19.夢を見る少女
――今、ベルトランは何と言っていただろうか。好きだと言ったのか、ジリベールさんを。
嘘だ、何かの間違いだ。そう思いたいのに、聞こえた言葉は間違いなくベルトランの声だった。
どうして? 殿下はベルトランが彼女に付きまとわれて迷惑がってたと言っていたのに。あれは嘘で、本当はベルトランはジリベールさんと共にいるのを望んでいる?
確かに彼女は可愛らしい。性格も明るくて社交的なのだと以前ちらりとベルトランが語っていた。私みたいに無愛想で人付き合いも苦手な人間とは正反対だ。ならばベルトランが心惹かれるのも仕方ないかも知れない。このまま黙って立ち去るのが、本来ならばきっと正しいのだろう。――でも。
前世、私が命を落とす直前に聞いた私の後輩の言葉をふと思い出す。あの時は、何も聞かずに立ち去ってしまった。ここで私が行ってしまえば、あの時と何も変わらない。私はまだ、ベルトランに何も伝えていない。
それに、嫌だ。ベルトランが私でない他の誰かのものになるなんて堪らなく嫌だ。このまま終わってしまうのが、堪らなく、嫌だ……!
そう思ってベルトランの後ろ姿に目線を投げる。彼の背中がなんだかとても大きく見えて、我知らず私はその背中へと抱き着いていた。
「え、フランどうしてここに……」
「――嫌です」
「フラン?」
「嫌です、嫌、嫌! ベルンがわたくしでない人のものになるなんて絶対に嫌! だってわたくし、貴方が好きなんです! ですからどうか、お願いですから……他の人のものになんてならないで……!」
口から転がり落ちたのは、あまりに稚拙で愚かしい程の心情の吐露だった。もっと他に何か伝えたいことがあったような気がするのに、何も出てこない。ただ、久しぶりに見たベルトランの姿に何だかとてもたまらない気持ちになっていた。
不意に涙が零れそうになり、慌てて唇を噛み締めて俯いた。こんなみっともない顔、ベルトランに見られたくない。そう思ったその瞬間、背筋にぞくりと悪寒が走った。
この場から逃げなければいけないと、本能からの警告が聞こえた気がして身を離そうとした時、いつの間にか反転していたベルトランに腕を捕まれ顎を捉えられ、上向かされる。
「え、ちょ、べる……」
その時見たベルトランの顔は、何と言ったら良いのだろう。恍惚、と言うのか黄金の瞳を潤ませ、頬は紅潮し、口元は三日月を描いている。その目の甘さと来たら、ココアに飽和寸前まで砂糖を投入し、さらにマシュマロを浮かせて生クリームとチョコソースをトッピングしたらこうなるかも知れない、という感じの甘さと、危うさを孕んでいた。
「フランがいる」
逃げないと、と更に身を退こうとしたところで捕まれた腕に力を込められ、彼へと引き寄せられる。胸元へと顔を埋める格好となり、頬に血が昇った。このままではまずいと、何か言わねばと顔を上げたその時、ベルトランの顔が目の前へと迫って来ていて思わず絶句する。
「フランがいる。しかもわたしのことを好きだなんてこれ、夢かな? じゃあ、良いかな……良いよね、うん」
一人で何かを納得しているようだけど、これは夢じゃない。そう言おうとしたその瞬間、私の唇にベルトランのそれが重ねられた。
「!? ……?????」
え、これってもしかしなくても私……ベルトランにキスされてる? 待ってどうして、今ジリベールさんに好きだとか言ってた筈では?
混乱して硬直する私をよそに、ベルトランが何度も啄むように角度を変えて私に口付けをしてくる。生まれて初めてのキスに私は完全に翻弄され、心なしか息が上がってくる。
「……フラン、口、開けて」
「ぁ……」
ベルトランの囁きに私は言われるがままに口を薄く開け――
「ちょ、ちょっとお二人とも! あたしを無視しないでください!」
ジリベールさんの悲鳴のような声に、私もベルトランも揃って動きを止めた。
まずい、完全に彼女の存在を忘れてた……と冷や汗をだらだら流す私を見て、ベルトランがようやく正気に戻った様子で幾度か目を瞬かせる。
「……あれ、フランがいる。夢じゃない? これはもしかして現実かな。わたしに都合のいい幻でなく?」
「……正真正銘、ベルンの婚約者のフランシーヌです」
私の返答に、ベルトランの顔が耳まで赤くなった。それから顔を覆い、その場で膝から崩れ落ちる。
「え、えー……それならさっき聞こえた……フランがわたしのことを好きだって言ったのも……現実?」
「……はい」
そう答えるのはかなり恥ずかしかったが、嘘は付けないので小さく頷く。と、彼ががばりと顔を上げた。それから蕩けるような笑みを浮かべ、赤い顔のまま、ゆっくりとその場から立ち上がり、がばりと私を抱き締めた。
「ありがとうフラン! わたしもフランが好きだ……大好きだ! ずっとずっと前から! 世界で一番、大好きだ!」
ベルトランの心からの叫びに、顔が熱くなっていく。先ほど聞いた告白は何だったのかと疑問を生じつつ彼を見上げると、また口付けされそうになった。
「ちょ、待ってくださいベルン、聞きたいことが……」
「ああ、わたしも話したいことは山ほどあるとも。だけど今は、久しぶりのフランを堪能させてくれ……!」
「それはいいんですけど、あの、待って……」
一度落ち着いて冷静に話し合いしなければと彼の腕の中でじたばたしてると、放置していたジリベールさんの地を這うような声が聞こえてくる。
「いい加減に、あたしの前でいちゃつくの、止めてくれませんかね……」
その言葉にようやく彼女の存在を思い出したかのように、ベルトランが顔を上げる。その顔には思いきり不機嫌と書かれており、私との時間を中断させられた不満からか、イヤそうに舌打ちした。
「……なんだ、まだいたのか。わたしは君に話はもう無いんだが? さっきもはっきり言っただろう。わたしは婚約者のフランを好きで心の底から愛してるし、その気持ちは変わらないと」
「……えっ、じゃあさっき、ジリベールさんに好きだって言ったのは」
「君のことに決まってるだろう、わたしのフラン」
真剣な眼差しで熱く囁かれ、またも私の頬に血が昇る。ベルトランが私のことを好き……それはなんて幸せなことだろう。
しかしジリベールさんにとってはそれどころではないようで、苛立った様子で足を踏み鳴らし、私とベルトランに向けて人差し指を突き付けてくる。
「どうしてそんな無愛想で笑いもしない人がいいんですか、ベルトランさま! あたしはあなたの、運命の人なのに! あたしの方がその人より絶対に可愛いのに、なんで!」
「……運命の人?」
なんだそれは、と呆気に取られたところで、ベルトランが私を抱き締める腕に力を込める。それから、彼女を睨み付けた。
「運命の人だかなんだか知らないが、わたしの婚約者を貶すようなことを言う人間よりはわたしはフランのことを好きになるし、フランの方が君よりもずっと可愛いから安心していいよ。分かったらもうわたしに付きまとうのは止めるんだ」
そう辛辣な言葉を吐くベルトランに、彼女が泣きそうな顔を向ける。しかしベルトランは、にべもない。
「君が行かないならわたし達が立ち去るまでだ。久しぶりにやっとフランを補給出来たんだ。君と話をする時間なんて、一秒だって惜しい」
「……っ、そんな! ベルトランさまはあたしの運命の人なんです! だってあたし、昔夢で見たんです! ベルトランさまは人当たりは良くていつも笑顔だけど誰にも心を開かないお人で、あたしはそんなベルトランさまの孤独を癒して差し上げるんです。でもベルトランさまの婚約者の方はそんなあたしを許さなくてたくさん意地悪をするんです! だけどベルトランさまはそんな意地悪な婚約者を許さず、最後は断罪して婚約破棄し、あたしと結婚するんです。それがハッピーエンドなんです。もう決まってることなんですよ、ベルトランさま!」
突如として熱のこもった口調で、ジリベールさんがどこかで聞いたようなストーリーを語り始める。その頬は紅潮し、瞳はきらきらと輝き、両手は胸の前で組まれている。その語り口に私は不快感と不気味さを覚え、一歩後退りする。
と言うか、ベルトランが常に笑顔で誰にも心を開かない?
「誰のことですかそれは」
「誰のことだそれは」
私とベルトランがほぼ同時に言葉を発する。それに一瞬恥ずかしさを覚えたが、やはり今のは聞き捨てならない言葉だった。
ベルトランの人当たりが良いのは確かだが、誰にも心を開かないなんてそんなことはない。私だけでなく、同じクラスには殿下を始めとして何人か友人がいるのを私は知ってる。家族とも仲は良いので、孤独なんてのも当てはまらない。いや本当に、誰のことを言ってるのだ彼女は。
「意地悪な婚約者? まさかフランのことじゃないよな? わたしの婚約者は人に意地悪するような人間じゃないし」
「そっ、それは……」
にこにこと笑いながら、ベルトランが怒気を発する。それに怯んだようにジリベールさんがたじろいだ。
「確かに君は去年の後半、半年ほどクラスメイトから嫌がらせを受けていた。だけどフランは中等部で学年が違うし、校舎も離れている。そんなフランが君に嫌がらせなんて物理的に出来る筈がないし、わたしは君とフランを会わせないようにもしていたから実際にするわけもない。性格的にも有り得ない。何よりなんだその、どこかの三流劇作家が書いたかのようなストーリーは」
すっ、とベルトランから表情が消える。その黄金の瞳から熱が無くなり、どこまでも冷ややかだ。それを前に、青くなったジリベールさんが黙り込む。
「君がわたしにまとわりついていたのはそういう理由か。わたしのことを度々、『ベルトランさまはそんな人じゃありません』と言っていたのはそれでか。嫌がらせを受ける度にどこか嬉しそうにしていたのは。おかしいとは思っていたんだ。君はわたしを好きだと言う割に、まるでわたしのことを見ていないと常々感じていたが……それが君の見ていたあまりにくだらない夢のせいだとしたら、救いようがないな」
「そんな、ベルトランさま!」
ジリベールさんが目に涙を浮かべてベルトランを見る。その眼差しに冷ややかな一瞥を返し、ベルトランは首を振った。
「嫌がらせを受けていたのは気の毒だったから解決に力を貸したりもしたが……こんなことなら放っておけば良かったな。家の手前、親切にしたのが間違いだった。どこかの貴族に嫁入りするつもりがあるなら勝手にやってくれ。少なくともわたしはもう、これ以上君に干渉するつもりはない。うちにはわたしから話しておくから、君はもう、わたしに近付かないでくれ」
静かな怒気を滲ませながら、ベルトランが彼女へと最後通牒を突き付ける。ジリベールさんは青い顔でその場に膝から崩れ落ちた。
「嫌……嫌よ……ベルトランさまは、あたしの運命の人なの……二人は結ばれる運命なのよ……なのにどうして……あんたが、あんたが邪魔するから!」
ジリベールさんが私を睨むのを、ベルトランが遮るように前に立つ。
「邪魔者は君だ。いい加減に理解しろ」
「うっうっ……そんな、ひどいわ……ベルトランさまがあたしに優しくするから、あたしだって好きになったのに! どうして!」
「君に優しくしていたのは、家に頼まれたからと貴族の義務だからでそれ以上でも以下でもない。しかしな、わたしにだって我慢の限界はある。……もう良いだろう、これ以上は時間の無駄だ」
そう言ってベルトランがその場から立ち去ろうとしたその時のことだった。不意に、近くの茂みから小さな真っ白いドラゴンが姿を表した。
大きさは人間の子どもくらい。鱗も角も爪も身体も目も真っ白で、一切の色が見当たらない。それを見て、私とベルトランの顔から一斉に血の気が引いた。
「あら? 何かしらこの子、可愛い」
泣いていた彼女が顔を上げ、小さなドラゴンに目元を綻ばせる。その真っ白なドラゴンがジリベールさんに歩み寄るのを見て、ベルトランは焦った声を上げた。
「バカ、そいつに近づくな! そいつは――色無しだ!」
ベルトランの声に応えるように、そのドラゴンはきゅおんと小さく、鳴き声を上げた。
このヒロインもどきは、転生者ではありません。




