苦悩する公爵令息
「ふぅ……いい天気ね」
お気に入りの紅茶と暖かい日差しを受けながら、ディラはほうっとつぶやいた。今日も朝から予定は入っておらず、屋敷にいたときよりもゆっくりと目覚め、時間に追われることなく朝食を堪能し、庭を飾る花々の中で大好きなティータイム。これほど、贅沢で心休まる時はあったであろうかと、彼女は微笑みながら、花々を渡り歩く蝶を眺めていた。しかし、唯一の不満があるとすれば……子供たちのことだ。実はあの日から子供たちをは会っていない。
実はディラの所業(?)を見た執事が、「奥様がお忙しさのあまり、お心をお病になりかけていらっしゃる!!!」とパニックになり、ディラが部屋で休んでいる間にその有能さをいかんなく発揮し、夜にまだ城に勤めていたアルドマーク公爵に連絡をとり、ディラをしばらく公爵夫人の公務を休ませることを了承させ、王都からはそれほど離れていないアルドマーク家の避暑地にディラを滞在させる手続き、そこを管理する者へ通達をし、公爵夫人付きの侍女たちは夜通しで夫人の荷物をまとめあげ、次の日、ディラが目を覚ましたときには、すでに旅立つ準備が整っていた。なにがなんだかわからぬまま、ディラは馬車に乗り込み、そしてこの避暑地へ来たのだが、最初は勝手に何を決めているのかと執事を問い詰めたものの、アルドマークの執事を務めて50年。現アルドマーク公爵の幼少期から彼に使え、アルドマーク家に身も心も捧げている彼の、涙ぐみつつ「奥様にはお休みが必要なのです!」という訴えに彼女は負けた。
(まぁ、でも実際あの面倒で気を使うことしかないお茶会に出なくてはいいのは、ありがたいわ)
ここへ来て三日目だが、ディラはここぞとばかりに公爵夫人の休暇を満喫する。子供たちに会えないのはつらいが……あの日、ディードを抱きしめた、まだ体のできていない少年の細い肩。よく手入れされていて、まるでビロードかのような手触りの銀色の髪。そして少し引き締まっているもののまだまだ子供らしさが残る頬。
(もう、可愛い!可愛いったらなかったわ!!あのすべすべのお肌には嫉妬してしまうぐらいだったけど、私の子供ですものね!許すわ!!あの感触だけでもう一週間は我慢できるわ!いえ、二週間会えなくてもなんとか耐えてみせるわ!あの時の驚いた、くりっとした目!!可愛かったわ!!さすが私の子供ね!!)
優雅にお茶を飲みながらも、ディラの目は蝶を見ながら数日前の夜の出来事を何度も思い出していた。ときおり、ふふふっと(にやにやと)笑う公爵夫人の顔に、後ろに控えているメイドたちは自分たちがこの場にいてはいけないような気がしていた……
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ごくりとディード付のメイドが空気を飲み込み、その音が響いてしまったことに慌てつつ、彼女はいつも以上のスピードで部屋の掃除を終えて退室していった。
その部屋に残されたのは、部屋の主である幼い少年。彼はメイドが来たときも出たときも変わらず、小さな額に眉を寄せまるで敵がいるかのように机の上に開いている本を睨み付け続けていた。彼は勉強の時間が終わると部屋に戻り、図書室から借りてきた本を広げて先ほどから同じ体制で本を読み続けている。余程難しい本なのか、それとも難解なことが書いてあるのか……彼を見た屋敷の者たちは、その鬼気迫る様子に音を立ててはなるまいと注意を払い、彼の部屋を後にしていた。
そんな屋敷中の気遣いを受けていたディードであったが、実を言えば睨み付けている本など一ページも読んでいない。それよりも彼の頭の中にあったのは……
(先日の事件はいったいなんだったのだ。あれは私の夢だったのだろうか。いや、私はあの時まだ眠くはなかった。思考もしっかりしていたし、足もふらついていなかった。そう、はっきりと起きていたのだ……だから夢ではない。夢ではない……は、はははははは母上に抱きしめられた挙句に、頭を撫でられ、そそそそそしてーーーーー)
バタン!!!
思わず本を叩いてしまった音にディードは我に返る。
はっと周りをみるも、この部屋には自分ひとり。そのことにほっと溜息をついて、そして丁度顔を挙げた先にある、壁に立てかけられている姿見の鏡があり……そこには耳まで顔を真っ赤にした少年がいた。
(くうぅぅぅっ!!ち、違うこれは違う!!おかしいのは鏡だっ!!あれが僕のはずがないっ!!こんなことで動揺する僕ではないっつ!!)
思わず幼少期の頃よく使っていた「僕」という言葉がでているのだが、思考回路がパンク寸前のディードは気付いていない。しかもあの事件の日から、三日間、勉強が終わり一人になる時間があると誰かが呼びにくるまでこの繰り返しをし続けている。
(ま、まさか、あれは僕の願望!?願望からくる夢かっ!?僕は、ははははは母上に、だだだ抱きしめーっ!!くうっ!!!)
誰に相談することもできず、一人悩みを抱える少年は今日も部屋で本を睨み付けていた。
しかし、ディードが悩むのも仕方のない話だった。
彼がアルドマーク公爵の子息として生まれた瞬間から彼は乳母に預けられ、育てられてきた。時折、両親との面会の時間はあるものの二人は公爵家の仕事で忙しく、時には一週間以上も顔を合わせないこともあった。物心つく前からそういった関係だったので、ディードも両親とはそういったものという意識もあり、何ら疑問を持ったことがなかった。彼の友人たちもおおむねそういった関係が多かっただめに、それはあたりまえのことだと思っていたのだ。
しかし、アルドマーク家の長女であるラミリアの考えは少し違うらしい。彼女は女の子のわりには活発で、淑女になる勉強から逃げるために屋敷を走り回っているところによく出くわす。アルドマーク公爵のものともなれば、将来それなりの責務が負わされることになる。例えまだ四歳とはえ、今から少しづつマナーなり勉強なりを初めていかなければいけない。なのに、彼女は勉強をつまらないといい、その責務を放棄するのだ。家庭教師や執事やメイドが何度言っても収まる気配がない。しかし、母親であるディラから注意されるとラミリアは素直に言うことを聞いた。
……自分と同じくめったに顔を合わせないというのに。
ラミリアがディラを慕っているのは、傍から見てもよくわかる。
ディラのドレスにまとわりつき、ぴったりと横に座り離れようとしない。自分に注意を向けようと、意味のわからぬことを、息つく暇もなく話すのだが、ディラはそれをお茶を飲みながら静かに聞いていた。時折そうね、そう思うわ、というそんな短い言葉に頬を染め、おかあさま大好きと抱きつく。ディラはそれを微笑みながら、そっと抱きしめ返すのだ。
その光景をみるたびに思うのだ。
妹はまだまだ幼いと。せっかくの息抜きだというのに、あれだけまとわりつかれていれば母上も気が休まらない。母上もいちいちそんなものを相手にしなくてもいいのにと。
たまに同席したその場で、一番最初に立ち上がるのはいつもディードだった。
次の予定を告げに来た執事を横目に、ディラに退室の挨拶をして先に去る。振り向かない背中からは、母親と離れたくないラミリアの愚図り声が聞こえるが、それをなだめるのは執事の仕事だった。
だが、本当は違ったのだろうか。
本当は自分もラミリアのようにしてみたかったのだろうか。
ラミリアを見るといつも胸の奥でうずくものがある。
イラつくような、不愉快なような……いつも自分につっかかってくる小うるさい弟とはまた別の感情だ。
自分の感情を相手に読み取らせないよう訓練しているディードは、いつもそれに目を背けてラミリアに接するのだが、ラミリアも何か感じる者があるのだろう。彼女もディードとはあまり会いたがらない。
まさか、それが嫉妬だったなら……
僕は…僕は……
鏡に映る自分の顔。
それが自分の答えのような気がした。
だが、これをそう簡単に認めていいものだろうか。
(とりあえず、母上に会おう。会ってみれば何かわかるかもしれない)
三日間かけてようやく行動に移すことにしたディードだったが、部屋に行ったもののそこに主たる母親の姿はなく。
「何!?静養中だと!?三日も前から!?それほどお具合が悪いのかっ!?」
人生初めて大声をあげ、執事に詰め寄ると、避暑地の場所を聞きだし、彼は顔を真っ青のまま屋敷を飛び出した。彼の護衛たちが慌てて後を追う中、ディードは馬小屋へと走り、偶然鞍のついていた馬の手綱を握ると走り出す。
(母上!!ご無事でっ!!!)
いつのまにやら危篤状態になっている(頭の中で)母親のもとへと馬を走らせるディード。お待ちくださいっと叫ぶ護衛たちと、いったい何が起こったのかわからない執事とメイドたちだけが後に残された。