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キッチンの女神

 開店時にわーっと客が入ってバタバタした割には、三十分もしないうちに店は凪いだ。


 客のいる席は三つ。それぞれ一通りのオーダーと乾杯を済ませ、落ち着いていた。時折笑い声や嬌声が起こるが基本的には静かに飲んでいる。


 本日“テーブル回転”こと各キャストの付く席と時間配分を決める役の今井も、カウンターの脇に立って時折腕時計を見ながら各席の様子を眺めている。


「時間制だから、やっぱ時間って大事なんすか」 


 蘭治は真摯に今井に質問した。


「あ、うん。ミレさん三本被りだからね。うまく配分して三つの席に付けないと」


 二、三秒考えて、蘭治は言葉の意味を理解した。そういえばインカムで『ミレさん指名』って三回くらい聞いたな。


「同時に三人から指名されるのって、あるんですか」 


「ミレさんは常時そのくらいだよ。うちのドル箱だからね」


 蘭治は朝礼のときのミレを思い出した。女優みたいに目立つミレ。ランチという名を聞いて遠慮なく笑った。それでもあまりに屈託ないがゆえ笑われた当人に爽快感すら感じさせる不思議さ。


「ミレさん、は、ナンバーワンというやつですか」 


 蘭治の問いに頷きながら今井は答える。


「更衣室前の売上グラフ見てきてみな」


 蘭治は素直に更衣室へ繋がる廊下にグラフを見に行った。

 ミレの名の上に、ダントツで長い棒があった。二番目にグラフが伸びているのは、朝礼で彼女の隣で笑い合っていたレミだった。インカムで一回だけ出てきた楓という名は三番目に連なっている。

 だが……

 今井の元へ戻った蘭治は正直に感想を告げた。


「名前見ても殆ど誰が誰か分かんなかったです」


「そりゃそうだよね。おれも初めは覚えられなくて呼ぶとき間違えたりした。その子の嫌いな子と間違えちゃった時はマジギレされてぶん殴られたよ」


「……怖いですね」


 蘭治の脳裏にはネオスピらが浮かんでいた。


「みんな酔っ払ってるからね」


 今井は他人事のように答えた。その時、


「三雲くん、厨房入って」

 

 課長から突然指示を受けた蘭治は、瞬きをした後、そうか、オーダーが入ったから厨房で何か作るのを手伝えばよいのか、と納得した。はい、と返事をしようとしたがその時には既に課長はリストの中へ姿を消しかけていた。


「はやいよ、ペースはやいよ」


 やっぱイケメン要素にはスピード感も含まれてるよな、と頷いた蘭治は、改めて自分がそれに程遠いことを実感した。


「岸くん」


 リストに入った課長は岸を呼んでいた。くん付けてるな、と蘭治は思った。横では今井がニヤニヤしている。


「説教部屋行きだ」


 その時、席についているキャストからお呼びがかかり、今井はさっとアイスを持ってそちらに向かっていった。なぜアイスが欲しいとわかったのだろう、と蘭治は目を丸くした。と同時に、とぼけた風情でもやる時ゃやるんだな、と感心した。


 厨房に向かおうとしてリストの前を通り過ぎた時『説教』が漏れ聞こえてきた。蘭治は、会長の嗜好を教えずに新入りに対応させたことを怒られるのだろうと思い、


「あの時はだいぶ戸惑ったんだ、ざまあみろ」


 とほくそ笑んだ。しかし。


「ホールで『客』とか言わない!」


 課長が注意しているのは別のことだった。岸、そんなこと言ってたっけ?まあ、どっちにしろ岸いいざまあ、と蘭治は胸がすっとするのを感じた。


 厨房に入る瞬間、蘭治はふと首をひねった。『厨房手伝って』と課長は言ったよね。でもよく考えたら、今井はホールに出てる、課長と岸はお説教タイム、店長は休みだろ。

 誰がいんの?

 まさか最強のイケメンか……!?


 気持ちを奮い立たせ、そこへ足を踏み込んだ蘭治は目を見張った。想像より一回り小さい。調理台の前にあるのはアイボリーのスウェット地にくるまれた細い背中だった。その上には緩いウエーブの栗毛が束ねられている。 

 女子とは!盲点を突かれた。イケメン以上に対峙する心構えができてない。蘭治は立ち尽くす。揚げものをする油の音だけがそこに響いていた。


 人の気配を感じたのか、その栗毛の小さい頭は振り返った。そして見慣れない顔を見て目を丸くする。透明な茶色の大きな瞳だった。


「あれ?」


 それからすぐに事態を飲み込んだ様子で続けた。


「新しい人だ?今日からですか?」


 あれ、自分この人と友達だっけ?そう錯覚しそうになった。落ち着いた、でも気さくな声によって。

 蘭治は唾を飲みながら頷く。そうだ自己紹介しなければ。


「あの、みくも……あ!」 


 名字だけにしとけ、と頭の中の声が聞こえた。


「三雲、です」


 名乗ろうとして何かを思い出し『あ!』と叫び、なんとか平静を取り戻し名字を名乗る。挙動不審としか言いようがない。蘭治が嫌な汗をかくのは今日何度目だろうか。


 やっぱりその人も笑った。せっかくファーストネームを口に出すのを阻止できたのに、結局笑われる。蘭治は情けない気分になった。でもそれはカラッとした日なたみたいな笑いだった。…さっきよりはうんとまし。


「あ、私サキです。よろしく」


 髪も目も、声も軽やかなこの人は、蘭治の兄くらいの年齢だろうか、いやもう少し上だろうか?しかも名字がないということはこの人はキャバ嬢の一人なのだろうか?でも普段着だから調理の人なのか?どうでもいいけど顔が小さい…。複数の溢れかけた疑問を抑えながら蘭治は頭を下げた。


「よろしくお願いします」


「…あ、手洗ってね」


 蘭治は軍隊の上官に対するように『はい!』と答え弾かれるように水道に向かう。


「ありがとう。いっぱいオーダー入ってるから助かる」


 ありがとう。母親以外の女性にそう言われるのは中学生以来だろうか?…心に羽根が生えるのを感じながらキッチンタオルで手を拭き、蘭治は尋ねる。


「何をやったらよいでしょうか!」


 サキはまな板に向かって野菜を刻みながら


「冷蔵庫からボールに漬けこんだ鶏肉を出してくれる?」


 と蘭治に頼んだ。

 蘭治は冷蔵庫を開ける。そして往生する。ボールは二つあるけど、どっちだろう。だいたい“漬けこむ”ってなんだろう?


「わかった?」


 すぐ横でサキの声が聞こえた。蘭治と顔を並べて冷蔵庫を覗いている。同居中という設定のカップルが並んで冷蔵庫を覗き込むCMを思い出し急に照れくさくなった蘭治は、反射的に五センチほど身を引いた。しかしサキの関心は完全に庫内に注がれていて、


「これこれ」


 と言って上の段のボールを指す。蘭治はそのボールを取り出して調理台に置いた。中を見ると醤油のようなものに肉が浸されている。漬けこむ、そういうことか。と理解した。


「そしたら、そこのパットにその粉敷いて肉にまぶしてくれる?」


 サキは次の指示を出してくる。パットと粉は分かったが、どのくらいの量の粉を敷くのかも分からないし、まして“まぶす”という行為がまったく想像できない蘭治は、ぼんやりしながらサキの目を見た。

 蘭治にとってここで今日会った女の人はみんな『キレイ』だった。ただ、向き合って顔をまともに見るのは彼女が初めてではあった。


「わかる?」


 サキが冗談交じりにからかうような目を向けてくる。粉と鶏肉の話だ。イエス・ノーで答えられる問いを貰ってほっとした蘭治は答える。


「わかんないす」


 サキはやっぱり、と言うようににっこりした。蘭治も笑みをこぼした。


「じゃ、これもう揚がるから、ここにキッチンペーパー敷いて上げてくれる?」


 揚げ物を上げるように指示を出し直したサキは野菜切りの続きにかかった。蘭治は黙々と菜箸で油の中の物体を掴み始める。

 サキは鼻歌を歌い始めた。油の音と、包丁の音と混じってハーモニーのように蘭治には聞こえる。

 とても居心地がいい。蘭治は今日の様々な疲れが洗われる気がした。そして、すっかり一般住宅のキッチンで料理をするカップルという設定の妄想に支配されかかっていた。


 サキの指示通りに揚がった唐揚げを盛り付けながら、蘭治は気付いた。


「なんか2種類あるっす」


「そっちは通常メニューの唐揚げ。こっちは会長用のお、い、し、い、肉。会長がね、お友達の養鶏業者からいい鶏肉もらったから揚げて席に出してって」


 例の元ヤンの会合ってやつに養鶏業者が来てたのか、と思う蘭治にサキは続けた。


「食べていいよって言ってたから、揚げたら一緒につまもうよ」


 サキさんと、唐揚げ食べたい!

 やる気出てきた!

 と、その前に使命を果たさなければ。

 蘭治はキビキビとした動きでトレーに唐揚げの皿を乗せ両手でしっかりと持ち、三番テーブルと七番テーブルへと向かった。





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