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11/21

幕間E

 1

 二月二十日 土曜日。

 『昨夜から関東に降り続いている雨は朝のうちに止むでしょう。その後は青空がのぞき、一日中晴れのお天気が続きます。お帰りの際は電車やバスの中に傘をお忘れにならないようお気をつけください』

 今江はホテルの自販機で買った無糖の缶コーヒーを口にした。画面の中ではモニターの天気図を背にしたアナウンサーがさわやかな笑顔で指示棒をふりまわしている。

 八時に名古屋駅を出発する新幹線に乗れば十時ごろには東京駅に着く。その頃には東京の雨はやんでいるだろう。傘をさして歩き回る必要はなさそうだと今江は安堵した。

『雨雲の動きをレーダーで確認してみましょう。関東にかかる雨雲はじょじょに太平洋方面へと流れていきます』

 モニターに映る関東一帯を覆う雨雲が右の方へ動いていく。本州の関東付近は晴れるらしい。しかし、関東南部の海上を覆う雨雲は関西の方まで連綿と伸びている。午前を過ぎ午後になっても海上では雨が降り続くようだ。駿河湾に位置する鳥羽の別荘は雨雲の範囲の中に位置している。

 今江はテレビを消すとバッグをもって部屋を出た。チェックアウトを済まし、名古屋駅の喫茶店で朝食をとる。となりの席では米俵のような体型のサラリーマンが小倉トーストを美味しそうに食べていた。甘いものに目がない今江ではあったが、朝七時からあずきとバターのコンビネーションに挑む胃腸は持ち合わせていない。焼いただけのトーストとサラダのセットをゆっくりと味わう。

 新幹線の中で手帳を開き、昨夜の調査内容を復習する。

 九重愛のこれまでの人生をひとことで表すなら――翻弄ほんろうだ。

 母親から虐待を受け。その母親と恋人の都合で東京への転校を強いられた。二十歳まで本人曰く『楽しくなかった』青春を過ごし、名古屋に帰ってくると数か月で母親は亡くなった。そして母親と入れ替わるように父親を自称する男が現れ、今度はその男に連れられて東京へ住居を移した。しかし話はこれで終わりではない。愛はDIDを患っており、父親は治療のために彼女を駿河湾の無人島へ連れて行ったのだ。

 これを翻弄といわずに何といえようか。愛の人生に愛の意志はなかった。家族のわがままにふり回され、家族の要求に従いながら生きてきた。彼女はこれから、どんな人生を送っていくのだろう。

 十時ごろに東京駅に着いた今江は、警視庁によって捜査第一課のテーブルに名古屋土産のういろうを転がしておくと、おっとり刀で大田区に向かった。吸血鬼のような白い顔のピアノマンが教えてくれたピザ屋は、羽田空港そばの住宅街にあった。ピザ屋はまだ開店していなかったが、シャッターの前に立っているとジャイアンツの帽子をかぶった中年の男が声をかけてきた。

 「開店は十一時からですが」

 男はこのピザ屋の店長だった。今江はうまく身分を隠しながら愛のことを訊ねた。店長は愛のことを覚えていた。

 「働き始めて二か月くらいで辞めちゃったんですよ。クビになんてしてません。自主的に退職されたんですよ。ただ、辞めてくれて内心ほっとしましたね」

 「どうして?」

 「九重さんは美人過ぎました。バイトの男たちが彼女をめぐってケンカしたり、そこから派生して女の子が愛さんを妬んだりと、人間関係のトラブルが多かったんですよ。もちろん九重さん本人が悪いわけじゃないけど、原因が彼女にあるのは明らかですからね」

 今江は嫌悪感を押し殺しながらうなずいた。

 「それともうひとつ理由がありまして。九重さんは仕事にムラがありました。普段はとてもまじめで社交的に働いているんですけど、忙しい日に限って失敗が増えるんです。トッピングを間違えたり、タイマーをセットせずにピザを焼いて焦がしたり。いつもは何の造作なくできるレジ打ちもとんちんかんでね。彼女のせいで仕事が増えてしまう。やることが多くなるとパニックになっちゃうのかなぁ」

 今江はピザ屋を出ると、九重愛が高校時代に通っていた高校に向かった。愛の通っていた公立高校はピザ屋からタクシーで十五分ほどのところにある、市街地に位置するにしてはやたらとグラウンドの広い高校だった。

 この高校のことは桂から送られてきた九重愛のデータに記載されていた。愛が通っていた中学校と名古屋から転校してきた小学校、そして愛が東京で暮していたアパートの所在地も記載されていたが、ピザ屋からもっとも近い場所にあるのがこの公立高校だった。

 時刻は土曜日の午後一一時三十分。今江は校門の前で獲物・・が通るのを待っていた。

 約三十分後。獲物が来た。

 「ちょっといいかしら」

 校門から出てきた二人の女子高生に声をかける。ふたりは紺色のジャージを上下に着ており、掲げたスポーツバッグの底のほうは丸いふくらみが浮かび上がっている。部活終わりのバレー部かバスケ部だろう。バッグのふくらみはボールに違いない

 二人の女子高生は目を丸くすると、不安そうな表情で見つめ合った。見ず知らずの大人に声をかけられて警戒しているようだ。十六、七の女子高生なら当然の反応か。

 「この学校の子?」

 今江は当然の質問を初手に投げてみせた。警戒する相手には答えやすい質問から始める。コミュニケーションの基本だ。どんな内容であれ、言葉を交わすことで相手を知り、警戒の色は薄れていく。

 「そうですけど……」

 「お疲れのところ申し訳ないんだけど、知っていたら教えてほしいことがあるの。この学校の卒業生の九重愛ってひとのことを知っている?」

 「九重先輩!」

 「あの伝説の?」

 二人の女子高生は、愛の名を聞いたとたん警戒を好奇心に変えた。

 ――伝説?――

 「いまわたし、九重愛さんについて調査しているの。噂でもいいから知っていることを聞かせてもらえないかしら」

 「えー。でも、知らないひとに先輩のことを教えていいのかな」

 「だよね。個人情報保護法? とかあるし。そんな簡単にいってもいいのかな」

 「……九重愛さんね、近々うちの事務所から芸能界にデビューするかもしれないの」

 「芸能界!」

 「すすす、すごーい!」

 好奇心は興奮に変わった。このテンションまで持ち込めばこちらのものだ。

 「今後の活動方針を決めるため、彼女が周りからどんなキャラクターとして捉えられていたかを調べる必要があるの。どこの事務所からデビューするかは企業秘密なので名刺は渡せないけど……どうかしら。時間があったら、今から話を聞かせてもらえない?」

 三人は高校の近くにある喫茶店に入った。

 「お昼まだでしょう? 好きなものを注文していいよ」

 今江はメニューを渡しながらいった。二人の女子高生はスポーツマンらしい快活な食欲をみせた。それでいい。腹がふくれれば機嫌がよくなる。機嫌がよくなると口が開く。相手から話を聞き出すためには、相手の欲に訴えかけるのが一番なのだ。

 「わたしたちは現役の二年生なんで、九重先輩のことは噂でしか知らないんですよ」

 今江からみて右手の女子高生がいった。名前は梶谷かじたにさと。左に座る子の名前は五十嵐いがらし。五十嵐はたらこスパゲッティをフォークで巻き取るのに執心している。

 「九重愛さんは二十一歳だから、あなたたちは学校で会ったことはないでしょ」

 「そうです。でも噂はいろいろと聞いていました」

 「どんな噂?」

 「ものすごい美人で、ものすごい変人だって」

 「……美人だってのはわかる。だけど、変人というのは?」

 「いつも無口で、何をするにしても元気がないそうです。友だちも全然いないし、クラスの子が話しかけてもろくに相手にしなかったって。美貌を鼻にかけて相手にしないってんならわかるけど……九重先輩はそんな感じじゃない。誰を前にしても感情をださない。悟りを開いた僧侶みたいなひとだったそうですよ」

 「しょれと同時に、とぉんでもない事件を起こしたきょともあるんです」

 たらこスパゲッティをほうばりながら五十嵐はいった。口もとのよごれを今江は紙ナプキンでふいてあげた。

 「事件って」

 「暴力事件です。二年生のときに、地元の不良十人と対決して全員をボコボコにしたって。女子じゃないですよ。男子×(かける)十人!」

 「それは絶対にガセだって」

 梶谷はウェイトレスが持ってきた特盛オムライスを受けとりながらいった。

 「部活の先輩に聞いたんですけど、九重先輩はものすっごい線の細いひとだったんです。あ、お姉さんは知ってるか」

 「もちろん」

 嘘である。今江が知っている九重愛の姿は写真に写っていた七歳の姿だけだ。しかしそんな表情はおくびにもださない。今江は刑事である。会話のプロである。尋問のプロである。

 「モデルと女優のどちらで売り出していこうか悩んでいるところなの。あの細腕で男をまとめてねじ伏せるなんて、信じられない」

 「ほらみたことか」

 梶谷はスプーンに乗せたオムライスで五十嵐をさす。五十嵐は首を伸ばしてスプーンに食いつく。『あーっ!』という悲鳴が店内に響き渡った。

 「でもぉ、わたしのイトコが本当だっていってたんですよぉ」

 オムライスを咀嚼しながら五十嵐がいう。

 「イトコ?」

 「この子のイトコ、うちらの高校の卒業生で九重先輩の友達なんですよ」

『そうだよね?』と梶谷がいう。五十嵐はオムライスを水で流しこみながらうなずいた。

 「……ぷはぁ。そうです。その暴行の現場をイトコは見たっていうんですよ。でも誰もイトコのいうことを信用しなかったので、やっぱり暴行事件のことはガセネタか、もしくは九重先輩はその場に居合わせただけで、別の誰かが不良をボコボコにしたんじゃないかって」

 「そのイトコの方と話すことはできる?」

 「できますよ。大学受験に失敗して以来、浪人生という仮面をかぶったニートをしてますから」

 五十嵐はスマートフォンをとりだしてイトコに電話をかける。どうも相手は渋っているようだったが、五十嵐は押し切って約束を取りつけてくれた。

 「三時ごろに自宅まで来てくれるなら構わないと。イトコの家まで車で三十分ぐらいですけど」

 「午後は予定がないから大丈夫」

 「あの、わたしたちこのあと渋谷に行くんでご一緒できないのですが」

 「それも大丈夫。先方の住所と名前だけ教えてちょうだい」

 今江は自身の昼食も済ませてから喫茶店を出た。タクシーに乗り、五十嵐のイトコの家へと向かう。イトコの家は武蔵小杉駅の近くに立つマンションの一室だった。

 「あ、ど、ど、どうもはじ、はじまし、はじまして」

 ドアの向こうにいたのは、鼻の頭にそばかすを浮かべた化粧っ気のない女性だった。名前は佐々岡(ささおか)まり。

 ダイニングルームに通してもらい、梶谷&五十嵐のコンビにしたものと同じ自己紹介をする。まりは疑うようなそぶりは見せなかった。透明なグラスになみなみと牛乳を注ぎ、震える手でテーブルにおいた。

 「イトコの五十嵐さんから、まりさんが九重愛さんとお友達だったと聞いたんですけど」

 「と、友達というか。仲がよかっただけというか。クラスがいっしょだっただけというか。二か月間だけ席がとなりだったというか」

 なんだか話の雲行きが怪しくなってきた。今江はコンクリートのように冷たいミルクをひと口飲んでから訊ねた。

 「九重愛さんと最後に会ったのは?」

 「高校の卒業式……」

 「九重愛さんとプライベートで遊びに行ったことは?」

 「ないです……」

 「いっしょにお弁当を食べたり、テスト勉強をしたことは?」

 「……」

 「体育の授業でペアを組んだことは?」

 「サッカーのチームでいっしょになったことなら……」

 「まりさん。ひょっとしてあなた、九重愛さんとは親しくないんじゃ」

 「す、すみません!」

 まりは両手をついて頭をテーブルに叩きつけた。その衝撃でグラスからこぼれた牛乳が今江の手にかかる。

 「わたし聡美に嘘をついたんです。あの子が高校生になって、今でも学校で九重さんの美貌が伝説として残っていると聞いて、九重さんと友達だったっていったらあの子驚くんじゃないかって。でもまったくの無関係ってわけじゃなくて。一年生の時に半年間だけいっしょに選挙管理委員をやったこともあって――」

 まりの両目から大粒の涙がぷくりと漏れ出た。次の瞬間、まりは声をはりあげて子どものように泣きじゃくり始めた。

 「ストップストップ。大丈夫だから落ちついて」

 今江は興奮するまりの肩を叩いて必死になだめた。佐々岡まりは九重愛の同級生。ということは今年で二十一歳になるはずだと考えながら。

 それから十分後。

 ティッシュボックスひと箱を涙で涸らしたまりのために、今江はキッチンで暖かいミルクティーを淹れてあげた。なんで初めて来た他人の家でこんなことをせねばならないのかと思わないでもなかったが、それと同時にこれが仕事を果たすためにはベストの行動だと確信していた。

 「別にあなたが九重愛さんのお友達でなくてもわたしは構わないの」

 ミルクティーを注いだマグカップを渡しながら今江はいった。まりは短い舌を出して子猫のようにミルクティーをのみはじめた。

 「わたしが本当に聞きたかったのは、九重愛さんが二年生の時に起こした暴行事件のこと」

 「暴行……事件?」

 「九重愛さんが地元の不良十人に暴行をはたらいた話。聡美さんによると、あなたはその現場に居合わせたそうだけど。本当?」

 「本当です!」

 まりはテーブルを叩いて立ち上がった。

 「その話は本当です。学校の近くの公園で、わたし見たんです。近くの男子校の不良たちが公園のベンチに座っている九重さんにちょっかいを出して……」

 「ちょっかいって。具体的には?」

 「わかりません。わたし、遠くから見てただけなんで。怖くて、警察を呼ぼうと思ったんですけど、後からわたしが警察を呼んだってバレたらあの不良たちに何をされるのかって考えると足が動かなくて……」

 九重愛の美貌を考えると、ナンパだとか揶揄を投げかけたというあたりが妥当だろうか。

 「で、愛さんがその男たちをボコボコにしたってのは本当なのね」

 「本当です」

 まりは今江の目を見ていった。今江はまりの目を見て確信した。真実を語っている目だ。

 「九重さんを取り囲んでいた男のひとりが、背中からその場に倒れたんです。他の男たちが倒れた男と愛さんを見返して……男のうちのひとりが怒声をあげたんですけど、今度はその男がつんのめってその場に倒れこみました。そこからは一対八の大乱闘が始まったんです。といっても、男たちも女性である九重さんに対して本気で殴り掛かっていいのか戸惑っている感じでした。男といっても所詮は高校生。子どもですからね」

 その不良たちも、先ほどまで子どものように泣きじゃくっていたまりにはいわれたくないでしょうね……なんて言葉を今江はグッとのみこんだ。

 「その戸惑いの隙を見逃さず、愛さんは次々と男たちをぶちのめしていきました。的確に急所だけを狙って。トータルで一分とかからなかったんじゃないですかね。愛さんは傷一つ負っていませんでしたよ」

 「その乱闘のあと、九重さんは?」

 「帰っちゃいました。カバンをもって、いつも通り」

 今江は口もとに手を当てて考えた。暴行事件が起きたことは事実のようだが、佐々岡まりはこの事件を遠くから見たにすぎない。豹変した九重愛がどんな様子だったのかを、文字通り目の前で見たわけではない。本当の意味で、鬼神のごとく暴れまわった愛の様子を知るためには――

 「被害者と……九重愛に痛めつけられた不良から話が聞ければいいんだけどね」

 ぽつりと今江はつぶやいた。まりに聞かせるつもりのない独り言だった。何故なら、(聡美曰く)仮面浪人と偽ってニート生活を満喫しているまりが、同年代とはいえ他校の不良男子生徒と見識があるとは思えなかったからだ。

 「あ、調べてみます?」

 まりはけろっとした表情でそういうと、ペタペタと素足でフローリングの廊下を行くと、タブレットPCをもって戻ってきた。

 「調べるって何を」

 「愛さんにボコボコにされた不良のことですよ。事件があったのは四年前。あのころはうちの学区のネット掲示板があったから……ほら出てきた」

 タブレットPCにネット掲示板が表示されていた。横書きの書きこみが下に向かって続いている。


 【速報】昨日垂水(たるみ)町二丁目の公園ではぎぬま高校のヤンキーどもがボコボコにされたらしいww

 1:これマ?

 2:マジ。おれ萩沼の生徒だけどうちのヤンキーグループがまとめて欠席してたもん

 3:ヤクザに〆られたんだよ。あいつら調子のってたしヤクザマヂナイス

 4:>2 お前二組の田中だろ


 「ネット掲示板は怖いわね」

 「んで……ほら出てきた。萩沼高校の生徒だと思いますけど、実際に被害にあった不良たちの名前を書きこんでますよ」


 23:こいつら嫌いだしヤンキーどもの名前あげるわ。野中光。里崎康平。橋本雄三。小柴田剣。和田陸遜。相川大典。岡成泰。石川大吉。松本三郎。柳嶋勇樹。

 24:>23 和w田w陸w遜w

 25:>24 三国志かな?

 26:>23 これガチのやつじゃん。あーあ。23は野中に殺されるぞ。


 「で。この名前をSNSで検索してみます。十人もいれば一人ぐらいはハンドルネームじゃなくて本名でアカウントをもってると思いますよ。ヤンキーって自己顕示(けんじ)欲の塊ですから」

 まりの予想に反して十人のうち八人が実名でSNSのアカウントを利用していた。そのうちの三人が勤務先を特定できる投稿を日常的に行っている。

 「ネットリテラシーのない三人に感謝ですね。うへへ」

 「相川大典は栃木県。遠い。石川大吉は福岡県。もっと遠い。和田陸遜は――川崎市」

 「お。近いですね。川崎市の……漬け物専門店ですか」

 今江は流れるような速度で手帳に漬け物専門店の住所を書きこんだ。ここからならタクシーで一時間とかからない。

 「ありがとう。まりさんのおかげで助かったわ」

 「九重さん、本当に芸能界に入るんですか?」

 「どうかな。まだ確定はしてないから」

 「なんだかすごく遠くの存在に感じますね。半年とはいえ、いっしょに働いた相手が芸能界なんて。かたやわたしはひきこもり……とほほ」

 「いっしょに働いた?」

 今江は手帳を片手で開いた。

 「アルバイトでもしてたの?」

 「あ、そういう意味じゃないです。さっきいったじゃないですか。一年生の時に半年間だけ二人で選挙管理委員会に入っていたんですよ。うちの学校、一年間のうち半年は必ずどこかの委員会に入らなきゃいけないんです。たいていは仲のいいグループで同じ委員会に入るんですけど、わたしと九重さんは友達がいなかったから、余りもの同士で無理やり選挙管理委員会にれられたんです」

 まりの瞳が淋しい学生時代を想起している。

 「愛さんの仕事ぶりはどうだった?」

 「そつなくこなしていましたよ。ただあの美貌で黙って仕事をするのは逆に怖くて、わたしってば一方的に愛さんに話しかけちゃいまして……あぁ……黒歴史黒歴史」

 「別にいいんじゃない。愛さんは嫌な顔をしたわけじゃないんでしょう」

 「でもたぶん気持ち悪がっていたと思いますぅ。だってわたし、アニメの話ばっかりして……愛さんがそんなのに興味あるわけないですもんねぇ」

 「どうかしら。他人が何を考えているかなんて、案外わからないものよ。ひょっとしたら愛さんもその話を聞いてアニメに興味をもったかもしれない。知らない世界の話を聞くことで、そのひとの世界は広がっていく。強く拒絶されたわけじゃないなら、まりさんが間違ったことをしたとは思わないわ」

 今江はマンションを出てタクシーを拾った。目指すは、神奈川県川崎市。


 2

 和田陸遜が務める漬物屋は、JR川崎駅からバスに乗って十分ほどの位置にある商店街にあった。軒先にいくつもの漬け物が並んでおり、その前で前掛けをかけた金髪の男が腰の曲がった老婆と話している。男は口髭を生やしているがその顔つきはまだ幼かった。

 「いらっしゃいませ」

 近づいてくる今江の姿をとらえ、男が頭を下げた。老婆は男から漬け物を受けとると、杖をつきながら軒先を去った。

 「何かお探しですか。今日はしば漬けがいい感じですよ」

 今江は勧められるがまましば漬けとセロリの浅漬けを二〇〇グラムずつ買った。代金を払い、になった瞬間に攻めに転じる。

 「陸遜さんっていらっしゃる?」

 男は『ひぇ』と小さな悲鳴をあげた。

 「すみません。その名前恥ずかしくて、呼ばれるのは得意じゃないんですよ」

 「あなたが。ちょっとだけお時間よろしいかしら。九重愛さんのことで」

 九重愛の名前を聞くと、和田陸遜の顔色は茄子漬けと同じくらい青ざめていった。

 「あの女のことはほとんど忘れかけていたのに……」

 母親に店番を代わってもらった陸遜は、店の裏側にある猫の額ほどの庭まで今江を連れていった。

 「学校帰りにみなで公園に行ったらさ、ベンチに九重さんが座っていたんですよ」

 苦々しい表情で陸遜は語りだす。

 「最初に声をかけたのかは野中光だったと思う。光はチームのリーダー格だったから。とにかくすごい美人だって……からかおうとしただけ。向こうは無言だったからビビってんのかなと思ったけど、九重さんの腕を掴んだ瞬間、光は後ろむきに倒れて、のたうちまわり始めた。ベンチに座っていた九重さんが光の急所・・を蹴り上げたんですよ」

 陸遜は内またになって震えはじめた。

 「おれたちも若かったからさ。頭に血が上って、怒鳴りながら九重さんに掴みかかったけど……」

 「返り討ちにあった」

 陸遜は力なくうなずく。

 「ケンカなんて子どもの頃からしょっちゅうやってた。だけどあれはケンカじゃなかった。一方的な暴力ですよ。九重さんは何の躊躇ちゅうちょもなく男たちの急所を狙ってきた。その場にある石を握って、頭をかち割ろうと振りかぶってきた。最初に手を出したのはこっちだし、一対十なんで説得力がないかもしれませんが……九重さんがやったのは過剰防衛です。学区内の小さな公園なのに、あのひとだけが本物の戦場にいるようでした」

 陸遜の身体の震えはまだ止まらない。かさついたくちびるは紫色に染まっている。

 「あなた達はその後しばらく学校を休んだって聞いたけど」

 「入院したやつもいましたし、俺みたいに自宅療養で済んだやつもいました」

 「警察にはいったの?」

 「おれの親父はそのつもりでした。治療費だけでも払わせてやるって鼻息を荒くしてましたけど、結局被害届はだしませんでした」

 「どうして」

 陸遜は視線を反らしてもごもごと何かを唱えた。今江が彼の腰を叩くと、『ヒッ』と悲鳴をあげて飛びあがった。

 「どうして」

 「野中光がいってきたんです。女にやられたなんてみっともない。治療費は全員分の面倒をみるから警察にはいうなって。リーダーの光がいうなら仕方がないってみんな従いましたよ」

 「リーダーといったって、その子も高校生でしょ。九人分の治療費を出せるほどアルバイトをしてたの?」

 「……光の親父さんが出したんです。あいつの親父さん、大きな食品問屋を経営している金持ちだったんです。俺たちの治療費を払うくらい屁でもなかったでしょうね」

 「息子の悪行が世間に流布されるのを避けたかったわけね」

 なるほどと納得しかけた今江だったが、陸遜の視線が泳いでいることに気づいた。

 「いや、そんなはずはないか」

 今江がいう。陸遜は顔をひきつらせた。

 「公園での大乱闘は白昼堂々と学校の近くの公園で行われた。目撃者がひとりもいないなんてことはない」

 実際に佐々岡まりは愛が十人の不良を痛めつけるところを目撃していたではないか。それに、治療費を払ったところで、十六、七の高校生が完璧に口を閉ざすとは思えない。仲間内で愚痴をこぼすこともあれば、頭の上がらない先輩に詰問されて簡単に漏らすこともあるだろう。

 野中光の父親には何か魂胆があった。息子の仲間の治療費もまとめて払い、被害届を控えさせることで彼にいったいどんな利益があるのだろうか。

 「え」

 今江の脳裏をあまりにも不快な推測が駆け抜けていった。だがその推測はある程度の説得力をもっていた。

 公園で最初に愛に声をかけたのは野中光だった。愛の腕を握ったのも光。

 もしも野中光が、父親の性格・・をよく継いだ男だったとしたら。

 九重愛が息子とその仲間たちに怪我をさせた。母子家庭の九重家は、少なくとも名古屋にいたころは決して裕福とはいえない生活を送っていた。被害届を出し、公的な訴えが下ったとしても、九重親子が十人分の治療費を払えたとは思えない。

 だが九重家には、()()()()()のもとでは大金に匹敵するものを有していた。

 九重愛だ。九重愛の美貌だ。

 野中光の父親は、九重家が支払うべき治療費を肩代わりする代償として、()()()()()()()()()()()()()()

 今江が問いかけると、陸遜は静かに首肯した。

 「あとから光に聞いたんです。好色漢の親父が九重さんの美貌に鼻の下を伸ばした。ひと晩付き合ってくれたら全てを不問に付すると、九重さんのお母さんに提案したって」

 「それで、愛さんのお母さんは」

 「無い袖は振れない。提案をのんだそうですよ。それで九重さんは強制的に……」

 陸遜は言葉を濁すとうつむいてしまった。小さなその頭は漬け物石のように微動だにしなかった。

 「野中光の父親の会社はなんて名前」

 「会いにいくつもりですか? 無駄ですよ。去年潰れました」

 「じゃあ野中光の家はどこ。父親がどこにいるのか知らないかしら」

 「亡くなられました」

 「え」

 「一昨年に心筋梗塞で亡くなりました。光の兄貴が会社を継いだらしいですけど、全然うまくいかなくて一年で会社を潰しちゃったんです。借金を背負ってどこかに引っ越しちゃいましたよ」

 やりきれない感情を抱きながら、今江は重苦しい息を吐き出した。

 九重愛は異郷の地東京での生活を『楽しくなかった』と語った。そのほんの七文字の言葉に、彼女はどんな想いを込めていたのだろう。

 その細く美しい身体に、どれだけの傷を負ってきたのだろう。

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