6 ロストフへの道
残雪の草原のただ中に、怪物の荒い息がする。
黒い渦から現われたそれらは、どれもが異形の姿をしていた。
鹿のようだが、鹿ではなく、角のあるべき場所には、火を吹く蛇が生えたもの。
鳥の翼があるのだが、胴体と頭はトカゲのようなもの。
他にも、硬い鱗を背負った二本足の牛もどきや、跳ね回る丸いものなど、自然界ではまず見ないような生き物が、クラウスたちに襲いかかっていた。
「サラ、魔法を頼む!」
「はい!」
彼の声と同時に、サラは杖を構え、魔法の言葉を詠唱する。
「ツァガン、いくぞ!」
「分かった!」
クラウスは剣で、ツァガンは素手にて、怪物どもに打ちかかった。
口から魔法の炎を放つのは、トカゲの姿をしている。
だがクラウスはそれを器用に躱し、素早く奴の懐近くまで斬り込む。
トカゲの翼を切り落とし、返す刀でその首を切断すると、のたうつ胴に剣を突き立て、その息の根を止める。サラの魔法が牛の鱗を吹き飛ばすと同時に、がら空きとなった柔い皮膚に、ツァガンの強烈な一撃が叩き込まれた。
そんな中、鹿の頭部が不気味に蠢きだす。
ゆらり、ゆらりと動きつつ、クラウスに照準を定め、蛇の口を大きく開く。
「危ない」
太鼓の音が、一つ、鳴る。
音はヴァシリーを中心に広がり、彼らを守るべく波の壁となって、一行を包みこんだ。
鹿の頭の蛇が大きな炎を吐くも、それは音の波と打ち消しあい、彼には届きもしない。
蛇は再び火を吐こうとするが、クラウスの剣によって頭部と切り離され、残された本体の鹿も、ツァガンの手によって首を折られ、口から鮮血の泡を吹き出していた。
動かなくなった怪物どもは、黒い粉塵と化し、再び黒い渦の中へと消えてゆく。
街道は、再び平穏な時を刻み始めていた。
「よーし、これで片付いたな」
クラウスが剣を拭い鞘へと収め、サラも安心したように、大きく息を吐く。
「あはは、こいつ、面白い」
そんな中、ツァガンは跳ねる丸いものを捕まえて、バシバシと叩いては、それを小気味よく弾ませていた。
「見て見て、クラウス」
「ツァガンくん、あんまり叩いては……」
ヴァシリーが諫めたと同時に、丸いものが音を出した。
「ぷうううう!」
「えっ?」
まるで悲鳴のような音がした、その瞬間、それは大きく膨らんで破裂していた。
「わああ!」
驚いてのけぞるツァガンに、クラウスは思わず笑い、サラもつられて笑い出す。
「それは、叩きすぎると、そうなるんだよ」
と、クラウスが笑いながら言えば。
「オイラ、そんなの、知らない!」
と、ツァガンがむくれる。
「これらが出るようになったのは、割と最近の事ですからね」
そう言いつつ、ヴァシリーは地面に膝をつき、太鼓をかざして軽く叩く。
音に反応して、黒い渦が次々と消える様子に、クラウスは再び疑問を投げかけた。
「そういや、さっきの質問なんだが」
跪く彼に冷ややかな目を向ける。
彼の姿は、異教徒のもの。それも自然崇拝者のものだ。
そして、春の呪術師の家に出入りできる者でもある。
この者は果たして信用たり得るのか、名を偽ったのは、自分たちを欺くためなのか、クラウスの心を不信感が支配しつつあった。
やがて黒い渦が無くなり、場を浄め終わったヴァシリーが、重い腰を上げる。
衣服から伸びる、色とりどりの紐をしゃらりと靡かせ、彼は三人へと向き直った。
「では、改めて自己紹介します。私の名はヴァシリー、春の呪術師の息子にして、弟子でもあります」
仮面姿の彼はそう言い、深く頭を下げた。
「ええっ、子供?」
「はい、春の呪術師は、私の父です」
ゆっくりと頭を上げ、仮面の下で微笑むヴァシリーに、ツァガンが食ってかかる。
「オ、オイラ、春の呪術師に、頼みがある。春の呪術師、どこに、いる?」
「それは……」
「お願い、教えて。オイラの、氏族の命、かかってる!」
必死の形相だが、不安気に尻尾を垂れるツァガンに、ヴァシリーは顔を逸らし、何やら口籠もってしまう。
言うべきか、言わざるべきか、彼は悩んでいるようでもあった。
「その、あの」
助けを求める彼の様な者を、ヴァシリーは父の元で幾度も見てきた。
遠路はるばる、救いを導きを欲し、人々は渇望を背負いながら、キタイ・ゴロドへとやって来た。
春の呪術師は、当代一のシャマン。その名は、モスクワ大公国だけでなく、東方世界、そして正教会の間でも知られる人物でもあった。
そんな父を思い出し、ヴァシリーはその重い口を開く。
「父は……、亡くなりました」
「えっ」
ざわり、と白い草原に風が吹いていた。
南からの、暖かな風が吹く。
冷え切ったルーシの地に、次なる季節を呼び込むが如く、風は吹き続ける。
「亡くなったって、死んだ、のか?」
驚きのあまり、ツァガンの目が見開かれた。
「はい」
「どういう事だ、なぜ春の呪術師は死んだんだ」
努めて冷静に、クラウスは尋ねた。
「あれは、どれぐらい前ですか……」
そう言って、ヴァシリーは大きく息を吐いた。
事は今から何ヶ月か前に遡る。
ここ、モスクワ大公国の地に、秋の気配がしてきた頃、キタイ・ゴロドにある春の呪術師の家に、数人の使者が訪れた。
使者は皇帝の命だと言い、ヴァシリーの父、春の呪術師をシャマンの力を見せよとの目的で、宮殿へと召し出そうとした。
しかし、父は見世物ではない、と一度はそれを拒んだのだが、息子である彼に危害を加えると脅されて、渋々ながら命を受けた。
そして宮殿へと向かう支度の最中、使いに出ていた兄弟子が帰宅した。
父が連れて行かれるのを、目の当たりにした兄は、必死に使者に食い下がった。
師匠を連れて行くな、シャマンの力ならば私が代わりになる、と父を庇い、使者に何度も殴られるも、地に頭を擦りつけ乞い願った。
兄弟子は、父に並ぶと言われるほどに、腕の良いシャマンで、東方の呪術師の異名で通ってもいた。
その兄を一緒に連れて行けば、皇帝も喜ばれると考えた使者は、父と兄を共に宮殿へと召し上げた。
それが、大変なことになるとも、知らずに。
ここより先は、ヴァシリーも直接見た訳ではなく、親衛隊の伝聞にはなるが、父がシャマンの儀式に入った矢先に、兄が皇帝暗殺を企てていたことが露見し、父は兄を止めようとして死亡、その兄も壮絶な戦いの後に逃走したという。
宮殿は大騒ぎとなり、キタイ・ゴロドのヴァシリーの元へ、親衛隊がやって来たのがその日のうち。
そのまま彼は連座で罪人となり、あの冷たい牢屋へと叩き込まれたのだった。
「そ、そんな、春の呪術師、もういない、なんて」
ヴァシリーの話を聞き、ツァガンは力なく膝をついた。
「ごめんなさい、ツァガンくん」
詫びる彼の声も届かず、ツァガンの黄金色の眼から、大粒の涙が流れる。
救いを求めて、はるばる東方世界からやって来たというのに、目的の人物は既に世を去っていた。
取り戻そうにも、取り戻せない、無慈悲な時の流れに、ツァガンは打ちひしがれ、泣くことしか出来なかった。
「あ、ああ、父さん、みんな。オイラ、オイラ……」
人目も憚らず、ツァガンは泣き続ける。
そんな彼に、ヴァシリーは声もかけられず、立ち尽くしていた。
「サラ、どうする?」
話を聞いたクラウスは、困り顔で彼女に問いかける。
「そうしましたら、一度スオミへ戻りましょうか」
「スオミ?」
「はい、私の父に会って、新たな話が来ていないか、聞きましょう」
陽の光を受け、輝く杖を握りしめて、サラはそう答える。
「北方諸民族の訴えは、私の父へと通すことになっています。もしかしたら手がかりがあるかもしれません」
「うーん、そうするか」
茶色の髪を掻き上げて、クラウスはヴァシリーたちの元へと近づいた。
泣き続けるツァガンには、目もくれず、彼は正直に事の次第を話す。
「取り込み中悪いが、俺たちスオミに向かうことになったから、二人とはここでお別れだ」
唐突な切り出しに、ヴァシリーはもちろん、泣いていたツァガンも驚き、声を潜める。
「お別れ、ですか?」
「ああ、俺、聖剣を探さなきゃいけないからな」
そう言って手を振り、クラウスは身体を翻した。その時だった。
「ま、待ってください。聖剣……、クォデネンツのことですか?」
具体的なその名称を出されて、彼の足が止まった。
ゆっくりとクラウスは振り返り、ヴァシリーの仮面の下の目と、視線が合ったような気がしていた。
「ヴァシリー、知っているのか?」
「名前だけは知っています。ただ実在しているかは……」
何も無かった手がかりが、一つ明らかになった。
それだけでも充分なのだが、彼、ヴァシリーは春の呪術師の息子でもある。
もしかしたら、父の代わりに、手がかりを持つ存在なのかもしれない、とクラウスは思っていた。
「ヴァシリー」
「クラウスくん、私も連れて行ってください」
彼が誘うよりも早く、ヴァシリーが口を開いた。
「君は、世界を救う勇者です。その手に聖剣を持ち、悪を滅ぼす運命の男です」
仮面の下の、ヴァシリーの目が輝いている。
西方の呪術師としての力が、その目を、シャマンの眼として呼び起こし、クラウスの運命を見ていた。
「それに……」
言いかけて、彼は首を振った。
その先の言葉を飲み込み、頭に浮かんだそれを打ち消そうと、顔を上げる。
「私はシャマンです、君の旅を支える力になります」
「ヴァシリー、ありがとう」
クラウスはにこりと笑い、手を差し出した。
「ありがとう、ございます」
その手に、しっかりと返答し、ヴァシリーは彼らと共に行く決意をしていた。
「ま、待って。オイラ、みんなと、一緒に行く!」
「ツァガン?」
そんな彼らを見て、ツァガンも立ち上がり、涙を拭う。
故郷より遙か遠き西方世界まで来て、何も出来なかったと、おめおめ帰る訳にはいかなかった。少しでも救いの手があるならば、それに縋りたいという気持ちが、彼を動かしていた。
「ヴァシリー、春の呪術師の子なら、オイラの願い、きっと叶えて、くれるはず!」
少しの希望と、少しの可能性は、ヴァシリーという新たな若芽でもあった。
「オイラも、ついて行く!クラウス、お願い!」
真剣に頼み込んでいるというのに、ツァガンの尻尾は勢いよく左右に振れている。
それが何故だかおかしいものに見えて、クラウスは思わず吹き出していた。
「仕方がないな、ツァガンも一緒に行こうか」
「あ、ありがとう!クラウス、大好き!」
ちぎれんばかりに尻尾を振り、ツァガンは満面の笑みでクラウスに抱きつく。
「おいおい、よせったら」
嬉し涙と鼻水にまみれ、彼は喜びを全身で表現した。
さすがにべとべとの鼻水には、クラウスも参っていたが、その顔は少しも困ってはいなかった。
残雪の街道を歩きながら、一行は話し合う。
「さて、スオミへはどう進むべきかな」
北の空へと流れる雲を見つつ、クラウスの目が街道周辺を警戒する。
南風のおかげで、気温は上昇し、あちこちで雪の下の草が顔を覗かせていた。
「でしたら、この街道を進んで、まずロストフに出ましょうか」
「ロストフ?」
「はい、割と大きめの町です。そこなら正教会の支援も受けられると思いますよ」
ヴァシリーの言葉に、サラの顔も多少は穏やかなものになった。
「モスクワでは酷い目に遭いましたからねっ。皇帝の方が立場が上とか、信じられないですぅっ」
サラが頬を膨らませ、そう言う様に、ヴァシリーも思わず苦笑いする。
「しかし、そういう皇帝も正教会信徒です。本当は信心深いんですよ」
「だと、いいけどな」
四人の影が、細長く伸び、街道にその色を落とす。
太陽はいつの間にか大きく傾き、赤い夕陽がルーシの地を、燃えるような色に染め上げていた。
「その、ロストフ、まだ、遠いか?」
遠くで微かに聞こえる獣の声に、ツァガンの耳が反応を見せる。
「遠いですね、一日では着かない距離かと」
自然多きこの大地は、動物もまた数多く生息している。
城壁で守られた町は、それの侵入を許しはしないが、街道ともなると、そうはいかない。
人間は、肉食獣の格好の獲物でもある。
しかも少人数での移動は、奴らに襲ってくれと言わんばかりだ。
次第にやって来る、闇夜の気配と共に、彼らの周囲も不安で覆われようとしていた。
「あ、建物が見えますよ」
「本当だ」
サラの指さす先には、数軒の建物と、それらを取り囲む柵が見える。
「農民の家ですね。泊めてもらえれば、いいのですが」
期待を胸に、四人の足は少し速くなる。
狼の遠吠えが、あちらこちらから、聞こえ始めていた。
農民の家。
「ごめんくださーい」
サラの可愛らしい声で、家の扉が開かれる。
姿を現わした家の女は、彼女を見るなり、にこにこと笑いながら愛想良くしていた。
「あらあら、どうしたんだい、お嬢ちゃん」
「私たち旅の者なんですが、一晩だけ泊まらせていただけないかと、お願いがありまして」
「うん……?」
サラの背後では、遠巻きにこちらを見守る男三人の姿がある。それを目にして、家の女の態度が強張った。
「彼らもかい?」
「はい、そうです」
大きくうなずく彼女に、女の声が低いものになった。
「……獣人と、異教徒じゃないか。だめだね」
「違います、彼らは私のお供の者で、正教会の者たちです」
「本当かい?」
八端十字架の杖を見せつけるようにして、サラは食い下がる。
何やら交渉が長引く様子に、クラウスたちは少し不安な気持ちになっていた。
「ねー、クラウス」
「何だ」
この遠さでは、何を言っているのか普通は聞こえないが、ツァガンだけは、その大きな耳で、その会話内容を逐一聞き取っていた。
「サラがね、オイラたちのこと、サラのお供の者だって、言ってる」
「はああ?何言っているんだ、あいつ」
「無理もないですよ、私たちの格好では、不審がられます。むしろサラちゃんのお供といった方が、信用されますから」
不満顔のクラウスに、ヴァシリーはくすくすと笑っている。
そんな彼らに向けて、サラが腕で大きく円を作って飛び跳ねていた。
「あ、泊めて、もらえるって」
「よし、行こう」
「はい」
こうして一行は、農民の家にて、一晩を過ごすこととなった。
その夜。
遠くから、狼の声が聞こえてくる。
続いて、村落の周りを、何かが駆け回る音と、家畜の怯えた鳴き声がしている。
その物音に、深い眠りの中にいたクラウスの意識が、浅いところまで引きずり出されていた。
――狼?
眠い目を開け、月明かりの差す部屋を見回すと、ツァガンの姿だけが見当たらない。
――どこに行ったんだ。
クラウスは音を立てないように、そっと窓へと近寄り、外の様子を窺う。
そこには、月光に輝く、黄金の髪を靡かせて、狼を威嚇し追い払うツァガンがいた。
まるで狼と間違えるような、彼の遠吠えは、闇の草原を渡っている。
そしてその声に怯え、狼どもは悲鳴を上げて逃げ回っていた。
ゆらゆらと揺れる尻尾は、明るい月の光を受けて、一筋の煌めきとなっていた。
――あいつ……。
再び睡魔に襲われる、クラウスの耳に、ツァガンの遠吠えが聞こえる。
夜更けのルーシの地を、黄金の狼が駆けていた。