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7 黄金の環

 翌朝。

農民の家を後にして、クラウス一行は街道を進む。

 昨日からの南風と、晴れた天気の良さに、気温はぐんぐんと上昇し、街道を覆う雪も、そのほとんどが見えなくなっていた。

 土地勘のあるヴァシリーを先頭に、サラとツァガン、しんがりをクラウスが守る形で、彼らは歩く。

 目指すはロストフという、かつて栄華を誇った、ロストフ公国の首都の町であった。

「ふあーあ」

 だが歩きながら、ツァガンは大あくびをしている。

そんな彼に、クラウスはそっと声をかけた。

「ツァガン、昨夜はありがとうな」

「えっ、な、何が」

「狼だよ、お前が追い払ったんだろう?」

 そう言いつつ、彼はツァガンの肩に手を乗せ、にこりと歯を見せて笑う。

 昨夜の事は、誰も知らないと思っていたツァガンにとって、それは嬉しかったのか、おしりの尻尾が、ぱたぱたと揺れていた。

「あの家の主も喜んでたぞ、感謝してるってな」

「そ、そんなこと、ない。オイラ、いつも通りした、だけ」

 照れつつも、彼はそうするのが当たり前だと、説明する。

「オイラの故郷、獣いっぱい、出る。夜に狼来るのも、ある。だから、狼、退治しないと、いけない」

「退治?でも、お前」

「うん、オイラ、狼の氏族。狼はオイラたち、護る祖霊。狼は傷つけたら、だめ」

 彼が言うには、狼は自分たちを庇護してくれている獣なのだという。

頭の狼の耳と尻尾は、その身体に、狼の血が流れている証でもあった。

「だから、オイラ、遠吠えして、狼追い払う。もう来るなって、分かってもらう」

「ふーん」

 分かるような分からないような、そんな不思議な気持ちに、クラウスは戸惑いながらも納得をしていた。

「私も、その話は聞いたことがありますよ」

 いつの間にか、先頭を歩いていたヴァシリーが、二人の側までやって来て、会話に参加していた。

「東方世界の、獣人と呼ばれる各氏族は、それぞれが祖霊と呼ぶ、祖先となる獣を有しているとか」

「へぇー、じゃあ、狼以外のもいるのか?」

「うん、トナカイとか、鹿なんかも、いる」

 尻尾を揺らしながら、ツァガンは嬉しそうに語っていた。

「そして彼らは、祖霊の獣の特徴を、その身体に残してもいます。ツァガンくんのようにね」

「東の世界には、いろんな奴がいるんだなあ」

 ツァガンの、自在に動く耳と尻尾を見て、彼らはお互いに顔を見合わせる。

 西とは違う、東の世界は、人と違う、異形の者が住む世界でもある。

 広大な大地に、まだ見ぬ世界があるという事実は、クラウスの好奇心をくすぐっていた。

「何を話しているんですか、早く行きましょうよー」

「悪い、サラ」

 プラチナブロンドの髪を揺らし、サラが振り向きつつ、男三人を急かし始める。

一行は、もうすぐロストフが見えるという場所まで、進んでいた。


 古都ロストフ。

ここは、かつての公国の首都であり、現在のモスクワ大公国の揺籃の地とも言われる、北東ルーシの中心地でもあった。

 町は満々と水を湛えた湖の畔に位置し、船着き場には、交易及び人の足となる船が幾つも並んでおり、水運によって町は開けたという印象を、訪れる人達に見せていた。

 小高い丘の上には、東方正教会の聖堂が鎮座し、その独特なたまねぎ型の屋根は、町の郊外からも眺めることが可能で、ある種の目印としても、それは機能していた。

「はぁー、ここがロストフか」

 その町の大通りを、クラウスたち四人が歩く。

 道は木材で舗装されている。

この時期は、ぬかるみがちなそこを、彼らは丘の聖堂へと向けて進む。

 通りの両脇にある市場から、賑やかな声が聞こえていた。


 聖堂内の、客人用の一室。

彼らが通されたのは、手入れの行き届いた部屋であった。

「疲れたな」

 そうつぶやき、クラウスは荷物を無造作に床に置く。

「やっと、教会で休めますねー」

 この聖堂に辿り着いた彼らを待っていたのは、主教ら正教会の者たちだった。

皆は口々に、無事辿り着いた事を喜び、スオミ総主教の娘であるサラに、労いの言葉をかけ、彼女に様々な情報を与えていた。

「それで、クラウスさん」

「なんだ」

「ここから、スオミに行くには、一度ノヴゴロドという町に出ないと、いけないそうです」

 サラが、椅子に腰掛けたクラウスに、そう問いかける。

「ノヴゴロド?」

 どこかで聞いたような、その地名に、クラウスは少し考える。

 プロシアにいた時に、聞いたような、聞かないような、騎士団員同士の会話でなく、もっと違う、町中の交易商がふと言っていた記憶だ。

「思い出した、ノヴゴロド、毛皮を扱っている、商業都市だ」

 西の世界のさらに西で、人々に着られている毛皮の主な産地は、モスクワ大公国からだという。

ノヴゴロドは、その国に数多くある、交易都市の一つであった。

 ここもかつては、ルーシ諸公国のノヴゴロド公国として存在しており、クニャージを擁してはいたのだが、民会ヴェーチェの力がそれよりも遥かに強く、民主国家として繁栄してきた、珍しい町でもあった。

「ノヴゴロドですか、かなり遠いですね」

 ヴァシリーが、太鼓を抱えて、そう呟いた。

「ここからだと、どれぐらいかかる?」

「そうですね、陸路だとウグリチを経由して半月から一月。川の道ならヤロスラヴリを経由して、十日といったところですね。但し遠回りです」

 おおよその時間を言われて、クラウスの顔が渋いものになった。

「結構、かかるな」

「この国は広いですからね、陸路より川を行った方が早いこともあります」

 今の季節は暖かくなり始めた春になる。川は解氷し、流れ込む雪解け水のお陰で、その水量は豊富であった。

 あちこちで洪水が起き、湖沼の水が溢れて、水運移動には、もってこいの時期ではある。

 どの道を選べばいいのか、クラウスは迷っていた。

「オイラだったら、半月もしないで、走りきれるぞ」

 脳天気な声で、ツァガンが答える。

「お前だけならな。俺たち人間だからさ」

「あ、そっか」

 気がつかなかったとばかりに、彼は黄金色の髪を掻く。

頭の耳が、恥ずかしそうに垂れていた。

「陸路がいいか、川がいいか……」

「私は、陸路を行くのは、お勧めしません」

 ヴァシリーが、そう釘を差した。

「陸路は、この前のような、怪物が出る危険性があります。または怪物は出なくとも、獣は絶対に出ます」

 彼らは、ヴァシリーの言葉で、それを思い出していた、

 昼間の街道の脇から、獣ではない異形の怪物が現われていた事を。

そして夜ともなれば、狼が村や集落を狙い、襲っている事を。

 それを鑑みれば、答えは自ずと明かであった。

「川の道にしようか」

 クラウスは、首を動かさず、目線だけをサラに向け、すぐに元に戻した。

「それがいいと思いますよ」

 仮面の下で、ヴァシリーも微笑み、うなずいていた。


 翌日。

教会の主教らに見送られて、クラウス一行は聖堂を後にした。

 空は今日も晴れ、南からの暖かな風が町に吹き込んでいた。

「さて、と。まずはヤロスラヴリに向けて、出発だ」

 聖堂のある丘から、眼下の湖を眺める。

朝日を受けて、湖面は煌めいている。船着き場には、早くも出港準備をしている船が、見受けられていた。


 船の上。

四人は、朝一番のヤロスラヴリ行きの定期船に、乗っていた。

 定期船とはいえ、大きさはさほど大きくなく、横幅は大人一人が余裕で寝転がれるほど。

 たくさんの交易の荷物と、少しの旅客を乗せて、船は川を下っていく。

「この風だったら、早く着きそうですね」

 南風を受けて、大きく膨らむ帆を見つつ、ヴァシリーが呟いた。

「ところでヴァシリー。ヤロスラヴリから先は、どの道順になる?」

 クラウスは船上にて、川の両岸の景色を眺めている。

まだ白いところが残る草原と、濃い緑の森林が、川岸のすぐ側まで、迫ってきていた。

「まず、ヤロスラヴリですね、そこからヴォルガ川に入って、ウグリチ、トヴェリと進みます。トヴェリからは支流に入って、ヴィシニー・ヴォロチョークで川を替えて、ノヴゴロドですかね」

「川を替える?そこだけ陸路なのか?」

「違います、船ごと川を替えるんです」

 聞き慣れない言葉に、クラウスの首が傾いていた。

「あ、知ってまーす。川から川へ、陸の上を船が動くんですよねっ」

「正解です、サラちゃんは物知りですね」

 そう褒められて、彼女は恥ずかしそうに顔を赤くする。

「ところで、ツァガンはどこに行った?」

「あ、ツァガンさんなら」

 そっと出された、サラの指さす先には、少し離れた場所で大の字に寝転んでいる、ツァガンの姿があった。

「おーい、ツァガン、どうしたー」

 クラウスが呼びかけるも、彼は答えず、尻尾がけだるそうに動いていた。

「どうしたんだ、あいつ」

「さっき、気持ち悪いって、言っていましたよ」

「船酔いですかね、ちょっと見てきます」

 伸びるツァガンに、ヴァシリーが心配そうに近寄る。

仰向けに倒れているその顔は、血色が悪く、一目で船酔いと分かる状態であった。

「ツァガンくん、どうしましたか。気分が悪いのですか」

「うー、ヴァシリー……」

「ほら、起きてください。寝ているともっと気分が悪くなりますよ」

 ヴァシリーが、倒れたその身を起こそうとするも、彼は黙って首を振るばかりだ。

「起こさなくて、いい。気持ち悪い」

「だめですよ、このままだと……」

「ふぁ……」

 気持ち悪い発言からの、だるそうな生あくび。

ヴァシリーは嫌な予感がして、咄嗟に魔法の詠唱を開始した。

「ツァガンくん、こっちを見てください」

「え……?」

 ツァガンの、眠そうな半開きの目に向けて、ヴァシリーの指先が向けられ、そこから魔法が飛び込む。

放たれた魔法は風となり、目や口、鼻から清涼な空気となって入り込み、粘つく淀んだ体内の悪いものを、一気に外へと押し出していた。

「危なかった」

 ぼそり、とヴァシリーは呟き、ほっと胸を撫で下ろす。

「気分はどうですか、ツァガンくん」

「あれ、気持ち悪く、ない」

「良かった」

 さっきまでの醜態はどこへやら、けろりとした顔で、ツァガンは己の頬を触った。

「でも、ヤロスラヴリまでは、おとなしくして、なるべく遠くの景色を見るようにしてくださいね」

「うん分かった。ありがとう、ヴァシリー」

 尻尾をぱたぱたと揺らしつつ、ツァガンの顔に、笑顔が戻って来ていた。

そんな彼をその場に残し、ヴァシリーはクラウスたちの元へ戻る。

「どうだった、ツァガンのやつ」

「生あくびが出ていたので、もう少しで吐くところでしたね」

「あっぶねえな」

 クラウスの言葉に、ヴァシリーも思わず苦笑いをする。

「ツァガンさん、朝からいっぱいご飯を食べていましたから」

「まったくだ、あんなに食っていたら、絶対吐くっての」

 今朝の彼の様子を思い出し、彼らは思わず吹き出す。

 滔々と流れる川の船上に、楽しそうな笑い声が聞こえていた。


 ヤロスラヴリ。

ここは、ロストフの湖から流れ込む川と、ルーシの地を流れる大河ヴォルガ川の合流地点にある、河港都市だ。

 かつてこの町はロストフを首都とする、ロストフ公国の支配下に置かれていたが、その後独立し、一人のクニャージを擁するヤロスラヴリ公国として、栄華繁栄していた。

 しかし時代は流れ、独立を維持するのが難しくなってきた頃、力を付けてきたモスクワ大公国に併合の話を持ちかけられ、時の公はあっさりと飲み込まれる道を選んだ。

 それからは、モスクワ大公国の一地方都市として、交易や、対南への前戦都市として、町は少しずつ発展してきていた。

 その町の船着き場の、舟歌が聞こえる桟橋を通り過ぎ、一行は丘の上に見える修道院を眺めつつ、今後の予定を話し合っていた。

「まだ昼前だ、意外と早かったな」

 未だ太陽は、天頂へと至っていない。

上がる気温に、羽織っていた毛皮を少しはだけ、クラウスは三人を見る。

「さて、どうする?ここで一泊か、行けるうちに進むか」

「私は、進んだ方がいいと思います」

 仮面のヴァシリーが、長い髪を揺らしながら答える。

「私も、進めるなら、進みたいです」

 八端十字架の杖を手に、サラもそう答える。

「お前は、どうだ?ツァガン」

 少しだけ元気のないツァガンに、クラウスは問いかけた。

「え、あ、あの、オイラ」

「気分が悪いなら、休もうか?」

 その言葉に、彼は首を勢いよく振った。

「き、気にしなくて、いい!オイラ、ガマンする。だから、進もう!」

「よし、言ったな。じゃあ先に進むとして、その前に腹ごしらえだ」

 皆の意見がまとまったことで、クラウスは嬉しそうにその両手を叩き合わせる。

「水夫も昼休憩みたいだしな、俺たちも昼飯を食おう。ツァガン、食べ過ぎるんじゃないぞ」

「うっ、わ、分かったよう」

 川縁に、四人の笑い声が響いた。

一行は、町の中心部の市場へ向けて、歩き出していた。


 ヤロスラヴリの町中にある、一軒の酒場。

「怪物が出るようになった、時期?」

 皆の目の前に並ぶ料理は、相も変わらず脂身の多い肉と、野菜と豆たっぷりのスープだ。

 そして当然のように出されるクワスに、やはり柔らかくない黒パンを、各々手に取り、口の中に放り込んでいく。

「そうです。クラウスくんの故郷では、いつ頃から出るようになりましたか?」

「うーん、去年の秋ぐらいから、かなあ」

 食事の手を止め、彼は思い出すように、目をつぶる。

「スオミでも、それぐらいからですね。怪物が出たのは」

 黒パンに、肉の脂身を塗りつけて、サラもそう答えた。

「去年ですか、ここよりも大分、時期がずれていますね」

 酒を手にして、ヴァシリーは何か考えているようであった。

「うん?ずれているって?」

 目の前で、肉とスープを口に押し込むツァガンの姿を見つつ、クラウスの頭に疑問が湧いていた。

「はい、ここモスクワ大公国では、数年前から怪物が出るようになりました」

「何だって?」

「最初は、このヤロスラヴリやロストフ、スズダリを中心とした、黄金の環と呼ばれる地域で、それは始まったのです」

 ヴァシリーの言葉に、サラもその手を止め、ツァガンも卓の空気に、頭の耳をそばだてて話を聞く。

 それは、ほんの小さな異変からであった。

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