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閑話:後輩の独り言




『――北條先輩、ですか? ああ……あの、仕事面では尊敬してますけど、女性として見るのは、ちょっと』


 どうしてあの時、あんな心にもないことを言ってしまったのだろう。その日のことを、僕はずっと後悔し続けている。



********



「北條暁子です。今日から君の教育係を任されました。これからどうぞ、よろしくね」


 第一印象は、こんな綺麗な人見たことない、だった。

 長く伸ばした黒髪を一つに束ね、真っ白い肌にはシミ一つ見当たらない。分厚いレンズの眼鏡の奥の切れ長の目は理知的で、薄い唇は意思の強さを表すようにきゅっと引き結ばれている。着ているスーツはありふれたものだが、凜と伸ばされた背筋にどんな高級素材も叶わない輝きを見た。

 化粧は恐らく最低限。甘ったるい香水の匂いも過剰な柔軟剤の匂いもなく、シャンプーの香りだけが漂っていた。

 その、何者にも媚びることはないという臨戦態勢がかっこ良く、愛想笑い一つしないその様にも好感を持った。それが出来るだけの仕事の手腕にも憧れた。


 結論から言えば、僕はあの時彼女に一目惚れをしたのだ。

 無論のこと、初対面でそんなことは言えないので自己紹介をしただけに終わったのだけど。


「次、この資料をまとめておいて」

「はい」

「それが終わったら、こっちのデータをプリントアウトしておいてね」

「はい」


 彼女の指示は的確で無駄がなく、非常に分かりやすいものだった。マルチリンガルでもある彼女はよく海外の取引先と電話で話しており、その声すらも聞き惚れる。

 同僚達からは「あんな無愛想で怖そうな先輩に指導を受けるなんて可哀想」と何故か同情されたが、北條先輩の良さが分からないなんて、可哀想なのはそっちだな、とさえ感じていた。

 しかし逆に言えばライバルがいない、ということでもある。ならばそう悪いことでもないなと思い直した。

 それに先輩が無愛想で怖そうなんてことも、とんだ誤解である。

 確かに先輩は普段滅多に表情を変えることはない。しかしその喋り方は決して威圧的ではなく、むしろ優しい。怒る時は怒るのだけど、理不尽に怒ることは絶対にないし、あの表情一つ変えない淡々とした喋り方から必要以上に怖く見えているのだろう。そういう意味では、損な性分だな、と感じる。

 そんな先輩だが、たまにごく僅かに表情を変える時がある。

 少しで良いから先輩と仕事以外の話がしたいな、と常々願っていた僕は、ある時先輩に知恵比べを持ちかけてみたのだった。


「知恵比べ?」

「はい、北條先輩の知識って多岐に渡るじゃないですか。僕もちょっと自信があるので、どうです、受けてみませんか」


 仕事の合間の息抜きに、という条件で持ちかけてみれば、先輩は案外あっさりと頷いてくれた。正直もっと怒られると思っていたので拍子抜けである。

 でも、彼女にしてみれば仕事ばかりでこういった娯楽に飢えていたのかも知れない。自分の知識を試すことが出来る、というのは楽しいことなのだし。

 クイズ形式でお互いに問題を出し合い、正解が多ければ勝ち。少なければ負け、という実に単純な形式だった。先輩の知識量は凄まじく、僕が負け越してばかりだったがとても楽しかった。

 何故なら、その時だけ先輩が笑うから。ほんの少しだけ、嬉しそうに口角の端を吊り上げる。他の人が見たらきっと気付かないであろう先輩の笑みを、僕だけが知ってる。それが見たくて、僕は毎日のように先輩に挑み続けていた。


 そんなある日、僕が社員食堂で食事をしていると、同じ部署の先輩方が集団で僕を取り囲むようにして座ってきた。


「よう、鈴木、どうだ最近」

「……別に、普通です」


 正直に言って僕はこの先輩方が好きではなかった。自分の能力の無さを棚に上げて、北條先輩を厳しいお局様だの行き遅れだの、好き勝手で的外れなことばかり言うから。


「北條先輩もさー、厳しいじゃん? うちらしょっちゅう怒られるしさー、鈴木君も苛められてない?」

「そんなこと、無いですよ」


 北條先輩が厳しいのは、仕事が出来ない人間に対してだけだ。つまりそういう風に接されている時点で、彼らの能力に対しては推して知るべしである。まったくどうやってこの会社に入社したのか。親のコネか何かかも知れないけど、それにしたってもひどい。

 それも分からないようなら、永久に怒られ続けるであろうことは目に見えている。

 けど、僕はそれを指摘してやるほど、彼らに親切にはなれなかった。


「ぶっちゃけさー、鈴木って、北條先輩のこと、どう思ってんだよ」


 その質問に、僕は身を固くした。あまりに品のない不躾な質問に、怒りすら覚える。

 僕の秘めたる片思いを彼らに告げるつもりには勿論なれず、かといって彼女の魅力を語って良さに気付かれても困る。なので僕は、無難に切り抜けることにした。


「北條先輩、ですか? ああ……あの、仕事面では尊敬してますけど、女性として見るのは、ちょっと」


 そう答えた瞬間、周りの空気が変貌を遂げた。

 悪意と侮蔑、嘲笑が渦巻く、おぞましい空間へと。

 彼らは我が意を得たり、とばかりに満面の笑みを浮かべ、ここぞとばかりに盛大に口を開いてみせる。


「だよなー、やっぱりそうだと思ったんだよ」

「北條先輩もさぁ、ちょっとがっつき過ぎだよなー」

「そうそう、まぁ、行き遅れだから気持ちはわからなく無いけど、あそこまで教育熱心だとさぁ……」

「バレバレだよなー。もう少し上手くやれば良いのに」

「手取り足取り、もっと深くまで教えてあげますー?」


 そこで、何がおかしいのか先輩方がどっと笑う。いい加減にして欲しい。さっきから、食事が何の味もしない。まるで砂でも噛んでいるかのようだ。

 それに、北條先輩は純粋に仕事だから僕の面倒を見ているのであって、彼らの思う下心なんてこれっぽっちも持ち合わせてはいない。実態はまるで逆である。この僕の、一方的な片思いでしかないのだから。


「……北條先輩は、そんな人ではないですよ」


 そう言ってみたが、彼らは聞いてないようだった。それはそうだろう。彼らの中のシナリオでは、北條先輩は新入社員の僕に立場を利用して言い寄る悪女なのだから。

 諦めて、何の味もしない食事を再開する。こんなことでしか北條先輩に勝った気持ちにしかなれない先輩方を、内心で憐れみながら。


 この時の僕は、まさかあの心にもない台詞を、一生後悔し続けることになるとは露ほども思ってなかったのだ。





 先輩の様子がおかしいことに気が付いたのは、昼休みが明けてからだった。

 いつも通りに話し掛けたのだが、何だか素っ気ないような気がする。その上、僕に向けて信じられないようなことまで言ってきたのだ。


「……鈴木君も、あまり私に近付かない方が良いよ。誤解されるから」


 その言葉に、僕は頭の中が真っ白になった。

 まさか聞かれてた? あれを?

 心当たりと言えばそれくらいしかない。まずい場面を見られてしまったと、顔をしかめる。もうあの先輩方には極力関わらないようにしようと内心で決意を固め、仕事へと打ち込んだ。

 聞かれてしまったのなら仕方ない。そのうち……そう、僕が仕事面でもっと自信を付けて、知恵比べでも彼女に負けないくらいになったら、その時こそ告白をするのだ。

 さっきの言葉を精一杯に詫びて、男としてもっと彼女に意識してもらえるようになれば……。


 この時の僕は気が付いてなかった。もうそんな機会など、永久に喪われてしまったことに。




 そして週が明け、これまで一度も無断欠勤などしたことがなかった彼女が来ていないことを知り、僕は嫌な予感に顔から血の気が引いた。

 最悪の想像が頭を過る。そんなことはないと思いたくて、僕は彼女の家に行かせてくれと上司に懇願した。なんとか許可をもぎ取り、北條先輩の自宅へと向かう。

 その日はとても暑い日で、スーツなんて着ていたらあっという間に熱中症にでもなってしまいそうな程であった。

 彼女が住むマンションの管理人と警察官立ち会いの元、部屋のドアが開かれる。


 ……その日見たものは思い出したくない。ただ、ここ一週間程の気温は非常に高く、遺体は非常に腐乱が進みやすかったとだけ言っておく。



 あれから、何年もの時が流れた。

 その後僕は一人の女性と付き合い、結婚もしたのだがそれでも、彼女ほど好きな女性は現れなかった。


 どうしてあの時、あんな心にもないことを口に出してしまったのか。

 何故あの時、先輩方を止めることが出来なかったのか。

 あの時ああしていればこうしていれば。ああだったらこうだったら。

 たらればばかりが頭の中をぐるぐると巡る。

 ああ、もしも許されるならば、彼女にとって次の人生が、限りなく幸福であらんことを、願う。

 僕の罪は許されないとしても、それでもどうか、願うくらいは許されたい。

 それだけが、僕に出来る精一杯の償いなのだから。




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