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おめでとう。

 あちこちの楓指名の席で、フードの中で最も高額なフルーツ(大)が注文される。


「三雲くん厨房指名」


 突然インカムから自分の名が聞こえてきて、蘭治は戸惑った。指名?自分が?厨房に?しかし瞬時に頭に浮かんだ例のブラックな規律が迷いを消した。


『同じ指示を二度受けたらマイナス1ポイント。減点10で月給一割減』


 蘭治は早足で厨房へ入っていく。三段に組まれたガラスの器に飾られたパインの葉、その向こうにはサキの顔。


「わーいランくん来た」


 トロピカルな笑顔。蘭治は腕を捲る。


「そういうことだったんですね!」


 笑顔で頷くサキ。蘭治は鼻息荒く水道へ向かい石鹸を泡立てる。そして包丁を手にトロピカルワールドに参入する。


「早。もうできたの」


 サキは蘭治の手元に山盛りになったオレンジを手に取り、皮三分の二程度に切り込みが入っていることを確認した。


「え、もしかしてこれもやっちゃった?」


 サキは、まな板の隅に二、三切れ並んだオレンジに目をやった。大輪の菊のように細く切り込んだ皮、その一部をくるりと巻いて飾りにしてある。


「すいません、勝手に」


 蘭治は謝った。


「逆だよ!すごーい、教えてないのに」


「あ、なんかそこにあるやつ真似して」


「いいよ。どんどんやって!」


 サキは目を丸くして喜んでいた。蘭治はこそばゆい気分になった。が、悪くはなかった。しかしなぜこんなことで褒められているのかが分からなかった。


「なんなら、こっちのフリー席のフルーツ(小)の盛り付け任せちゃってもいいかな?」


 サキはそう言って、そばにあったガラスの器を蘭治の前に置いた。そして店のタブレットを開いてフルーツの画像を見せた。


「こんな感じに。使う各フルーツの量は、下にスクロールすると書いてあるから」


 そんな荒削りな振り。できるだろうか。さすがにプレッシャーを感じてきた蘭治だが、ホールから次々に入ってくる新たなオーダーを聞き、やるしかないな、と心を決めた。


「はい!」


 蘭治はかつてのようにまた、サキの目を見て軍の司令官に対するように真摯な返事をした。そしてそれに取り掛かった。


 すると東が来て、またフルーツのオーダーを告げた。


「すみませんサキさん。フルーツ特大を!」


 は?


「そんなのオーダーにないよね?」


 サキも戸惑う。それが……と東は言いにくそうに続ける。


「あの髪を乱してマドラーを振ってるお客さんが……」


「ベートーベン?さん、か?」


 蘭治はとっさに問うた。東は頷く。


「向かいの席の楓さん指名のお客がフルーツ(大)の追加を頼んだのを見て、じゃあ自分は特大を頼むって聞かなくって。それで、はいって答えちゃいました」


 東判断か!なし!なしなし、却下!と蘭治は思うが、現場は止まってはいられない。既にリストからこの様子に目を留めていた課長がつかつかと足音を立て迫って来ていた。


「いい、言ったんならやって!言った東がやる。三雲くんと交替!」


 一瞬の間の後すぐに東は『はい』とキレよく答える。蘭治はしぶしぶタオルで手を拭き袖を下ろそうとした。


「だめ。ランくん行っちゃだめ!」


 サキはキッパリと言い切った。バッサリと切られた課長は戸惑いさえ見せている。


「ウチはランくん指名なの!」


 サキは人選の妥協を許さない意思を見せるように手元に視線を移し、りんごの皮をハート型に剥く作業に取りかかった。


「わかった!はい東くんホール」


 課長は指示を出し直し、くるりと旋回してリストへ走り電卓を叩き始めた。東はサキと蘭治に両手を合わせ『お願いします』と言ってから、ホールへ去った。


「だって東くん不器用なんだもん」


 サキは少しバツが悪そうに笑って蘭治を見た。

 蘭治は愛くるしさに射抜かれないように手元のパインに視線を落とし包丁を構えた。そしてそのまま皮に沿って切り込みを入れながら、快い違和感に包まれてきた。

 サキに指名されるなんて。女子に指名されるなんて……て、いや違うこれ仕事だろ。いやでもだからこその信じられなさもあった。仕事人として求められるなんて、自分が。それも東というデキメンを差し置いてだと!?

 初めて感じた、名付けようのない気持ちだった。


*


「本日の売上賞は楓さんです。総指名数58本!」


 終礼で、蘭治は肉体疲労で薄くなった意識でそれを聞いていた。酒の香をまとった女子たちは羨望や敬意を越えおののきすら表していた。平然と座っているのはミレ一人のようだ。レミにあたってはリタイヤして更衣室にて就寝中。


「楓さん、今日の給料いくらかな?」


 店長が珍しく満面の笑みで茶化す。


「知らない」


 楓は頬が緩む寸前で無表情を保っていた。


「楓ちゃんおめでとう」


 かつてミレを教育したという一番年長のキャストが無邪気に祝いの言葉を放つ。封を切ったように皆の祝辞が飛び交い、拍手が起こった。


 蘭治の脳はショートしそうだった。ここ数週間のことが、どうにもしっくり繋がらなかった。 

 今、楓は中心にいる。彼女を追っていた店長は笑っている。彼女と逃げようとした岸が苛められるのをセンセーショナルな見せ物にしていた女たちは今祝辞を述べている。

 何が起こったのだろうか。

 あれは、ホントに今朝のことだったのか。何年も前のことじゃないのか。

 ……それより何より、寝たい。蘭治の中は布団への愛で占められていく。



 終礼が終わり、帰り支度をした楓はリストを覗いた。


「ね、日払い今日は一万円にして」


「だーめ。いくら稼いでも五千円までって決まってんだから。もうレジ締めちゃったよ」


 課長はさらりと却下する。しかし楓は粘る。


「いいでしょ、どうしてもいるの。じゃ課長のポケットマネーで」


 何往復かのそんなやりとりの後、課長はしぶしぶと売上の袋から紙幣を取り出した。


「ちゃんと日払い帳も書き直してね」


 カウンターの前に立ちその様子をぼんやり眺めていた蘭治は、送りを担当する女子の支度を待ちがてらトレーを拭いていた。そこに乾いた靴音が近付いてくる。


「はい」


 髪を下ろしワンピースに着替えた楓が一万円札を差し出してくる。

 蘭治は後ろを振り返る。誰もいない。自分へか?そうみたいだ、楓の目は蘭治を捉えている。


「昨日借りた“交通費”」


 蘭治の脳裏に、朝の河原で木の下に立った楓の姿が蘇った。


「これでここまで来たよ。ありがと」


「いや、別にいらないです」


 蘭治は返そうとするが楓はさっと退いて持っていたビニール袋を掲げる。そこにはうなぎとプリントされていた。同伴で行った店のものだろうか。


「私これあるから大丈夫なの、明日のご飯はあるんだから」


 そして彼女は微かにリストに顔を向け、蘭治に対してとも課長に対してともつかぬ声で


「明日も、日払いするからね!」


 と宣言した。

 金がまったくないのは、本当のようだった。やっぱり、岸……だろうか、原因は。


「あと、今日のどうぶつ形皮剥きフルーツ、ランくんでしょ」


「は、はあ、タブレットのレシピにあったやつです」


「ベートーベンああ見えてああいうの好きだから。またお願いね」


 楓はそう言い残して颯爽と店を出ていった。

 彼女は、誕生日の今夜、何をするのだろうか。少なくとも明日は、うなぎをチンして食べて出勤するのだろうか?

 気付くと蘭治の手元には一万円札が取り残されていた。



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