アツい!会長
蘭治は岸に煽られながらカウンターに走り、アイスペールとおしぼりなどを乗せたトレーを持つ。そして次の指示を待つ。と、再び岸の苛立った声が飛んでくる。
「さっきインカムでフロントから聞いたろ、三卓二名七卓四名」
あ、そうか。蘭治は慌てながらトレーを見下ろす。おしぼりが2つ。
「てことは、二名。は、えーと、何番だっけ」
「さん!おめ二回も聞いてんだぞ」
もう一つの四名分のトレーを持った岸はそう吐き捨て、フロアへずんずん歩いて行った。蘭治が後に続こうとすると、不意に横から出てきた手にトレーをさらわれた。
「三はこっち。教えたよね、覚えて」
課長だった。そのまま岸が行ったのと反対方向へキビキビと歩いて行った。
蘭治が課長のピンと伸びた背筋をぼんやり眺めていると、またインカムから次の仕事が入った。
「一名九卓、ミレ」
岸がこちらに戻ってくるのが見えた。
焦る蘭治。いち!いちいち一名!まだ何も言われていないが追い立てられるように一名分のセットを作り出す。
岸はカウンターにトレーを置きながら蘭治の様子を眺めている。ふふん、どうだ、なんも突っ込めまい、と蘭治は誇らしい気持ちで右手にトレーを持った。課長の後ろ姿を思い返しながら、同じように指を立ててトレーを支え、さっそうと歩き出……せなかった。
「うわ」
一歩も踏み出さぬまま大きくバランスを崩す。アイスペールを左手で支えながらカウンターにトレーごと着地させた。
「危ないなーなにやってん!カッコつけないで両手で持っていーよ素人が!」
岸になじられても、自業自得なので何も言えない。体勢を立て直し、おとなしく両手で持って歩き出そうとすると、また岸に呼び止められた。今度は脱力した声だ。
「まだ客入ってきてないだろーが」
ちょうどそこで入り口のドアから一人の小太りの男性がボーイにエスコートされて入って来た。先走った蘭治は顔が熱くなるのを感じた。
『自分だっせ〜〜!』
と、今すぐ吉沢、林とのグループトークに投じたかった。でもできないので堪えて自分で消化するしかなかった。
というより消化なんか不良のままだろうがなんだろうが、席に着いた男性の元へ一名セットを運ぶ、それが蘭治の今やることだった。
初めて口にする時が来たのだ、あの、世界で一番照れくさくて言いたくないと思っていた言葉を。
「いらっしゃいませ」
席の前で老年男性に向かいそう口にすると、それはなんでもないただの枕詞だと分かった。
それでも蘭治はまだドキドキしながら、アイスペールをテーブルに置いた。
ええと、おしぼりは、女の子からお客に渡してもらうんだっけか。
蘭治は朝礼前にさらっと課長から教わったことを思い出し、男性の横に座ったミレにおしぼりを渡そうとした。すると、男性が急にアヒルみたいな声を出した。
「おれ顔デカイから一個じゃ足りないなー」
蘭治はハッとした。この人。そう、面接の途中に現れ、店長に向かって早く寿司屋に行こう、と言った、蛇みたいな色白の……
会長?岸の言ってた通りだ、テーブルには大きな寿司の折り詰めが乗っている。
そこで急に後ろに足音が迫ってきて、さっと男の手が現れ、おしぼりの束をミレに差し出した。ミレは笑顔でそれを受け取り、老年男性……会長に渡した。蘭治が振り返ると、現れた手の主は課長だと分かった。
「最高温度で蒸しときました」
課長は会長を見てそう言い口角を上げた。会長は満足そうにおしぼりを広げ自分の顔の上に重ねていった。それから隙間から目だけ出して蘭治を見て言った。
「おれん時はおしぼり五個。おぼえといて」
あんぐりと口を開いていた蘭治は、課長に促されカウンターに戻って行った。