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40 赤い鷲

 窓辺から、小鳥のさえずりが聞こえていた。

薄暗い室内で、窓枠の隙間から射し込む陽の光が、寝台に横たわる男の姿を照らしていた。

 男は、微動だにしない。双眸を閉じたまま、静かに息をしているのみ。

赤い、長い髪が、無造作に流れている。病的なまでに白い肌は、肉がこそげ落ち、骨と皮が、まるで老人の身体を思わせる。

 小鳥が、窓の戸板をコツコツと叩いた。

何度も、何度も、夜明けを告げる家禽の如く、鳴いてはクチバシを窓に叩きつける。

それは、目覚めを知らせる、合図でもあった。

 男の瞼が、ゆっくりと開いた。

視線が、うまく定まらない。口を動かす事も、腕を動かす事すらも出来ない。

 ぼんやりと靄のかかった頭で、辛うじて理解できたのは、ここが自分の部屋だという事だ。

 いつも目覚めた時に見える、天井の丸太材と、馴染みのある室内の匂いが、それをより一層、確実なものとした。

 男は、長い間、悪い夢を見ていたように思えた。

自由のきかない身体で、どこかへと連れて行かれる夢だった。身を引き裂かれ、絶え間ない痛みが全身を襲うも、それは止むことが無かった。

 抗議しようにも、声は外へと届かず、振り上げる腕は、自分の意志で動きもしない。

 延々と続く苦しみが、男の体力を、精神を、極限まですり減らし、助からないという絶望が、男を全て食い尽くそうとした時、急に温かいものに包まれた感触がした。

 あれは、一体何だったのか。男はそれを、必死に思い出そうとしていた。

「兄さん、入りますよ」

 部屋の扉が軽く叩かれ、一人の男が姿を見せた。

「今日も、一日が始まりましたね。空気の入れ換えをしましょうか」

 そう言って、彼――ヴァシリーは手に持つ食器盆を机に置き、いそいそと窓の戸板を外した。

明るい、春先の陽光が、滑るように室内へと入り込む。

 それと同時に、少しだけ冷たい風が吹き、彼の長い黒髪を、素顔の頬を、ふわりと撫でた。

「雲もない、いい天気になりそうです」

 蒼く、どこまでも広がる空を、彼は見上げた。

 空の色は、一日、一日と、徐々に濃いものへと移り変わっていく。

季節は、褪せた色の冬から、再び生命が活動を始める、早春になる。人や獣、鳥や昆虫たちが、活発に動き出すように、世界もまた新たな時を刻もうとしていた。

「さて、まずは食事……」

 ヴァシリーは、振り向いて、何かに気が付いた。

陽の光に照らされている男の素顔だが、その瞼が僅かに開いている。

「兄さん?」

 恐る恐る、近づいた。

 男の茶色の瞳が、こちらを向いた。

「兄さん、起きたのですね!」

 ヴァシリーの双眸から涙が溢れ、彼は脱力したかのように、男に抱きついた。

 男の胸にある、一枚の白鳥の羽根が輝いていた。


 男の身体は、その自由を失っていた。

筋肉という筋肉が衰え、寝台で起き上がることも、ヴァシリーの介添えを必要とした。

 声も、長いこと発しなかったせいか、舌がもつれる有様で、食事すらも、空腹を忘れた事で、摂るという行為に苦痛を感じる状態であった。

「焦ることはありません、ゆっくり身体を動かしていきましょう」

 そう、ヴァシリーがなだめるものの、男はそれが、とても、もどかしく思えた。

 窓から見える、モスクワ、キタイ・ゴロドの町並みは、春を迎えて、それは賑やかで楽しい事が窺える。

 だが、自分はそうではない。

 四肢は、岩のように重く動かない、意思を伝えたくとも、それは言葉にもならない。

 外とは対照的な、家の中には、冬の、冷え切った空気が、いつまでも室内に留まっている。そんな感覚が、男を暗い気持ちにさせていた。


 季節は春を過ぎ、初夏の陽射しが、モスクワの町に燦々と降り注ぐ。

 男は、寝台に腰掛けながら、手に握られた白い羽根を、見つめていた。

「だいぶ、よくなりましたね」

 ヴァシリーは、そう言いながら、今日も食事を届けに来る。

「もうそろそろ、歩けますか?」

 その問いに、男は彼を見やる。

「……やって、みよう」

 羽根を、傍らに置き、男は両腕を支えにして、立ち上がろうとした。

足が、ぶるぶると震えつつ、床に触れた。背筋は不自然に丸まっている。以前のように、伸びた背中で立とうとしても、それを支えるべき筋肉が無い状態では、老人の姿勢でいることが、最も楽な事に感じられた。

「兄さん」

 すかさず、ヴァシリーが救いの手を差し伸べた。

 だが、男はそれを振り払い、拒否の意思を見せた。

「たすけは、いらない。わたしは、じぶんのあしで、あるく」

 男の双眸は、力強く前を見据えていた。

 目標は、明るい陽射しのある、あの窓まで。

 健常な人であれば、ほんの数歩で辿り着く距離だが、今の男にとってそれは、果てしない道のりにも、思える。

 一歩、また、一歩と、足が、引きずるように、運ばれる。身体が、泥濘にはまったかの如く重い。

 それでも、男は歩き続け、ようやく窓辺へと、至った。

 喘ぐ息づかいで、外の、モスクワの町を眺める。

 宮殿クレムリン前の、広場の様子が、隣家との隙間から見えている。

 居並ぶ市場と、夏に向けて活発に動く人々の暮らし。変わらない、風景。変わらない、いつもの光景が、男の目に飛び込んだ。

「兄さん」

 ヴァシリーが、自分の頬を、指さしながら笑っていた。

「少し、肉がついてきましたね」

 男は、その指摘に、己の顔を触れてみた。

 指先には、柔らかな弾力が、伝わっていた。


 ある日のこと。

男は、居間の中央にある、机に向かいながら、白い羽根を眺めていた。

 この部屋には、己とヴァシリーの姿のみ。

机の対面で、彼は手紙らしきものを、白樺の樹皮に書き付けている。

壁には、二人のシャマンの装束と仮面が掛けられ、そして太鼓が、大切に飾られていた。

「ヴァシリー、聞きたいことがある」

 男が、声を発した。

「何ですか、兄さん」

「私を、助けたのは、お前か?」

「違いますよ」

 ヴァシリーは、事も無げに答えた。

「では、一体、誰なんだ」

 男の手にある羽根を、彼はちらりと一瞥した。

「エルージュさんという、女のシャマンです」

「女?」

「はい。とても美しい、白鳥の獣人のシャマンです」

「シャマンに、女がいるものか。ヴァシリー、本当の事を言え」

 男の反論に、彼はただ笑っている。

「嘘ではないです、彼女は太初のシャマンですよ。そして、私たちの祖にあたるシャマンでもあります」

 太初のシャマンという言葉に、男は心当たりがあった。

 昔、春の呪術師ヴィスナーシャマンに弟子入りした頃に、シャマンの心構えと、由来を学ぶという話の中で、それを聞いた覚えがある。

 この世界に、初めて存在したという、シャマンなる人物の伝説を。

 それは、天より、神の言葉を伝えに下った鷲が、その言葉を解する者として選んだという、人間の女の物語だ。

 その女と鷲が結ばれて、幾多のシャマンが誕生したという伝説もあれば、単に女を師として、各地のシャマンが揃って弟子入りしただけ、という話もある。

 とにかく、余りにも大昔の事ゆえに、真相は誰も知らないとされていた。

「実在、していたのか」

 男の声が、おののいていた。

「そうですね、太初のシャマンは、確かにいました。それも、テングリという、神々の座に隠れて、生きていたのです」

「我ら、シャマンの祖、か」

「はい。私たち兄弟だけでなく、父や、その前、この世界、全てのシャマンに繋がる祖です。だからこそ、兄さんを助けることが、出来たとも言えます」

 男は羽根を見る。そして、その理由を思い出していた。

男が、シャマンの職能に目覚めた時、あの悪夢に匹敵するほどの激痛に、襲われたことがある。

 高熱と疼痛、絶え間ない吐き気と頭痛に、男はひきつけを起こし、意識を失った。

このまま死ぬかと思われたが、同じ村にいた老シャマンが、男を苦しみから救い出した。

 そしてこう言った。

「お前は、シャマンとして目覚めた。この苦しみは、目覚めを告げる試練だ。これから逃れたくば、このままワシに弟子入りしろ。そうすれば、ワシは師としてお前を救える」

 男は、恐怖もあってか、それを承諾した。

師となった老シャマンは、男の苦しみを難なく取り払った。

 シャマンの試練を制するのは、師にあたるものだけなのだと、この出来事は、男の心に深く刻み込まれた。

「その方がいなければ、私は、死んでいた。ということか」

 男には、故郷の村も、血縁の者も、師と仰いだシャマンたちも、いなかった。

助けられる人は、全くいなかった。ヴァシリーでは、介入すらも不可能であった。

「そうですよ、エルージュさんは、偉大なるテングリの白鳥ですから」

「ヴァシリー、その方は、どこにいる?」

 ヴァシリーの、筆が止まった。伏せていた顔が上げられて、双眸が、ゆっくりと窓に向けられた。

「少しだけ、この家にいてくれたんですけどね。今はもういませんよ」

 男の目も、つられて窓に向いた。

「東の世界へ、帰りました。今頃は、狼の獣人の村に、住んでいると思います」

「……そうか」

 声に、力が無かった。


 夏の盛りを、少し過ぎた。

男は、外を出歩いてみたいと、思っていた。

 だが、家の扉を開けようとしたところで、ヴァシリーに、それを止められていた。

「危ないですよ、頭巾も無しに、出かけるなんて」

 男はそれを、一笑に付した。

「なに、広場の大聖堂までの距離だ。それに、悪しきものは、もういないぞ」

 その指摘に、ヴァシリーの目が、驚きのものになる。

「気づいていたのですか」

「まあな」

 男は、ニヤリと笑うと、扉に手をかけ、そのまま表へと出た。


 夏の、強い陽射しが、ちょうど頭の上から、降り注いでいた。

モスクワ大公国の首都にある、キタイ・ゴロドの路地を、男は歩いている。

 周囲の家々は、丸太を器用に組み上げた、木造の重厚なものが建並ぶ。

 男の姿は、長袖の、生成りの民族服ルバシカに、黒いズボン。シャマンの装束である、薄汚れた上衣は着けておらず、涼しくて身軽な格好だ。

 胸には、あの白鳥の羽根を、胸飾りに仕立てたものが、ぶら下がっている。

「……少し、暑いな」

 そう言うと、男は服の袖を捲り上げた。

相変わらず、腕の色は、透き通る白さのままである。

 だがそれは、太陽に当たっていないことから来るもので、さほど気にはならなかった。

 路地を抜けて、宮殿クレムリン前の広場へと、男は出た。

人通りは多い。昼を過ぎてなお溢れる活気が、このモスクワの町を勢い付かせている。

 男の足は、モスクワ川を望む、大聖堂へと向かった。

「宮殿、か」

 たまねぎ型の屋根が、いくつもある、この広場を代表する大聖堂の横手に佇みながら、男はモスクワ中心にある、宮殿を見上げていた。

皇帝ツァーリめ……」

 石造りのそれを、睨み付けた。

 あの中で、何が起きたのか、男はヴァシリーに語っていない。

語ったところで、彼には到底受け入れられないと、判断したからだ。

 ここ、モスクワに生まれ育ち、皇帝を畏れ敬ってきたヴァシリーに、あれは人ではないと告げるのは、余りに酷であった。

「今更、過ぎた事を悔やんでも、遅い」

 大きな、ため息が出た。

「あれ、あなたは、ヴァシリーさんのお兄さんですよね」

 唐突に、声をかけられた。

つい今し方、大聖堂から出てきたと思わしき少女が、すぐ側に立っている。

 男は、少女を一瞥すると、再び宮殿へと視線を戻した。

「わあ、お兄さんの素顔、初めて見ました。とても素敵ですね」

「……隣のか」

 少女は、男の隣に住む家の娘であった。

 褐色の髪を三つ編みにした、長いお下げ髪が、あどけない笑顔によく似合う。

 衣服は男と同じルバシカに、年頃の娘らしい純白のエプロンを身に着けた、一般的なルーシ人の装いだ。

「いつもお顔を隠しているから、どんな人なんだろうって思っていたんです。そうしたら、ヴァシリーさんよりも格好いいだなんて」

 一人、盛り上がる少女を余所に、男は難しい顔で腕組みをした。

「ずっと姿が見えないから、私、心配だったんです。ヴァシリーさんも、親衛隊オプリーチニキに連れて行かれて、行方知れずになったのもありますし」

「……あいつが、連行されただと?」

 男が、思わず少女を見た。

 妖しいまでの、赤い長い髪の男に見つめられて、少女の頬が、みるみるうちに紅く染まった。

「は、はい。ヴァシリーさん、捕まったんです。皇帝を傷つけた罪の連座だって。それで冬を越して、春ぐらいにですか、何人かの囚人と一緒に、脱獄したって噂が出ました。家に戻っているかと思ったら、戻らなくて、そのまま町の外へ行ったとかって」

 初耳であった。

 ヴァシリーは、そんな事があったとは、おくびにも出さなかった。

 男が意識を取り戻してから、ここ数ヶ月間、彼は懸命に男を介護し続けていた。

 少し旅をしていた。と彼は照れくさそうに言ったものの、それがどういう内容で、なんの目的だったのかは、細かく語ることはしなかった。

「あいつ、よくも黙っていたな」

 男は、そう言い捨てて、家路へと向かう。

「あ、お兄さん、どこへ行くんですか」

 早足で遠ざかる男に、少女は慌てて声をかけた。

「うるさい、私は家に帰るんだ。お前も用があるなら、家まで来い。話相手ぐらいはしてやる」

 あまりの剣幕に、少女はそこに立ち尽くすことしか、出来なかった。

 男の赤い髪は、遠目にも炎のように見え、それは少女の胸を、人知れず焦していた。


 ヴァシリーの家。

「ヴァシリー、いるか、おい!」

 帰ってくるなり、男は声を荒らげて怒鳴った。

「どうしました、兄さん」

 奥の部屋から、掃除途中と思われる姿のヴァシリーが、出てきた。

「お前、なぜ親衛隊オプリーチニキに捕まったことを、黙っていた!」

「えっ」

 男に両肩をしっかりと掴まれて、彼は驚いた顔だった。

「私と師匠が、宮殿クレムリンに行った後、お前の身に何があった。言え!」

「なんですか、急に」

「いいから言え!場合によっては、宮殿を火の海にしてやる!」

「兄さん、少し、落ち着いてください」

「これが、落ち着いていられる、ものか、私は……」

 余りにも頭に血が上りすぎたのか、男の身体から急に力が抜けた。

「ほら、まだ本調子ではないんですから。深呼吸をして」

 男を、椅子に座らせて、ヴァシリーは優しくその背中をさすってやる。

 最初のうちは激しかった男の息も、徐々に落ち着きを取り戻し、興奮していた感情も、少しは冷静さを見せるようになった。

「ヴァシリー、あれから、何が起きた」

 男の喉が、絞り出すように、その言葉を発した。

 空気が、急激に重みを増す。

「長い、旅ですよ」

 そう、前置きをして、彼は語り出した。


 男の背中を、大量の汗が流れ落ちている。

ヴァシリーの、長い旅の間の出来事と、その目的を、男は興味深げに聞いていた。

 叩き込まれた牢屋で、勇者との出会いから始まり。その後、勇者と共に脱獄を果たし、ノヴゴロドから北の世界を巡って、果ては大山脈を越え、神々の座へと至った。

 細々と残る、北方諸民族のシャマンたちに道を示してもらい、聖剣クォデネンツを手に入れ、さらに伝説の太初のシャマンに巡り会い、彼らの導きで、大地から出た巨悪というものを倒し、世界を救った。

 彼の話は、余りに突飛すぎて、受け入れがたいものだったが、男は食い入るように聞いていた。

「聖剣、巨悪……」

 男はうつむきながら、何かが気になるようで、仕切りにその単語のみを繰り返した。

「言いづらいのですが、巨悪は、兄さんに取り憑いていました」

「私、に……」

「勇者――いえ、クラウスくんは、兄さんを倒すつもりでいました。彼の故郷を荒らしたのもありますし、私たちも散々やられましたから」

 男の目線が、逸らされた。

「でも、私は兄さんを救いたかった。たとえ世界を滅ぼす悪人でも、兄さんは兄さんです。だからエルージュさんにも、そう願い、彼女はそれを聞いてくれました」

「白鳥の、シャマンか」

「はい、そして巨悪は兄さんから、また元の人物のところへと帰っていきました。それが……」

皇帝ツァーリ、だな」

 ヴァシリーが言うよりも早く、男が、その名を出した。

「……その、通りです」

「そして、今度こそ巨悪を滅ぼした。と」

「そうです、さすが兄さんです。よくお分かりで」

 にこりと、彼は笑っていた。

「だが、少し気になることがある」

「どうしましたか」

「皇帝だ。ヤツに憑いていた巨悪は、私に憑いたというが、その間の皇帝の様子は、どうだったんだ。少しはまともになったのか」

 その問いに、ヴァシリーは首を振った。

「以前と全く変わりません、親衛隊オプリーチニキは野放しですし、ノヴゴロドでは住民の半数以上が虐殺されました。リヴォニアとタタール相手に、戦争まで起こしましたし、常軌を逸した行動は、枚挙にいとまがありません」

「元来の性根が、そうだった、という訳か」

「言いたくないですが、そうですね」

 ため息が、二人同時に漏れた。

「ただ、少しだけ、いい話もありました」

「うん?」

「ここより北東方向の、ルーシ諸公国の旧領がありますよね。あの公国群が、いくつか再独立を果たしたそうです。なぜか皇帝が許したんですよ」

 どういう風の吹き回しなのかと、男は訝しんだ。

 皇帝の気まぐれは、今に始まった事では無い。過去に幾度も気まぐれで行動を起こし、その度に臣民は振り回されてきた。

 ある日突然、モスクワから失踪したかと思えば、とある町に立てこもって、退位するなどと喚いたり、正教会の司教が皇帝に呪いをかけた、との言いがかりを付けて、最北の僻地に追放した事もある。

 今回の件も、そういった一時の気の迷いだ。

気の触れた老人の、戯言に過ぎないと。男は、どこか冷ややかな目をしていた。

 そんな時、家の扉が、軽快な音を立てた。

「こんにちは、ヴァシリーさん」

 その声を聞いて、男は面倒な匂いを感じたのか、やおら立ち上がった。

「隣の娘だ、お前、相手をしてやれ」

「えっ、兄さん?」

「私は少し寝る」

 そう言い残し、男は自室へと引っ込んだ。

 男の背後では、客人を快く迎え入れるヴァシリーと、頭に突き刺さるような甲高い声の少女との会話が聞こえる。

 胸に下げた白鳥の羽根飾りが、風も無いのに揺れて、男の衣服をくすぐった。


 それからしばらくの間、隣家の娘は、毎日のようにやって来た。

会話は、毎度毎度、たわいも無いものばかり。

 元気になってよかった。だの、留守の間とても心配だった。だの。

 それをヴァシリーは、笑顔を崩すことなく聞き、うんうんと頷くだけ。

 男も、話相手をすると言った手前、同席せざるを得なかったが、ある時を境に、それがとても苦痛に感じられるようになった。

 娘の好意は、己に向いている。それを知ってか知らずか、ヴァシリーの興味は、娘に向けられている。

 シャマンの勘が戻るにつれて、周囲の気配が、手に取るように分かる。

それに伴い、近所の住民からの、心ない悪意の視線が、再び男を襲い始めた。

 男は、頭巾を被ることにした。娘は、顔が見えないのは困ると喚いたが、男はそれを無視した。


 秋を迎えた。

モスクワ川のほとりに、男とヴァシリーの姿があった。

 空は少しずつ色褪せ、流れる筋雲が、形を崩しながら南へと移動していく。

 二人は、シャマンの盛装で、ここにいた。

頭には、鳥の羽根飾り、ボロに見える毛織物の上衣には、色とりどりの紐が垂れ、顔には頭巾と仮面がつけられている。

 盛装でなければ、出来ないことを、二人はこれから行おうとしていた。

「兄さん、準備できました」

 膝をついたヴァシリーが、それを丁寧に仕上げていた。

それは、枯れ枝を円錐状に組み、そこによく乾いた針葉樹の葉が、これでもかと乗ったもの。

「よし」

 男の腕が翻り、それと同時に組み上げた枝に、火がついた。

火は、瞬く間に大きくなり、針葉樹の葉を燻して、灰褐色の煙がもうもうと立ち上った。

 ヴァシリーが、太鼓を叩いた。

 男の身体が、ゆっくりと舞いを踊り出す。

 二人は、大きな声で、祈りのうたを歌った。

炎の出す煙に乗せて、声は上空高く、宮殿クレムリンや大聖堂の遙か彼方へ、死者の国に届けとばかりに、響き渡る。

 これは、葬送の儀だった。

骸は失ってしまったが、魂は未だ送られることなくのこっている。それを弔うのは、弟子である二人の役割だ。

 声よ、届け。

 うたよ、響け。

 師よ、あなたの教えは、二人の弟子が引き継いだ。

 どうか、次の生は、健康で長くいられるように。

 二人は、祈りながら、涙を流していた。

 季節は、秋。

 丁度、あの出来事があった日でもあった。


 数日後。

男は一人、自室で机に向かっていた。

 目の前には、白樺樹皮の紙がある。

小気味いい音を立てながら、鉄筆が紙の上を滑っていく。筆の動きは止まらない、次から次に、伝えたい言葉があふれ出てくる。

 だが、男はそれを堪え、必要最低限な言葉で、紙に残す。

 紙には、限りがある。思いには、限りが無い。

 ヴァシリーは、シャマンである。師に代わり、勇者を導き、世界を救った男だ。

その彼であれば、記した言葉に残された思いも、酌み取れるだろう。と確信したからだ。

 筆の動きが、止まった。

 男は、立ち上がると、少ないながらも荷物をまとめた。

 生活感のあまりない、室内を見回す。幼い頃、ヴァシリーと共に遊んだ記憶が、鮮やかに蘇る。

 弟弟子。だが、絆は実の兄弟以上に、深く強い。

「……お世話に、なりました」

 誰にともなく、呟いた。

 男は、部屋を出た。

 居間を通り過ぎた。ヴァシリーの姿は、無い。

彼は、隣家の娘に誘われて、食材の買い出しに行った。

 二人の仲は、ここ最近で急速に深まりだした。

このまま行けば、ヴァシリーは所帯を持つ。そうなれば男の居場所は、必然的に失われる。

 だからこそ、男はそれを決断した。

 白鳥の女に、会いに行こう。と。

 男は家を出た。

一歩、外へと出た途端、ひやりと冷たい空気が、男の身を切った。

「今年の冬は、早くに来そうだな」

 そう言って、男は、キタイ・ゴロドの路地裏を一人、歩きだした。

 吐息が、白い。

北からの寒々しい風が、細い道を通り抜けている。

 木枯らしが、吹いていた。

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