第269話 激闘を終えて
目を開けると青い空が一面にひろがっていた。
俺はどこかで寝そべっているのか?
顔のそばで、名も知らない草がそよ風にゆれている。
ここは荒廃したヴァレンツァではない?
どうなっているのだ。
俺はヴァールと戦っていたはずだ。
重たい身体を起こす。
何げなく見下ろしたこの風景を、俺は見たことがある。
海のようにひろがるトレンダの森。
森の向こうは草原になっていて、騎士たちの豪奢な別宅がしずかにたたずんでいる。
ここは、義父の庵のそばにある裏山だ。
子どもの頃、俺はここで麓の景色を眺望していた。
「グラート。なにやってんだ」
むかしに何度も聞いた声が聞こえる。
ふり返ると、やせ細った義父が俺を見下ろしていた。
「いつまでこんなとこにいやがる。さっさと自分の場所にもどらねえか」
この人は何を言っている。
俺はあなたに拾われてから、長い間いっしょに暮していたのだ。
声を出したいが、ノドがつまっているのか、声を出すことができない。
「お前を待ってるやつがたくさんいるんだろ。こんなとこで寝てないで、さっさとそっちに顔を出してやれ」
義父はしわくちゃな顔で笑うと、俺に背を向けてどこかへ消えてしまった。
まだ、こっちの世界には来るなということか。
やらねばならないことがたくさんある。
義父には悪いが、もうしばらく俺を見まもっていてくれ。
* * *
暗黒の世界から意識が覚醒する。
今度こそ目が覚めたようだ。
耳もとから人の声がする。
ひとりだけではない。
五、六人はきっと近くにいるだろう。
「あっ、ドラスレ様が目を覚まされたぞ!」
声を張り上げたのは兵らしき男の声。
俺を上からのぞき込むように、ヴァレンツァの兵たちが俺を見下ろして歓喜していた。
「ここは――」
「グラート!」
突然、だれかに覆いかぶされる。
このやわらかい感触と細い髪は、アダルジーザだ。
「きみが、たすけてくれたのか」
アダルジーザは俺に抱きついたまま、泣いていた。
ヴァールとの戦いであったとはいえ、また無茶な戦いをしてしまったのか。
「やっと目が覚めたか、グラート」
どこかの医務室らしき部屋に入ってきたのは、ベルトランド殿であった。
彼は黒の貴族服を身にまとい、紺のマントを着こなしている。
「ベルトランド様もおいでになられたか」
身体を上げようとしたが、腕に力が入らない。
「安静にしているのだ。アダルジーザ殿がお前の怪我を治したが、疲れ切った身体まで治すことはできないはずだ」
「はい。無礼ですが、横になったまま会話することをお許しください」
ベルトランド殿が鼻で笑い、兵が用意した椅子に腰かけた。
アダルジーザが泣き止むまで、彼女の細い背中をさすった。
「ベルトランド様、ここはどこですか。ヴァールは、どうなりましたか」
「ここはヴァレンツァの南に併設していた砦だ。ヴァールは、死んだ」
なんとっ。
「正確には、お前が倒したのだ。お前が斧でやつを斬ったのに、わからなかったのか?」
「はい。死力をふりしぼって攻撃しましたが、途中で意識をうしなってしまったのです」
「なんと! そんな状態であの魔王を倒したというのか。お前は相変わらず、とんでもない男だな」
俺はヴァールを倒すことができたのか。
「ヴァールが死に、アルビオネの兵はひとり残らず本国へ退却していった。われわれもヴァレンツァを滅ぼされ、多くの兵をうしなってしまったが、陛下はご無事だ。民もヴァレンツァの郊外へ逃がしていたから、大した被害を受けていないはずだ」
ヴァレンツァはヴァールとアルビオネの魔物たちによって破壊されてしまったが、人的被害は少なかったのか。
「あそこでヴァールを始末できたからよかったものの……わたしの命にお前が背いたときは困り果てたぞ。軍律に背いて私情を優先するなど、騎士にあるまじき行為だ。通常ならば軍法会議ものだ」
「申しわけありません。ヴァールの礼に応えるため、どうしてもベルトランド様の命に服せなかったのです」
「魔物の礼に応える必要などなかろう。まったく、お前というやつは……」
ベルトランド殿は顔をしかめておられたが、すぐに笑みを見せてくれた。
「お前のお陰で、またひとつ大きな戦いが終結したのだ。改めて礼を言わせてもらいたい」
ベルトランド殿が背筋をのばし、頭をそっと下げる。
まわりで立ちつくしていた兵たちも同様に頭を下げていた。
「そんな……やめてくだされ。俺は自分の意思に従って行動しただけです」
涙をふいていたアダルジーザが、やっと笑ってくれた。
* * *
ヴァールの侵攻によってヴァレンツァの正規軍は撤退を余儀なくされたが、陛下をはじめ王国の官吏たちは無事であった。
市民もラグサや周辺の街や村へ避難していたため、大きな被害を免れることができた。
「グラート。お前のお陰でヴァレダ・アレシアは三度救われた。わたしからも礼を言わせてくれ」
陛下がジェズアルド殿や側近たちとともにお見えになられて、俺の手をとってくれた。
陛下も疲れ切っておられたが、体調をくずしてはおられないようであった。
「ありがとうございます。ヴァレダ・アレシアの臣として、光栄の至りです」
「お前はわたしたちより大きな功績を残しでいるのだ。こんな、感謝の言葉だけでは到底報いられないであろう」
「そんなことはありません。わたしは、陛下や皆様が無事であれば、それで充分なのです。ヴァレンツァは廃墟と化してしまいましたが、人命がたくさん失われなくて、本当によかったと思います」
陛下が涙を流して、俺の言葉に何度もうなずかれておられた。
「このあたりはベルトランドくんの功績だな。彼はヴァールの侵攻のすさまじさを即座に察知し、全軍の撤退を判断していた」
ジェズアルド殿が陛下の後ろで言った。
ベルトランド殿は兵が休む宿舎へもどられている。
「そうであったのですか」
「うむ。わたしたち文官は、もっと抵抗するように厳命したのだがな。彼は頑として聞き入れなかった。きっと、軍人にしかわからない空気というか、戦の流れを肌で感じ取ったのだろうな」
「はい。ベルトランド殿はとても優秀なお方です。わたしのように無謀な戦はしかけず、確実に兵を進められる方なのです。指揮官にふさわしい方なのであると、わたしは思います」
「うーむ。騎士団長にふさわしい人材であるということだな。グラート、お前がそう言うのであれば、間違いないのであろう」
ジェズアルド殿が低い声でうなっていた。
「彼は彼でグラートの戦闘能力を賞賛して止まぬし、お前も彼の指揮能力を賞賛してばかりで、子どものように仲がいいのだな。きみと彼がいれば、ヴァレダ・アレシアは何度でも守り通すことができる。どうか、これからも陛下に忠義をしめしてほしい」
「もちろんであります。斧が折れるまで……いや、斧が折れたとしても、このこぶしでアルビオネの魔物どもを駆逐してご覧に入れましょう」
そう宣言すると、部屋が歓喜につつまれた。
「グラート、お前が言うと冗談に聞こえぬな!」
「もちろんであります。これは冗談などではありません。現に、わたしはマドヴァで斧を失ったとき、このこぶしでヴァールに対抗したのです」
「そっ、そうなのか!?」
「はい。ヴァレンツァへの帰還が大変おそくなってしまいましたが、このあたりの経緯もそのうちお話しいたします」
「うむっ。その話、のんびりとくつろぎながら、じっくり聞かせてほしいぞ!」
陛下が子どものように笑っておられた。
「その前に、まずはヴァレンツァの復興だな!」
ジェズアルド殿が大きな声で笑った。
「そうです。わたしたちに悲しんでいる時間はありません。ヴァレンツァを立て直し、以前よりも住みやすい街をつくるのです」
「お前が治めていたサルンも同様だな」
「はい。わたしは、この戦いで壊滅してしまったサルンを復興させなければいけません。どうか、ヴァレンツァの復興をお願いいたします」
ジェズアルド殿と官吏たちが力強くうなずいてくれた。