8 船旅から連水陸路
ヤロスラヴリの酒場。
昼飯時で賑わう店内に、ヴァシリーの声が三人の耳に届く。
それは、今思うと、全ての始まりだったのでは、と彼は言っていた。
「数年前の事です。ある日、私の家に一人の男が、助けを求めて来ました」
その男は、自分たちではどうしようもないと言い、ヴァシリーの父、春の呪術師に、力を貸してくれと願った。
話を聞くと、ヤロスラヴリの町に近い街道で、見たことも無い怪物が次々と現われては、旅人や農民、交易商を襲っているとのこと。
しかもそれらは、退治したら消えるのだが、時間が経つと再び現われて、人々に危害を与え続けているという。
余りにも切りが無いので、正教会の修道士に、なんとかしてくれと頼み込むが、教会でも初めて見るそれらに、対処法が分からず、お手上げ状態なのだとか。
そこで春の呪術師に助けてもらおうと、モスクワのキタイ・ゴロドまでやって来たらしい。
その話を聞いて、春の呪術師は、男に労いの言葉をかけてやり、二つ返事でそれを承諾した。
シャマンの道具を携えて、やって来たのは、ヤロスラヴリの郊外だった。
指摘された場所には、黒い渦のようなものが、幾つも見え、そこからは異形の怪物が何体も湧いて出ていた。
最初のそれらは、とても弱く、父や兄弟子の攻撃魔法の一撃で、倒せるものばかりだった。
瞬く間に怪物は黒い粉塵と消え、渦の中に消えていった。
一段落した後、父は黒い渦に向かって己の太鼓を叩き、人々の目の前で、根源のそれを消し去り、場を浄化させていた。
そして父曰く、これは、地の底のものが出てくる道になっている。
これが出るという事は、世界のバランスが狂い始めている証でもある。
この現象が、ここだけで済めばいいのだが、今後、数が増えるようだと、少しばかり危険になってくる。
町の者には悪いが、街道の監視を強化してもらうしか手はない。
全てを片付けて、父は兄やヴァシリーにそう言っていた。
だが、話はそれで終わらなかった。
怪物たちは、その後も出現を続けていた。
増え続ける怪物どもと、黒い渦は無数に湧き続けている。
出現場所は、次第にヤロスラヴリから、ロストフ、スズダリへも範囲を広げていた。
やがて父一人の手では、到底怪物退治は追いつかず、兄やヴァシリーも手伝い、各々でそれらを倒すこととなる。
攻撃魔法で、怪物どもを始末し、渦だけになったところで、太鼓の音と祈りでそれを浄め消し去る。
そんなこともあって、彼らの腕は、みるみるうちに上達し、怪物どももなりを潜めた。
これで一安心かと思われた矢先だが、怪物が予想外の場所に出るようになった。
モスクワ大公国の首都である、モスクワ近郊に、奴らは現われた。
しかも、以前とは違い、大きく力を付けて。
首都での戦いは、兄の魔法の使い勝手が悪く、彼らは苦戦を強いられた。
それでも、貴族たちの協力を受け、ヴァシリーたちは退治を続けた。
「それでも、怪物の出現は止みませんでした」
淡々とヴァシリーの言葉は、綴られている。
彼の説明は、シャマンの祈りであり、三人は無意識のうちに、話の内容へと引きずり込まれていた。
「今度は、北や南、国内のあらゆる場所で、奴らは出ていました」
「それは、いつぐらいなんだ?」
クラウスが腕を組み、何かを思い出すように、少し頭を傾げた。
「モスクワの話は、ちょうど一年前からですね」
「その頃は、プロシアも異常は無かったな」
「スオミも、同じくです」
一年前の冬から春にかけては、モスクワ周辺での出現だったものが、その後は国内全域へと広がった。
そして、去年の秋に起きた、忌まわしき事件とほぼ同時期に、奴らは国外の、プロシアやスオミまでその姿を見せるようになった。
これらは関連があるのか、ないのか、あるとしても何が、何の目的で、それを行っているのか、皆目見当がつかない。
クラウスたちは、いつしか黙り込んでしまっていた。
「みんな、メシ、冷めてるぞ」
だが、その沈黙を破るように、不意のツァガンの声で、三人は我に返る。
「すみません、私の長話のせいで……」
「いいよいいよ、気にすんなって」
時間を取らせてしまったことを、ヴァシリーは詫びる。
そんな彼を思って、クラウスは軽く答えるも、内心は少し困っていた。
なぜなら目の前の料理は、とっくに冷たくなっており、スープの表面には、白い脂が浮いて固まっていたからだった。
「あちゃあ、これは冷えると旨くないんだよなぁ」
「クラウスさん、パンにつけたらどうですか?」
「サラちゃんの言うとおりです、パンで押し込んじゃいましょう」
「その肉、食わないなら、オイラにくれ。全部食うぞ」
賑わう店内で、四人は昼食を済ませると、再び船着き場へと出発していた。
ヴォルガ川への道中。
腹も膨れ、一行は元気よく歩いていた。
暖かな日差しに、クラウスとツァガンは羽織っていた毛皮を脱ぎ去っていた。
「はぁ、随分暖かくなっているな」
クラウスは茶色の髪を掻き、風に頭皮を当たらせようと、頭を振る。
「オイラも、脱いじゃったぞ」
厚い毛皮の服を上だけはだけ、ツァガンは前合わせの薄手服になる。
その不思議な形の衣服は、東の世界特有の合わせかたで、西の世界ではまずお目にかかれない、珍しいものであった。
「そういやヴァシリー。その仮面について、聞きたいんだが」
「これですか?」
長い黒髪が垂れる、ヴァシリーの顔を覆うのは、木で出来た仮面だ。
あの、恐怖の親衛隊から奪い返した、不思議なものであった。
「それ、なんで付けているんだ?」
「これはですね、邪視除けです」
仮面を少しだけ持ち上げて、彼は、にこりと笑顔を見せる。
「邪視?」
「はい、このルーシの地に住む人の中には、眼に悪意を込める者が、まれにですがいます。私たちシャマンはその影響を受けやすいので、こうして自衛しているのです」
「邪視除けなのか……」
そう言って、仮面を元に戻すヴァシリーを見て、クラウスは何かが引っかかっている様子ではあった。
「何か、気になりますか?」
「いや、木の仮面じゃないが、似たような奴を俺も見たんでな」
「……どこで見ましたか」
クラウスの、その言葉を聞いて、彼の心中にざわめきが起きる。
それは、知りたくもあり、知りたくもない、情報だった。
「プロシア。俺の故郷だ」
「その人の様子を、詳しく教えてください」
頭に滲む汗とは別に、冷たい汗が背中を伝い落ちる。
「うーん、俺が見たのは、顔は頭巾で覆われていて、頭に羽根飾りと、ヴァシリーと同じような格好で、片面張りの太鼓を持っていたな」
同じ格好と言われて、ヴァシリーの身体が、少し強張った。
「他には」
「そうそう、髪が赤い色だったのと、炎の魔法も使っていた記憶が」
「……さん」
思わず、言葉が口をついて出た。
だが、それはとても小さく、クラウスの耳には、届いてはいなかった。
それでも、即座に変化した彼の様子に、クラウスも何か気づいたようだった。
「うん?」
「何でもないです。その人は、何をしていましたか?」
一瞬だけ見せた、暗い眼を隠すように、彼は無理矢理、仮面の下で笑顔を作る。
「何をするも、町中で太鼓叩いて、怪物呼び出して、俺の町がぐっちゃぐちゃだ」
その時を思い出したのか否か、クラウスの眉間にしわが寄り、ため息のような空気が口から吐き出される。
「俺、あいつは許せないからな。この手で倒さないと、気が済まないぞ」
気がつけば、目の前には川を行く船が見え、船着き場には出港準備をする水夫が、幾人も動き回っていた。
一行は乗り遅れないよう、足早に川へと向かうが、一人だけ、その歩みを変えない者がいた。
仮面の下で、嬉しいような、悲しいような顔をし、複雑な気持ちを胸に抱く。
足の向かう先には、陽の光を受けて、まぶしく輝く川面がある。
だが、それすらも、今の彼には、何も感じることはなかった。
「……何かの、間違いだ」
手に持つ太鼓が、いやに重い。
それどころか、身体全体が泥のように鈍く、遅い。
周囲の空気が黒く粘つき、息が自然と荒くなる。
ゆるゆると、その足は、動きを止めようとしていた。
「ヴァシリーさん、船が出ますよ、急いでくださーい!」
「あっ、す、すみません、今行きます!」
サラの声に、彼に纏わり付くものは一瞬で霧散し、その足は再び走り出す。
桟橋は、軽快な音を立てていた。
ヴォルガ川の船上にて。
「おい、ツァガン。気分はどうだ?」
クラウスが、笑いながら彼に呼びかける。
「うん、ヴァシリーに、魔法、かけてもらった。だから、平気」
「そりゃよかった。お前、またいっぱい食ってたからなあ」
一安心とばかりに、クラウスはまたも笑っている。
船は風に乗って帆を膨らませ、川の上流に向けて進み出していた。
折からの南風と、晴れ渡る青空の下、暖かな陽気に、クラウスは大あくびをする。
「ヴァシリーさん、次の町へは、どれぐらいですかね?」
「そうですね、ちょっと時間がかかるかも知れません」
流れ行く景色と、川の水量を見比べつつ、ヴァシリーは答えた。
「そうだ、ツァガンくん」
「な、なに?」
「ツァガンくんの故郷では、怪物って出ていましたか?」
ヴァシリーの問いに、彼は首を振る。
「ない、出ていない」
「あれ?そうなんですか」
「森の獣は、いっぱいいる。でも、怪物、こっちに来てから、見てる」
世界を分ける大山脈の東側世界は、未踏の地が多く、獣人という獣と人の合いの子が住むという場所だ。
手つかずの自然が残る分、異形の怪物も発生しやすいと、ヴァシリーは思っていたのだが、意外な事に、東の世界では怪物そのものが出ていないという。
「だから、さっきの話、オイラ、ちんぷんかんぷん。分からない」
尻尾をゆらゆらと揺らしながら、ツァガンの頬が膨らんでいた。
「なんだか、分からない事だらけですね」
サラがそう言えば。
「まあ、そのうちに分かるだろ、たぶん」
クラウスが少しだけ、前向きに考える。
一行を乗せた船は、のんびりと上流へ進んでいた。
それから幾日か過ぎ。
船は順調に、ウグリチ、トヴェリと通過し、ヴォルガ川の支流へと、進んでいく。
この水運を何度となく往復する水夫たちは、皆、巧みなる操船技術を持ち、追い風や横風を上手く利用して、上流へと舵を切る。
途中、何度か船曳きの助けを要するも、一行は支流の源流域まで、迫ろうとしていた。
「よーし、着いたぞ」
水夫たちが声を掛け合い、船を川岸へと近づける。
周囲は、ここ何日かの気温上昇の影響で、白い雪はどこにも見当たらず、春を告げる若緑の色が、草原を埋め尽くしていた。
「兄ちゃんたち、悪いが下りてくれ」
「え、もうノヴゴロドなのか?」
大分細くなった川に、なだらかな丘が両岸に迫る風景が見える。
船着き場の小さい村はあれど、大きな町はどこにも見当たらない。
村から出てくる、船の曳手たちを見て、クラウスは不思議な顔で問いかけていた。
「はっはっは、ノヴゴロドはまだ先だ。ここはヴィシニー・ヴォロチョーク、これから丘を越えるんだよ」
クラウスたちは船を下り、水夫の仕事を手伝いつつ、船を陸にまで押し上げた。
「はー、重い。これ、すごい、重いな」
船の後部から、ツァガンの声がする。
「こんなに、重いのに、水に浮かぶ。すごい」
「わはは!そうか、すごいか、獣人の小僧っ子は、面白いことを言うな!」
彼の言葉に、大柄な水夫頭の男が、豪快に笑い出していた。
船と地面の間には、幾本もの丸太が挟まれ、ごろりごろりと地鳴りのような音を立てつつ、分水嶺へと近づく。
「あのー、私は、何をすれば」
船を曳く男に、船を押す男と、丸太を運ぶ男らを眺めつつ、サラが水夫頭に訴えた。
「ああ、嬢ちゃんは何もしなくていいぞ」
「え、でも、私だけというのは……」
クラウスとツァガン、そしてヴァシリーの三人は、男手という理由だけで、船の移動を手伝わされていた。
そして彼らを見守るサラに、恨めしそうな目を向ける男が一人いる。
「くそー、サラのやつ、楽してるなあ」
「クラウスくん、仕方が無いでしょう。サラちゃんはまだ子供なんですから」
船体から伸びる、頑丈なロープを肩に乗せて曳き、クラウスは息を荒くする。
「クラウスー!オイラ、頑張って、押してる。クラウスも、頑張れー!」
「ぎいぃぃ!余計なことを言うな、ツァガン!」
後方から聞こえる、ツァガンの脳天気な声と、クラウスの声は不満たっぷりのものだ。
水夫たちは、それに笑いながらも、船を曳き続けた。
「せめて、周りの警戒だけは、しないと……」
サラは、プラチナブロンドの髪を揺らし、船の周囲に異変はないか、辺りを見回す。
「嬢ちゃん、あまり離れるなよ」
丸太を手にする水夫頭が、そう注意した。その時。
「きゃあ!」
「おっと、出やがったな!」
船の通り道に接する、茂みの陰から飛び出してきたのは、蛇に蝙蝠の羽根が生えた空飛ぶものだ。しかも、その数五匹である。
「クッ、クラウスさーん!」
サラの悲鳴が、クラウスの耳に届くも、彼はそこから動くことが出来ない。
「サラ!」
驚いて腰を抜かす彼女目がけて、空飛ぶ蛇が襲いかかる。
「嬢ちゃん、目ぇつぶってな!」
丸太を抱え、水夫頭の手が腰につけた斧を瞬時に掴み、目にも止まらぬ速さでそれを振り上げた。
「おらよっ!」
かけ声一閃、鈍い音と共に、それは胴を真っ二つに切断され、返す刀でさらに二匹、三匹と、口から尻尾まで、一直線に蛇の身体が開かれていた。
「おー、おっさん、強い」
遠巻きに水夫頭の戦いぶりを眺めて、ツァガンは尻尾をぱたぱたと揺らす。
「やだーっ!」
無我夢中で突きだされるサラの両手からは、その手の平が白く光り輝き、蛇を跡形もなく爆散させた。
「こいつで、最後だ!」
大口を開けて、魔法を放とうとする蛇の口内に、斧の切っ先がねじ込まれ、そのまま捻るように蛇ごと地面へと叩き込まれる。
斧と共に蛇は大地にめり込み、その姿を黒い粉へと変化させていた。
「大丈夫か、嬢ちゃん」
地面にへたり落ちるサラを心配し、水夫頭は声をかけた。
「あ、ありがとう、ございま、すぅ」
「ここな、いつもこんなのが出るんだよ」
異形の蛇が飛び出てきた茂みには、黒い渦が複数見え、黒い粉が次々とそれに吸い込まれていた。
「クラウスくん、ちょっと、ここを頼みますね」
「あっ、おい、ヴァシリー!」
船曳きのロープをクラウスに託し、ヴァシリーは太鼓を片手にサラの元へと駆けていく。
「サラちゃん、ケガはないですか」
「はい、私も、水夫さんも大丈夫です」
ゆるゆると彼女は立ち上がり、服につく埃を叩くと、なんともないとばかりに、うなずく。
「それで、ヴァシリーさん」
彼女の、八端十字架の示す先を見て、ヴァシリーの太鼓がピリリと震える。
「兄ちゃんよ、これ何なんだ?これのせいか知らんが、変なのが出てくるしよ」
「これは、悪いものです」
茂みの陰へと、ヴァシリーは近づき、静かに膝をついた。
彼の、ばちを持つ手がゆっくりと動くと、太鼓の音がさざ波のように周囲に響く。
口からは、祈りのうたが綴られると同時に、黒い渦はきれいさっぱりと、そこから消え失せていた。
「消えたのか?」
再び斧を腰に差し、水夫頭は彼に問う。
「はい、これでもう怪物は出ませんね」
背後から覗き込む気配に、仮面の下で、ヴァシリーが微笑んでいた。
「良かった、助かったよ。ありがとうな兄ちゃん」
「いえ、これも私の仕事なので……」
照れながらも、彼は膝を上げ振り向いた。
「ああああ!ヴァシリーッ!早く戻れー!」
と、船の前方から、クラウスの絶叫が聞こえてくる。
ヴァシリーは苦笑いしつつも、足早に彼の元へと戻っていく。
目の前の丘は、水系を分ける分水嶺である。
ここを越えれば、目指すノヴゴロドまではあと少しだ。
青空に、ちぎれた綿雲が浮かんでいた。