36 モスクワは燃えているか
ヴォルガ川を、越えた。
クラウスら五人を加えたハールィチ公国軍は、首都モスクワへと進軍していた。
黄金の環と呼ばれる、古都の町群を穿つ街道を一路突き進み、ヤロスラヴリからロストフまで、何事も起きず軍は辿り着いた。
いよいよ、数日中にはモスクワ入りが果たせるだろう。
そう、誰もが考えていた時、先行していた斥候から、予想もしない情報が、もたらされた。
「なに、タタールどもがいるだと?」
鹿毛の馬に跨がったハールィチ公は、目を丸くして驚いていた。
「はい、モスクワは、タタールの大軍に包囲され、兵たちは籠城の構えのようです」
「タタールの数は、どれぐらいだ」
「およそですが、十万ほどかと」
「そんなにか」
「はい、タタールは総力を上げての進軍です。西側の国々と連携して、モスクワを落とす算段です」
ハールィチ公は、難しい顔をした。
彼は斥候を下がらせると、休憩と称して、クラウスたちを呼び寄せた。
「ここまで来て言うのもなんだがな、実は、撤退を視野に入れている」
眉間にしわを作り、そう打ち明けるハールィチ公の様子に、彼らも驚き言葉を失った。
「しかし、どうしてその考えになったのですか」
焦る気持ちを抑えて、クラウスは公に問いただした。
「タタールが、モスクワを包囲している。数は十万ほどらしい」
「ええっ」
「皇帝が、西に注意を逸らされている隙を狙ったものだろう。大方ポーランドあたりがそそのかしたと見える」
小ずるい奴らがやる手口だと、公は吐き捨てた。
「このままでは、入城は厳しい。かといってタタール兵、十万と戦い突破する力も無い。モスクワが落ちたら、奴らは我がハールィチ公国にもやって来るだろう。私は国を守らねばいけない、もうタタールに蹂躙されるのは、御免被るのだ」
苦悩し、そう決断せざるを得ない公の姿に、クラウスは憐憫の眼差しを向けた。
彼らルーシ人が、長年に渡りタタールから受けた屈辱は、プロシア人であるクラウスには、分からないほどの重みであった。
黄金の首都キエフは、奴らの馬蹄によって粉々に踏み砕かれ、周辺の諸公国、及び異民族の国々も、ほぼ全てが虐殺と略奪、火災で焼失している。
公の口ぶりからして、あの国も、タタールの被害を受けたことがあるのだろう。
男は殺され、女は凌辱。抵抗しない者たちは、奴隷として連れ去られる。
町のあちこちで見かけた、ルーシ人とも違う顔つきの者たちは、そういった歴史の落とし子なのかもしれなかった。
「クラウス、力になれなくてすまない」
弱々しく発せられるその言葉は、公の悔恨から来るものだった。
ロストフの町を過ぎ、軍はモスクワを眺望できるところまでやって来た。
「おいおい、嘘だろ……」
開けた丘と草原の中に、首都モスクワはある。
すぐ側には川が流れ、一年と少し前に訪れた時と、景色はさほども変わりが無いように見えた。
町から、大量の黒煙が立ち上っている事を除けば。
「遅かったか」
ハールィチ公の、落胆した声が聞こえる。
モスクワは、炎に包まれていた。
包囲するタタールに、火を付けられたのか、それとも自然発生した火災なのか、それは分からないが、首都が燃えているという現実は、ルーシ人の士気を挫くのに充分すぎるものであった。
「そ、そんな、モスクワが」
ヴァシリーが、膝から崩れた。
「燃えています、ノヴゴロドみたいに、燃えていますぅ……」
サラの目が潤み、エルージュの身体にしがみつく。
「火、燃える、みんな、灰に、なる」
ツァガンも、悲しそうに呟いた。
壊れた城壁の隙間には、タタール兵が波濤のように押し寄せ、町の中心部に向けて次々と突撃しているのが見える。
「ノガイと、カザン、それにアストラハンの奴らまでいるのか」
ハールィチ公が、動く軍旗を眺めている。
それは、モスクワ大公国が征服した、タタールの一派の残党であった。
彼らは国を滅ぼされ、一部はモスクワに、一部はタタールに隷従し、密かに再興を目論んでいた。
都合のいい手駒にされていると知りながら、隠し持つ爪牙を鋭く研ぎ、来たる機会に敵の喉笛深くに喰らいつく。そして独立できた暁には、今までの礼をするとばかりに、四方八方に噛み付く狂犬となる騎馬民族だ。
「この状況では、落城は免れないか。仕方が無い、撤退するぞ」
命令が、下った。
ハールィチ公国軍は、引き揚げようとした。だが。
「お前たちは、どうするのだ」
クラウスたちが、立ち止まっていた。
「申し訳ありません、ハールィチ公様。私たちは、このままモスクワ入城を試みます」
頭を下げ、クラウスはそう言った。
「危険だぞ、いくらお前たちが百人分の働きをするとはいえ、相手はタタールだ。それに、モスクワ落城は時間の問題なのだ」
「それは承知です。それでも、モスクワに行かないといけないのです」
兵たちが、ざわついていた。
自分たちと同じか、それより少し若い者たちが、決死の覚悟でモスクワ入りをするのだという。
そこまでしなければならない、余程の目的があるのだろう。と、皆は感じていた。
「ここまで送ってくださり、ありがとうございます。このご恩は忘れません」
クラウスの手が、十字を切った。
「……何もしてやれないが、せめてこれは持って行くといい」
ハールィチ公は、クラウスに一本の旗を渡した。
細長い槍の穂先に、小ぶりな織物地がついているものだ。
それには、三叉矛と杖の紋様が飾られている。
ハールィチ公国を表す、紋様であった。
「ありがとうございます」
クラウスは、両手でそれを恭しく受け取った。
「死ぬなよ、クラウス」
「はい、ハールィチ公様も、お気を付けてください」
遠ざかる公国軍を、五人は感謝の念で見送った。
――まだ、その時では無かったか。
街道を進むハールィチ公は、腹の中でそう呟いた。
――タタールどもめ、数が多すぎる。
唇を噛んだ。鉄の味が、口中に広がる。
国を滅ぼされ、苦汁を舐めさせられたのは、タタールの一派だけではない。
彼の、ハールィチ公国も、同じだった。
巨大化するモスクワ大公国は、周辺のルーシ諸公国を武力で併合し、時の公たちを処刑、ないしは隷属させてきた。
土地は民衆ごと奪われ、何をするにも皇帝の意見を伺わねばならず、下々の怨嗟の声は、皇帝――特に親衛隊の耳に入らないよう、徹底的に隠さないと、ノヴゴロドのように粛正される危険も孕んでいる現状だ。
国の再興は、ハールィチ公の悲願でもあった。
――口惜しいが、今は……。
ふと、顔を上げた。
彼の双眸は、驚きで見開いていた。
「さて、用意は出来たか?」
旗を持つクラウスが、皆の顔を見た。
五人は、服の上から、ハールィチ公国軍の上衣を羽織り、目深に兜を被っている。
「いつでもいけますよ、クラウスくん」
「準備万端です、クラウスさん」
「クラウス、オイラ、がんばるぞ」
「行きましょう、クラウス」
ヴァシリーが、サラが、ツァガンが、エルージュが、皆、彼の合図を待っている。
皇帝の元まで、駆け抜けろとの、合図を、待っている。
「いくぞ!」
その言葉と同時に、五人は駆け出した。
色の褪せた黄緑の草原を、勇者たちは踏みしめる。
黒煙立ち上る首都目がけて、足は前へと進む。時折、断末魔のような爆発めいた炎が煙の向こうから見え隠れしていた。
モスクワは、数え切れないほどのタタール兵が取り囲んでいる。
馬蹄の音がドロドロと響く。雷鳴にも聞こえる唸りは、積年の恨みを晴らそうとするべく、この草原に轟いていた。
「ヴァシリー!あの魔法を、頼む!」
「はい!」
彼の太鼓が、音を立てた。
五人の身体が、ふわりと軽くなる。
速度が一気に上がり、町に群がる周囲のタタール兵の姿が、ぐんと近くなった。
モスクワ脱出の際に使った魔法は、今再び、モスクワを目指す魔法として、彼らを助けた。
公国旗を、目立たないように下げた。
クラウスらの姿は、タタールの大軍の中に、呑み込まれた。
浅黒い、褐色肌の騎兵が、土煙と共にモスクワの外側城壁に吸い込まれている。
木造の町の城壁は、その機能を失っていた。
炎に巻かれ、丸太材を組んだ壁は焼け落ち、一部が炭と化している。
がら空きとなっている、城壁の間隙を抜けた。
焦げ臭いにおいが、一段と強くなった。至る所で、炎が竜巻のように、渦を巻いて天へと伸びている。
上空は、黒一色だった。黒煙がモスクワを覆っている。
建物と人を焼き、荒れ狂う炎の波が、ゼムリャノイ・ゴロドで、うねっていた。
初めてモスクワを訪れた時に見た、サウナではしゃぐ人々の姿。橇で荷物を運ぶ者、馬車で通りを急ぐ者。暗く陰鬱な空気の中で、その一瞬を楽しみ生きていた芸人たち。
その姿も、今はもう無い。
あの人々は、どこへ消え失せてしまったのか。酒を飲み、歌をうたう男たちの姿は、そこで転がる黒いものになったのか。漂う無情に、皆の胸が締め付けられた。
視界の端々では、タタールとモスクワ兵が、干戈を交え、一進一退の攻防を繰り広げている。
彼らも、互いに必死であった。
退くことは許されない、逃亡は処刑と同義。一人の弱気は隊の崩壊を招くからだ。
兵の背後には、各々の監視者の赤い目が光っていた。
直に、次の城壁が見えてきた。
白い、石造りの城壁だ。
城門は、固く閉ざされている。何者の侵入を許しはしないだろう。
そこを目指して、クラウスは駆け、ハールィチ公国旗のついた槍を、高く掲げた。
「ここを、開けろ!」
腹の底から、大声を出した。穂先で、小さな旗が熱風に煽られて揺れている。
「何者だ!」
見張り台にいる兵が、クラウスに誰何を問う。
「俺たちは、援軍だ!皇帝の求めに応じて、やって来た!」
彼の言葉に、城壁の向こうが、ざわついていた。
ハールィチ公国に、援軍を出せと命令したのは、皇帝自身だった。
それに応じて、公の末裔が出陣したという情報も、モスクワには伝わっている。
だが、その公が、モスクワを目前にして撤退したのは、まだ知られてはいない。
「たった五人の援軍だと、謀るのも大概にしろ!」
罵声が、浴びせられた。
だが、クラウスは怯まなかった。
「嘘ではない!この旗を見ろ!」
槍を振った。穂先ではためくのは、あの三つ叉の矛の紋様である。
「俺たちは、モスクワを助けに来たのだ!」
嘘は、言っていなかった。
静寂が、辺り一帯を包む。
しばらくして、門が軋む音がした。
「早くしろ!」
重い門が、少しだけ開き、内側から手招きする者がいた。
クラウスらは、するりと、入城を果たした。
白い町。
この町は、白い壁に囲まれた、石造りの町並みのはずだった。
だが、その町も煤にまみれ、往時の荘厳さは、欠片もない。至る所で兵は溢れ、殺伐とした気配が充満するものになっていた。
「あのタタールの大軍の中、よく無事だったな!」
何も知らないモスクワ兵が、クラウスらに声をかけた。
「悪いが、俺たちは皇帝に、馳せ参じた報告をしないといけない」
「分かった、急いでこいよ」
兵らに、簡単な挨拶を済ませ、五人はさらにモスクワの中心地目指して、突き進む。
――この旗さえあれば、俺たちは味方と思われる。
少しだけ煤けた公国旗だが、金糸で刺繍された三叉矛は、鈍く輝きを放っている。
上空には、真っ赤な火の粉が無数に飛び、それは今にもベールィ・ゴロドまで、降り注ごうとしていた。
内側城壁を抜け、彼らはキタイ・ゴロドまで進んでいた。
ここはまだ、平穏そのものであった。
人々の姿は、全くといっていいほどに無く、慌ただしく走る兵と、黒衣の親衛隊がうろついているのみ。
「住人たちは、どこへ行ったんだ?」
兜の隙間から、通りに面する家々を見て、クラウスは言った。
「宮殿前の広場です。大火の際は、皆そこに避難することになっています」
ヴァシリーが、通りの先を示した。
この辺りは、彼が産まれた時から住んでいる、馴染みの町だ。
どの辻を曲がれば、どこに出て、あの通りを進めば、この道に繋がる。勝手知ったる場所だった。
「そこを行けば、広場の正面に出ます。人で溢れていると思いますが、宮殿までは、あと少しです!」
木造の家々を間近に眺めつつ、狭い路地を彼らは止まること無く、駆け抜けた。
宮殿前広場は、案の定、人々の姿でごった返していた。
まるで、泥だらけの丸いカブを、タライに放り込み洗っているような状況だが、そこにいる者たちは、皆生気なく、頬の肉がそげ落ちた顔が目立っていた。
ヴァシリーは、知らなかった。
疫病がモスクワを襲い、人は親衛隊の暴虐にも怯えながら、ひっそりと命を落としていたことを。
西からやって来たそれは、国土のあちこちで蔓延し、折からの戦争と飢饉もあって人を容易く死に至らしめた。
彼が旅立って一年余り。首都モスクワの人口は、緩やかに減少しつつある。
「門を開けろ!俺たちは、援軍だ!」
固く閉ざされた、宮殿前の門にて、クラウスは声を張った。
「皇帝の求めで、馳せ参じたのだ!この旗を見ろ!」
そう言って、槍を立てる。三叉矛の紋様が、風に揺れていた。
門の向こうが何やら騒がしくなる。
やがて、ゆっくりと門が開かれた。
一行は、宮殿へと続く石畳を進み、背後で再び門が閉められるのを聞いた。
だが。
「エルージュ、どうしたの?」
彼女の足が、動きを止めていた。
「一緒、行こう」
ツァガンが、エルージュの手を握り、促すも、彼女は黙って首を振る。
「私は、行きません」
「ど、どうして?」
驚くツァガンに、彼女は突如、兜を脱ぎ去り口づけをした。
唇同士が触れ合う程度だが、思いがけないその行動に、ツァガンの頬が紅く染まる。
クラウスたちも、何が起きたのか分からず、ただ呆気にとられていた。
「ツァガン」
口を離し、エルージュは彼の目を見つめた。
「あなたたちなら、出来る。私がいなくとも、全てを解決できます」
彼女の長い黒髪が、ふわりと靡いた。
「私は、表のものどもを倒します。クラウスたちは、このまま中へ進みなさい!」
「や、やだあ!エルージュ、オイラのそばにいて!」
「行きなさい!」
抱きしめようとする、ツァガンの逞しき両腕を振りほどき、彼女は一行に背を向けた。
「うわあああ!エルージュぅぅ!」
狼の叫びを耳にしつつ、エルージュの翼が大きく開く。
力強く、白鳥が羽ばたくと、その身体は天高くにまで、翔け上っていた。
「おい、何か飛んでくるぞ」
白い町の城壁にいる兵士が、それに気が付いた。
「なんだ、白い……鳥?」
上空に広がるのは、黒煙の煤だ。その中を、白い鳥が一羽、飛んでいた。
「あれ、鳥か?俺には人にも見えるぞ」
「まさか、人が空なんか飛ぶわけねえ」
兵たちは、互いに顔を見合わせ、首を捻っている。
皆が驚き、ざわつく中、それは、重さを感じさせないように、ふわりと、城壁の向こうに降り立つ。
そして地に足をつく寸前に、被っていたハールィチ公国軍の上衣を脱ぎ捨てた。
「お、女か……?」
兵たちが、城壁の上から、それを見た。
背中に白い翼を生やした、長い黒髪の女が、立っている。
女は、手に持つ丸い太鼓を、叩いた。
俄に天が、暗くなった。
立ち上る、煙の暗さではなく、天気が急変した時のような、泥の如き雲が、空を覆っていた。
腹に響く、低い音が雲間から聞こえる。
女が、くるりと身を翻した。
激しい雷が、二条、三条と、地上に落下した。
風が、強くなる。生ぬるい、ぬめりを持つ風だった。
エルージュは、その風の中を、ゆっくりと歩いた。
太鼓を叩き、祈りの文言を絶え間なく呟く。
身体の周りに、光の帯が見える。
光が瞬くと、上空の雲から、稲妻が降り注ぐ。
タタール兵の幾人かが、光に包まれて、絶命した。
彼女の足は、止まらない。木造の町を抜け、最も外側の城壁目指して歩き続ける。
太鼓の音に引き寄せられたのか、多くのタタールどもが、彼女に近づき、そして炭となった。
モスクワの兵は、ただそれを、呆気にとられて見ているしか、出来なかった。
未だ燃える、外側城壁を、抜けた。
視界が、開けた。
見渡す限りの草原に、武装したタタール騎兵が、群れている。
およそ十万だと、ハールィチ公が言っていた。
雷鳴が轟く、稲光が走る。一瞬だけの激しい輝きが、周囲を明るく照らし出す。
走り回る騎兵の中に、一際大きな旗が見える。
何やら不可思議な紋様の描かれたそれは、その旗の下にいるのが、どういう身分の者であるかを、如実に表していた。
太鼓を、叩く。
身体から発せられた雷光が、樹木の枝葉の如く、四方に拡がった。
「あれは、なんだ」
隊の馬が、怯え、嘶く中、タタールの一人が、そう言った。
「はて……?モスクワ側の兵でしょうか、女のようにも見えますが」
側に使える雑兵が、細い目をさらに細めて、城壁前のエルージュを見た。
「女なのは、ワシでも分かるわ。何者なのかと聞いておる」
男の持つ鞭が振られ、空気を裂く音がした。
その音に、雑兵の肩が少し竦んでいた。
男は、馬上高い目線から、それを見ていた。
白い衣服の女が、太鼓を叩き、稲妻が降りしきる中、踊り舞う姿を。
「おかしな格好をした者だ、背中に白い鳥の翼がついている」
男の、切れ長の目が、醜く歪む。歪みつつも、その視線はエルージュに注がれていた。
欲しい。と、思った。
あの女の衣服を引き裂き、白い凝脂の肌を舐め回した後に、組み伏せて貫きたいと。
どんなに気丈な女でも、その瞬間は、恐怖と苦痛に顔が歪む。助けて欲しいと悲鳴を上げるはずだ。
そして直に悲鳴は止み、愉悦の声を漏らして、すすり泣く。
女の部分を埋め尽くす、男の逞しいそれを求めるように、なる。
その姿は、ひどく淫猥なものであろう。男の喉が、無意識に鳴った。
「あれを、捕らえろ」
鞭で、彼女を指し示した。
「将軍、今、なんと」
「あの女を捕らえて、ここに連れて来い」
「しかし、雷が落ちています。近づくのは無理かと」
「無理だろうが行け。ワシはあれをものにするぞ」
空が、光った。一歩遅れて、轟音が響く。
遮るもののない草原では、雷鳴の音が死に直結する。
雷は、少しでも高いものに落ちる性質ゆえ、それらが全く無い砂漠や草原では、遠雷ですら、恐怖の対象になり得る。
音が聞こえた時、空が光った時、それは地を焼き、草を焼き、人を焼く危険を孕んでいるからだ。
明と暗が鮮やかに浮かび上がり、男の切り裂いたような目が、吊り上がっていた。
「お、おやめください!」
男の言葉を聞いたのか、一人の老人が、走ってきた。
薄汚い、ボロの衣服を身にまとい、鳥の羽根をいくつも頭に飾りとして付けた老人は、その手に丸い片面張りの太鼓を持っていた。
「あれは、あの方は、太初のシャマンです。将軍がどうこう出来るものでは、ありませんぞ!」
「うるさいわ、爺!お前は呪術師だから、そう怯えるのだ」
「しかし、あの方は、我らの祖。穢れ無き白鳥の女です、無理矢理手篭めにしては、地が裂け、天が落ちまする!」
「地が裂けようが、股が裂けようが、そんなものは迷信だ!あの女を召し出せ!」
老人の頭が、激しく揺れた。
その勢いで、鳥の羽根飾りが数本抜け、宙を舞った。
「いけません!いけませんぞぉぉ!将軍、あなたは死にたいので……」
「黙れ!爺!」
男が槍を掴む。穂先が蛇のようにうねり、老人の喉元を突き刺した。
「あ、が、し、死……」
老人の口から、夥しい量の血が溢れた。
手足が、硬直し、激しく痙攣を起こす。
やがて、息が、絶えた。
老人の、もの言わぬ骸は倒れ、吹き出る血で、草原は赤黒く染まった。
男は、槍を振り回した。
「行け!」
穂先は、エルージュを指している。
その柔肌を、引き裂き、貫かんと、血の滴るそれが、狙っていた。
エルージュの双眸が、黄金色に輝いた。
空気が圧縮され、巨大な雷光が、爆発する。
力が、加速した。
「雲行きが怪しいな」
「それは、どちらの意味かな、ハールィチ公」
重厚な鎧に、兜を目深に被った男が、言った。
顔の下半分には、褐色のヒゲが密集し、彫りの深い眼窩には、炯々と目が光る。
空を見上げているハールィチ公よりも、十ほど年上の男は、しわの目立つ顔で笑っていた。
「ユーリエフと、スタリツキーも、布陣は完了した模様だ。いつでも行けるぞ」
男は、草原にいる兵たちを、馬上から眺めた。
幾重にも並んだ弓兵が、弩を持ちてそれを狙う。タタールの背後を、狙っている。
「奴らを倒したら、そのままモスクワになだれ込む。皇帝の横暴を止めるのは、我らの役目だ」
撤退を決めたハールィチ公は、街道を引き揚げていた。
その彼に、鉢合わせする形で現われたのは、同じルーシ諸公国の一つであった、コストロマ公国軍であった。
軍を率いるコストロマ公は、別の街道からユーリエフ公国軍と、先頃、公が処刑された、スタリツキー公国の残兵が来ている。との情報を彼に知らせ、共に戦うべきだと、切に説いた。
「上手くいけばいいな、コストロマ公」
ハールィチ公が、己のヒゲを撫でた。
「はは、お前の兵と、我らコストロマ。そしてユーリエフ公とスタリツキーの兵があれば、可能性はあるぞ」
コストロマ公の右腕が、高く掲げられた。
兵が、次々に矢を装填する。
「雨か」
頬に当たる水滴に、ハールィチ公は目を細めた。
腕が、振り下ろされた。
タタール兵の、人垣の向こうで、稲妻が疾る。




