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35 ハールィチの遺産

 黄金の環の一つ、ハールィチの町。

この町は、モスクワから北東方向へ進み、ヤロスラヴリの町を流れるヴォルガ川を越えたところに位置している。

 クラウスら一行の姿は、この町にあった。

 西の最果てから、モスクワ入りを試みようとしたものの、道中の町や村には、虐殺や疫病の影響が色濃く残り、首都へ向かうという彼らに対しても、皇帝ツァーリの関係者ではあるまいかとの猜疑がかけられ、思うままに足を進めることが出来なかった。

 しかも折り悪く、南からタタール兵が間近に迫っており、モスクワは守りを固めているとの情報まで入った。

 このままでは八方塞がりかと思われたのだが、皇帝が諸公国の末裔に号令を出していると聞き、ヴァシリーが思いがけない事を言い出していた。


「で、この町にいるのか?その、クニャージとやらは」

 町の通りを、クラウスたちは歩く。

「はい、正確には末裔ですが、その方は今もここに住んでいます」

 通りは、木材で隙間無く舗装され、歩く度にゴトゴトと重い音がした。

「ハールィチ公国の公ねぇ……」

 太陽が、頭上で燦々と照っている。

秋は過ぎ、冬へと季節は移り変わる今日日、気温は緩やかにだが下がり続けていた。

「どんな方なんでしょうね、きっと格好いい男の人なんですよっ」

 年頃の女の子らしく、サラの興味はその容姿に注がれていた。

「いいや、意外と年寄りの爺さんかも知れないぞ」

「えーっ、そんなの夢が無いですぅー」

「ツァガンは、どんな人だと思うんだ?」

「あっ、え、ええ?」

 突如、名を呼ばれた彼は、ひどく驚いていた。

「な、な、なにが?」

「聞いてないのかよ、お前。エルージュのケツばっか触ってるからだぞ」

「あ、あぅ、その」

 ツァガンの手が、背中に引っ込んだ。

彼の傍らにいるエルージュは、顔を紅くしている。

「お尻を触るのもいいですが、お話はちゃんと聞きましょうね、ツァガンくん」

「う、わ、分かった」

「ケツ触りは否定しないのか」

 笑いつつ、一行は町を見下ろす、丘の建物へと向かった。


 古びた宮殿クレムリ

それは歴史を感じさせる、木造の建物だった。かつてここは公国の城塞として、存在していた。

 それは、かつて栄華を極めたのであろう面影を残しつつ、改築を重ねた結果、素朴ながらも機能的な城として、今日まであり続けた。

 城は、長年の風雨に晒され、真新しかった屋根や壁も、いつしか松特有の銀色の輝きを放つようになり、歴代のクニャージが住むに相応しき風合いを醸し出していた。

 その宮殿の中で、クラウスらは一人の男に面会を求めていた。

「それで、私に何をしろというのだ」

 男は、豪奢な椅子に腰をかけ、頬杖をついたまま、そう言った。

「はい、私たちを、あなた様の軍に入れて頂きたく思います」

 クラウスは、膝をつき頭を上げることなく、言い放った。

「ふふ、おかしな事を言う者らだ」

 男は、呆れたのか、笑い出した。

 男の座る椅子の背後には、公国を象徴する機織り物が、飾られている。

その紋様は、三つ叉の矛と、それに杖が重なるように配置されたものだ。

 それは、この小さな国を独立国家として勝ち取った、初代の公を称えたものであった。

「どこでそんな話を聞いた。我がハールィチ公国は、モスクワに援軍を出す余裕など無いぞ。負けると分かっている戦に、貴重な人手を出せるものか」

「いいえ」

 ヴァシリーが、否定をした。

「余裕は、おありのはずです。ハールィチ公様」

 そう呼ばれた男の眉が、わずかに動いた。

皇帝ツァーリの命が出ています、援軍を出さねばどうなるか、と」

 これは、賭けだと、彼は決めていた。

「相手はあの皇帝です、断れば逆に怒りを買いかねません。ですが、少人数の軍で、それを避ける方法があるのです」

「……それが、お前たちなのだな?」

「はい、私たちは、それぞれが百人にも勝る働きをします。実際に、ノヴゴロドでモスクワ軍を退けたこともあります。この力が加われば、少なくともあなた様は負ける事などありません」

 男は、その話を聞いたことがあった。

つい数ヶ月前、皇帝がノヴゴロドの町を焼き払い、住民の半数以上を虐殺した出来事の話だった。

 その中で、数人の若者たちが立ち上がり、モスクワの兵と親衛隊オプリーチニキ相手に戦って、住民たちを逃れさせたという、信憑性のない噂があった。

 果たしてこれは、真実であったのか。男はいぶかしんだ。

 男の鋭い双眸が、光る。

その姿は短い髪に漆黒の色をし、精悍な顔つきには、威厳のあるヒゲが生え、目の前で跪くクラウスらを睨む、三十すぎの男だ。

 男が立ち上がる気配がした。ヴァシリーの頭から、汗が吹き出る。

鼓動が激しさを増し、緊張のあまり、身体を震えが走った。

「決めたぞ」

 低い、声だった。


「騙されましたっ」

 町の酒場で、サラが怒っていた。

「なんなんですか、あの人。おじさんじゃないですかぁ」

 プリプリと怒りながらも、手はパンをちぎるのを止めない。

 クラウスとヴァシリー、そしてサラの三人は、ここで食事を取っていた。

「え、お前、本当にあれ信じていたのか?」

 クラウスは、呆れていた。

「当たり前ですっ、あの絵のように、もっと若くて格好いい人だと、思ってたのにぃ」

 そう思ったのも、無理はなかった。

 ハールィチ公の住む宮殿クレムリ内には、歴代の偉業を称えるフレスコ画が多数存在していた。

 面会までの空いた時間に、皆はそれを眺めていたのだが、そのうちの一つ、長い黒髪の男の絵に、サラはいたく感動してしまい、先祖がこれなら末裔の男もこうであろう、と勝手に期待をして、舞い上がっていたのだった。

 そして結果は。

「おじさんでもいいじゃないか、男はみんな、おじさんになるんだぞ」

「そうですよ、サラちゃん。私だって、いずれはおじさんですよ」

 ヴァシリーの言葉に、サラの顔がいびつになった。

「いやああ、嘘ですぅ、ヴァシリーさんがヒゲもじゃもじゃのおじさんなんて、信じたくないですぅぅ」

 喚くサラを横目に、クラウスは豆のスープに口をつけた。

「そういえば、ツァガンくんたちは、どこに行ったんですかね?」

「知らねえ。どうせどこかにしけ込んで、よろしくやってるんじゃないのか」

 酒場へと入る直前に、ツァガンはエルージュの手を引いて、二人でどこかに消えて行った。その時、彼の様子が興奮気味だったのを、ヴァシリーは思い出していた。

「ですよね」

 仕方が無いという、口ぶりだった。


 人気のない、町の片隅。

ここでツァガンは、エルージュの豊満な胸に、顔を埋めていた。

 冬の日の、枯れた草むらの中で、服の上から彼女を抱きしめ、狼の男は尻尾を激しく振りつつ、その身体に触れていた。

「んー、やわらかい」

「うふふ、ツァガンったら、赤ちゃんみたいね」

「え、そ、そうかな」

 彼は顔を上げ、大きな黄金色の目で、エルージュを見つめた。

「赤ちゃんはね、こうしてお母さんに抱かれて、おっぱいを飲むのよ。あなたもその時があったのだから」

「そうなの?オイラ、知らない」

「覚えていないの?」

 狼の目が、少し曇っていた。

「うん、オイラの母さん、オイラを産んで、すぐ死んじゃった、から」

「ごめんなさい、悪い事を聞いたわ」

 彼の繊細な部分に触れてしまったかと、エルージュは不安げに詫びる。

 だが、そんな彼女を思いやってか、ツァガンは首を振り、再び笑顔を向けていた。

「いいの、もう過ぎたこと、だから」

「ありがとう、ツァガン。あなたは強い人ね」

「うん」

 ツァガンは、またもエルージュに抱きついた。

尻尾が、ちぎれんばかりに、激しく揺れているのが、自分でも分かる。

 大好きだと、そう、思った。

「ねぇ、膝枕して」

「ええ、どうぞ」

 女の柔らかな太ももに頭を預け、ツァガンは満足そうに笑っていた。

 空の色は褪せているが、周囲の木々は紅葉が残り、北国の森は、東の世界とは違う色彩で飾られていた。

 筋状の雲は、形を変えながら南へと流れていき、渡り鳥たちも、遅い冬支度をととのえて大空をける。

 しかし、世界の異常は、全てが解決した訳ではない。

天候異常の次は、大地の異常。実りを忘れた草花は、今に重大な結末に至るであろう。

 現に、ここハールィチ公国は、食料の危機を迎えていた。

 元々この国は、広大な農地を有していた。

しかし、何十年も昔に、モスクワ大公国と併合してからは、その農地の半分をモスクワに奪われ、さらに近年になって、残る大部分も皇帝直轄地オプリーチニナとして奪い取られた。

 領民が、細々と食べられるだけの生産能力しか持たず、必要なものは交易を介して生き長らえた国は、こういう時に不利だった。

 近場の山で採掘される岩塩を、この国は交易品として輸出していたのだが、大地が汚染され、岩塩自体が異色異臭を放つようになってからは、それさえも出来なくなっていた。

 岩塩は、金と同じだけの価値がある。

それはもう、過去の話であった。

――んー、おっぱーい。

 ツァガンの視線が、目前にある、二つの山に注がれている。

「あっ」

 その稜線を、指でなぞった。そこに触れた途端、エルージュが小さな悲鳴を上げた。

 もっと触ってみよう。と、下心が出た時、聞き覚えのある声がした。

「なんだ、こんな所にいたのか」

 驚きのあまり、身体が震えた。尻尾が勢いよく逆立った。

「おや、邪魔をしてしまいましたね」

「ツァガンさん、エルージュさん、何をしているんですか?」

 クラウスとヴァシリーが、何か察したように笑い、サラも無邪気な笑顔を見せていた。

 二人の顔が、一瞬で紅くなった。


 宮殿クレムリの一室。

クラウスたち五人は、ハールィチ公に誘われて、再び宮殿に立ち入っていた。

「この部屋は、歴代のクニャージを祀っている」

 ハールィチ公は、そう言うと、部屋の天井近くにある窓を、少しだけ開けた。

燦々と太陽の光が降り注ぐ。一条の線となった明かりは、木造の部屋を暖かく照らし出した。

 床面からは、歩いた際に舞った埃が、まるで靄のように浮かんで見え、さながらテングリに登った時の雲海の如く、幻想的なものを感じさせていた。

 正方形に近い部屋は、壁にイコンとフレスコ画が飾られ、そして随所に彫り込まれた彫刻が、教会内部のような、荘厳な雰囲気を醸し出していた。

「それで、サラと言ったか」

「はい」

 ヒゲ面のハールィチ公に呼ばれて、彼女は一歩前へと進み出た。

「おぬしは、魔法が使えるのだな」

「そうです」

「であれば、この意味が分かるな?」

 大きな、太めの人の横幅ほどもある石碑の前に、青白い光が浮かんでいる。

光は強弱、まるで鼓動をしているかのように、幾度も瞬いていた。

「……魔法、ですね」

「やはりな」

「でもなぜ、これを私に見せたのですか?」

 彼は、ヒゲを撫でつけた。

「実はな、この石碑は、私の祖先である、初代ハールィチ公の石碑なのだ。お前たちの加入を決めた後、私はこの初代様に報告をしようと、部屋に入った。そうしたらこの光があったという訳だ」

「と言うことは、初代の公様は、魔法使いだったのですか?」

「そうなるな。だが、残念ながらその力は、子孫に受け継がれなかった。初代様だけが扱える、幻の力となってしまった」

 力強い光だと、サラは思った。

 この魔法は、自分の持つ魔法と、同じ性質と感じていた。

 広範囲を吹き飛ばす、爆発の魔法だ。

「おぬしがこれを理解できるのなら、これはおぬしが使うべきものだ。魔法を知らない私が管理しても、何の意味もない」

 ハールィチ公は、サラに受け取れと促した。

彼女の足が、畏怖の念で震えている。

――私なんかが、扱えるのでしょうか。

 強大すぎる力に、心を不安が埋め尽くす。

 手を伸ばした。青白い光が、指先に触れそうになった。

『安心しろ、一度だけだ』

 ハールィチ公の口が、動いている。

しかし、その動きと発せられる声は、一致しない。彼の言葉に重なって聞こえるそれは、少し若いものだった。

「あ……」

 目の前が明るくなった。

窓から射し込む太陽の光が、ちょうどサラを包み込んでいた。

 光は、ハールィチ公の頭にもかかっている。

 黒髪のてっぺんが白く飛び、地肌が透けて見えた。


 その日の夜。

宿の各部屋で、五人は休息を取っていた。

「エルージュさん、少しいいですか?」

 部屋の扉が叩かれて、サラが申し訳なさそうに顔を見せていた。

「サラ、どうしました」

 寝台に腰掛けて、にこやかな笑顔のエルージュと。

「お、どーした、サラ?」

 狼の耳と尻尾を動かしている、ツァガンの二人が、彼女を出迎えた。

「あーっ、なんでツァガンさんがいるんですかーっ」

 指を差し、大声で指摘するサラに、エルージュは少し困り顔だった。

「別に、いてもいいだろ。オイラ、エルージュ、好きだし、触りたい」

「な、な、何を言っているんですかっ、このけだもの!」

「けだものじゃない、オイラ、狼」

「そういう意味じゃないですっ」

 背後からエルージュの肩を抱き寄せて、ツァガンは不満そうに狼だと主張する。

「ツァガン、少しだけ外に出てくれるかしら?」

「うん、いいよ」

 彼女の求めに応じて、笑顔で扉へと向かうツァガンだが、サラの横を通り過ぎる際に、恐ろしく冷ややかな視線を感じた。

 それは、雨宿りの後の、体調を崩したあの時よりも、もっと冷たい何かだった。

 狼が室内から去り、扉が閉まるのを確認したサラは、エルージュの側へと近寄る。

「どうぞ、座ってください」

「はい」

 サラの小さな身体が、寝台に腰掛けた。

「あっ、あの、私、不安なんです」

「急にどうしたのですか?」

「さっきの、魔法を授かった時です。一度だけって声が聞こえて、それがどういう意味なのか、分からなくて、それで」

「あの声ですね、私にも聞こえましたよ」

「本当ですかっ」

「はい」

 動揺しているサラを落ち着かせるように、エルージュは同調しつつ微笑んだ。

「この魔法の持ち主は、他人を思いやる優しい人だったようですね。魔法が危険な力と知りつつも、独学でそれを研究して、一度だけ安全に扱えるように調節していますね」

「一度だけって、まさか」

「そのまさかです。魔法を使えるのは、ただ一度きり。二度はないです」

 失敗は出来ないのだと、少しずつ理解したのだろうか、サラの不安感が、ますます強くなった。

「大丈夫ですよ、サラ。この魔法はここだという時に放てばいいのですから」

「でも、それがいつかは、私には全然分からないですよぅ」

「あなたが分からなくても、私やヴァシリーが、いつも側にいますから。放つ場所や時は、私たちが教えますよ」

「頼っても、いいんですか?」

「はい、ヴァシリーにも、そう伝えておきますから。安心してください」

「ありがとうございます、エルージュさんっ」

 気が緩んだのだろうか、サラの目が潤み、そのまま彼女はエルージュに抱きついていた。

 長い旅を続けてきたが、サラはまだまだ子供だ。

エルージュは彼女の銀色の頭を優しく撫で、落ち着かせるようにそっと背中もさすった。

 明日からは、いよいよモスクワ目指して、ハールィチ軍と行動を共にする。

冷たい夜風が、窓の隙間から、吹き込んでいた。


「……何でお前、追い出されてんだよ」

 隣の部屋に入ったツァガンを出迎えたのは、不機嫌な顔のクラウスと、苦笑いのヴァシリーだった。

「だって、エルージュ、が」

「お前、出てけって言われたら、素直に出て行くのか」

「うん」

 こいつは、将来尻に敷かれるな。と、クラウスは思った。

「あれ?なんでクラウス、出てけ言われたの、知ってる?」

「うるせえ」

「クラウスくん、聞き耳立てるのは、やめましょうね」

 不自然にクラウスはごまかした。ヴァシリーは肩を震わせて笑っている。

「でも、ついにモスクワ入りなんだな」

 ツァガンから目を背けつつ、クラウスは感慨深く言った。

「そうですね、兄に憑いていた巨悪は、皇帝ツァーリに戻ったとの話です」

「皇帝、か」

 彼は思い返していた。ノヴゴロド郊外で、町を包囲していたのは、モスクワ軍だった。

その旗印は、二つあった。

 馬に乗った騎士の紋様と、もう一つは双頭の鷲のものだ。

騎士は、モスクワ大公国を表すもので、鷲は皇帝そのものを表す。

 ヴェプサのシャマンである、ヤコフが見せた双頭の鷲と戦うヴィジョンは、もしかしたら、ヴァシリーの兄の事ではなく、このモスクワ大公国を支配する皇帝の事なのではと、クラウスは考えた。

――嘘だろ。

 それに気づいた時、彼の背筋を震えが走った。

――国の皇帝を、倒すのか。この、俺が。

 恐怖から来るものではない、未知なる戦いに反応する、騎士団員特有の、震えだ。

無意識に、口角が吊り上がっていた。

「あー、クラウス、なんか笑ってる」

「別に、笑ってもいいだろう」

「余裕がありますね、クラウスくん」

 男三人の笑い声は、明日から始まる重い気分を吹き飛ばす、勢いのあるものだった。

――目指すは、モスクワ。

 聖剣の勇者の双眸は、力強く光っていた。

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