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5 脱出

 ここは血と肉欲と酒にまみれた、拷問部屋だ。

その中で、クラウスとザーパトゥの二人は、扉まであと少しという所を、常軌を逸した男たちに睨まれていた。

「どこかで、見た顔だな」

 酒を片手に、赤い顔の男が、首を傾げる。

「あっ、こいつら、牢屋に入れた奴らだ!」

 男たちの誰かが、そう指摘の声を上げた。

部屋の中がざわつき、咄嗟に半裸の男たちが二人に掴みかかろうとした。

「逃げるぞ!」

 伸びる手を躱し、彼らは夢中で扉を開けて、外へと躍り出た。

怒号と物音が派手にする中、彼らはサラとツァガンの元へと一目散に走った。

「待てえええ!」

「逃がすな!追えーっ!」

 ドカドカと怒気を孕んだ足音がし、血走った目つきの男たちが、二人を追いかけた。


 薄暗い廊下に、洪水のような音が溢れる。

彼らは、追いつかれまいと、必死に廊下を走り続けていた。

 すぐ後ろには、怒り狂った親衛隊オプリーチニキの姿が見える。

どの男たちも、二人を捕らえ殺すべく、剣を振りかざして叫び声を上げていた。

「これで、足止めになれば」

 走りながら、ザーパトゥは何やら詠唱を始めた。

長い髪を振り乱しつつ、背後の親衛隊に向けて振り向きざまに手を突き出す。

 すると、奴らの足元に蜘蛛の巣のような光が一瞬だけ浮かび、男たちの何人かはその場でぐるぐると回り出していた。

「よし、急ぎましょう!」

 いつの間にか、ザーパトゥの顔は木の仮面で覆われ、その表情は窺い知ることが出来なくなっていた事に、クラウスは気が付いた。

「それはなんだ?」

「これは後で話します、今は脱出することを優先しなさい!」

 そう言いつつ、彼はまたも背後へと手を突き出す。

追っ手の数はさらに減るも、それでも未だ脅威は残ったままであった。

「あっ、クラウス!」

「クラウスさん、鍵は全部開けましたよ!」

 廊下では、解放され喜び合う囚人たちと、二人に手を振るツァガンとサラがいた。

 だが、その暢気な様子に、クラウスの怒号がかけられた。

「お前ら!今すぐ逃げろ!」

「その先の階段を上れば、外へと出られます!急いでください!」

 彼らの切羽詰まった声に、サラたちも何かを察し、慌てて走り出す。

「わああ、親衛隊オプリーチニキだーっ!」

「助けてえ!」

 廊下の人混みをかき分けて、クラウス一行は、彼らを導きつつ、外を目指した。

 外へ、外へ、光満ちる、明るい世界へと。

共に走る人たちの、色とりどりの服が、明るくなるにつれて、より一層鮮やかに映える。

 それは、クラウスたちがキタイ・ゴロドの町中で見た、芸人スコモローフの姿に、とてもよく似ていた。

 階段を駆け上がり、扉をぶち破り、彼らは明るい外へとついに到達する。

 溶けた雪と、ぬかるむ土の感触に、思わず上を見れば、雲間に日が差し、白き城壁と尖塔は輝いて見えている。

 クラウスたちが出てきた建物は、モスクワ大公国の皇帝ツァーリが居住する、宮殿クレムリンであった。

「サラ!」

 息の上がっている彼女に、クラウスは杖を渡す。

「あっ、ありがとう、ございますっ」

 喘ぐように、サラは礼の言葉を述べ、先端の八端十字架を見つめた。

 しかし、彼らの目の前には、宮殿を守る衛兵が、ずらりと立ちはだかる。

「クラウス、どうしよう!」

 ツァガンが、叫ぶ。

「このまま、突っ切るぞ!」

「サラちゃん、魔法を奴らの頭上に、放ってください!」

「はい!」

 走りつつ、サラは詠唱をし、その手を前方へと差し出した。

「皆さん、目を閉じてください!」

 ザーパトゥの指示に、彼らは目をつむった。

 サラの魔法は、衛兵の頭上で炸裂するが、それに被せるように、ザーパトゥの魔法も放たれていた。

 爆発の閃光が、彼の魔法で反射増幅され、激しい光が衛兵の目を眩ませる。

あまりにも強い光が目に突き刺さったため、兵らは顔を押さえて倒れ込んでいた。

「今です!広場の人混みに紛れましょう!」

 がら空きとなった宮殿の門には、騒ぎを聞きつけた民衆が大量に集まっていた。

その人々の群れの中に、クラウス一行と、囚人たちは躊躇うことなく飛び込んだ。

「ツァガン、サラ、ザーパトゥ、ついて来ているか!」

 走りながら、クラウスは叫んだ。

「クラウス、オイラ、平気だ!」

 彼の背後からは、力強い声が聞こえた。

「クラウスさん、私はいますよ!」

「私もついていますよ、クラウスくん」

 四人はお互いに、そう確認し合った。

宮殿クレムリン前の、賑わう広場を、彼らは走り抜けていた。


 キタイ・ゴロドの細い通り。

人通りのない、その場所で、クラウス一行は立ち止まっていた。

「はあ、はあ、上手く撒けたか?」

 鎧を着込みつつ、全力で走ったクラウスは、大粒の汗と荒い息で疲労の色を見せていた。

「も、もう走れない、です」

 小さな身体で、置いて行かれまいと、サラは必死であった。寒い中、走ったためか、両の足が無性に痒かった。

「あー、思い切り、走った。疲れた」

 そう言うものの、ツァガンはけろりと平然な顔をしている。

「まだ、油断は出来ませんよ」

 周囲を窺い、ザーパトゥは息を整えた。

 市が開かれ、賑わう広場を抜けたのはいいものの、ここはまだ内側城壁の中になる。

恐ろしい追っ手の姿が、いつ現われるとも限らない、危険な場所であった。

「この町を出た方がいいな、早速行こう」

 白い息を吐きつつ、クラウスは歩き出す。

「待って、ください、少し、休憩を」

 しかしそんな彼を、呼吸を乱したサラの声が引き留めた。

両手で、八端十字架の杖を支えにして、震える足を引きずっている。

 それを見かねたのか、ツァガンが彼女の前で膝をついた。

「オイラ、おんぶする、乗っかれ」

「え……、でも」

「心配、いらない。オイラ、元気だから」

 むずがるサラを、無理矢理背中に担ぎ、ツァガンはクラウスに続いて走る。

路地を曲がり、見覚えのある通りにやって来たとき、不意にザーパトゥが足を止めた。

「クラウスくん、少しだけ時間をください」

「ザーパトゥ?」

 それだけ言い、彼は通りにある家へと小走りに向かって行った。

「ねー、クラウス、あそこって」

春の呪術師ヴィスナーシャマンの家……?」

 ザーパトゥが入っていった、一軒の家を見る。

そこは、軒先に鳥の羽が飾られた、彼らの目的の家でもあった。

「クラウスさん、あの方は、春の呪術師さんと何か関係があるのでしょうか?」

「分からん、俺にはさっぱりだ」

 ひそひそと話す三人だったが、そこへ家の扉が勢いよく開かれた。

「お待たせしました、行きましょう!」

「えっ、その格好は……」

 現われたザーパトゥの姿に、彼らは驚きを隠せなかった。

 それもそのはず、彼の顔には木製の仮面と、額をぐるりと一周するように結ばれた布きれに、鳥の羽根飾りが縫い込まれ、ボロの服を覆う色とりどりの無数の紐と、金属の円盤状の飾りが胸に下がっていたからだ。

 そして手には、一際目を引く、大きな円形の片面張り太鼓を持っている。

――自然崇拝者ペイガン

 思わず喉まで出かかったその言葉を、クラウスはすんでの所で飲み込んだ。

 彼は、乞食ではなかった。

古くからの、自然と対話をし、主ではないものを崇め、人心を惑わす、浅ましき者だ。

 それは異教徒として、西方教会、そして東方正教会が危険視する対象の人物であった。

「ザーパトゥさん、それ」

「うわあ、かっこいいな、ザーパトゥ」

 サラとクラウスの胸によぎった考えを打ち消すように、ツァガンの声がした。

「その飾り、いろんな形だ。面白いな!」

「ありがとう、ツァガンくん」

 ツァガンは子供の如く目を輝かせ、純真な気持ちでザーパトゥに笑顔を向ける。

そんな彼の、心から贈られた言葉に、彼は仮面の下で微笑んでいた。

「さあ、クラウスくん、この町を出ましょう」

 その言葉と同時に、ザーパトゥは太鼓を叩いた。

すると彼らの周囲が一瞬だけ光り、少しだけ身体が軽くなった感じがした。

「この魔法は、あまり長く持ちません。さあ」

 促されて、クラウスは大きくうなずく。

「行こう!」

 融雪でぬかるむ、キタイ・ゴロドの通りを、四人は城壁に向けて動き出した。


 町を人々が行き交っている。

その多くは、宮殿クレムリンでの騒ぎなど知る由もなく、家路につくもの、市場へと買い物に行くもの、酒場へと向かうものと、いつも通りの生活を営んでいた。

 救貧院前に並ぶ棺桶を横目に、一行は城壁を目指す。

 軒先に吊された、様々な看板に、時折屋根から雪が滑り落ちる。

陽気もよく、気温はぐんぐんと上がり、澄んだ青空が、町の上空に広がっていた。

 キタイ・ゴロドの城壁を難なく通過し、次に見えるは、たまねぎ型の屋根を持つ聖堂だ。

石造りの教会が建ち並ぶ、道も整備された、美しい白い町ベールィ・ゴロドであった。

「この速さなら、次の城壁も抜けられます!」

 魔法の効力を気にしつつ、ザーパトゥはその足を緩めない。

 行き交う人や、貴族に交易人と、修道士が歩く中を、尋常ではない速さで、彼らは走る。

 あっという間に近づく城壁に、クラウスも、ツァガンも、一気に突っ込んだ。

「行け、行け!このまま外まで突っ切るぞ!」

 交易の荷馬車の脇を、風のように、彼らは通り過ぎる。

狭い城門だが、衛兵と、すれ違う人と、そのどれもが、彼ら四人に気づくことは無かった。

 川を渡り、サウナの湯気が立ち上る、木造の町ゼムリャノイ・ゴロドを眺める。

「ここまで来たら、あと少しです、あの城壁をくぐれば、町の外です!」

 だが、そのもう少しというところで、足がもつれる感触がした。

「ザーパトゥ、オイラ、転びそう、だ」

 ツァガンが、バランスを崩しそうになりながら、訴え始める。

広大なるモスクワ大公国の首都は、予想以上に郊外まで開発が進んでおり、ザーパトゥの力では、ここが限界かと思われた。

「しまった、もう効果が……」

「諦めるな!走れ!」

 気力を振り絞り、クラウスと、サラを背負ったツァガン、ザーパトゥの三人は、なおも走り続けた。

 諦めたら、またも親衛隊オプリーチニキに捕まってしまう。

今度は、牢屋という猶予は与えられず、広場の大聖堂前の円壇ロブノエ・メストにて即処刑という事態が待っている。

 奴らの面子を潰し、囚人どもを大量に脱獄させたという罪は、モスクワに於いて万死に値するものである。

 だから、逃げねばならなかった。

 世界を救うという。使命のためにもだ。

「城壁が見えたぞ!」

 宮殿クレムリン前からは、様々な方角へと伸びる、主要街道がある。

その街道は、城壁の門から各町に伸び、広いモスクワ大公国の中を、血管のように繋いでいた。

 首都から地方へ、地方から首都へ。交易品や農産物が、この街道を通って国内を行き来していた。

「この速さなら、突っ切れる!外はもうすぐだ!」

 クラウスは、そう言って仲間を励ます。

だがそれは、仲間ではなく、自分自身にも向けられた言葉でもあった。

 一行はぐんぐんと門に近づき、そこで異常が起きているのに、ふと気づく。

 城門の手前では、衛兵と交易商が何やら、揉めていた。

荷馬車に、毛皮や金属製の道具を積み、町へ入れろと交易商は訴えている様子だ。

 しかし衛兵は、東の世界に近い奴は帰れと、行く手を阻むのみ。

 交易商と衛兵は、門前で睨み合い、一触即発の事態になっていた。

「しめた、警備が手薄になっているぞ!」

 これが好機と、クラウスたちは突っ込んだ。

 だが、門を通り過ぎる、その一瞬、交易商の身体が切られるのを、彼は目撃した。

そして、吐き捨てられた言葉に、思わず耳を疑った。

「……た獣人……め」

 最初の文言は聞こえなかったが、唾棄するような忌まわしいその言い方は、遠ざかる彼の心に深く突き刺さっていた。

――獣人。

 門を抜け、広大な雪原を目の前にして、一行の足が、どんと重くなる。

思わずよろけそうになるクラウスだが、その身体を、そっと支える手があった。

――誰だ?

 ふと、後ろを振り向く。

 背後には、金色の髪から生える、大きな狼の耳がある。

その耳を動かしながら、ツァガンが、歯を見せて笑っていた。

「クラウス、転ぶと、危ない」

 頭の耳と臀部の尻尾を揺らし、異形の姿の少年は、屈託のない笑顔をしていた。


「ここまで来れば、安心でしょう」

 町を遠くに眺める、道は雪の残る草原に続いている。

追っ手の姿も確認されないことから、ザーパトゥは安堵の言葉を吐いた。

 サラも、ツァガンの背中から下り、今は両の足でしっかりと立っている。

「あいつら、強かった。オイラ、もっと、強くなりたい」

「俺も、強くならなきゃな」

 ツァガンの言葉に、クラウスも大いに同調する。

 騎士団員として、仲間を、聖剣の勇者として、世界を。

命運が、己の両腕にかかっているからには、強くならないといけない。

 彼は、それを心に深く、刻み込んでいた。

「ところで、ザーパトゥ」

「何でしょうか」

「お前、春の呪術師ヴィスナーシャマンと、何か関わりがあるのか?」

 その問いに、ザーパトゥの身体が固まった。

「それに、その格好。ペイガンのものですよね?」

 冷ややかな声で、サラも問いかける。

二人からの疑いの眼差しに、ザーパトゥは困惑していた。

「俺たちは、春の呪術師に用がある、お前が何か知っているなら、教えて欲しい」

 懇願する言葉と、救いを求める眼差しの、クラウスの様子に、彼は仮面の下で悲しそうに彼を見つめる。

「そうですね、では、どこから話しましょうか」

 ザーパトゥは、太鼓を握る手に、力を込めた。

 それは、忌まわしき出来事であり、忌まわしき記憶だ。彼が囚人に落とされた、その原因でもあった。

「とりあえず、私の名は、ザーパトゥではありません」

「えっ?」

「私は西方の呪術師ザーパトヌイシャマンのヴァシリー。春の呪術師は……」

「クラウス!なにか、来る!」

 彼が、名乗った瞬間、ツァガンが草原を凝視し、叫んだ。

 溶けかかった雪の中に、黒い渦がいくつも見え、そこから異形の怪物が次々と、姿を現わしていた。

「話は後だ!いくぞ!」

 クラウスが、剣を抜き放ち身構える。

怪物は、うなり声を上げ、一行に襲いかかっていた。

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