第185話 諜報員ディベラの提案
ディベラという諜報員の女をつれて、川のながれる場所に移動する。
ここは塀のそばにある水汲み場で、村人が生活用水を得るためによく利用する。
「ここは村の外にありますが、川を下れば容易に村へ潜入できますね。あまり良い構造とは言えない」
ディベラが白い手で川沿いの塀をさする。
「そうだな。だが、そのようなことをする村人は、この村にはいない」
「ふふ。悪い村人がいると言っているのではない。盗賊の侵入や他国の攻撃を受けたときのことを憂慮しているのです」
この女が言う通り、川には塀や柵を立てていない。
川もそれほど深くないから、アルビオネの者たちであれば簡単に侵入できてしまうだろう。
「忠告、感謝する。至急、ここに防御用の柵を立てるように指示しよう」
「それがようございます」
ディベラが黒い口をわずかにゆるめた。
「ここから侵入できると知っておきながら、あなたはあえて侵入しなかったのだな」
「もちろんです。わたしは盗賊や他国の侵入者ではない。王命によってここへ訪れた、言わば使者です。旅券も所持しているのに、どうして無法者と同じ行いをする必要があるのでしょう?」
「あなたの言う通りだ。俺の考えが誤っていた」
「気になさらなくてけっこうです。アルビオネが今にも攻撃してこようという危機的な状況下です。見知らぬ者に村の土をふませる方が不用心なのです。
これからアルビオネに潜入しようというのですから、今くらいの用心深さを持ち合わせていた方がよい。有名なあなた様と同行できることを、非常に愉しみにしていますよ、ドラスレ様」
この女は手ごわい者だ。同時に、とても頼りになる者だ。
「あなたたちはヴァレンツァで諜報活動をしているのであったな。だれの下で活動をしているのだ?」
「職業柄、詳細に申し上げることはできませんが……そうですね。以前はサルヴァオーネ様の下で活動をしておりました」
サルヴァオーネだと!?
「ご心配にはおよびません。サルヴァオーネ様が更迭なされる直接的なきっかけをつくられたあなた様を恨んだりはしておりません。あくまで、かつての上官がサルヴァオーネ様だった、と申し上げただけです」
ディベラが気味悪い声で笑うが、背後に立つ二名の部下は冷たい表情を少しも変えていない。
「あなたたちは、俺を憎んでいないのか? サルヴァオーネが去って、あなたたちの処遇もかなり変化しただろう」
「それは、さほど……。サルヴァオーネ様が去られてからも、陛下はわたしたちの能力を買ってくださいました。わたしたちはヴァレダ・アレシアのためにはたらいているのですから、上官が変わってもすることは何も変わりません」
この女はヒルデブランドと同じように、組しがたい者だ。
冷たい表情で平然と主張する様子から、本音を少しもすくい上げることができない。
「自己紹介は、必要であれば移動しながら行いましょう。アルビオネが謎めいた儀式や作戦を行うことは、以前から知っておりました」
「なんだと!? それなら、なぜ今まで黙っていたのだっ」
「正確な情報が得られるまで、宮廷に報告できなかったためです。アルビオネに関する情報は、宮廷の方々をとって刺激が強い、扱いがとても難しい情報です。この前、東の大規模な掃討作戦が行われたばかりですから、宮廷の方々を無駄に混乱させたくなかったのです」
ディベラの主張は一理あるが、宮廷が窮地に陥ってからでは遅いだろう。
「ようするに、今回の潜入作戦はわたしたちの主導で迅速に推し進めることができます。彼らの特殊作戦はアルビオネの首都マドヴァで行われます」
「アルビオネの中心地まで行くのか」
「はい。ゴールドドラゴンのゾルデなど、ヴァールのかつての腹心たちがアルビオネの中枢を担っています。そして、彼らのヴァールへの異常な執着と狂信性が、こたびの特殊作戦を開始させました。
ヴァールの魂を持ち帰ったという彼らは、マドヴァの宮殿でこたびの特殊作戦の最終任務を遂行することが予測されます」
敵地のど真ん中に潜入するのは危険だが、背に腹は代えられない。
「では、マドヴァの宮殿まで、どうやって行く? 馬を用意して、これからサルンの関所を越えるのか?」
「まさか。そんなことをしていたら、手遅れになってしまいます」
ディベラが「くく」とわずかに声を出した。
「わたしたちはアルビオネに向かう際、飛行用の騎獣を使用しています。ドラスレ様はイルムをご存じですか?」
空からアルビオネの境界を越えるのか!
「いや。名を何度か聞いただけだ」
「イルムはワシに似た紫色の魔獣です。一部の物好きな騎士たちが愛好しているだけの乗り物ですが、われわれ間諜は騎獣を乗りこなすことが求められます」
空を飛ぶ騎獣がいるという話は、ベルトランド殿から聞いている。
騎獣をそろえ、さらに操縦できる者たちを訓練すれば航空部隊を結成できるが、その実現は夢物語でしかないと、ベルトランド殿がぼやいていた。
「空を飛ぶ騎獣を使って、アルビオネの境界を一気に越えるのか」
「そうです。正確にはマドヴァの郊外までイルムで移動し、そこから徒歩でマドヴァの宮殿へと潜入します」
「マドヴァの宮殿に直接降りるのは危険だろう。その考えでよいと思う」
「カタリアのそばを越えるのは危険です。アルビオネの警備兵から狙われるので。そのため、カタリアの東を大きく迂回するルートを取り、彼らに気づかれないようにマドヴァへ向かいます」
「わかった。あなたの説明で今回の潜入作戦をイメージすることができた。あなた方のやり方で、俺たちをどうか導いてくれ」
この者たちはとても優秀な者たちだ。
敵地に潜入したことがない者が、下手に口出ししない方がいいだろう。
「アルビオネの者たちも使っている常套手段です。われわれもこの方法で何度もマドヴァを往復していますから、ご心配にはおよびませんよ」
「アルビオネの者たちも、空からヴァレダ・アレシアに潜入してくるのか!?」
「もちろん。彼らには翼をもつ種族が混じっています。翼があれば、当然空から潜入したいと思うのが性でしょう? ドラゴンたちだって、巨体ですが空を自由に行き来できるのですから、当然ながら空から潜入してくるでしょう」
翼があるから空から潜入する、か。人間では容易に到達できない発想だ。
「騎獣は用意してありますので、今からマドヴァへ向かえますが、どうなさいますか?」
「ありがたい。マドヴァへ向かう前に、サルンの関所に寄ってくれぬか?」
「サルンの関所に……? 先ほど申し上げましたが、東に大きく迂回するルートを取らなければ、アルビオネの警戒網に引っかかってしまいます。サルンの関所に立ち寄ってしまったら、その分マドヴァへの到着が遅れてしまいます」
「うむ。それはわかっている。だが、俺の大事な臣下がサルンの関所にいるのだ。彼はなんとしても連れていきたい」
この潜入作戦は敵地の中枢へ潜り込む、危険きわまりないものだ。
シルヴィオの助力なくして成功はあり得ない。
「ドラゴンスレイヤーと呼ばれるあなた様が、どうしてもお連れすると譲らないほどの逸材、ということなのですね」
「そういうことだ。あなたたちも、じきにわかる」
朴念仁のようであったディベラの部下たちの表情が、やっと変わった。
俺の主張に異議をとなえようとしていたが、ディベラが右手で制した。
「よろしい。ドラスレ様のご意思にしたがいましょう」
「わがままを聞いてくれて、感謝する」
「ご心配にはおよびません。だが、先ほど申し上げた通り、サルンの関所に寄れば、その分迂回するルートが大きくなり、マドヴァへの到着が一日か二日ほど遅れることになります。それによって生じた責任は、ドラスレ様に負っていただきますよ」
ディベラが冷たい表情で言い捨てた。