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第六章

 1

 苦悶の声をあげる須貝を肩に担ぎ、氷織とLAWは居間を飛びだした。

 本来なら居間で須貝を休ませたかったのだが、一転して攻撃的な姿勢をみせてきた鳥羽から少しでも距離をおきたいという気持ちの方が強かった。

 不格好な三人四脚のような足取りで廊下を進み、客室棟二階の須貝の部屋に入った。

 須貝は右ひじをかばいながらベッドに倒れこんだ。悲鳴をあげるようなことはないが、表情は苦痛で歪み、ひと呼吸ごとに全身を上下させている。

 「どれ見してみ。恥ずかしがるとかそんなボケはせんでええよ」

 LAWが須貝の上着を脱がし、肌着一枚にする。軽口を叩いてはいるが、その顔は真摯だ。

 「……えぐいなぁ」

 折れた骨が右ひじの皮膚を押し上げて、不自然なふくらみを作っている。

 「とりあえず治療道具やな。ホトケさんの道具を借りてくるさかい、ちょっと待ってて」

 LAWは部屋を飛び出すと、一分と経たずに戻ってきた。手には都医師のカバンを備えている。LAWはカバンの中から医療道具を取りだすと、ぽいぽいとベッドの上に放っていった。

 「ひぃねえ。頼むわ」

 LAWは氷織の方を向いた。

 しかし氷織は表情を曇らせて須貝から視線を反らした。

 「ひぃねえ、あんたまさか。」

 「できない……わたしには、ひとを治す資格なんて」

 「こんな時になにいってんの!」

 LAWは怒声をあげた。

 「あんたまだそんな戯言を口にするんか。山吹とかいう大学病院で何があったのか知らんけどな、目の前に苦しんでるひとがいて、ひぃねえはその苦しみを取り除いてあげられる。なのにどうして須貝はんを放っておけるんや」

 「いったでしょ」

 氷織は冷たく言葉を吐きだす。

 「わたしにはその資格がな――」

 「資格とかそういう話をしてるんやない。できるのにどうしてやらないのかって訊いてるんや。過去を言い訳につかうのはもうやめよ。問題はいま。目の前のアクシデント。あぁもうめんどくさい!」

 LAWは須貝の横にどかりと座ると、自分が放り投げた医療道具の山に手を伸ばした。

 「うちがやる」

 「えっと、LAWさん。念のためにお聞きしますが、医療業務に従事された経験は?」

 脂汗が浮き出た顔で須貝が訊ねる。

 「小学生の時にウシガエルの解剖実験を」

 「それは医療とはいわない!」

 「じゃかあしい。さばいて中を見るんやからいっしょやろ」

 「捌くって……まさかメスを使うつもりですか!?」

 「当たり前やない。うちの見たところだとその尖っとるのは骨の破片や。早く取り除いてやらんと炎症を起こして大変なことになる。んで、骨の破片をとったあとは縫合やな。なーにまかせとき、うち家庭科の授業で巾着袋をつくったことがあるさけに。迷彩柄のいかつい巾着さんでなぁ。裁縫セットでチクチクチク。先生はよぅできとるって誉めてくれたわ」

 「それも医療とはいわない!」

 「あー聞こえへん聞こえへん。ん。メスを入れる前に麻酔とかした方がええんかな。でも薬のことはようわからんし、パスやな。大丈夫。戦場じゃあ麻酔なしの施術なんて日常茶飯事や」

 「ここは戦場じゃないよう。助けて氷織さん!」

 「ちょ、ちょっと。LAW。まさかあんた本気で」

 「本気や」

 LAWは都医師の黒いレザーケースを開くと、中から銀色のメスを取りだして、須貝の身体の上にまたがった。

 「いまこの場で須貝を本気で憂いているのはうちだけや。だからうちがやる。できるとかできへんとか、そういう低次元の話をしてるんやない。誰かがやらなあかんのに、誰もやらんというんなら、うちはすすんで手をあげる」

 消毒用アルコールを吸った脱脂綿でひじの周りをまんべんなく拭く。脱脂綿を押しつけるたびに須貝はオットセイのような声をあげた。LAWはすでに片方の手にメスを構えているので、須貝も抵抗して暴れることはできない。

 「なぁ、ひぃねえ」

 小さな背中を見せながらLAWはいった。

 「うちら恒河沙の兄妹はあのクソ親父の名前のせいか、世間様から過大な評価をうけとる。五人全員が致命的な欠陥をもったものやのに、すごいすごいとさんざの騒ぎ。期待に応える義務はないけど、期待に応えな生きていけない。そのためにうちらは力を合わせて欠点をおぎなわなあかん。ひぃねえに欠点があるなら、うちが助ける。だってひぃねえは、うちのお姉さんやから」

 LAWは息を大きく吸って止めると、メスを須貝の肌に――

 「まって。LAW」

 氷織が声をかけて止めた。妹の両脇に手をいれて人形のように持ち上げてどかすと、メスを取り上げてレザーケースの中にしまった。

 「ちょっとだけ痛むけど、がまんして」

 そういって氷織は須貝の右ひじに触れた。須貝は電気が走るような痛みをひじに感じたが、顔を歪めるにとどめて声をあげたりはしなかった。

 「……肘頭ちゅうとう骨折。ひじの先の骨が折れると、上腕の筋肉に引っ張られて外側に転移するの。皮膚がぽっこりと盛り上がってるのはそのせいね」

 氷織は淡々とした口調で説明する。しかしその口調には――そしてその瞳には――強い自信がこもっていた。

 「骨の破片じゃないんですか」

 「こんな大きな破片があるわけないでしょ」

 須貝は目を細めてLAWを見つめた。LAWはそっぽを向いている。

 「レントゲンを撮らないと何ともいえないけど……うん。これなら手術はしないで済みそう。一か月くらいギブスをすれば完治するでしょ」

 「本当ですか。あぁ、よかった」

 須貝は安堵の息を漏らした。

 「応急処置として、ひじを曲げた状態で固定するね。LAW。氷とダンボールをもらってきて。二ノ宮さんか三崎さんに頼めばくれるでしょ」

 「はいな」

 LAWはパタパタとスリッパの音を立てながら部屋を出た。沈黙に満ちた部屋の中、須貝の右腕に手をおいたまま氷織はいう。

 「情けないところを見せちゃったわね」

 「いえ、そんなことは……」

 「そんなことは、ある。わたしね、五人の兄妹のなかで、いちばん探偵に向いていないの」

 ぽつりぽつりと氷織は語りはじめた。

 「Knowledge(知識)able() Detective(探偵)なんて大層な肩書を自称しているけど、その実態はただの頭でっかち。脳みその中にある概念としての知識を現実の事実に当てはめることが苦手なの。他の四人とは違って、実践的な能力も、奇抜な推理を展開させる想像力もない。兄妹の存在はわたしにとってコンプレックスのひとつだった。でも、LAWも同じだったのね。LAWだけじゃない。五人全員が致命的な欠陥をもったもの。あの子は弱点を認めたうえで、その弱点から逃げ出さずに立ち向かう勇気をもっている。弱点があるからこそ、兄妹で協力する必要があると説いてくれた」

 「不思議なひとですね」

 「不思議なんかない」

 氷織はいった。

 「あの子は弱い。どの人類よりも弱く脆い。そして自分の弱点を認められる人間ほど強い人間はいない。さらにその弱点を補うために周りに頼るとなれば、それは最強。最弱(ゆえ)に最強の探偵。それが恒河沙LAWなの」

 数分後。LAWは使用人の三崎を従えて戻ってきた。

 「須貝さま。おかげんはいかがですか」

 返事を待たずに三崎は氷の入った袋を氷織に渡す。

 「いわれた通りダンボールも持ってきたけど、こんなの何に使うん?」

 LAWは折りたたんだダンボールを手のひらで叩きながら訊ねた。

 「ちょうどいい長さに加工すれば添木の代わりになるの」

 氷織は流れるような速度で処置を始めた。折りたたんだダンボールを須貝の右腕に当てて包帯で固定する。軽く曲げた右腕を三角巾で吊ると、氷が入った袋を患部に当てた。

 「だいぶ楽になりました。ありがとうございます」

 「須貝さま……神崎が大変ご無礼をいたしまして。いえ、ご無礼の言葉で済むようなことではございませんね」

 「三崎さんが頭を下げることないでしょう」

 氷織は医療道具を片付けながらいった。

 「神崎さんが謝ることでもない。『やれ』といったのは鳥羽鉄也。謝るべきはあの男」

 「何かご入用のものはございますか」

 「ない。三人で今後のことを話し合いたいから席を外してちょうだい。一時間後に居間でお話ししたいと鳥羽さんに伝えておいて」

 三崎が退出し、須貝の部屋には三人だけが残った。

 「念のため確認なんだけど、二人とも没収されたスマートフォン以外の通信機器はもってないのよね」

 須貝とLAWは『ない』と答えた。

 「警察に通報するって手段はなしと。それじゃあ、実際問題これからどうするべきかしら」

 「どうするって、逃げ出しましょうよ」

 須貝が怯えた表情でいった。

 「鳥羽さんの目を見たでしょう。あのひとは、愛さんが殺人を犯して、頭がおかしくなったんだ。ぼくたちの話をまともに聞いてくれるとも思えない。助けが呼べないなら、自分たちでこの島から逃げだすしかありません」

 「方法は? 橋が壊されたから、隣の島にあるクルーザーには乗れないよ」

 氷織がいうと、須貝は氷が入った袋を強く握りしめてうなり声をあげた。

 「……島の周りに船が通ったら大声を出して助けを求めるとか」

 「無人島を舞台にした創作でよくあるやつね。でもああいうのって、たいがい船に気づいてもらえないのよね」

 「悲観的なことをいわないでください!」

 「じゃあ現実的なことをいわせてもらうけど、この別荘は海面から五十メートルとある岩壁の上に建っているのよ。島の淵から船に向かって声をあげても、風にかき消されて届かないでしょ」

 「聞こえないなら読んでもらいましょう。大きな白い布に『HELP』って書いて掲げます。これなら問題ありません」

 「あほ。鳥羽が見逃してくれるはずないやろ。別荘の外に出て旗を振ってるのがバレたらただじゃ済まされんて」

 「岩壁を降りて、クルーザーがある隣の島まで泳ぐってのはどうです」

 「重ねてどあほ。あんな岩壁、まともな人間が降りられるわけない。冗談は休み休み頼むわ」

 LAWに反駁され、須貝はシュンと小さくなった。

 「やっぱり、警察に通報するのが一番現実的ね」

 そういって氷織は立ち上がると、小型の冷蔵庫から炭酸水をとりだした。

 「この島に滞在する誰かに通報してもらいましょう」

 「それは無理じゃないですかね。いまこの島にいる人間は、全員鳥羽さんの息がかかった人間です。同情こそしてくれるかもしれませんが、自らの立場を悪くしてまで協力してくれるとは思えません」

 「鳥羽氏に逆らえば痛い目にあうって実例が目の前で起きたわけやしな」

 LAWは須貝の右腕を人さし指でつつく。須貝は子犬のような悲鳴をあげて、LAWから距離をとった。

 「それじゃあ、盗む?」

 氷織は首をかしげてニヤリと笑った。彼女にしては珍しい表情だ。

 「警察官としては看過できない提案ですが、事情が事情です。それでいきましょう」

 「どうやろうなぁ。鳥羽はすでにうちらがスマホを盗もうと画策しとるってわかっとるみたいやけど」

 「どういう意味ですか」

 「さっき都センセの部屋にカバンを取りに行った時な、センセのスマートフォンがないか簡単に探してみたんや。だけどなかった。服の中にも、ベッドの近くにもなかったんや。建山はんがうちらの部屋を漁った時に、いっしょに回収したんやろ。うちらが盗みだすことを予想してな。たぶん鳥羽はいまごろ、探偵たちにスマートフォンを盗まれないよう気をつけろって訓戒を垂れてるんやない」

 「もしくは、全員のスマートフォンを没収しているかもしれない。そんな可能性もあるわね」

 「この別荘には固定電話もなかったですよね。助けを呼ぶのは無理か。困った」

 「何も困ることあらへんやろ」

 しれっとした態度でLAWがいった。

 「要求通り、犯人を見つけりゃええやん。誰が都センセを殺したかを突き止めて、『こいつですー』って教えてやれば帰してくれるんやろ。変に相手を刺激せんと、おとなしく従えば腕も折られんわけや」

 「すごい。『ド外道が』って吐き捨てた人の言葉とは思えない」

 「うちかて頭に血ぃのぼればそーなるわ」

 「だけど、もし犯人が愛さんだったら? あの時『九重愛』の身体を操っていたのは他の誰でもない『九重愛』の精神そのものだったら、鳥羽さんはその事実を認めようとしないんじゃないかしら」

 「その可能性はあるなぁ。ま、とりあえず調べてみよ。うちら探偵と警察官はものを調べるのが本業やろ。ふあぁ……あぁ」

 LAWは大きくあくびをすると、とろりとした表情で須貝のベッドを見つめた。

 「ねむい」

 そういって須貝のベッドにもぐりこむ。ケガ人の須貝は慌ててベッドから飛び降りた。非難の声をあげようとしたが、昨夜自分が使ったベッドにLAWが眠っているという事実にどこか不貞の香りを覚える。須貝は大人しくベッドから離れた。

 「腕は大丈夫?」

 氷織は冷蔵庫からミネラルウォーターを取りだすと、キャップを開けて須貝に渡した。

 「大丈夫です。そうか。ペットボトルを開けるのにもひと苦労ですね」

 試しにと三角巾で吊った右腕でペットボトルをもってみる。ひじはずきりと痛みを訴えた。

 「こんな殺人事件、前代未聞じゃないですか。ぼくたち全員が犯行の現場を目撃しました。犯人が九重愛さんであることは間違いありません。だけど九重愛さんは多重人格者。犯行の瞬間、九重愛さんの身体を操っていたのは、九重愛さん本人ではない可能性が残されている。本当の意味で都先生を殺したのは九重愛さんの身体に宿るどの人格なのか。厄介な事件ですよ」

 「たしかに厄介ね。だからこそ、LAWを連れてきてよかった」

 氷織は須貝のベッドで寝息をたてるLAWを見た。

 「この事件は、LAW向きの事件だから」


 2

 「やぁよかった。引き受けていただけると信じていましたよ」

 犯人捜しについて承諾したことを伝えると、鳥羽鉄也は両手を叩いてほほをゆるめた。ストレートのウィスキーが入ったグラスを手にしており、すでに酒が全身に回っているのか、顔はタコのように赤い。

 「夢裂ゆめさき夫人の信頼もあつい探偵さんがわたしのために働いてくれるとは。これを機に今後ともご懇意な間柄を期待したいですな」

 「冗談だろ」

 右腕をかばいながら須貝はつぶやいた。部下にひとの骨を折らせておいて、いけしゃあしゃあとねんごろな関係を望むのか。

 「先ほどお話しした通り、タイムリミットは明後日。昼までには答えを出していただこう。別荘のなかは自由に動きまわっていただいて構わない。ただし愛の部屋をお訪ねする際は、必ず使用人を同席させてください」

 鳥羽の背後に並ぶ使用人たちが頭をさげた。建山、二ノ宮、三崎、そして神崎。

 「可能な限り務めさせていただきます。一点お願いがあります」

 ソファーに座る氷織はロングスカートの中で足を組んだ。

 「毎晩九時にわたしは事務所のものと定時連絡をとる約束を交わしています。昨夜もスマートフォンで九時に電話をかけました。今夜の九時に、定時連絡がなければ、向こうはわたしの身に何かあったのではないかと勘繰かんぐるはずです」

 「神崎」

 鳥羽が片手をあげる。神崎はふところから氷織のスマートフォンを取りだし、鳥羽の手においた。暗証番号を氷織から聞き出し、通話履歴を確認する。他人に自分のスマートフォンを触られても、氷織は嫌悪感を微塵みじんも表さず、植物のように静かにしている。もし自分だったらどうか。想像して須貝は小さく舌打ちを放った。

 「たしかに。昨夜の九時にニ十分近くも長電話をしている。今江いまえ恭子きょうこというのが探偵事務所の人間かな」

 「はい」

 「……仕方がないな。今日と明日、夜の九時前になったらわたしの部屋へ来てください。わたしと神崎が立ち合いのもとで、通話をしていただきます」

 二人の前で通話をさせる。暴行を受け、スマートフォンを取り上げられ、この島に監禁されたという事実を告げるなというわけだ。しかし――

 「メールを打たせましょう」

 神崎が前に出てきた。

 「通話はいけません。もしこの女が自暴自棄になって助けを求めたらどうしますか。定期報告はメールでやらせるんです。われわれで内容を確認してから送らせれば問題はありません」

 「おぉ。ナイスアイディアだ」

 鳥羽は破顔しながらうなずくと、のどを鳴らしながらウィスキーをのんだ。

 「ですが社長。昨日まで電話で報告を行っていたのに、突然メールとなると先方に怪しまれるのではないですか」

 建山がぼそぼそと進言する。しかし鳥羽は山を揺るがすほどの大きなため息をついた。

 「そんなものは何とでもなる。カゼをひいてのどを悪くしたから長電話をできないと断りをいれればいいだけだ。メールの文面は事前に考えておいていただこう。何か紙にでも書いて、われわれの添削を受けてから、われわれが代わりにスマートフォンに打ち込む。よろしいかな」

 「かまいません」

 間髪入れず氷織は返答した。その声には苛立ちや焦燥しょうそう諦念ていねんといったネガティブな色はこもっていなかった。とはいえポジティブな色はと訊かれたらそれも皆無。どこまでもフラットな声色であった。

 「調査についてですが、何はともあれ愛さんとお話がしたい。いま、愛さんは?」

 「まだ寝ている。起きたら必ず報告しましょう」

 「わかりました。ではそれまでは自由に動かせていただきます。何かお願いがありましたら、その時はまた」

 氷織は立ち上がり、軽く頭を下げた。

 「ちょっと聞きたいことがあるんやけど」

 スリッパを履き直しながらLAWが問う。

 「今晩の夕食ってなに?」


 3

 「この状況でも食事の心配とは大物ですね」

 廊下を歩きながら須貝はいった。嫌味のつもりだったのだが、LAWは意に介した様子もなく、ぺちぺちとスリッパの音を立てながら先頭を歩いた。

 三人は客室棟に戻ると、遺体を検分するため都医師の部屋へ向かった。

 「……う!」

 ドアを開けると、鉄棒を鼻にすりつけたような臭いが須貝の鼻腔に飛びこんできた。

 嗅覚情報に続いて視覚情報が須貝の理性を脆弱なものにする。ベッドの上にあお向けで横たわる都医師の遺体。腹部を中心に身体は褐色色の酸化した血に染まっており、半開きの口から青い舌がちろりとのぞいていた。

 「はいはい。おじゃまするでー」

 「先に合掌。ご遺体に敬意を払いなさい」

 友人の家を訪れたような軽いノリで恒河沙の姉妹は室内に入る。須貝はハンカチを鼻にあてながら二人に続いたが、室内の凄惨な雰囲気に思わず背中を向けてしまう。

 捜査第一課に配属されて今日で三日目。いや、昨日と今日は有給消化に当て(させられ)たのでまだ一日しか経っていないわけだ。公安第四課にいたころは、主に国家の安寧を脅かす社会活動家や暴力団員といった()()()()()ばかりを相手にしてきた。対して捜査第一課はその仕事の性質上、死体を相手にすることは珍しくない。須貝はまだ死体との付き合い方を学んでいなかった。その点に関しての練度は一般人と同等かそれ以下だ。

 だからといって逃げ出すわけにはいかない。須貝は室外で深呼吸をしてから部屋に入った。

 「下腹部に三か所、刺創がみられる」

 氷織は白いハンカチを器用に使いながら遺体に触れていた。都はジャンパーの下にトレンドマークでもあったアロハシャツを着ていた。出刃包丁はジャンパーとアロハシャツを貫通していた。

 「わたしの見間違いでなければ、愛さんは都先生の腹部に三回出刃包丁を突き刺した。十中八九、この刺創からの出血多量が死因だけど……」

 念には念を入れようということで、氷織は遺体の服を脱がし徹底的に全身を確認した。しかし下腹部の三か所以外に外傷はみられない。死因は下腹部の外傷からの出血性ショック死で確定した。

 「やっぱり、自分で処置をするのは無理だったみたいですね」

 須貝は遺体の上に白いシーツをかけながらいった。

 「実際に自分で傷口を縫合するなんてできるものなんですか」

 「無理」

 氷織はテーブルの上のボストンバッグを探りながら背中で答えた。

 「コンクリートの上で転んで擦過傷さっかしょうができた時のことを想像して。皮膚の表面が擦り切れて血が滲んできただけなのに、とんでもない痛みでしょ。それよりもひどい苦痛の中で縫合なんて、できるはずがない」

 「でも都先生はそれをやろうとした」

 「できると思ったんでしょうね」

 氷織は長いことボストンバッグを調べている。服。本。飲み薬や貼り薬(シップ)。携帯型充電器。そして――

 「あった」

 氷織は黒革の長財布をとりだした。この別荘にいては金を使う機会などあるまい。バッグの中に入れっぱなしにしていたようだ。

 「だけどなかった」

 財布を調べ終えた氷織は、ため息をつきながら財布をバッグに戻した。

 「なかったって。何が?」

 須貝が訊ねる。今江はふりかえると、神妙な顔をした。

 「昨日の夜。今江さんに都医師について調べるよう依頼したの」

 「都先生について?」

 須貝は思わず遺体の方を見た。既に亡くなっているとはわかっていたが、どうも彼の遺体の前でするのは躊躇ためらわれる。

 「昨日、最初の愛さんとの面談……正確にはハヤテと柴田徹としおりちゃんとの面談ね。この三人との面談を終えたあとに、都先生に各人格についてのレクチャーを受けたでしょ」

 彰が愛の部屋に侵入してきて、面談が中止になった後のことだ。

 「あの時都先生は、しおりちゃんについてこう説明したの」


 ――それから、しおりちゃんね。年齢はわかってない。年齢っていう概念も理解してないんじゃないかな――


 「しおりちゃんは年齢という概念を理解していない。たしかに幼い子どもなら年齢という概念を理解していないかもしれない。だけど、九重愛さんは? 彼女は『年齢』という概念を理解していないと思う?」

 「まさか。愛さんは二十歳を越えているんですよ。『年齢』を理解していないなんてあり得ない」

 「その通り。愛さんは成人で、しおりちゃんは成人には似つかわしくない態度や言葉遣いをしている。だからしおりちゃんは成人ではないと結論づけたくなるけど、これは間違いなの。しおりちゃんは()()()()()()()()()()()()()()()でしかない。二十一歳である九重愛さんが子どものようにふるまっているというのが正しい説明であり、しおりちゃんは()()()()()()ではない。子どものようにしゃべり、子どものようにふるまい、子どものように好き嫌いを表現するけど、彼女は決してこの世に生を受けて数年の子どもではない」

 「子どものようにふるまうだけで、子どもではない」

 須貝の脳に稲妻のような衝撃が走った。

 「つまり、しおりちゃんは『年齢』という概念を理解しているのですか。九重愛さんは『年齢』という概念を理解している。しおりちゃんは九重愛さんの部分でしかない。ゆえに、しおりちゃんは『年齢』という概念を理解しているということですね」

 「その通り」

 氷織は力強く人さし指を立ててみせた。

 「過去の実例として、DID患者の子どもの部分が、数学の概念について説明したことがある。子どもの部分は抽象的で複雑な概念を積極的にコミュニケーションの場に用いたりはしない。だけど彼らは口にしないだけでそれが何かは理解している。これはDIDを扱う精神科医にとっては常識であり定説。だけど都医師はこの定説を知らなかった。だからしおりちゃんが年齢という概念を理解していないなんて、一般人のようなことを口にしたの」

 「ひぃねぇ。もしかしてその財布の中」

 LAWは苦虫を噛みつぶしたような表情をみせる。

 「ない。日本医師会が発行してくれる医師資格証も、どこぞの医療機関の職員証もない。都虎次郎が医師であることを証明するものはどこにもない」

 「まさか。都先生は医者じゃないってことですか」

 須貝は口を大きく開けて呆然とした。

 「いえ。ある程度の医療知識は持ち合わせていたみたいだし、決して医療業界と無関係というわけじゃないと思う」

 氷織はバッグから一冊のノートを取りだし、パラパラとめくりだした。

 「かつては数年間医療業務に関わっていたとか、独学で勉強をしたんじゃないかしら。つまるところ、闇医者ってやつね」

 「そんで今江はんに都センセの正体を調べてもらっとるわけね。なるほど。闇医者かどうかなんて、ネットじゃ簡単に調べられへんもんなぁ」

 「まぁ、わたしの睨んだ通りだと思うけど」

 氷織は手にしていたノートを須貝に差し出した。須貝は左手で受け取るが、三角巾で吊った右腕ではうまくページをめくれない。LAWがそばにより、代わりにページをめくった。

 「え」

 「あん?」

 二人は顔をそろえて困惑の声を発した。

 ノートは最初の二ページに九重愛の各人格の特徴について書いてあるだけで、それ以外は何も書かれていなかった。

 「このノート、昨日都先生が各人格について説明する時に手にしていたものですよね。あの男……『今日のことをこのノートにまとめておきたい』といってたのに」

 「何にも書いとらんわ。いったいどういうことや」

 「わからない。少なくともたしかなことは、殺された都はペテン師だったってこと」


 4

 氷織たちがキッチンのドアを開けると、暗い顔つきの二ノ宮と三崎が調理道具を手にふりかえった。

 「お仕事中失礼します。また氷をもらえると助かるのですが」

 三角巾で吊った右腕を見せながら須貝がいった。

 「もちろんです。いくらでもお使いください」

 二人は冷蔵庫から氷を取りだすと、ビニール袋に入れて須貝に渡す。患部に当てると、須貝はその心地よさに顔を溶かした。

 「みなさま。先ほどは鳥羽と神崎が失礼をしました。正直にいって、このような事態になるとは思いもせず……」

 二ノ宮がエプロンを握りしめながらいった。その横で三崎は深く頭を下げて謝罪の意を示す。

 「申しわけないと思うなら、警察を呼んでほしいんやけど」

 きひひと笑いながらLAWがからかう。二ノ宮と三崎は露骨に顔を曇らせ、氷織は妹の頭をぽかりと叩いた。

 「で。別に氷をもらうためだけに来たわけじゃないの。凶器の出刃包丁について調べたいんだけど」

 「鳥羽にいわれてクロークに置いてあります。お待ちください」

 二ノ宮はキッチンを出るとすぐに白い発砲スチールの箱をもって戻ってきた。ふたを開けると、中には刃が酸化した血で染まった出刃包丁が横になっていた。

 「この包丁に見覚えは」

 「キッチン(ここ)に置いてあるものです。愛様は事前にここから持ち出されていたのかと。包丁は何本もありますので、これ一本がなくなっていたことには気づきませんでした」

 三崎が調理台の下にある引き戸をあける。扉の内側に包丁スタンドが備え付けてあり、何本もの包丁が収まっていた。

 「こちらにもあります」

 二ノ宮が壁際に置いてある棚を引くと、これまた大量の包丁が白いふきんに包まれて保管されていた。

 「どうしてこんなにたくさんあるんですか」

 「社長の見栄ですよ。お客さんが来た時に調理道具にもこだわっていると自慢するために同じ出刃包丁を大量に用意されたのです。包丁以外にもたくさんありますよ」

 「まぁ、めっちゃ高い包丁を一本持ってても素人にはわからんしな。物量で攻めるのが吉ってことか。あほくさ」

 LAWがあくびをしながら悪態をついた。

 「愛さんと都先生なんだけど。あの二人はよく庭を散歩していたの」

 「そうですね。愛様は毎日のように散歩をなさいます。都先生はご滞在のおりは必ずご一緒に散歩をされておりました。外の空気の中でカウンセリングをすると、部屋の中のカウンセリングとは別の情報が引き出せると先生はおっしゃっておりました」

 「雨の日でも散歩は必ず?」

 「いえ。雨の日に傘をさして散歩されていたのは初めてですね。わたしの記憶の限りでは」

 キッチンと廊下をつなぐドアが勢いよく開き、ブラックスーツの神崎が姿を現した。須貝は『ひゃ』と小動物のような声をあげると、氷織の後ろに下がった。

 「騒がしいと思ったら、こちらにいらっしゃいましたか」

 神崎はゆるんだネクタイを締めなおすと、くすりと鼻で笑ってみせた。

 「何か御用ですか」

 氷織が強気な口調で返す。先ほどまでしょげていた氷織の豹変ぶりに驚いたのか、神崎は『ほぅ』とつぶやいた。

 「愛様がお目覚めになられました。ご面会されますか?」

 昼の凶事のあと、愛は客室棟ではなくここ本棟の北東にある鳥羽鉄也の寝室に寝かされていた。本棟の中を東西に延びる廊下を客室棟が建つ東向きに進み、途中にある廊下を左に曲がって北側に直進すると鳥羽の部屋がある。

 うすぐらい廊下を歩きながら、神崎は背中を向けたまま鼻歌を奏でていた。

 「えらい楽しそうやなぁ」

 その背中に向かってLAWが()()()()と声をかける。神崎は足を止めてふりかえると、犬歯をみせながら再びネクタイを締めなおした。

 「すみません。笑ってしまうと首の筋肉が膨張してネクタイが緩むんです。いけないとわかっているのですが、どうしてもやめられない」

 神崎はちりとりのような大きな手で口元を隠しながらいった。

 「ここ最近はつまらない毎日が続いておりましたからね。愛様の護衛を任されてこの島に赴任してみたものの、護衛なんて名ばかり。この平和な島でいったい何から愛様を護れというのか」

 神崎は顔から手を離し、その手を須貝に向かって伸ばした。

 須貝は右腕をかばいながら『ひ』と声をあげてのけぞる。その様を見て神崎は満面の笑みを浮かべた。

 「あなたの腕を折ったあの瞬間、本当に楽しかった。力を入れて相手の骨を折ると自分の骨に衝撃が走るんです。骨の悲鳴が伝わってくるんですよ。わたしはそれを聞くのが大好きでしてね。骨を折り、動けなくなり、泣いて許しを請う相手を見るのがたまらなく楽しい。あなたの右腕。安静にしていればすぐに完治しますよ。だって治るように折ったんですから。いつだってわたしは()()()()()()()。もう一度()()()()()()を楽しむために」

 光悦とした表情で神崎は語った。サディストの論理。再生を期待する破壊という倒錯した論理がそこにはあった。

 「本音をいうと、皆さまには抵抗していただきたいのです」

 ネクタイを撫でながら神崎はいった。

 「抵抗して、暴れて、逃げ出そうと試みていただきたい。そうすればわたしは暴力をふるえる。あなたたちを合法的に破壊することができる。あぁ、社長には内緒にしてくださいね。こんなことが知られたら怒られちゃいますから」


 5

 鳥羽は自身の書斎の中で、タバコを口にくわえながら椅子にすわっていた。

 「あぁ探偵さんたち。どうぞおはいりください」

 苦笑いを浮かべながら鳥羽はいう。テーブルの灰皿には、すでに大量の吸い殻が積まれていた。

 この部屋には窓がない。書棚や袖付きの机が置かれた質素なつくりをしており、どこか軍基地の書庫を思わせる内装だった。

 「愛さんがお目覚めになったそうですね。鳥羽さんの寝室にいらっしゃると聞きましたが」

 氷織は部屋の奥にあるドアに視線をおくった。

 「愛じゃない!」

 鳥羽は吸い殻を灰皿に押しつけながら怒声を飛ばした。

 「わたしの愛はあんな根暗な女じゃない。目覚めたら……くそ。あのへんな人格がまた愛の身体に……」

 どうやら寝室にいるのは愛とは別の人格らしい。三人は一度視線をあわせてから寝室のドアを開けた。

 照明のついた明るい部屋の中、明かり取りの窓の前に置かれたキングサイズのベッドの中で、九重愛は丸めたふとんに埋もれて顔をのぞかせていた。

 「な、なになに。あんたたち誰よ。なんの権利があって入ってきてんの!」

 ベッドの中の九重愛は早口でかん高い声を発した。人間嫌いの小動物のような態度に須貝は閉口する。

 「どうか落ちついて。わたしたちはお父様からこの別荘に招待された恒河沙探偵事務所のものです」

 九重愛はぽかんと口を開けながら、左手の人差し指を槍のように立てて三人に向けた。

 「探偵? あんたたちが探偵?」

 「そうです。失礼ですが、あなたの名前は」

 「……姫子ひめこ

 ベッドから身体をすべり出し、肩をこわばらせながら姫子はいった。

 須貝は昨日都が行った各人格のレクチャーについて想起した。姫子について都はこう語った。

 ――臆病でひねくれもの。他者不信を抱いている。嘘をつくこともよくあるし、言動が挑発的で嫌味ったらしい――

 「これまた厄介なひとが出てきたなぁ」

 須貝がぽつりとつぶやくと、LAWはくすくすと鼻で笑った。

 姫子は目を細めて三人をにらみつけている。何かいいたそうだが何もいわない。不自然な沈黙のに耐えきれず氷織は口を開いた。

 「姫子さんは――」

 「じ、自己紹介!」

 氷織の声を遮って姫子は声を荒げた。

 「あたしにだけ自己紹介をさせて、あんたらは自分が何者なにものか教えないわけ。そんなのずるい。ずるいったらずるい」

 どうも先ほどの沈黙は氷織たち三人の自己紹介を待っていたものらしい。

 「姫子さんのおっしゃる通りですね」

 氷織はうんうんとうなずきながら、須貝とLAWの背中に手を当てて前に押した。

 「初めまして。わたしは恒河沙氷織と申します。こっちは妹のLAW」

 「ひおり……かっこいい名前。LAWってのはなに? ちょっと狙いすぎてるんじゃない」

 「姫子にいわれとうないわ」

 ほほを膨らませながらLAWはいう。

 「須貝といいます。どうぞよろしく」

 「下の名前は」

 「正義まさよしです。正義せいぎとかいて正義まさよし

 「シンプルにださい」

 「LAWさんあの子シメましょう!」

 「邪魔するなら外に出てなさい」

 氷織はLAWと須貝の耳を引っぱり二人を後ろに下げた。ギャーと悲鳴をあげる二人の姿を見て、部屋の隅に立つ神崎がにへらと笑った。

 「姫子さん。少しお話ししたいことがあるのですが、よろしいですか」

 「それよりさ、知ってたら教えてよ。なんてわたしこんな場所で眠ってるの。このベッド、タバコ臭くてかなわないんだけど」

 「覚えていらっしゃらないのですか」

 いや、『ご存じないのか』と訊ねるべきかと氷織は逡巡する。

 「今日の昼頃、都先生が亡くなられたのです」

 「え、本当に。やったぁ!」

 姫子は両手をパンと叩いて飛びはねた。その拍子ひょうしに、ワンピースのフロントポケットから金色の装飾を施したペンが床に落ちた。姫子はそのことに気づく様子はない。

 「ふふん。あのガングロオヤジ、死んだなんていい気味だわ。ねぇ、どうやって死んだの? 病気? それとも事故?」

 期待のこもった姫子の視線に一同は戸惑いを覚える。その空気を察知したのか、姫子はクリっと顔を曲げて『もしかして、殺人?』とたずねた。

 「そうです」

 氷織が答えながら、落ちたペンを拾って差しだした。

 「ありがと。で、誰が殺したの?」

 左手でペンを受けとり、ポケットに入れる。姫子はきょろきょろと探偵一同の顔を代わる代わる見つめた。しかし返事がないことに不審を覚えたのか、部屋の隅に立つ神崎に視線を変えた。

 すると神崎は含み笑いを浮かべながら、姫子にむかってあごを突き出した。

 「……わたし?」

 姫子の顔がまたたく間に青ざめていった。

 「え。冗談でしょう。そんなわけないよね。わたしが。わたしがころ、ころ、ころ……」

 「姫子さん。落ちついて。あなたは気絶されてこの部屋に運びこまれただけです」

 氷織は近づき、姫子の手を取ろうとした。しかし――

 「さわらないで!」

 姫子は氷織の手をはじき、いっそう深く布団にくるまった。

 「嘘でしょ嘘でしょ。あの先生が死んだなんて。殺されたなんて。殺された? え、まさか」

 姫子は亀のように顔だけを出していった。

 「もしかして『殺してやる』って……あの言葉が実現したの?」

 「そうでしょうねぇ」

 神崎は腕を組みながらうなずいた。

 「わたしじゃない!」

 爆ぜるように姫子は叫び、ぼろぼろと両目から涙をこぼしはじめた。

 「わたしはいっていない。誰かが、わたし以外のだれかが嘘をいっているんだ。みんないっていないって。『殺してやる』なんて誰もいっていないって。だけど嘘だ。わたし以外の誰かが嘘をついたんだ。わたしじゃない、わたしじゃない。わたしじゃないんだってば」

 嗚咽にまみれた姫子は全身で暴れまわり布団を吹き飛ばした。あたまを抱えてわんわん泣きじゃくる姫子の身体を氷織がおさえつけ、『大丈夫だから。大丈夫だから』と繰り返しささやく。

 「氷織さん。ハヤテを呼びだしてみたらどうですか。あのひと、“外に出やすい”って自分でいっていたじゃないですか」

 「それもそうね。ハヤテ、出てきて。姫子さんが泣いていて大変なの」

 だがハヤテが出てくる様子はない。姫子は声が枯れんばかりに泣いてばかりだ。しかし――

 突然姫子はぴたりと泣き止み、ベッドに腰かけたまま石像のように固まってしまった。

 「そうですか。お医者さまはあるじの元に召されましたか」

 発せられた声は姫子のものではなかった。寛緩かんかんとした荘厳なる声色。その声は慈愛に溢れ、耳にするものすべての心を安らかなものに変える力をもっていた。

 両目を深く閉じ、そっと手をあげて胸の前で十字を切る。

 「なんじの魂に安らぎがあらんことを」

 「あなたはシスターですね」

 シスターは憂いた目で氷織を見つめて首肯した。

 「その声。今朝、お声がけいただいた方ですね。えぇ。わたくしは()()()いましたが、あなたの声はよく聞こえましたよ」

 今朝の面会の際に氷織が試みたトーキングスルーのことだ。

 「全員に今朝のわたしの声は届いたのでしょうか」

 「わたくしははっきりと聞こえましたが」

 「姫子さんは氷織さんの声を聞いてもトーキングスルーのことは思い出さなかったようでしたね」

 須貝がいった。

 「少なくとも姫子さんには氷織さんの声は聞こえてなかったんじゃないですか」

 「それはどうでしょう」

 シスターが顔を上げた。

 「姫子にお会いしましたか。あの子はあの通り粗忽者そこつものですから。今朝のこの方のお声と眼前のこの方のお声を同じものとは思わなかったのかもしれません」

 「ハヤテに出てくるよう声をかけたんですがね」

 「ハヤテですか。ハヤテは……駄目ですね。出てきません。諦めてください。えっと、失礼ですが、あなた方のお名前を教えていただけますか」

 三人は簡単に自己紹介を済ませた。シスターという言葉は固有名詞ではない。しかし都医師は彼女のことをシスターと呼び、先ほど氷織が『シスターですね』と呼びかけた時も首肯した。彼女にとってシスターとは固有名詞なのだ。

 「今日の昼頃、都医師が殺害されました。凶器はキッチンの出刃包丁です。何か覚えていることはありますか」

 「わたくしが都先生を殺したとお考えなのですね」

 「そうではありません」

 語気を強めて氷織はいった。

 「そうではありませんが、わたしたちは()()()()()が都医師を殺す場面を目撃したのです。あなたたちの誰かが彼を殺した。いったい誰が。わたしたちはそれを突き止めたいのです」

 「しかし、そんなことが可能なのですか」

 シスターはベッドに座ったまま足元の枕を拾う。姫子が暴れた際に落ちたものだ。

 「それはひとの内面の問題です。あなた達は外面しか観察していないのに、内面の真実を突き止めようとしている。ひとの心とは、魂とは不可侵の領域にあるのです。まことの意味であなたは他者の考えていることがわかるのですか。わたくしの今の気持ちがわかるのですか」

 右手でほこりを優しくはたき、枕をベッドの上に戻す。手つきを含めた所作の全てに高尚なものが備わっている。先の姫子とは大違いだなと須貝は思った。

 「犯人を見つけるのは不可能だと、シスターはお考えですか」

 「その通りです。少なくとも、わたくしには思いつきません。ただもし……もしあなた達が誰かを罰したいというのなら、罰することでしか先に進めないというならば」

 シスターは両指を組んで祈りの姿勢をとると、厳かに頭をさげていった。

 「どうぞ私をにえにお差し出しください。わたしを罪人として告発するのです」

 「証拠もなしにそんなことはできません」

 須貝が鼻息を荒くする。しかしシスターは閉じていた目を開くと、慈愛に満ちた表情を須貝に向けた。

 「イエス様はいわれました。『敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい』。あなた方がわたくしを殺人犯として告発した時、あなた方と真犯人はわたくしの敵となります。ですがわたくしは敵を愛することができます。慈しみ、すべての争いを無くすことができるのはわたくしだけなのです」

 「無茶いいはるなぁ」

 LAWは大きく口を開けてあくびをする。

 「キリスト様の倫理観なんて、()()()出身のうちにはよーわからんわ。先の質問に答えて。事件について覚えとることはないの」

 「ありません。今日は……ずっとに沈んでおりましたので」

 「それなら事件について思うことは。あんたらの中の誰が犯人やと思う?」

 「ほんの冗談だったという可能性はありませんか」

 「ん?」

 「冗談だったのです。その……事件は、冗談だった。つまりはお遊びのつもりだったのでは」

 冗談。お遊び。出刃包丁を持ち出すのがお遊びとはつまり――

 「犯人は都センセを殺すつもりはなかった。ただたわむれのつもりで都センセに包丁を振り下ろしたと?」

 殺意はなく。おふざけでそんなことをできる人格というとひとりしか思いつかない。

 「犯人は子どもだと、しおりちゃんだといいたいのですか」

 須貝が声をあげる。シスターは気まずそうに顔を伏せた。

 「悪くないお考えですね」

 沈黙を貫いていた神崎がぽつりとつぶやく。皆の視線が彼女に向くと、神崎はくすくすと笑ってみせた。

 「しおりに悪意はなかった。あのガキにとって、出刃包丁を突き立てるのは都先生とのおままごとの延長線上にあった。もし犯人に都先生を殺すという悪意と殺意があったのなら、何故みなさまが食堂に集まる昼食の時間に、食堂の目と鼻の先である庭で殺人を犯したのでしょう。見られても問題がなかったからです。おままごとのつもりで、悪意なんてなかった。だから殺人は行われた。そしてそんな幼稚な考えができるのは、しおりってガキだけです」

 「しおりちゃんが、犯人?」

 須貝の脳裏に昨夜のしおりの姿が映る。

 チョコレートが好きなしおりは、子どもらしく笑い、子どもらしく泣きじゃくってみせた。とても人間の腹に三度も出刃包丁を突き刺す殺人鬼とは思えない。

 だがそれがしおりの遊戯ゆうぎにカテゴライズされていたとしたら。しおりは無邪気にして無自覚なままに、殺人という禁忌の道に足を踏み入れたのではないだろうか。

 しおり犯人説。須貝の中でこの信じがたい可能性が質量をもち始める。一度しおりと話してみたいとシスターに交代スイッチングを依頼したが、しおりは出てくるのを嫌がっているようだと断られた。

 「もうよろしいですか。できたらわたくし、都先生の魂が安らかな眠りにつかれるようお祈りをささげたいのですが」

 シスターは眉をひそめて探偵たちにいう。

 仕方がないと、三人は寝室を後にした。



 5

 「ハヤテ。柴田徹。しおり。暴風雨。ブラッド。姫子。そしてシスター」

 自室に戻った氷織は、須貝とLAWに向かって語りだした。

 「九重愛の七つの部分・・のうち、暴風雨を除く六人と会ったことになる。ところで、彼ら彼女ら七人は、いったい何のアイディアを材料に九重愛の中で生み出されたと思う?」

 「え? え? 質問の意味がちょっと……」

 「()()()()()ものいいはやめて。病院育ちのインテリはこれだから嫌やわ」

 二人から揃って非難をうけ、氷織は『うぐ』と動揺を見せた。

 「つまりね。九重愛はこれまでの生涯で少なくとも七つの部分をつくりだしてきた。他人からプレゼントとして与えられたのではなく、それぞれを自分の中につくりだしたの。では……例えばハヤテの性格や口調、趣味嗜好など、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 何となく質問の意味がわかってきた。須貝は指をあごに当てながら頭の中を整理してみる。

 「それはやっぱり、過去に会った人間じゃないですか。愛さんは過去にハヤテの一部分を有するひとに会った。そうして集まった部分を組み合わせてひとつの人格、ひとりのハヤテが生まれたんですよ」

 「そうね。一般的にDIDの部分の多くは過去に出会った実在の人物をモデルにしていることが多い。人間の脳には他人の行動を自分の行動と錯覚するミラニューロンっていうシナプスがあってね、DIDの患者がもつ人格は、このミラニューロンが活発に働くことで生まれることがあるの。昨日今江さんから聞いたんだけど、九重愛は子どものころ教会のシスターにかわいがってもらったそうよ」

 「え」

 須貝は驚きの声をあげた。

 「つまり、九重愛はそのシスターを真似て自分のなかに“シスター”を生み出したというわけですか」

 「たぶんね」

 「ひぃねえ。もしかしてシスターだけじゃなく、他のひとにも実在のモデルがいるってこと?」

 「全員が全員そうとは限らないけど、その可能性は高い。それとシスターは九重愛の中で守護者の役割を果たしているんだと思う」

 「守護者……ですか?」

 須貝は聞きなれない言葉を耳にして、背中がむずむずとかゆくなった。

 「DIDの人格は、他の複数の人格とのグループの中で何らかの役割をもっていると解釈される場合があるの。例えば、各人格をまとめる“リーダー”」

 「ハヤテのことやね」

 「“子ども”の部分」

 「しおりちゃんだ」

 「性的に正反対。“異性”の部分」

 「柴田徹。男性の老人とはうら若き乙女たる九重愛とは真逆や」

 「“芸術家”の部分。ブラッド。“臆病者”としての部分。姫子。そして、“虐待者”の部分」

 「暴風雨ですか」

 「正解。たぶんね」

 氷織は椅子に深く腰を下ろす。口もとを手で覆いながら、細い目を精一杯開いていた。

 「モデルとなった人物は何らかの形で九重愛と深い関係にあったはず。九重愛について調査している今江さんが、もしそのモデルについて情報を得ることができたなら」

 「ぼくらはその情報をもとに各人格と円滑なコミュニケーションをとることができるかもしれない。そして円滑なコミュニケーションのおかげで新しい情報を得られるかもしれない。少なくとも、何の情報もないよりかはマシだ。あ、でも……」

 須貝は床の上に腰をおろしてあぐらをかいた。

 「スマートフォン。取られちゃったんですよね」

 この情報化社会にふさわしくないからになったポケットを、須貝は淋しそうになでた。

 「できることならすぐにでも今江さんと連絡をとりたいところですが」

 「夜の九時まで待ってて」

 氷織の今江の定例報告のことだ。

 「鳥羽さんにメールの内容を確認されるのはしゃくだけど、調査に関するものだし、見られて問題はないからね」

 「あの。スマートフォンを無理やり強奪して助けを呼ぶってのは、やっぱりなしですか?」

 おずおずと手をあげながら須貝が提案した。しかし姉妹はそろって首をふって却下する。

 「危険すぎる。スマートフォンを奪う。電話をかける。相手に現状を説明する。それだけにどれだけ時間がかかると思う?」

 「いまの鳥羽は愛娘の犯行を目撃して錯乱状態にあるわけやろ。警察に通報したところで、自暴自棄になって助けが来る前に神崎にうちらを殺させるかもしれん」

 くしゅくしゅと須貝の手は下がっていく。床の上でうなだれる須貝は、前かがみになって陰鬱に身体を揺らした。

 「とにかく今は真相解明に集中してちょうだい。真面目に調査を続ける限り、鳥羽さんがわたしたちに嫌がらせを施す筋合いはないんだから」


 6

 LAWは夕食前にひと眠りしておきたいとベッドに潜り、氷織は今江に送るメールの文面を考えるとのことでテーブルに向かった。

 LAWの寝顔を見たい気もしたが氷織が横にいるのでそういうわけにもいかない。ではメール作成の手伝いができるかというとその自信もない。仕方なしに須貝はひとり本棟に向かった。

 自分の腕の骨を折った神崎に鉢あわせる可能性は十分にある。神崎に畏怖の感情を抱かないでもない。しかし、氷織のいう通り鳥羽の言葉に大人しく従っている限りは、神崎がこちらに暴力をふるうことはあるまい。

 居間に入ると、照明はついていたが、誰もいなかった。別の場所に移ろうかと思ったその時、須貝の鼻腔に不快な臭いが漂った。臭いのもとを探ろうと視線を巡らす。火のついた暖炉の方に近づくと臭いは強くなった。暖炉の中で半透明の何かが燃えている。臭いの発生源はこれらしい。

 「あちち……」

 火かき棒を使い半透明の何かを引きずりだす。しかしその何かはほとんどが燃え尽きてしまったのか、引きずりだせたのは五百円玉程度の大きさの破片だけだった。材質はビニール。もとは袋状になっていたのか、Ⅴの形に割れている。

 須貝はそのビニールの破片をポケットに入れた。今誰かが居間に入ってきたら悪臭を発生させたのは須貝だと思われてしまう。仕方なしに須貝は窓と廊下のドアを開けて部屋を換気した。

 数分経って窓を閉めたところで、廊下からパーカー姿の彰が居間に入ってきた。

 「よぅ」

 彰は須貝の右腕を見てあざけるような笑みを見せた。ソファーに寝転がり、手にしていた雑誌を開く。

 「腕、どうだい。さんざんだったな」

 臭いについて言及する様子はない。部屋の空気はしっかりと換気されたようだ。

 「安静にしていればすぐ治るそうです」

 だって治るように折ったから。加害者本人がそういっていたではないか。

 須貝は窓の外を見た。時刻は五時を回り外には夜の帳が降り始めている。無数の雨粒が暗闇を切り裂きながら落ちていく。どこまでも憂鬱な景色にため息さえでなかった。

 「もう聞いたかな。神崎は子どものころから格闘技に精通していて、中坊の時点で未来の金メダリスト間違いなしなんてメディアに取り上げられてたんだよ」

 須貝のそばにより、彰は小声でいった。ふたりの姿が窓ガラスにうつる。

 「そんなひとがどうしてこんな場所に?」

 「神崎は柔道の天才であり、究極のサディストだった。たびたび試合中に対戦相手を事故とみせかけて()()()きたそうだ。『目つきが気に入らない』。『自分に勝てるとほざきやがった』。そんな些細な理由でな」

 「馬鹿げている」

 「そんな神崎の運も尽きる時がきた。神崎は大学時代にとある全国レベルの大会で、いつも通り気にいらない相手を壊そうとした。しかし加減ができなかったのか、相手は――」

 彰は不自然に首を折ってみせた。だらりと舌を伸ばし、白目を剥いている。

 「まさか」

 「そのまさかだ。いつも通り事故として処理されたので罪に問われることはなかった。だが今回は相手が悪かった。対戦相手は地上波のスポーツ番組で特集されるほどの有名な美少女柔道選手でな。柔道界の広告塔をっちまったわけだ。神崎は柔道界から干された。だが神崎は気落ちすることはなかった。何故なら――」

 「あの女の死にさまを目の前でれたのですから」

 窓ガラスに神崎の姿が映る。二人の背後に立つ神崎は例の不気味な笑みをガラス越しに見せつけてきた。

 須貝は悲鳴をあげて飛びのく。彰は咳ばらいをしながらその場をはなれた。

 「須貝さま。あなたは、死を直前に迎えたひとの顔を見たことがありますか」

 神崎が楽しそうに訊ねる。須貝はヘビに睨まれたカエルのように固まってしまった。

 「どんな美人でもね、死の恐怖を前にすると顔が()()んです。人形のように小さな輪郭。つんと尖った高い鼻。宝石のような大きな瞳。そんな美しい顔が醜く歪むんです。愉悦の極みです。たくさんのひとを壊してきたけれど、あれほど楽しい時はなかった」

 「ひ、ひと殺し……」

 「それは違います。あれは事故でした。すべてが事故でした。わたしと対戦相手の技量の違いが生みだしたあわれな事故。それこそが客観的な事実であり、この世界で意味をもつ事実なのです。あなたやわたしの主観的な考えなど、何の意味ももちません」

 「神崎はその後、親父が秘書として雇い入れた」

 距離をおいた彰が腕を組みながら語りだす。

 「秘書課に所属しているが、秘書らしい仕事は特にしていない。親父の機嫌を損ねた仕事相手の身の回りに起きる()()()()()()の担当が主な仕事かな」

 「さようでございます」

 神崎は丁寧に頭をさげてみせた。

 「今回は社長の命よりも大切な愛様をお守りするためにこの別荘に長期滞在しておりますがね」

 『失礼します』といって神崎は居間を去った。

 「彰さん!」

 須貝は彰に詰め寄ると、肩をつかんで大きく振った。

 「スマートフォンを貸してください! 助けを呼ぶんです。あんな化けものといっしょにいるなんて……耐えられない!」

 「おちつけよ。おちつけ。おちつけってば。おい。おちつ……本当におちついて!」

 彰は須貝の身体を離し、ぺちぺちとほほを叩いた。

 「悪いがスマホは貸さない。親父の機嫌を損ねるわけにはいかないんでな。それより、捜査はどうなってるんだ。誰があの医者を殺したのかわかったのか」

 まだわからないと伝えると、彰は不服そうな顔で遊戯室に入っていった。

 後を追う気にもなれず、須貝は暖炉の前のロッキングチェアーに座った。

 前後に身体を揺らしていると、ふと彰の言葉が気になった。

 ――親父の機嫌を損ねるわけにはいかないんでな――

 「いや、さんざん機嫌を損ねてきたじゃないか」

 彰は父親の許可を得ずこの別荘に押しかけて来た。愛をこの別荘に住まわせていることを勝手が過ぎると非難した。それなのに今さら何をいうのか。

 須貝は考えなおした。彰がいっているのは、愛が殺人を犯す姿を見て、まともな思考ができなくなった鳥羽についてのことだ。鳥羽の精神はいま不安定な状態にある。そんな男に反抗的な態度をとって何をされるのかわかったものではない。そういった意味で、機嫌を損ねるわけにはいかないのだ。

 ロッキングチェアーに揺られていると、キッチンの方から足音がした。使用人の三崎が『夕食の準備ができました』と伝える。須貝が食堂に入ると、サラダボールが置かれたテーブルにはまだ誰もおらず、一番乗りの須貝はコッソリとサラダに盛られたスライス状のゆで卵をつまむ。カトラリーは席ごとに用意されているが、昼食よりは一人前少ない。当然ながら。

 時間の経過と共にひとが集まっていく。十分もすると愛と神崎を除く全員が食堂に集まった。愛は客室棟の自分の部屋に移り、神崎の監視の下で眠っているとのことだった。

 ひとりの男の死が夕食の質に影響を与えることはなかった。牛のほほ肉が沈んだシチュー。魚介と水菜をレモンで和えた冷製パスタ。魚料理はシンプルにサケのムニエル。昨日と同じく見目麗しい料理が食卓に並んだ。

 たしかにひとりの男の死が夕食の質に影響を与えることはない。しかし、ひとりの男のケガはその男の食事に大きな影響を与えた。

 「あっつ!」

 震えるスプーンからこぼれたシチューが須貝の左脚に落ちた。スプーンを置いた手でズボンの上のシチューを拭う。だがシチューはまだ熱を保っており、須貝は再び『あっつ!』と叫んだ。

 利き腕を骨折した須貝は、左手での慣れない食事を強いられていた。

 「おやおや。難儀しているねぇ」

 顔を真っ赤にした鳥羽が陽気な口調でいった。その手にはもはや氏にとって必需品となったウィスキーグラスがある。午後の間ずっと飲み続けていたらしく、鳥羽はこのグラスを握りしめながら食堂に入ってきた。酒で気をまぎらわそうと必死なようだ。

 “誰のせいで!”と叫びそうになったが自重する。鳥羽を刺激してはいけないことは先ほどの彰との会話で理解した。鳥羽の機嫌を損ね、神崎に左腕まで折られ、皿に顔をつけて犬のように食事をするのだけはごめんだ。

 カトラリーを使うのは諦め、パンをシチューにつけて食べようかと思ったその時――

 「ん」

 LAWがスプーンにシチューをすくって、須貝の口もとにさしだした。

 呆然とする須貝の口にスプーンを差しこむ。熱々のシチューが口の中で自己主張を始めたが、須貝はその熱を感じることはなかった。それどころではなかったから。

 「横で見ててしんきくさいわ。うちが手伝うさかい、とっとと食べて」

 不思議なことに、須貝には料理の味が感じられなかった。機械的に口を開け、機械的に咀嚼する。彼の目は顔の前に伸びるLAWの細い指に見とれていた。

 「役得だなぁきみ。ケガをするのも悪いもんじゃない」

 彰はワインが入ったグラスを鳥羽に向けた。赤ら顔の鳥羽は『うんうん』とうなずきながらウィスキーのグラスを掲げる。彰の横では妻の優里が不安そうな面持ちでムニエルをほぐしていた。

 「あの、LAWさん。もういいです。ごちそうさま」

 顔の火照りを感じた須貝は大した量を食べずに席を立った。暖炉のある居間は熱すぎる。冷たい廊下をわたり、客室棟の自室にもどる。

 ベッドの上に倒れこみ、枕に顔をうずめた。

 「なんなんだよあの子は」

 心臓がドラムロ―ルのように音を刻む。冷静になろうと目をつぶるが、邪推ばかりが頭をよぎって集中できない。

 「本当に、なんなんだよ」



 7

 須貝が去った直後、鳥羽は氷織にグラスを向けた。

 「それで、調査の具合はどうかな。誰が都先生を殺したのか……」

 「まだ何ともいえません」

 チャバタパンを割りながら氷織はいう。横ではLAWが三杯目のビーフシチューを美味しそうにすすっていた。

 「ただ、犯人は愛さんの中にしかいません。手っ取り早いのは犯人から自白を引き出すことです。愛さんの中にいらっしゃる全員とお話をする必要があります。愛さんの体調がすぐれないことは理解しておりますが、可能な限り、彼女()()とお話しする場を設けてくださるようお願いします」

 「それは、まぁ仕方がないか。あぁそれから。例の……なんといったか。メールだ。定時連絡の文面は用意してくれたかな」

 「はい」

 「よろしい。それでは八時過ぎになったらわたしの書斎に来ていただこう。建山と二人で内容に問題がないか確認させていただく」

 鳥羽は横に座る秘書の建山の肩を叩いた。建山は肩をすくめて『わかりました』と小声で返した。

 夕食が終わり、時刻が八時を迎えると、氷織はひとり鳥羽の書斎を訪れた。

 椅子に座る鳥羽は酔いが相当回っているのか、うつろな目で氷織を見つめた。秘書の建山は居心地が悪そうな表情で壁際に立っていた。

 「みなさんのスマートフォンは奥の寝室の金庫のなかに保管させてもらっております。こちらが探偵さんのものでしたね」

 テーブルの上に置かれたスマートフォンを鳥羽は持ち上げた。氷織は無言で肩をすくめる。

 「そもそも定例報告なんてする必要があるのか。この別荘のことを先方に伝えて何になるというのかわたしにはわからないな」

 「わたしは定例報告を送る側ではありません。受ける側です」

 「受ける? どういうことかな」

 「報告をやり取りする相手には、九重愛さんの過去について調べてもらっています。建山さんはうちの事務所にお越しになられた際に、愛さんについて説明するのを拒みました。素性の知らない相手を対象に仕事をする気にはなりません。教えていただけないなら自分たちで調べるしかないというわけです」

 「そうか。まぁいいさ。探偵なんかにこそこそと嗅ぎまわられたところで、痛くもかゆくもない」

 「DIDの人格の多くは、その人の経験に大きく影響を受けて生みだされることがあります。愛さんの過去を知ることが、彼女たちについて理解することにつながるのです。例えば愛さんの人格のひとつ、シスター。愛さんは小学一年生の時に、近所にある教会のシスターに優しくしてもらいました。その経験が彼女の中にシスターという――」

 「もういい。結構だ!」

 鳥羽は両手を上げて話をさえぎった。

 「その何とかって探偵仲間の調査が必要なことはよく理解した。連絡を取り合うのをやめろといっているわけじゃない。余計なことを伝えなきゃいいんだ。そら。どんなメールを送るのか紙に書いてきたんだろう。見してみなさい」

 手のひらと大して変わらない大きさの紙を鳥羽にわたす。氷織の手帳から切り取った長方形のその紙には、文字がびっしりと書かれていた。

 「建山」

 読み終えた鳥羽が秘書を呼ぶ。建山は時間をかけて文面を読むと、『いいんじゃないでしょうか』といった。

 「事件のことは何も書いておりません。この文章を読んだだけで、異常事態が発生したとは思いもしませんよ」

 「そうだな。わたしもそう思う」

 鳥羽は水のみ鳥のおもちゃのように頭を上下させた。

 「よろしい。では建山。探偵さんの代わりにメールをうってさしあげなさい」

 建山は紙の文面と同じ文章をメールにうちこみ、午後八時五十五分に今江に宛てて送信した。

 挿絵(By みてみん) 

 挿絵(By みてみん)

 それから約ニ十分後。今江からの返事が届いた。

 今江からのメールを最初に読んだのは建山だった。

 「どうだ。どんな内容だ」

 「えっと……なんと説明したらいいのか」

 建山は狼狽した様子で画面と鳥羽を交互に見つめた。

 鳥羽は空になったグラスを叩きつけるようにテーブルに置き、建山からスマートフォンを奪いとった。

 「なになに。くそ……目がかすれて読めん。眼鏡はどこに。いやいい。建山。どうだ、メールにおかしなところはないか」

 「おかしなところといいますと?」

 「殺人事件が起きたこととか、おれが探偵たちをこの島に閉じ込めていることだよ!」

 酒乱状態の鳥羽が獣のような怒声をあげた。建山の狼狽はさらに強まる。

 「あ、ありません。たぶん大丈夫。大丈夫です」

 「そうか。くそ。眠いったらありゃしない。もういい。ほら、探偵さんに読ませてやれ」

 建山は奪われまいと警戒しているのか、スマートフォンを両手で握りしめながら氷織につき出した。

 「結構です」

 一読いちどくして氷織はいった。

 「夜分も遅くなりました。これで失礼させていただきます」

 返事を待たずに氷織は部屋をあとにした。



 8

 腹の音が鳴っている。

 腹の音が鳴っている。

 腹の音が鳴り響いている。

 「そりゃそうだよなぁ」

 須貝は空いた腹をなでながら情けない声を出した。

 ハプニングが起きて夕食の席から逃げ出したのは自分だ。今さら食堂に戻って『何か残っていませんか?』と訊ねる度胸は須貝にはない。

 空腹を忘れるためにとっとと眠ってしまおう。朝になれば朝食だ。朝食はどれだけ時間がかかっても自分の腕で食べよう。そう決意して電気も消さずにベッドに入る。頭からふとんを被ったところで、鼻腔に柑橘系の香りが漂う。須貝は、数時間前腕の治療が終わったあとにLAWがこのベッドに潜りこんだことを思い出した。嗅覚に呼応したのか、脳裏でスプーンをにぎったLAWの細い指がゆらゆらとゆれる。ふとんを払いのけ、須貝は何度も頭を叩いた。

 「おちつけ。おちつけ。くそ。なんでこんな……中学生じゃないんだから」

 「いやぁ、男はみんな中学生やで」

 ノックの音も『入るよ』といった断りの声もなく、ドアが開きLAWが姿を現した。

 須貝は悲鳴をあげる余裕もなく、ただその場で飛び跳ねた。

 「LAWさん。えっと、ぼくはその――」

 「はいこれ」

 LAWは手にしていたサランラップの包みをさしだした。ラップの中にはサンドウィッチが入っている。

 「三崎さんに無理いって作ってもらった。明日は須貝のために左手でも食べられるものを用意してくれはるって」

 お礼の前に須貝の腹が返事をした。LAWは口もとを両手で隠して笑う。須貝はほほを赤く染めて自分の腹を何度もたたいた。

 「あの、LAWさん。さっきの食事の時のようなことは……何ていえばいいかな。そんな気軽にやらないほうがいいですよ」

 テーブルに着き、サンドウィッチを口に運びながら須貝はいった。

 「なんでよ」

 LAWはベッドに座って首をかしげる。数分前まで自分が潜っていたベッド。模糊もことした意識が傾く。うまく言葉を紡げず、須貝は黙々とサンドウィッチを咀嚼する。

 「別に気軽にやったわけやないけど」

 口のはしからポロリとチーズのかけらが落ちた。

 「あれはひぃねえを助けてくれたお礼」

 「え……?」

 「昨日いったやろ。ひぃねえは壊れかけとる。ひぃねえをまもって……て。覚えとらんの」

 覚えている。しかし、須貝は自分が氷織を“護った”という自覚はない。そう伝えると、LAWはショートパンツから伸びる足を片方だけ曲げてベッドにのせた。

 「うちがあんたの腕にメスをいれようとしたら、あんたはひぃねえに助けを求めた。ひとは頼られると強くなる。あんたの悲鳴がひぃねえに()()()を取り戻してくれた。壊れかけたひぃねえの心をあんたが護ってくれた。だから、ありがとさん」

 「そんなつもりはなかったんだけどな」

 須貝は気恥ずかしくなり、頭のうしろをかいた。

 「そっか。LAWさんがメスをもったのは演技だったのか。ぼくに助けを求めさせて、氷織さんにかつをいれるつもりだったんだ」

 「うん?」

 「うん?」

 「ちゃうけど。本気でメスいれるつもりっていったやん」

 「……えぇ」

 「まぁまぁ。とにかくこんな美少女にあ~んしてもらえて嬉しかったやろ。役得役得」

 「あ、そうだ。LAWさん。これ見てもらえます」

 須貝は暖炉の中で燃えていたビニールの破片をLAWにみせた。拾った経緯を併せて説明する。

 「なんやろなこれ。さっぱりわからん。見覚えある?」

 「ありません」

 「うちも同じ。事件のあとに暖炉で燃やされとったわけね。ふーん。ひぃねぇにも見せたいから、うちが預かるわ」

 LAWはビニール片をショートパンツのポケットにねじ込むと、一度大きくあくびをしてから部屋を出ていった。

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