9 新しき町ノヴゴロド
ヴィシニー・ヴォロチョーク。
上流の連水陸路、という意味合いの名前を持つこの町は、古くから南のキエフ・ルーシと、北のバルト海を結ぶ川の交易の道として、存在していた。
クラウスたち一行は、ヴォルガ川を遡り、支流の最上流部から船ごと丘を越えて、バルト海に注ぐ水系の湖へと、船を移動させた。
目指すノヴゴロドは、この湖から流れ出でる川を下り、行き着く先の湖沿いにある。
しかし、分水嶺を越えて水系移動するという、大仕事のために、水夫らの勧めで、湖のほとりにある、ここヴィシニー・ヴォロチョークで一休みと相成っていた。
町の酒場にて。
店内は、交易で行き来する水夫や商人、遠方から来たのであろう、見慣れない衣服を着た人々で、活気に満ちていた。
そんな中、クラウスらは水夫たちの卓へとつき、彼らと同じ料理を口にしていた。
「いやー、兄ちゃんたちのおかげで、移動も楽だったし、ありがとうな」
酒が入り、ご機嫌になった水夫頭が、クラウスに話しかけた。
赤い髪にひげが厳つく生える顔は、酒を飲めば飲むほどに、紅く染まる。
黒パンに豆のスープといった定番の品と、湖で取れた魚の料理を堪能しながら、水夫たちは賑やかに食事を続けた。
「魚、うまいな」
そう言いつつ、頭の狼耳とおしりの尻尾を揺らすツァガンに、仮面があるにも関わらず、器用に食事をするヴァシリーと、鎧と剣を装備した、騎士団らしき格好のクラウスと、暖かなスープを口にして、笑みがこぼれるサラ。
一見、ちぐはぐで接点の無さそうな四人だが、共に目的があって旅をしている様子に、水夫頭はふと疑問を投げかけていた。
「兄ちゃんたち、随分と若そうだが、歳はいくつぐらいなんだ?」
「俺?俺は十八だ」
酒の杯を片手に、クラウスは答える。
「私はクラウスくんより、一つ上ですね。十九歳です」
と、ヴァシリーが言う。
「オイラ、十六」
忙しなく口を動かしつつ、ツァガンも答えた。
「皆さん、大人なんですねー」
スープの器から顔を離し、サラがクラウスたちを眺める。
「そういうサラは、いくつなんだよ」
上から見下ろすクラウスの目線に、彼女は怯むことなく答えた。
「私、十二歳ですぅ」
その言葉に、彼は驚いていた。
「お前、ガキじゃねーか!」
「ガキとか、言わないでくださいっ。私は魔法も使えますし、父の手伝いも出来ます。もう大人と一緒なんですぅー」
「うるせー、俺から見たらガキなんだよ。背も低いくせに」
「もう、背はこれから伸びるんですからー」
顔を真っ赤にさせて、可愛らしく怒る様に、水夫たちも皆、微笑んでいた。
「若いなぁ、若さはいいな、可能性がある」
腕を組み、水夫頭は何度もうなずいている。
「俺も、もう少し若ければ、兄ちゃんのように、旅が出来たんだがなあ」
「出たよ、頭の自慢話」
「先祖の一人に、勇者がいたとかのヤツだろ」
またかという、うんざり気味の水夫の一言に、クラウスの耳が鋭く反応していた。
「今の、勇者がどうとか、気になるんだが、えーと」
「ウラジスラフ」
「ウラジスラフさん。その先祖の話、聞かせてくれませんか?」
「ああ、いいぞ」
彼は、にこりと笑顔を見せていた。
昔々、今のモスクワ大公国が成立する以前の、大昔のことだ。
ウラジスラフの何代も前の爺さんが、ある日、勇者として選ばれたそうな。
その時の勇者は、今のクラウスよりも、ずっと若い年齢で、力も弱く、背も高くない、極々普通の男の子だった。
だが、彼は持ち前の勇気で、課せられた使命を見事成し遂げ、このルーシの地に平和をもたらしたという。
大地を割る聖剣を持つ、勇者として。
その後の勇者は、ルーシの地を旅して周り、英雄と呼ばれるようになったとか。
「大地を割る聖剣?」
クラウスが、思わず聞き返した。
「そうだ、聞くところによると、一振りで地が裂ける威力があるとか」
「それは、今、ウラジスラフさんの元にあるんですか?」
焦る気持ちを抑えつつも、クラウスの目は輝きを止めない。
しかし、そんな彼の気持ちとは裏腹に、ウラジスラフは首を横に振る。
「残念だが、聖剣は今はない」
彼が言うには、先祖が天寿を全うした時、剣は神々によって隠されてしまったらしい。
「おそらく、あまりにも強すぎるから、人が持つには危険と判断されたのだろう」
そう言って、酒を飲む。
いつの間にか、クラウスはうつむき、肩を小さく震わせていた。
「兄ちゃん、どうした」
「あった……」
「ん?」
「存在は、していたんだ」
小さな呟き声が、彼の口から漏れていた。
「聖剣、俺の運命……」
「運命?」
「実は、ウラジスラフさん。クラウスさんは、選ばれし勇者なんです」
それを聞いて、彼は、驚きのあまり酒の手が止まる。
「北方諸民族のシャマンによって、世界を救う運命と決められた方なのです」
「そのために、クラウスくんは、聖剣を探さないといけないのです」
サラが、ヴァシリーが、ウラジスラフに説明する。
「本当か?」
杯を卓に置き、彼は目の前のクラウスをまじまじと見た。
勇者に選定されし男が、今まさに世界を救うために、旅をしている。
かつて、先祖がしたように、彼はその身に世界の命運を背負い、聖剣を求めて歩いている。
長い年月が過ぎ、勇者の話はおとぎ話となり、人々は次第にそれを信じなくなっていった。
だが、世界は勇者を求め、シャマンは彼を選び、おとぎ話は再び現実の話として息を吹き返した。
この事は、今のこの世界に危機が迫っているという、意味でもあった。
「兄ちゃん、名前だ。お前の名前を教えてくれ」
「俺はクラウス。プロシア騎士団員のクラウスです」
そう言って、彼は顔を上げる。
凜々しさの中にも、少年らしさが残るその顔は、未知なる可能性の目つきを持つ。
そんな彼に感じ入るものがあったのか、ウラジスラフは黙って手を差し出した。
「クラウス、お前は勇者だ。絶対に使命を果たすんだぞ」
「はい」
二人は固い握手を交わし、互いにうなずき合う。
古き勇者の血と新しき勇者が、今ここで、出会っていた。
翌日。
ヴィシニー・ヴォロチョークを出港して、しばらく経った。
船は順調に川を下り、一路ノヴゴロドへと突き進んでいた。
「クラウス、ヴァシリー、大丈夫か?」
ツァガンが、船底で寝転がる二人に声をかける。
「気にするなって、筋肉痛だからさ。痛たた……」
「変なところの筋を使ったから、かなりきついですねえ……」
船が揺れる度に、鈍い痛みが全身に響く。
彼らは晴れ渡る青空を見上げながら、ただ苦笑いするしかなかった。
「クラウスたちは、若いなー。俺ぐらいになると、一日遅れで筋肉痛だからな」
ウラジスラフは一行の姿に、豪快に笑い出す。
一番体力を使ったであろうツァガンが平気な顔をして、日頃から鍛えていそうなクラウスが、筋肉痛で倒れるとは、なんともおかしなものに見えたからである。
「しかし、嬢ちゃんを見ていると、久しぶりに家に帰りたくなるなあ」
景色を眺めるサラの横顔を見て、ウラジスラフが声を発した。
「頭ぁー、ノヴゴロドに着いたら、休暇ですかぁー」
水夫の一人が、そう声をかけ、皆は一斉に笑い出す。
「そうだな、そうするか。たまには家で娘の相手もしてやらねえとな」
「ウラジスラフさんは、娘さんがいるんですか?」
サラが、そう問いかける。
「ああ、嬢ちゃんぐらいの歳のな。ノヴゴロドに俺の家があって、そこで大人しく留守番をしているはずだ」
話ながら、娘の顔を思い出したのか、彼の表情が、緩みだす。
ウラジスラフの、少しクセのある赤い髪が、風に吹かれて、炎のように揺らめいていた。
「よーし、ノヴゴロドまではもう一息だ。勇者クラウスのために、行くぞお前ら!」
「はい、頭ぁ!」
風に乗って、船の帆が大きく膨らむ。
雪解けの増水した川は、流れも早く、一行はあっという間に川下へと進んでいく。
ここはもう、ノヴゴロドの影響圏であった。
翌日の昼過ぎ。
下流にある湖より流れ出でる一筋の川がある。その川沿いに、町はあった。
商業都市ノヴゴロドだ。
ここ、ルーシの地で最も古い町は、新しい町という名前を有していた。
遙か昔、キエフ・ルーシが成立する以前から、ここには町が存在し、人々が暮らしていた。
だがある日、町は火災によって焼失してしまう。
その後に再建された町を、人々は新しい町ノヴゴロドと呼ぶようになった。
キエフ・ルーシの時代に、この町は首都キエフより離れているというのもあり、ノヴゴロド公国として独立していた。
ここは交易の重要拠点で、国は商工業国家として発展し、やがては共和国として歩んでいく。
その証拠に、外部からの公を名目上は据え置くが、実態は都市長が権力を有しており、その都市長すらも民会の選挙によって選ばれるという、当時にしては珍しい国であった。
そして公は民会と契約を結び、公の義務が果たされない場合は、国を追われるという事も、しばしば起きた。
そんなノヴゴロドという国であるが、現在はモスクワ大公国の地方都市として、交易、商工業、対北方への前線基地の役割を担っていた。
ノヴゴロドの船着き場にて。
太陽が少しだけ西に傾きだした頃、一行を乗せた船が、ようやく到着していた。
「ここが、ノヴゴロドかー」
川面より見上げる、ノヴゴロドの宮殿は、丘の上に位置しており、石で出来た頑強な城壁と、その向こうに聳える、たまねぎ型屋根の聖堂が、彼らを出迎えていた。
「長旅、お疲れだったな、クラウス」
船を係留し、ウラジスラフは笑顔で彼らに話しかける。
船上の荷物は、待ち構えていた荷受人へと、速やかに運ばれ、慌ただしく水夫たちが動いていた。
「ここまで来れば、一安心だ。モスクワの奴らは、そう簡単に手出しして来ないからな」
「ウラジスラフさんも、ここまで俺たちを運んでくれて、ありがとうございました」
そう、礼を言い、クラウスは手を差し出す。
新しき勇者の手を、男の大きな手が握り返した。
「いいってことよ、これが俺ら船乗りの仕事。だからな」
照れくさそうに、ウラジスラフは笑う。
サラやヴァシリー、ツァガンらも彼に礼を述べ、順繰りに握手を交わす。
大きな感謝の意を込めて。
そして町の中心部へと歩もうとした時、ウラジスラフの大きな声が、辺りに響いた。
「ウラジスラフ・イリイチ。勇者クラウスの成功を、願っているぞ!」
「ありがとうございます!」
互いに大きく手を振り合う。
旅の道中の安全と、その成功を、二人は十字を描いて頭を下げた。
西方教会と東方教会の、二つの祈りが、青空の下で一つになっていた。
その一行の真横を、赤い何かが通り過ぎていく。
顔を上げたクラウスの目に映ったのは、赤く長いお下げ髪だ。
サラと同じか少し低いぐらいの背丈の、小さな女の子であった。
「お父さん、おかえりなさい!」
女の子が、嬉しそうに、船着き場へと走っていく。
「ナターシャ、元気だったか!」
「うん、元気だったよ。それでね……」
楽しそうな、親子の会話が聞こえてくる。
それを、サラが羨ましそうな目で見つめていたのに、クラウスは気がついた。
「サラ」
「え、あ、はい」
「早く、スオミに行こうな」
「はい!クラウスさん」
元気なその返事に、彼も思わず微笑んでいた。
船着き場を離れてしばらく、不意にヴァシリーが、口を開く。
「クラウスくん。ウラジスラフさんの先祖の話、もしかしたら本当かもしれませんよ」
「なんで分かるんだ?」
「彼の名前のイリイチは、イリヤーの息子という意味なのです、そして彼の話は、口承叙事詩に出てくる、英雄の話にとても似ています」
ブィリーナとは、ルーシの地で広く伝わっている、おとぎ話や伝説の事である。
彼らスラヴ人は、口伝えにそれを伝承し、親から子、町から町へと歌い継いできた。
その歌の一つが、英雄イリヤーの話であり、ウラジスラフの先祖の話に似ていると、ヴァシリーは指摘したのだ。
そもそも、ブィリーナにはイリヤーという名の勇者が、複数存在している。
キエフ大公に仕えた者や、力自慢の者に、怪物退治の者と。ルーシの地において、イリヤーの名はよくある名だったために、ブィリーナにもそれは反映されていた。
その数多くいるイリヤーのうちの一人、クォデネンツのイリヤーが、例の聖剣を所有していたのだという。
「それ、本当なのか、嘘じゃないよな?」
食い気味にヴァシリーに迫るクラウス、そんな彼に対してヴァシリーは大きくうなずいた。
「イリヤーの聖剣クォデネンツは、とてつもない力を持ちます。それこそ戦いの際に、大地を割ったとも伝えられる程に」
「大地を割る……か。でも待てよ、先祖の話を、ブィリーナから取ったというのも、あり得るんじゃないか?」
「それはありません」
クラウスの疑問を、彼は一言のうちに否定した。
「ブィリーナのイリヤーは、皆大人の男ばかりです。ですがクォデネンツのイリヤーは、少年時代から勇者として名を馳せたといいます。これが重要なんです」
「重要?」
「はい、イリヤーの話は、大人時代が人気なんです。少年時代はむしろ避けて歌われますね、騙るにしても人気のない少年時代だなんて、得しないですよ」
そう言われて、クラウスは何かに気がついたようだった。
同じイリヤーの話ならば、人気があり、得をするであろう大人時代が好まれる。
それをあえて少年時代の話、ということは。
「え、おい、まさか……」
「イリヤーは勇者であり、キエフ・ルーシの英雄。そしてウラジスラフさんの話から、聖剣クォデネンツは大地を割る剣で、間違いは無いでしょうね」
聖剣と、クォデネンツに、大地を割る剣が一つに繋がった事で、クラウスは喜びを感じていた。
「はは、やった、やったぞ!聖剣は本当にあるんだ!」
「よかったですね、クラウスさん」
「クラウス、嬉しいと、オイラも、嬉しい。よかった」
笑顔で喜ぶサラと、ツァガンも尻尾を振り感情を表す。
クラウスの足取りは、心なしか少し軽くなっていた。
ノヴゴロドの市街地を、一行は歩く。
行き交う人の数は、今まで訪れた各都市よりも、段違いに多く、そのどれもが、異国からの訪問者という格好であった。
「あ、オイラと同じ、耳のやつがいる」
ツァガンの頭に生えるのは、狼の耳だ。
それと全く同じものを、彼は人混みの中で見つけていた。
「どこだ?」
「あれあれ」
お尻の尻尾を激しく振り、彼は嬉しそうにクラウスに指し示した。
「うーん、惜しいな。あれは毛皮の服についている耳だよ」
「えー、そうかー」
よくよく見れば、その耳はフード部分から生えており、ツァガンのように動くことすらない、ただの飾りであった。
「こっちの世界、氏族の仲間、一人も、いない、つまんない」
そう言って、がっかりしたように、しょんぼりと尻尾が垂れる。
しかし、自由自在に動くその尻尾を、町の人々が奇異の目で眺めているのに、彼は気がつくことは無かった。
「今日の宿は、どうしようか。また教会に世話になるか?」
木材で舗装された道を歩きつつ、クラウスは皆にそう提案した。
「クラウスさん、ちょうど目の前に教会がありますよ。あそこにしましょうか」
一行の進む真正面には木造の商館が建ち並び、賑やかなその向こうに、白壁の教会が見えてきていた。
「そうだな、そうしよ……」
「あっ、あそこはダメです」
だが、クラウスの言葉を遮るようにして、ヴァシリーが制止する。
「え、何でだ?」
「あの教会は、商人組合専用のものです。中に入れませんよ」
その言葉に、サラとクラウスは驚いていた。
「おいおいおい、教会は旅人に対して寛大であるべきだろう。なんでそんな事に」
「そうですよ、おかしいです」
「あれは、教会というより、組合の市場です。あの中で商品の計量や、関税を決めたりしていますからね」
そう丁寧に説明をされた二人であったが、どうも納得できないらしく、頬を膨らませて不満たっぷりの顔をして見せる。
「よく見てください、出入りしているのは、ノヴゴロドで一番強い蝋商人組合ですよ。黙って入ったりしたら、簀巻きにされて川に叩き落とされますって」
季節は春になり、草花が可愛らしい花弁を開く時期だが、ここは北国ノヴゴロドなのだ。
まだまだ肌寒い風が町中を吹き抜けている。
そんな寒さの中で、川に落とされるのを想像して、クラウスの肩が震えていた。
「簀巻きで、川泳ぎはちょっと、な……」
「で、ですよねー、他をあたりましょう。クラウスさん」
一行は、さらに通りを歩く。
どこかいい宿はないか、立ち並ぶ市場と、ハンザ商館を眺めつつ、当てもなく彷徨う。
そんな時、建物の向こうの路地から、ラッパを吹き鳴らす一団が現われていた。
「おや、芸人ですね」
彼らは賑々しく音を鳴らし、歌をうたい、楽しそうにこちらへと歩いてくる。
そして、クラウス一行とすれ違おうとした時、一団の中から声が上がっていた。
「あーっ!この兄ちゃん!」
「うぉ、なんだ、なんだ?」
驚くクラウスらを、芸人たちは皆で取り囲んでいた。