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4 狂気の牢屋

 薄暗い牢屋の中。

三人と、先客の囚人がいる部屋には、重苦しい空気が充満し、廊下からは、誰かのすすり泣く声と、どこかからか響く悲鳴や呻き声が、絶え間なく聞こえる。

 春を迎えたモスクワの地だが、牢屋内には未だ厳しい寒さが居座っており、三人の体力を容赦なく奪い取っていた。

「皆さんは、ここから、出たいですか?」

 ため息すら出なくなった彼らに、長い黒髪の囚人が問いかける。

「当然だ」

 額に手をやり、クラウスが憂鬱そうに答えた。

投げやりな答えだが、その瞳には、輝くものが残っている。

 それを確認し、囚人は軽くうなずくと、顔に垂れた髪の隙間から、三人を静かに見つめた。

「君は……」

 床に横たわるサラに、彼は優しく声をかける。

「私?」

「そうです」

 彼女はのそのそと起き上がると、囚人の男を怪訝な顔で見やった。

男は農奴とも、職人とも、正教会信徒とも違う、むしろ乞食に近い格好であった。

背丈も非常に大きく、クラウスよりも高い身長が、余計にサラを威圧させる。

 それに加えて、薄汚いそのなりに、彼女は無意識に警戒心を表に出していた。

「君は、魔法が使えますね」

「えっ、私、それを言いましたっけ?」

「言わなくとも、分かります」

 サラは驚きの表情を見せた。そんな彼女に対して、囚人はただうなずくのみ。

「そして、プロシアの君は、世界を救う運命の勇者」

「えっ」

 そう言われて、クラウスも驚く。

「獣人の君は、春の呪術師ヴィスナーシャマンに用があって来た」

「そ、そ、そう!オイラ、そうなんだ」

 ツァガンも、首を勢いよく縦に振りつつ、尻尾を激しく振る。

「なんで、知ってる?なんで分かる?お前、すごい」

「さあ、それは秘密です」

 人差し指を顔の前で立て、彼は意味深げに微笑んだ。

「私は、皆さんを、お手伝いするだけです」

 囚人の口が動き、何やら不思議な言葉が牢屋内に響く。

彼の両腕と手の平から、温かみのある光が発生し、それは瞬く間に三人の身体を覆っていた。

「これは?」

 温かいが熱くは無く、その光はむしろ柔らかさが感じられるようだ。

次第に引いていく痛みと共に、クラウスの口から疑問がこぼれた。

「じっとしていてください、もうすぐ終わります」

 光はツァガンから消え失せ、次いでサラ、最後にクラウスの順に霧散していった。

「ク、クラウス、オイラ、もう、痛く、ない!」

「私も、どこも痛くはないです」

 腕を出し、ツァガンは痛みがない事を教えた。

一方、サラも腹を触り、何ともない旨を確認する。

「君は、どうですか?」

 囚人に言われ、クラウスは身体を大きく動かす。

腕を振り、肩を回し、腰を捻る。だが、痛みは感じられず、むしろ心地よい温かい血流が、全身を駆け巡っていた。

「痛くない、どうなってんだ、これ」

 親衛隊オプリーチニキに捕らわれ、この牢屋に叩き込まれて以降、彼らの体力は減る一方であった。

 それがこの囚人の力によって、痛みは解消し、体力も熟睡した後のような充足感でいっぱいに満ちていた。

「うん、皆さん、元気になりましたね」

「お前、何者なんだ?」

 嬉しそうに微笑む彼に、クラウスは思わず問いかけた。

「私は……、そうですね、ザーパトゥとでも名乗っておきましょうか」

「ザーパトゥ、ありがとう。オイラ、痛くなくなった、ありがとう」

「ありがとうございます、ザーパトゥさん」

「ありがとう、感謝するよ」

 差し出された、三人の手と軽く握手を交わし、ザーパトゥの目は扉を見る。

「さて、では……」

「私、サラと申します」

「サラちゃん、君の魔法で、この扉を壊しましょうか」

 彼はそう言って、扉を指さした。しかし、それは鉄で頑丈に補強されてもいる。

「えっ、でも、私の力では到底……」

「そんなに大きな力は要りません、ほんの少しの力で充分です」

 サラを手招きし、彼は扉のとある部分を見るよう、示した。

 そこは、扉が開く重要な部分である、蝶番がある。

当初は真新しかったのだろうそこは、牢屋の湿気により、ボロボロに錆付き、今にも壊れそうな状態になっていた。

「この蝶番、ここだけを壊せばいいのです」

「で、でも」

「やりましょう。サラちゃんはこの先、もっと強い魔法が使えるようになる。これはその最初の一歩ですから」

 優しく、そして勇気を引き出させる彼の物言いに、サラは扉の前へと歩き出す。

 石壁と扉の間の、ほんの小さな鉄の蝶番に神経を集中し、彼女の口から詠唱の文言が紡がれた。

「えいっ!」

 サラのかけ声と共に、小さな破裂音が牢屋内に聞こえた。

甲高く、金属が擦れるような、小さな小さな音は、希望の音でもあった。

「やったか?」

 クラウスの、そしてツァガンの疑問の目に、サラは分からないとばかりに首を振る。

それもそのはず、扉は魔法を掛ける前と同じ、頑強な姿のままだ。

 一目で効いているようには、全く見えなかった。

「成功です、扉を強く押してみてください」

 そう言われ、クラウスは立ち上がって扉に手をかけ、力を入れて押し始めた。

気力、体力は満ち足り、沸き上がる外への思いが、彼の腕に込められた。

「うんっ、ぐぬぬ……」

 ミシミシと音を立て、扉が僅かだが、動き出す。

「オ、オイラも、手伝う!」

 苦戦するクラウスに、ツァガンも加勢し、扉にはさらに強い力が加わった。

その瞬間、何かが折れるような感触が、二人の腕に伝わった。

 派手な音を立てて、重い扉は廊下へと倒れていた。

「や、やった!開いた!」

 転がる様に外へと飛び出し、ツァガンは尻尾をちぎれんばかりに振り喜ぶ。

「よーし、ここから出るぞ」

 クラウスも、嬉しそうな顔でツァガンに続き、外へと出る。

 だが、サラだけが一人、牢屋の中を見つめていた。

「クラウスさん、ザーパトゥさんが」

 扉は開かれた。だが、彼はそこから動こうともしていなかった。

薄暗い牢屋の中で、三人に笑顔を向け、その手をゆっくりと振るばかり。

 腰を上げることも、外へ出ようという気すらも、無いようであった。

「ザーパトゥ」

 クラウスは、なぜだかそれが気になり、彼に声をかける。

 だが、その時。

「何の音だ!」

 廊下の曲がり角の向こうから、大慌てで走り来る看守の姿があった。

「こらああ!お前ら、何をしている!」

 棍棒を片手に腕を振り上げ、奴は三人へと襲いかかる。

その一撃をひらりと躱し、ツァガンが素早く奴の顎を蹴り飛ばす。

 呻き声も、悲鳴も上げること無く、看守は泡を吹いて膝から崩れた。

「ふふん、オイラ、元気。お前なんか、こうだ」

 態勢を立て直して、ツァガンは意気揚々と尻尾を振り、身構える。

 その様子に、クラウスは安心し、牢屋のザーパトゥへと手を差し出した。

「ザーパトゥも、一緒に行こう」

 しかし、彼は首を振り、それを拒否する。

「私は、罪人です。ここにいないと、いけないのです」

「でも残ったら、俺たちを逃がした罪までつくんだぞ」

「それでもいい、私は甘んじて受け入れます」

 何かを諦めているその返答に、クラウスは彼の手を強引に掴む。

「俺は、受け入れられない。今度はお前を助ける番だ」

 クラウスの声は、勇気ある、希望に満ちたものだ。

ザーパトゥは、少しだけ困ったように、眉間にしわを寄せたが、すぐににこりと微笑み、彼の手を強く握り返した。

「ありがとう、ええと……」

「俺はクラウス。それでこっちの金髪がツァガンだ」

「ありがとう、クラウスくん、ツァガンくん、サラちゃん」

 触れているその手は、彼の熱い心が感じられるかのように、ほんのりと温かかった。


「お、こいつ鍵持ってやがる」

 看守の腰ベルトから、じゃらりと繋がった鍵をむしり取り、クラウスは嬉しそうに言った。

「クラウスさん、私の杖、どこに行ったか知りませんか?」

「それがな、俺の剣も無いんだ。看守が持って行ったのかも知れない」

 サラの大事な八端十字架の杖と、クラウスの騎士団員の剣は、牢屋に叩き込まれた時、既に彼らの手を離れ、行方知れずとなっていた。

「杖と剣なら、君たちを捕らえた親衛隊オプリーチニキが持って行くのを、見ましたよ」

「やっぱりな」

 クラウスの顔が、苦々しいものになった。

面倒な事になりそうだ、と、彼は思っていた。

「で、その親衛隊はどこに行ったんだろうな」

 その言葉に、ザーパトゥは静かに廊下の奥を指さした。

「この先に、拷問部屋があります。親衛隊はいつもそこに、たむろしています」

 呻き声が聞こえてくる、牢屋の奥へと続く、暗い廊下のその向こうを、彼は示す。

そこで何が行われているか、薄々と分かるがゆえに、クラウスの足が動きを鈍らす。

「拷問部屋か……」

「どうしますか?私も、取り戻したい物があるのですが」

「……よし、行こう」

 覚悟を決め、一行は奥へと進もうとした。

だが、進む廊下の両側の扉から、無数の目が口が、一斉に彼らに訴えかけていた。

「助けてくれ!」

「俺たちも、ここから出たいんだ!」

「出してくれ!頼む!」

 この先にあるものを考えて、クラウスは手に持つ鍵を、サラに渡した。

 中にいるのは、本当の罪人かも知れない。

しかし、逃げるならば、大勢と一緒に紛れて逃げた方が、捕まりにくくはなる。

 そう、打算しての事だった。

「えっ、クラウスさん?」

「俺とザーパトゥで、この奥に進む。サラはツァガンと一緒に牢屋の鍵を開けてくれ」

 それに総主教の娘に、この先のものは見せられない。

彼はそう思い、サラは意を汲んで大きくうなずいた。

「分かりました、お気を付けて」

「そっちも、気をつけろよ」

「うん、クラウス」

 彼は二人を残し、ザーパトゥと共に奥へと突き進む。

先へと向かうほどに、不鮮明だった呻き声は、ハッキリと苦悶の声だというのが分かり、それに紛れるように、複数の男の野太い声と愉悦の声が彼らの耳に届くようになっていった。

 クラウスの身体に緊張が走り、手に汗がじっとりと滲んでくる。

 暗い廊下だが、明かりの漏れる扉が一ヶ所あり、そこから声が響いていた。

 気配を押し殺し、クラウスは扉の隙間から、中をそっと窺い、息が止まるほどに驚愕した。

 明るい部屋の内部では、裸の若い女が机に仰向けで縛り付けられ、その上に同じく裸の男が圧しかかり、腰を使っている最中であったからだ。

 床にも、女が這わされ、その白い尻を抱えるのは、これまた酒に酔った男だ。

 彼らは人目を憚るどころか、それをして当然とばかりに、女を犯し、また酒を浴びるように食らっていた。

「奴ら……っ」

 目を覆いたくなるような光景に、クラウスの握りしめた拳が怒りで震えだす。

「ダメです」

 そんな彼を諫めるがごとく、ザーパトゥはそっと肩を掴み、静かに首を振り小声で話す。

「冷静になりなさい、君はここへ何をしに来たのですか」

 ザーパトゥの、顔を覆う長い黒髪の向こうから、輝く瞳がクラウスを睨む。

「助けようなんて思わないことだ。君は君のことを成しなさい」

 冷酷に、そして堅実に出来ることだけをしろとばかりに、彼は言い聞かせる。

どうせ女は助からない、ならば見捨てて己の事を優先しろと、ザーパトゥは語った。

 クラウスは、勇気ある、選ばれし勇者なのだ。

だが、時に勇気は蛮勇ともなる。それは、彼らが親衛隊オプリーチニキに捕まった時のように。

 彼は困惑の表情を一瞬見せるが、ザーパトゥの言葉に、深く考えを逡巡し、やがて吹っ切れたのか、大きくうなずいて返答をした。

 再び、扉の隙間から内部を窺う。

目的の杖と剣、それを発見するべく、クラウスは目をこらした。

――どこだ、どこにあるんだ。

 肌色の蠢くものに気を取られつつ、彼の目は壁や机、床に脱ぎ捨てられた服を、くまなく探す。

 部屋の中には、壁に掛けられた親衛隊の箒と、そこら辺の床に無造作に置かれた剣が転がっている。

 そして机の上に、酒の甕と共にあるのは、見覚えのある騎士団の剣と、八端十字架が特徴的な杖だった。

――あった!

 ザーパトゥも、目的の物を探し出したのか、二人はお互いに目を合わせた。

「俺は、剣と杖を取り戻す。お前も気をつけろ」

「はい、君も、上手くいきますように」

 小声で互いの健闘を祈り、二人は静かに扉を開け、中へと侵入していった。


 部屋の内部。

そこは、長年の間に染みこんだ、血の臭いが充満する、異様な部屋だった。

――臭いな。

 むさい男どもの汗と精液、そしてその行為の臭いに、クラウスは頭を殴られたかの衝撃を受け目眩を覚える。

 見つからないように、身体を縮め、机と椅子の間を、彼は這うように移動する。

幸いにも、親衛隊オプリーチニキどもは、女を囲むように、扉に背を向けていたため、扉が動いたことにも、クラウスたちが侵入していることにも、全く気づかれることは無かった。

「う、おっ、お、おぉーっ!」

 女を床に這わせ、その尻を責めていた男が、不意にうなり声を上げた。

腰を押しつけ、柔らかなそうな尻肉を、指が食い込むほどの力で握っている。

 そうしてしばらくした後、男は離れ今度は別の男が、その白い尻に圧しかかった。

責められる女は、既に無抵抗で、激しく揺らされる身体を、肩で支えていることしか出来ない様子であった。

 周りで酒を飲み、行為を見守る男たちは、一人が果てれば次の男が、次の男が果てれば、また次の男がと続き、際限なく女を犯し続ける。

――気を散らすな、剣と杖だ、俺はそれを取りに来たんだ。

 生臭さが漂う中、目印の酒の甕、そこを目指して彼は慎重に進む。

――もうすぐだ、あと少し。

 木製の机、目の前の手を伸ばせば届く距離に、剣が見えていた。

――俺の剣!

 気づかれないように、静かに周囲を窺う。

剣を掴もうと、クラウスの手が動き出した、その時だった。

「おい、誰か剣、寄越せえ!」

――うわっ、気づかれた!

 突如、部屋に響き渡る声に、彼は慌てて机の下に潜り込む。

「ええと、これでいいか。ほらよ」

 クラウスの頭の上では、彼の剣が乗っている机の上を、男の一人がまさぐる気配がしている。

彼の心臓が鼓動を早め、全身を吹き出る汗が流れた。

――俺の剣、無事だよな。

 不安そうに机を見上げるクラウスだが、空気を切り裂く悲鳴に、彼はまたも驚く。

「んぎいぃぃぃ!ぎゃああああ!」

「はっはっは、悪趣味だな、おめえ」

 肉を切る音、何かが裂ける音、そして立ちこめる、血の臭い。

女が縛られている机から、赤い液体が大量に流れ落ちる。

 冷えた床に、湯気を立てながらしたたり落ちるそれは、彼も見覚えがあるものだった。

――血、だ。

 これが流れている、ということは、あの机の上では何が起きているのか。

それを確認しようと、彼は身を屈め、そして絶句した。

 女の腹を切り裂く剣と、それを眺めつつ興奮し、腰を激しく動かす男がいる。

 畜生にも劣る行為が、目の前で繰り広げられていた。

「あ、あが、がああああ!」

「うるせーな、この女!」

「まだ殺すなよ、やってない奴もいるんだからな」

 悲鳴と怒号と内輪もめの声が混じり、男たちは我先にと女に群がる。

 その隙を突いて、クラウスは机の上を覗き込んだ。

――あった!

 酒の臭いが鼻につくが、騎士団の剣と八端十字架の杖は、無事にクラウスの手に握られていた。

 ザーパトゥの方を振り向くと、彼も目的の物を取り戻したらしく、クラウスを向いて大きくうなずく。

――出よう。

 手で自分と彼を指し、次いで扉を指し示す。狂乱の中、二人はゆっくりと移動を開始した。

「ああ?なんだお前ら」

 だが、扉までもう少しというところで、背後から声がする。

血と欲望にまみれた、男たちの粘つく目線が、彼らを捕らえていた。

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