第97話 亡き義父の追憶
意識が、覚醒する。
ここは、どこだ?
真っ暗な、薄気味悪い場所……。
明かりひとつない、夜の森の静寂だ。
夜目がきいて、かすかだが辺りを視認することができる。
近くには、だれもいない。
見たかぎり、民家らしい建物もひとつもない。
ああ、そうだ。
この日。俺は捨てられたのだ。
人里から遠くはなれた、森の奥で――。
茂みのこすれる音!? だれかが、こちらにむかってくるっ。
心臓が急に、はち切れそうになる。
だが、近くの茂みからあらわれたのは、人ではなかった。
黒い体毛におおわれた、三匹のフェンリル。
フェンリルたちは俺を見つけ、不気味な声をあげはじめた。
うなる口もとから涎をたらし、一歩ずつ、前肢をこちらにむけてくるっ。
食われる……。
頭がかぎりあるエネルギーを使って、俺に危殆をつたえてくる。
でも、子どもの俺では、フェンリルなんて倒せないんだ。
それ以前に、俺も空腹で身体が、うごかない……。
先頭のフェンリルが飛び出した!
食われるっ。
俺は、死を覚悟した。
目をつむり、小枝のような両腕で顔をかくして、恐怖が通りすぎていくのを待つしかなかった。
それから、どのくらいの時間が経ったのだろうか。
「おい。だいじょうぶか」
俺の目の前にいたのは、ひとりの老人だった。
白髪のまざった髪に、しわくちゃな顔。
父や母より高齢で、初めて見たときは違和感しかなかったな。
「返事しねぇな、こいつ。でも死んでねぇよな」
ぶっきらぼうな言い方に、高齢男性にしては大柄な体格。
右手には、鋼鉄のポールアクスがにぎられていた。
ああ……義父だ。
グラディオ・アズヴェルド。
ジルダが言うには、かなり腕利きの冒険者だったらしい。
だが、初めて会ったときは、ただの口が悪い老人にしか見えなかったな。
「あ……あっ」
声を出したいけど、声が出ない。
長いこと水をのんでいなかったから、ノドが渇ききっていたのだ。
「お前っ、水のんでねぇな! 死にそうじゃねぇか」
義父がその太い腕で、俺を抱きかかえてくれた。
「身体もこんなに軽くて……かわいそうに。お前も捨てられちまったんだな」
ああ……俺は、たすけられた。
このときに感じた絶対的な安心感は、生涯きっと忘れないだろう。
「夕飯をさがしに来ただけだったんだけどな。まいっちまったなぁ……。ま、しょうがねぇか。おい、坊主。いいから、これ飲めっ」
義父が水筒の口を俺に押しつけてきたのも、きっと忘れないな……。
どうして、こんな日のことを今になって思い出したのか。
* * *
また、目が覚めた。
視界にひろがっているのも、黒い布を覆いかぶされたような場所だ。
首筋や背中から、ひんやりと固い地面の感触がつたわってくる。
ここは、洞窟か?
夜目が利いて、天井のごつごつとした岩肌が視認できた。
腕をうごかそうとするが……激痛が走る。
二の腕に太い針を貫通されたような感覚だ。
指先にも、力が入らないな。
「あっ、目が覚めましたっ」
この子どものような声は、ビビアナか。
彼女の声に反応して、兵たちと思われる声が「おお」と聞こえた。
今度こそ、夢の中ではないな。
「ビビアナか。ここは、どこだ」
「あの、くわしい場所はわかりません。ラヴァルーサの近くにあった洞窟です」
ビビアナたちは、俺を担いで、ラヴァルーサから逃げてくれたのか。
「どこでもいいから、かくれる場所をさがしたんです。こんな場所しかなくて、すみません……」
ビビアナが力なくこたえるが、きみが謝ることなんて、ひとつもない。
「よく窮地から救ってくれた。恩に着る」
「い、いえいえっ。そんな! あたしたち、何もできませんでしたから……」
そんなことはない。お前たちは立派に戦ってくれた。
頭がようやく動きはじめてきた。
「俺は、ヒルデブランドに勝てなかったのだな」
「はい……あの、ヒルデ……という人は、あそこで怖い魔法を使ってた人ですか」
あそこで怖い魔法……ヒルデブランドが城門で魔法を使っていたことを言っているのか。
「そうだ。あの男は、ヒルデブランド。オドアケルのギルマスにして、こたびの住民反乱を起こした真の首謀者だ」
「オ、オドアケル……?」
「オドアケルは、ヴァレンツァに拠点を置く地下ギルドだ。地下ギルドは、武器の密売などを行う裏の組織だ」
「そ、そんな、怖い人たちがいるんですね……」
俺の近くに座るビビアナが、肩をふるわせた。
「ああ。オドアケルと、ラヴァルーサなどの地方都市との関連はいまいち不明だが、やつはおそらく自分たちの国をつくろうと画策しているのだ」
「自分たちの、国?」
「ようするに、ヴァレダ・アレシアの北東部を占拠して、自分たちが王になるつもりなのだ。不当な手段をもちいてな」
「そんなことが、可能なんですか! 国王陛下の許可もないのにっ」
「だから、武力にものを言わせているのだ。正当な王位継承権をもたない者に王座をわたすことなど、普通ならあり得ないからな」
ヴァレダ・アレシアの東で住民反乱が頻発するから、おかしいと思ったのだ。
あの男がその身分にそぐわない願望をもっていたのだと考えれば、話の流れがわかってくる。
「そう、なんですね……」
「ヒルデブランドがラヴァルーサの周辺をえらんだのは、ここが長らく不穏な土地だったからであろう。ラヴァルーサとその周辺の都市は、むかしから食料の供給をめぐって、領主と住民のあいだで対立が起きていた。
あの男はきっと、このヴァレダ・アレシアの土地を調べあげて、この土地で蜂起するのがもっとも合理的であると判断したのだ」
みとめたくはないが、あの男……いや、オドアケルの情報網に舌をまくしかない。
「そんな理由で、ここがねらわれたんですかっ」
「今までの会話やできごとを推察すると、そうなるだろう。ここの者たちには過酷な現実だが、これは――」
「ひどいっ!」
ビビアナが突然、さけんだ。
「パンが食べられずに苦しんでる人が怒るのは、わかります。だけど、そんな人たちを利用するなんて、あんまりですっ」
「そうだ。だから、俺たちでこの住民反乱をしずめなければならないのだ」
ヒルデブランドは、おのれの理想を叶えるために、ここの民たちを扇動したのだろう。
民たちも、それはきっとわかっている。
あの男の狂気に従っていたら、ここの者たちは不幸な人生をたどってしまうだろう。
「ドラスレさまのおかげで、状況はよくわかりました。ドラスレさまは部外者なのに、あたしたちよりも今日の戦いに精通しておられて、あたしたちは頭が上がりません」
「気にするな。こたびの住民反乱は、ただの反乱ではない。オドアケルが事態を深刻にしている。ヴァレンツァやよその土地の事情がわからなければ、ただしく対処するのはむずかしいだろう」
「そ、そうなんですね」
「ああ。俺をここに派遣したベルトランド殿の判断は、ただしかった。あの男の暴挙を、なんとしても阻止したいな」
ヒルデブランドのはなつ魔法は、今まで見たことがない威力だった。
再戦をふまえて、今回の戦いをしっかりと検証した方がよいかもしれないが、どのように対処すればよいのか……。
「あのっ、率直にお聞きしたいんですけど……あたしたちは、これから、どうすれば……」
それは、むずかしい質問だ。
「そうだな。俺はさっきの戦いで負傷して、ほとんど動けない。まずは動けるようにならないと、話にならない」
「で、では、お身体の治療が最優先なんですねっ」
「そうだ。俺の妻は優秀な魔道師だ。妻の回復魔法があれば、このくらいの傷はすぐに治療できるのだが」
だが、すぐに治療してもらうのは、きびしいか。
「その方は、どこにいるんですか!」
「サルンだ。俺の土地は、ここからはるか西だ。往復で移動しても十日はかかるだろうな」
「そ、そうですか……」
こんなことになるのであれば、アダルジーザをつれていくべきだったか。
つねに動いている戦局を見きわめるのは、むずかしい。これから、どう判断していくか。