「足抜け」ですか?
ミアの話になったらいったんは口をつぐんだノアだが、眠る街を見下ろしながら陸橋の頂点を越える時、重い口を開いた。
「ミア気にしてんのかな、失敗したこと」
「失敗って?」
「間違えて岸くんのジョッキに入れちゃったんだよ」
「……何を」
蘭治は恐る恐る聞いた。
「眠くなる薬」
それで熟睡してたのか、岸は。車に連れて行く時だいぶ重かったんだ。いやああん時は暑苦しかった……いや、それじゃなくて、今は、それどころじゃなくて。
「おれが眠らされる予定だったんすか」
馴染みかけていたノアに、再び丁寧語を使ってしまう蘭治だった。恐れとよそよそしさを感じてたからだろうか。
それより、自分を眠らせることと自分に疑いをかけさせて時間稼ぎをすることにどんな関係があるのか、と蘭治は疑問に思った。しかし尋ねる前にノアは語り始めた。
「ランちんの記憶を曖昧にさせれば、疑いをかけられた時にあんまりはっきりと即否定はしないだろ、て。あやふやな答えで会長の取り調べを長引かせる作戦?」
そんな悪質な!あの短い取り調べでも恐怖を感じたのに、あれがもっと続くよう画策されてたのを知り、蘭治の中に心地悪い気持ちが湧き上がった。仕事中しばしば感じる腹立ちとは似ているけど違う、これは?そうか怒りだ。
腹立ちと違って、怒りは静かだった。蘭治はハンドルを10時10分の形で握り、背筋を伸ばし、まっすぐ前を見てアクセルを軽く踏み続けた。
「あ!あたしも後で知ったんだよ、薬混入作戦のことは。ミアの方が楓さんと仲良かったし、あたしは蚊帳の外だよ」
ノアは、さっきからの申し訳無さに加えて不満色の混ざった声を出した。
え?仲の良さ?蚊帳の外?……それ以上フクザツにするな、と蘭治は懇願したくなった。まずい、蘭治の脳の許容量を越えそうだ。
腹が立つ。そうだ、こういう時は腹を立てよう。岸に!そうだ、岸岸、ぜんぶ岸!
「ごめん。そこまで知らなかったから、ちょっと楽しそうって思って協力しちゃったんだ」
「いや悪いの岸さんですから」
蘭治はぶっきらぼうに答えた。
それから、そういえば、と気になった事を尋ねた。
「岸さん達は、逃げ切り?」
「今んところは。でも大幅に計画狂ったみたい、寝ちゃったせいで楓さんとの待ち合わせに遅れたとかで」
蘭治は思った。ここは日本で、法律に守られてるんだし、会長をそんなに恐れなくても大丈夫なのでは?と。江戸時代とかみたいに遊女との駆け落ちバレてボコボコにされるわけじゃなし。
「ランちん、まだ会長のアブなさ知らない?もしかして」
そう言われた時、既に送迎用のミニバンの運転席からはノアの自宅の屋根が見えてきていた。




