麗華。覚えてないな。柿原はだいぶ前に北海道に引っ越したとかで連絡先を調べるのは難しそうですね。あ、でも柿原麗華の友だちなら連絡がつくそうですよ」
「その子も同級生なの」
「都内の大学に通っているそうです。ん? へぇ、そりゃちょうどいいじゃないか」
俊輔は顔をあげた。
「『その子、九重さんと柿原の喧嘩のことを知っているかな』て聞いてみたら、なんと喧嘩の時にその場に居合わせたそうです。しかも、九重さんとは小学校も同じだったそうで」
「最高。何とかしてその子に会わせてちょうだい」
三時間後。
今江は白金高輪駅のそばにある個人経営の喫茶店にいた。日曜の昼間だというのに客足は少ない。カウンターに座ったエプロン姿のマスターはものすごい形相で競馬新聞を睨みつけている。
「お昼はまだでしょ? お腹空いていたら好きなものを注文してね」
メニューと笑顔を差しだしながら今江はいった。テーブルを挟んで対面に座る女性は、訝しそうな表情でメニューを受けとった。
女性の名前は三宅千尋。髪色は金色と派手に染めているが、表情は大人しく悄然とした様子だ。
「ちょっといま、九重愛さんについて調べていてね。別になにか罪を犯したとかいうわけじゃないんだけど」
今江は自身の名刺をテーブルに滑らした。この手の相手は警察手帳を見せなくても名刺だけで今江の身分を信用してくれる。千尋は特に疑う様子もなく名刺を受けとった。名刺などいくらでも偽造できるのにと思いながらも、今江は彼女の従順さに感謝した。
「でも、わたし。九重さんと仲が良かったわけじゃ……」
「あなたのお友達の柿原麗華さんと九重さんが喧嘩したことを覚えている?」
千尋は短い悲鳴をあげた。
「中学二年生の時だったかしら。あなたは喧嘩の場に居合わせたって聞いたんだけど、その時のことを教えてほしい。まず、どうして喧嘩になったの」
「レイには好きな先輩がいたんです。その先輩が九重さんに告白したんですけど、九重さんはその先輩をふって、それに激昂したレイが体育館の裏に九重さんを呼びだしたんです。話をするだけっていってたのに、レイってば急にハサミを取りだして……あの、指のこと聞いてます?」
「聞いてる。得物がハサミだとは聞いてなかったけど」
ホットコーヒーに口をつけながら今江は答えた。
「家庭科の授業で使う裁ちばさみだったんです。レイがハサミをもって九重さんに襲いかかって……でも九重さんはすごかった。あんなに俊敏に動くとは思わなかった。ボクサーみたいにハサミを避けて、レイの顔を思いっきり殴ったんです。九重さんって美人でしょ? レイもかなり綺麗な顔をしていたんだけど九重さんには及ばないというか……敵愾心を抱いていた九重さんに、よりにもよって顔を殴られたことに逆上したのか、落ちていたハサミを拾ったら――自分の指を切っちゃったんです。もうケンカどころじゃなくなって、レイはすぐに病院に運ばれました」
今江の脳裏に、一昨日の夜氷織から聞いた人格の名前が浮かんだ。暴風雨。九重愛が有する暴力的な人格。柿原麗華を返り討ちにしたのは暴風雨に違いない。
暴風雨の凶暴性は本物だ。今江は千尋の話を聞いて確信した。氷織たちは昨夜の時点ではまだ暴風雨には会っていないようだった。今夜はメールでこの事件のことを伝えねばならない。
「その時とは別に、九重さんが凶暴になったことはない? 人づてに聞いた話でも構わない」
「暴れまわったり……という話は聞いたことがありません」
視線が泳いだ。声が濁った。目じりがかすかに波をうった。
「“暴れまわったり”という話は聞いたことはない。だけど、“他の話”なら聞いたことがあるのね」
「……はい。あの、わたし。九重さんとは同じ小学校に通っていたんです。小学一年生の時に九重さんが引っ越してきて、それから小学三年生までは同じクラスでした。それで、あの。小学三年生の夏からですね、九重さん、時々……おかしくなることがあったんです」




