幕間F
1
老夫婦が二人だけで経営するその居酒屋は、国道から折れたせまい路地の先に建つ商業ビルの一階に店を構えていた。
目を覚ましたばかりの夜の喧騒に背を向けて、今江はひとり年季の入った紺色の暖簾をくぐった。
割烹着を身につけた女将は今江の表情を見ただけで、奥の個室に通してくれた。コートをあずけながら今江は無表情の裏で驚嘆をかみ殺していた。最後にこの店を訪れたのは十年以上も前のことだ。それなのに女将は今江のことを覚えていた。かつての常連客のもつ表情の意味をいまも把握していた。
わずか四畳の個室で今江はウーロン茶でのどを濡らした。十五分ほど経ったころ、障子戸の向こうから靴音が聞こえてきた。
「どうもぉ。お久しぶりでぇす」
砂糖菓子のような声を発しながら、若い女性が入ってきた。今江と女性は二か月前に医大病院で起きた事件の捜査で出会ったばかりの間柄だった。
「隠れ家風っていうんですかぁ。こんないいお店をよく知ってますねぇ」
宇治家ちえは、床の間に飾られた掛け軸を見つめている。掛け軸には赤富士と雲海が描かれていた。
「ひとには聞かせられない話をする時によく使っていたの。この個室は離れた場所にあるし、通路は靴音が響くから誰かが近づいてきたらすぐわかる。さらに裏口がそばにあるから逃げ出すのも簡単。密談にはもってこいの場所ってわけ」
「密談……デートに使っていたんですかかぁ」
今江はウーロン茶を盛大に噴き出した。
「仕事! 仕事にきまってるでしょ! 馬鹿なことをいってないでとっとと座りなさい」
けらけらと笑う宇治家の正体は、都内にある山吹医科大学附属病院に勤めていた看護師である。宇治家は二か月前にこの大学病院で起きた事件の捜査の際、事件解決につながる情報を警察に提供した。その情報は医療業界に身を置く宇治家だからこそ入手できた情報であり、一日に満たない時間でその情報を仕入れてきたことから今江は彼女の調査能力を高く評価していた。だから今回も彼女に調査を依頼したのだ。
「あなた、山吹を辞めたんだって?」
今江が訊ねる。宇治家はスマートフォンを少しだけ操作してから顔をあげた。
「一か月前に退職しましたぁ。あの事件が起きてから病院への風当たりがひどいんですよぉ。山吹で働いているってだけで渋い顔をする人がいるし、一方的に『絶縁だ!』て怒鳴りつけてくる友達もいました。そういうひとの相手をするのに疲れちゃって。いまは都内の小さな個人病院で働いてます」
「関先生たちは元気?」
「元気ですよぉ。関先生ってば、お歳に似合わない張り切りぷりで病院改革に努めちゃって。関先生がいれば大丈夫。何年かかるかわからないけど、山吹は再建しますよ。あ、そうしたらわたし山吹にもう一回雇ってもらおうかなぁ」
今江は二か月前の事件のことを想起した。わずか二月のことなのに遥か昔に感じる。
障子戸が開き、女将がビールと先付をもってきた。横長の丸い皿に小鉢が二つ並んでいる。控えめな量の白ゴマがのった金ぴらごぼうと、ひと口で食べきれる手綱寿司。
「それで、どうだった」
今江は訊ねた。
宇治家は男性には絶対に見せないだろう下品な笑い声をあげた。
「刑事さんってば、またずいぶんと危険なひとについて調べてますね」
「危険?」
「危険も危険。都って医師は真っ黒ですよ」
昨夜、都医師についての調査を氷織から依頼された今江は、すぐに宇治家に連絡をとった。
都なる医師がどのような男なのかは知らないが、医師という肩書を名乗る以上は医療業界に所属する人間であることは間違いあるまい。だから、同じく医療業界に所属しており、その調査能力に信頼のおける宇治家に依頼したわけだ。代償として、宇治家お気に入りの初芝巡査の休日を供することで契約は結ばれた。本人の許可はとっていない。とる必要はない。初芝も自身と浅からぬ関係をもつ恒河沙探偵事務所の仕事に貢献できて満足だろう。
「都は裏の世界で有名な無免許医師だそうです。名門の大学病院を卒業したんですけどぉ、研修医のころに患者との間での金銭トラブルが発覚。病院を辞めさせられたんですってぇ」
「金銭トラブル? 患者と?」
「感染症にかかった患者に病気を公表するって脅したんですよぉ。その患者は有名な俳優さんでしてぇ、イメージダウンを恐れた患者さんはお金を払ったそうなんですけどぉ、それが患者さんのご家族にバレて院内で掴み合いの大喧嘩。都研修医は逮捕されて、表の医療業界から追放されたそうですぅ」
「おもしろくなってきたわね」
つまらなそうな口調で今江はいった。
「実刑を受けた都は、出所してから闇医者として生計を立て始めたそうですぅ。主な商売相手は、半グレやヤクザや政治家。公にできない治療や薬剤の横流しに励んでいたそうですよぉ」
「待った。都の専門はなに」
「外科だそうですぅ。学生時代から外科医を目指していたみたいですよぉ。ヤクザが抗争で外傷を負っても、一本電話をすればすぐに駆けつけてくれるってことで重宝されていたみたいですねぇ」
「精神科の修行は積んでいない?」
今江はひとりごとをつぶやいた。宇治家に話を続けるよう促す。
「わたし、都と仲のいい男が地元の後輩にいたんで、このお店に来るよう呼びだしたんですよぉ」
「え」
予想外の展開に今江は普段の彼女ならあげないような声をあげた。
「いいですかぁ」
宇治家はスマートフォンを片手に笑顔を浮かべる。許可しないわけがない。今江は快諾した。
数分後。自称“都医師と親しい男”が現れた。
黒のワイシャツにあわせたボルドーのスリーピース。ネクタイには彼岸花に白蛇が絡みついた禍々しいプリントが施されている。丸いスキンヘッドの頭と整った口髭。金フレームのサングラス越しに今江をにらみつけている。歳は三十歳といったところか。
男は自分の素性を探らないという条件で情報の提供を承諾したという。だが素性など聞くまでもない。見ず知らずの女刑事のためにのこのこと姿を現したことが露見したら、彼の職業的にメンツが立たない。そういうことだろう。
「ビールのむ?」
今江がいうと、男はぶっきらぼうに首をふった。すると横に座っていた宇治家が男のスキンヘッドを強く叩いた。
「その態度は何。好意ですすめられたものはありがたくいただくの。それからそのサングラス。失礼でしょ」
人さし指を立てながら宇治家はほほを膨らます。男はシュンとした様子でサングラスをとり、両手でコップをさしだした。黒レンズに隠れていた両目は、まだ青年のあどけなさをどこかに残していた。
「ひと口だけで勘弁してください。できる限り、お答えしますから」
男はビールに口をつけてからそういった。
「というかそんなに嫌なら来なければよかったのに」
「……宇治家のアネキに恥をかかせたら、おれはもう地元を歩けません」
「えー。そんなことないよぉ。おおげさだなぁ」
宇治家は身体を揺らしながら男の肩を激しく叩いた。男は完全に畏縮しきった表情で両肩を震わしていた。
今江は心の中でひとりつぶやく。
宇治家さん。あんたいったい何者なのよ。
2
「商売柄、怪我はつきものでしてね。真夜中の仕事中にけがをするとなると、そう簡単に診てくれる病院などありません。そんな時でも都先生は電話一本で駆けつけてくれる。腕もいい。とにかくいい先生ですよ」
スキンヘッドの男はとつとつと都について語った。一刻も早くここから逃げ出したいという気持ちがあふれ出ている。
「付き合いは長いの」
今江がたずねる。宇治家は運ばれてきた天ぷらの盛り合わせと格闘中で男の話には興味がないようだ。
「長いですね。わたしがくみ……会社に入った時には既にお付き合いが始まっていましたし、わかが……古参の社員とも仲良くしてますから。とはいえ、うちの業界は不景気な時代が続いておりましてね、昔とは違って毎日のように怪我をするなんてことは少なくなりました」
「排除条例バンザイ。そうなると、都先生も仕事が減って困ったでしょうね」
「収入が減ったといつも不景気な顔をしていましたが、二か月ほど前に珍しく上機嫌でうちの会社にいらっしゃいました。聞けばなんと、新しい金づるを見つけたというんですよ」
「金づる。二か月前に、ね」
今江はハシを手の上で器用に回し始めた。
「しばらく金に困らないと笑っていましたよ」
「ついでに隔週で週末は都外にいるなんていったんじゃない?」
男は口を開けて笑った。左ほほにえくぼが浮かび上がる。
「おっしゃる通りですよ。自分が東京にいない時に乱暴な仕事はしないでくれと申しつけられました」
「そう。ところで、あんた達は公正な取引相手を金づるって呼ぶ?」
「いえ。詐欺る相手を金づると呼びます」
男を帰らせ、今江は宇治家と二人で懐石料理のコースに舌鼓をうった。今江は宇治家に今日のことを口外しないように伝える。
「構いませんけど、するともうひとつ報酬をもらえないと対等とはいえませんよねぇ」
今江はもう一日初芝巡査の休日を供することにした。本人の許可はとっていない。とる必要はない。初芝も自身と浅からぬ関係をもつ恒河――以下略。
宇治家と別れてから今江は警視庁に向かった。本来なら帰宅するつもりだったのだが、腕時計を見ると時刻は二十時三十分。氷織との定例報告の時間まであと三十分しかない。
三十分では家までたどり着けない。かといって――話す内容が内容だ――そこら辺の喫茶店やバーで電話をするわけにもいかない。三十分以内にたどり着けて、プライバシーが保たれる場所といったら、警視庁以外に思いつかなかったわけだ。
捜査第一課では何人かの刑事が書類仕事に忙殺されていた。
今江はそんな刑事たちを尻目に誰もいない応接室に入る。スマートフォンを取りだすと、ちょうどその時、一通のメールが届いた。
メールの送り主は恒河沙氷織だった。時刻は午後八時五十五分。あと五分後に電話で定例報告を行う予定の相手からメールが届いたわけだ。
今江はそのメールを見てため息をついた。こんな事なら警視庁による必要もなかったなと思いながら。
氷織からのメールでは、のどのカゼをひいたので通話ではなくメールで定例報告を行いたいとの旨が記載されていた。そのあとに今日一日の彼女の活動内容が続いている。
今江はそれを熟読してから、メールの返事を送った。
「で、兄貴にも転送してやらないと。……転送? あ、しまった」
今江はまだ恒河沙法律のメールアドレスをスマートフォンに登録していなかった。
そこで今江は、法律といっしょに真冬の青森で仕事に励んでいる同僚の籐藤にメールを転送することにした。籐藤に届けば法律にも届く。これで何も問題はないはずだ。
「はい完了。本日の業務は終了。お疲れさまでしたっと」




