まさかの失態、からの仮釈放。
会長の声が聞こえないかのように、楓は艶のある髪をなびかせ土手を登っていった。
「終わった!」
「恋のオワハラ?」
「オワ……なに用語それ?」
ミレレミ姉妹とその周囲の女子は笑っていた。岸は憔悴と安心の混ざった顔でぼんやりしていた。両手は拘束されたままだ。
シルバーのワンボックスが土手の向こうからやってきた。送り一便が帰ってきたのだ。ハンドルを握る今井が身を乗り出して不思議そうに蘭治たちを見ている。
蘭治はやっと金縛りが溶けたようにその場から目を逸らし、車を解錠する。おでんを買いに行く、そのミッションを達成するため、なにも考えないために。
その時、またカエルが鳴いた。
「さて、あちいから泳ごうか。早く行くよ」
会長から岸に投げかけられた言葉だった。岸は、会長と手錠を見比べる。会長は鼻で笑う。
「だから、カエルだって脚だけ平泳ぎできるんだから。人もがんばろうよ」
カエルとカエルで競争!と言ってレミは笑う。
背泳ぎなら可能だろうか、と蘭治は思う。が、すぐそれを打ち消す。無理だろ。
いつの間にか不自由な手で着衣を整えていた岸はすっくと立ち上がった。
「わかったよ!いいもう楓見てないならパンイチでいくらでも付き合いますよ!その代わり手錠外してください」
ヤケクソの岸の願いに会長は首を横に振る。
「じゃ、せめておれにも“命綱”を……」
岸は譲歩しながら、かつては自分をかわいがっていた課長を見る。
会長は川に向かって皆に背を向けている。課長は店長を見る。二人で目で会話をする。
『どうします?』
『あんまり危険なのもな』
そして二人の長は会長の背中を窺う。
その時三人は隙を突かれた。岸は走り出した。
何も言葉を発する間もなく追いかける課長と店長。
その時蘭治は今解錠した車の助手席のドアを開けていた。そして考えるより先にシートの足元にある余った花火の袋をまさぐっていた。
土手は青々とした緑だった。
蘭治は投げた。右手で、左手で、また右手で。
レミたちの悲鳴のような嬌声とともに、店長の激しい咳が響く。課長は目を押さえていた。そこは煙に巻かれていた。その場面を蘭治は、映画でも見ているかのような心持ちで見ていた。彼の掌には“忍法煙幕花火”とプリントされた袋が握られていた。
忍術はあっという間に解けた。しかしそのわずかの間に岸は捕獲可能圏内から出ていた。
「うわくそ」
店長が呟く。
「なにやってんだバカヤロ」
課長は蘭治を睨みそう吐き捨てなお岸を追おうと走り出す。
*
とぼとぼと土手を越えてくる課長と店長が見えた。二人は会長のもとまで来て、すいませんと謝った。逃してしまった、岸を。
「だーめだなー」
会長は不満げだ。課長は蘭治をギロリと睨む。それは蘭治の息を止めそうなくらい強い光線だった。冷や汗をかきながら蘭治は頭を下げた。そして喉から声を絞り出した。
「すいませんでしま」
そして噛んだ。
会長が笑った。カカカカカ、と。郊外の田んぼ道で聞けるカエルの合唱が、この場にいる皆の頭によぎったろう。
店長が蘭治を見て眉をしかめている。課長は、我慢できないというように蘭治に向かって声を荒げた。
「なに考えてんだ、煙の花火なんて出しやがって!」
蘭治は縮こまって答えた。
「わかりません。なんとかしなくちゃって思って、気付いたら目に入った武器っぽいものを投げてて」
そして消えたくなった。
「どうします?会長」
店長が会長に問う。蘭治はヒヤリとした。どうします?とは何を指してる?逃がした岸なのか、それとも自分の処遇なのか……
「とりあえず保留だな、明日まで」
会長はそう答えた。蘭治は息を飲みながら、明日までに逃げられるかどうかを考え始めた。そして一体どこまで逃げれば安全なのかも。
「明日?」
課長が訝しげに問う。会長はにまーっとした。
「楓ちゃんがおでんデートに来てくれれば、このあんちゃんも無罪放免。それまでは仮釈!」
さっき会長が楓の後ろ姿に投げた『おでんの誘い』のことか?と蘭治は思う。来るわけがないだろどう考えても、とも思う。
「稼ぎ頭が戻ってくれば、売上減の害はない、ということですか」
課長はそう言って納得したように頷いた。途端、
「稼ぎ頭はミレでしょ!楓は二番でしょ」
レミが会長に噛みつく。
「あなたは三だけどね」
会長がねっとりした声でそう返した。レミは歯が摩耗しそうなほど歯ぎしりをしている。ミレは蝋人形のような無表情で佇んでいる。
「会長ー。かき氷OKでーす」
10メートルほど離れたテントの下で今井が親指と人差し指で作った輪をのびのび掲げている。
「いえーい」
会長は歓喜の声を上げながらテントへ走っていった。




