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恋の終わり。

 腹が痛くて個室に篭っていた東の連絡によって、岸は捕らえられた。

 獲物は駐車場のトイレ前で課長に押さえられている。

 店長は、地面に手を付いて呼吸を整えている。運動不足か年齢か。

 蘭治と東はトイレの入り口を背にして立つ。

 それと向かい合う形で立ちすくむ楓。

 そしていつの間にか至近距離まで迫っているバーベキュー参加の女子達。


「たーいほっ」


 海水パンツだけを纏った会長が岸に手錠をかけ、続けた。


「これホンモノだよ。お巡りさんの友達に貰ったの」


 そして丸い指で鍵をかける。

 お巡りさんの友達?まさか警視庁の偉い人だったりして?だから何をしても揉み消し……と蘭治は妄想する。

 会長は大きな口を開け、小さな鍵を飲み込む。岸の顔が引きつる。次の瞬間


「べー」


 会長がその長く幅広な舌を出した。そこには手錠の鍵がちょこんと乗っている。そして彼は唖然とする岸を横目に、蘭治と東を押しのけるようにトイレの中に歩いていき、小便器の中に鍵をペッと出した。

 岸が声にならない嫌悪の息を吐く。その瞬間会長はニヤリとして水を流すボタンに手をかける。


「やめろっ」


 岸は制止の声を出した。会長はボタンから手を離した。そして、今岸から奪い返した財布を大切そうに擦ってじとっと岸を見た。

 岸は息を飲んで言う。


「すいません」


 会長は頷く。皆はその一挙手一投足を黙って見守っている。


「まあ初犯だしね。恋してるしね」


 そんな会長の言葉を聞いても、蘭治の緊張は緩まない。温情措置なんてあるわけない。


「一緒に泳ごうよ。ちゃんとおれみたいに下に海パンはいてきた?」


 会長と目配せを交わした課長が素早い動きで岸のズボンを脱がしにかかる。


「お!いいぞー脱げー」


 泥酔したレミが囃し立てた。周りに立つ女子からはそれぞれ嬌声やけしかける野次、そして非難や制止の声が上がる。


岸は身をくねらせ逃れ、ズボンが膝まで下りた状態で便器に走り寄り、目を血走らせて不自由な手でその中を必死にまさぐった。しかし排水口に挟まったのかなかなか鍵を掴めない。しかも掴んだところで自力では解錠できないことにも気付いていないようだ。


「ね、楓ちゃん、こんなコでもいいの?好きなの?」


 視線を反らせている楓の顔を会長が覗き込む。楓はきっと目を上げ会長を正視する。会長はへにゃりと残念そうな顔を作り、岸を見た。


「まだわかんないようだねー」

 

 岸も悔しそうに会長を見ていた。


「あちいな」


 会長の額に汗が垂れる。

 それが合図であるかのように課長は素早く小便器まで歩いて行き、無表情のまま水を流すボタンを押した。女子から歓声や悲鳴が上がる。鍵を流すまいと排水口を押さえる岸。


「合鍵あるんでしょ」


 会長を責めるような楓の声。それを遮るように会長が更に大きな声を出す。


「ホンキ暑い!」


 アヒルのような声だった。


「早く泳ごうよ。大丈夫、カエルだって泳ぐ時手使わないし!脱いだら川に来てね、待ってるから」


 会長がそう言って河原に向かって一歩進むと同時に課長が無言でしゃがみ込み、岸の靴を脱がし足からズボンを抜こうとした。


「わかった!わかったよ」


 叫ぶ岸は必死だった。蘭治は目をそらした。自分を恐怖で支配して金を奪おうとした憎たらしい岸の不様な姿。なのに喜ばしくはなかった。それは当然だった。


「なにがわかったのかな?」


 会長が言うと、ロボットのように課長の動きが止まる。岸は渾身の力で腹から声を出した。


「楓と別れるよ!それならいいんだろ」


 あたりは静まり返った。


「え?なに?」


 大げさに耳をそばだてる会長。叫び直す岸。


「楓さんと、別れます!すいませんでしたっ!」


 声が枯れそうだった。


「すいません!」


「そうなの?」


 会長がとぼけた声を出すと同時に鳥の飛び立つ音がした。

 葉っぱが一枚降りてくる。コツコツという乾いた音が響く。


「ふざけんな!あっさりしてんじゃないよ」


 小便器に歩み寄った楓の掌が岸の即頭部を叩いた。女子から上がったざわめきを無視して楓は続いて岸の背中を蹴る。


「うそつき!」

 

 そして彼女は、震えを止めるように殴った右手を押さえながら振り返って歩き出した。


「楓ちゃん!行っちゃダメ」


 会長が呼び止めるのを無視した楓だが、木の根が浮き出したアスファルトの上で高いヒールがぐにゃりと倒れ、膝を付いた。会長が魔術を使ったかのように、蘭治には見えた。


「楓ちゃんはいいコだから、遠く行っちゃダメだよ」


「は?どうでもいい」


 振り返りもせずぞんざいに答える楓。彼女の素の声を蘭治は初めて聞いた気がした。

 ただの女の、いやただの人の声だった。

 それでも立ち上がり再び歩き出す彼女の背筋は真っすぐで美しかった。その背に会長の真伸びした声がかかる。


「おでん食べようよー」


 

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