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34 鷲の啼く西の涯て

 潮の匂いがした。

 男の足は、そこで、止まった。

この先に、道は無い。この先は、切り立つ断崖がある。そして、果てしなき大海が、見えている。

 遥か眼下では、打ち寄せる白波が幾重にも広がり、さながらあおい海原を彩る刺繍紋様のようでもあった。

 海は一色ではない。紺青、白群、浅葱など、濃い色から薄い色まで、染め物のむらの如く、青という色を構成している。

 それは、この世界も同じだった。

一つではなく、いろいろなものが集まって、世界は出来ている。

 多様だからこそ、生命力は満ちている。男が歩いてきた道は、そうだった。

 男は天を仰ぎ見る。青く澄んだそこには、薄い筋状の雲が走る。

それを掴もうと、手を伸ばす。細い腕に、細い指は、骨と皮しか残っていない。

 だが指は空を切る。その手には、何も掴まれていない。掴もうとしたものは何なのか、男自身にも分からない。

 遠くで、鳥の鳴き声がした。哀愁を帯びた、悲しいき声だった。

 男は振り向いた。

 今まで歩いてきた道に、五人の人物が見えている。

 男が、太鼓を叩いた。

足は、再び舞を踊るように、軽快に動きだした。


「やっと、追いついたぞ」

 クラウスの双眸が、男を睨んでいる。

 目の前の男は、赤い髪を振り乱して、一心不乱に踊っていた。

「兄さん、もう、やめてください!」

 ヴァシリーが、叫んだ。

 だが、そうしたところで、男の動きが止む訳ではない。足に、血が滲んでいた。

「残念ですが、あの人に私たちの声は届きません。地の底に魂を囚われ過ぎています」

 エルージュが、悲しい声で呟いた。

 傍らに立つツァガンが、彼女の手を握った。

「助けてあげたいです」

 サラは、純粋に、そう願った。

「エルージュ、どうにか、できない?」

 ツァガンは、知っていた。

あの男が、苦しみ、もがいているのを。

 男の腕は、細かった。獣人である、自分より細いのは理解できる。だが、同じ生活をしていたヴァシリーよりも細いのは、何事なのかと思っていた。

 もしかしたら、食べることや、休むこと、それらを全てかなぐり捨てて、男は彷徨い続けているのでは、と考えていた。

「……方法が、無い訳ではないです」

 エルージュの指が、男を示す。いや、正しくは、その背後を。

「あの人と、融合している巨悪があります。それを引き離してください。そうすれば望みは、まだあります」

 いつの間にか、彼女の双眸は、黄金色に輝いていた。

シャマンの眼で、それを彼女は見抜いていた。

「でも、どうやって?」

 ツァガンの顔が、困惑の色を見せた。

「クラウス」

 エルージュは、次にクラウスを見つめる。

 銀色の輝く聖剣は、今や勇者の手に、握られていた。

「うん、何だ」

 振り向くことなく、クラウスは近づく女に声をかけた。

「この聖剣ならば、引き離せます。その後は、私――シャマンに任せてください」

 そう言って、エルージュは聖剣に力を与えると、そのままあの男に突き立てろとばかりに、太鼓のばちで示した。

 踊る男の背後が揺らめき、全身から炎が吹き出した。


 三人の持つ太鼓が、ほぼ同時に音を立てた。

ヴァシリーが、エルージュが、赤い髪の男が、腕を動かし、太鼓を激しく打ち鳴らす。

 つむじ風が巻き起こり、鋭い雷光が空気を裂く。炎が、それらを呑み込まんと、天高く燃え上がり、急速に膨らんだ。

「わわ、火、きたっ」

 走りだそうとしたツァガンを、炎が襲う。

輝く光が、炎を裂く。雷が彼を守ろうと、炎を細切れに引き裂いていく。

 降りかかる火の粉を吹き飛ばすべく、風の壁が一行を覆い尽くす。

 二人のシャマンの力が合わさったそれは、計り知れないものを秘めていた。

 黒い渦が、無数に出現した。

向こうも、生き残るべく、必死なのだ。

 渦から、異形のものどもが、その姿を現わす。

大きな三つ首トカゲや、縞模様が炎になっている虎、弾ける白い丸いもの、羽毛が鋭い針の鳥など、過去に見たものや見ないもの、悪意を持つ様々な怪物が蠢いていた。

「出てくる速さが違うぞ、気をつけろ!」

 クラウスが、叫んだ。

 敵の出現速度が、今までよりも段違いに速い。

瞬きすれば、一つ増え、また瞬きすれば、二つ増え。敵の数は倍々で増えていく。

「消えなさいっ!」

 サラの強烈な魔法が、増えた怪物どもを、まとめて吹き飛ばした。

吹き飛んだ白いものは、男の目の前で破裂する。

 しかし、男は動じない。

ほつれた頭巾の向こうで、落ち窪んだ眼窩は、何の反応も示さなかった。

 炎が、うねる。

「ツァガン!いくぞ!」

「分かった、クラウス!」

 聖剣クォデネンツが煌めき、蛇のようにのたうつ炎を、その鋭い刀身で切り裂いた。

 その裂いた隙間を、ツァガンは駆け抜けた。

故郷の森で、草原で、狩りに明け暮れた日々を思い出すように、身体は軽く、足は地を大きく踏みしめ、獲物である怪物の懐まで、潜り込む。

 鋭い爪牙をものともせず、彼もまた異形の獣に拳を叩き込んでいた。

 獣の巨躯が崩れ落ちる。その向こうでは、クラウスが上段から袈裟懸けに、怪物を両断している。

「あっ、きゃああ!」

 サラの悲鳴がした。

 クラウスとツァガンの猛攻をすり抜けて、蛇の角を持つ鹿が、突進していた。

蛇の真っ赤な口が開いている。口の奥には、炎の熱気が見え隠れする。

 炎の玉が、吐き出された。それは真っ直ぐに、サラ目がけて飛ぶ。

「サラ、伏せなさい!」

 彼女の前に、白いものが立ちはだかる。

シャマンの太鼓で、炎を防ぎ、身体から放射される雷光が、鹿を一撃で消し炭に変えた。

「あ、あ、エ、エルージュ、さ、ん」

 声が、おののいていた。恐怖のあまり、喉が引き攣れる。

「守りは、私が引き受けます。皆さんは、倒す事に集中してください!」

 エルージュが、太鼓を叩き、両腕を天に向けて掲げた。

透明な、見えない壁のようなものが、各々の身体を包み、一瞬だけ光って消えた。

 赤い髪の男は、腕を大きく振る。

炎の帯が広がりつつ、動き回るクラウスたちを呑み込んだ。

 その熱と反応したのか、見えない壁が高い音を立てて、弾けた。

 間髪入れずに、またも彼女の太鼓が鳴る。

 ヴァシリーの眼が、輝いた。

彼の突きだした腕から、竜巻の如き突風が吹き出た。風はそのまま怪物どもを、捻り引きちぎる。

「兄さん、目を覚ましてください!」

 その声が、届かないと承知しつつも、彼は叫ぶ。

両親亡き今、踊り狂う男は、身内と言えるたった一人の兄なのだ。だからこそ、手遅れになる前に、正気に戻って欲しいと、彼は願った。

「兄さぁんっ!」

 声に祈りを乗せて、ヴァシリーは呼びかけた。

「くそー、こいつら、数、減らない!」

 狼の鋭い回し蹴りが、虎の頭部に叩き込まれた。

骨を砕き、脳髄を揺り動かす。その破壊力は、獣人でなければ為し得ないものであった。

 白目を剥いて、虎は倒れる。

「おっとっと」

 バランスを崩し、膝をついたツァガンを、上空から黒い巨大鳥が襲いかかった。

岩をも切り裂く鳥の羽根が、無数に降り注ぐ。

「ツァガン!」

 一筋の煌めきが、ツァガンの目の前を通り過ぎた。

あれだけあった羽根が、一つ残らず、消えている。彼は驚いて、何度も瞬きしていた。

「ほら、しっかりしろよ」

「あ、クラウス!」

「尻尾振ってる場合じゃないだろ、まったく」

 黄金色の尻尾が、激しく振られていた。

 彼の笑顔の先には、聖剣で化鳥を切り裂く、クラウスが立つ。

「クラウスさん、ツァガンさん!」

 その声と共に、周囲の怪物どもが、一斉に吹き飛んだ。

 サラとエルージュが、駆け寄ってくるのが見える。

「皆さん、無事ですかっ」

 息を切らせて、ヴァシリーが走る。

 再び寄り集った五人を、怪物たちが取り囲んだ。

「まだ出てくるんですね、いい加減、しつこいですっ」

 と、サラが、そう言えば。

「仕方がないだろ、向こうさんも、生きるか死ぬかなんだぞ」

 クラウスが、聖剣を握り直して、答えた。

「でも、このままでは、こちらが不利ですよ」

「どうしたら、いい?」

 ヴァシリーが、ツァガンが、打開策を講じようとする。

 エルージュの祈りの言葉は、休むことなく聞こえていた。

飛んでくる炎をその魔法で防ぎつつ、少しでも皆の体力を維持しようと、白鳥は文言を紡ぎ続ける。

「サラちゃん、魔法は、最大でどれぐらい放てますか?」

「えっ?」

「この間の、ポロツクでの魔法です。あれぐらいはいけますか?」

「ど、どうでしょう。あれは、エルージュさんが助けてくれたからで……」

 サラは、返答に弱っていた。

 あれは、自分だけの力ではない。そう思っていたからだ。

「違います、ね」

 焦れた猪が、突進してきた。

ヴァシリーは、難なくそれを風の魔法で引き裂いた。

「エルージュさんは、少ししか手助けしていません。あれは、サラちゃん本来の力です」

「そ、そんなはずは」

「狙いが、ききませんか?」

 サラは、黙ってうなずいた。

「狙いなど、どうでもいいのです。この周りを全部吹き飛ばしなさい、サラちゃんの魔法は広範囲に放ってこそです。それなら出来るでしょう?」

 ヴァシリーは、エルージュを見る。彼女は何も言わず、ただ微笑み返すのみ。

「サラ、これ全部、吹っ飛ばせる、のか?」

「出来るんなら、やってくれ!」

 ツァガンと、クラウスも、そうしろと叫んだ。

 サラの八端十字架の杖が、くるりと翻った。魔法の詠唱が、開始された。

 怪物どもが、よだれを垂らす。柔らかな人間の肉を、ハラワタごと喰らってやろうと、双眸が怪しく光る。

 一匹が、堪えきれず飛びかかった。

それをきっかけとして、他のものどもも我先に口を開けて襲いかかった。

 生臭い息が、クラウスらの鼻腔に侵入する。その不愉快さに、皆の眉間にしわが寄る。

「いきます!」

 少女の、凜とした声がした。

衣服の裾が、ふわりと浮いた。爆音が耳をつんざき、目も開けていられないほどの明るさが、周囲を覆った。

「ヴァシリー、浄めの祈りを!」

 ヴァシリーは太鼓を、叩いた。

 エルージュの助けを得て、黒い渦が次々と消え失せていくのが、気配で分かる。

 煙幕が、散じた。

開けた視界の向こうには、赤い髪の男が、ただ一人いた。


 クラウスの足が、動く。

 男の腕も、動いた。炎が渦を巻き、駆けるクラウスを捕獲しようと、その身体を呑み込んだ。

 しかし、勇者の両足は速度を緩めない。

炎を切り裂き、一直線に男の目前まで、躍り出る。火の嵐から抜け出た彼を待ち受けていたのは、白く輝く無数の炎の矢だ。

 クラウスの息の根を止めるべく、放たれた矢は、その何本かは叩き落とされたが、数本が彼の身体に、突き刺さっていた。

「くそおっ!」

 鋭い激痛の中、腕を振った。

 手応えは、あった。

致命傷となる傷まではいかないが、確実に聖剣は男を切り裂いた。

 男は衣服を押さえている。胸から腹にかけて、上衣が垂れ、中の白い肌が見えている。

少し経って、その皮膚に赤いものが浮かんだ。赤いものは、じわじわと広がり続け、やがて足元に、小さな赤い華を咲かせた。

 そこから、クラウスの猛攻が始まった。

 彼の聖剣が、炎を切る。本来、炎には実体がないために、切り裂くことなど不可能であるはずだった。

 しかし、本来の力を発揮する聖剣にとって、不可能は可能となっていた。

 選ばれし勇者が持つ聖剣クォデネンツは、テングリにて神々の力を受け、さらに聖剣を守護していた、白鳥の女の力も得た。

 今や、聖剣にとって、実体の有る無しは意味など持たない。

切ったという事実のみが残る。それだけであった。

 男の両腕が大きく開き、炎が身体の周囲を巡っている。

燃える炎は、塊となってクラウスを襲う。衣服が焼け焦げ、頭をかすめた火は、茶色の髪を一瞬で炭と化した。

 勇者の腕や身体には、いくつもの熱傷が残されるも、それは大事には至らなかった。

 白鳥の祈りが、彼を支えていたからだ。

 声のような、音が、した。

男の炎が、クラウス目がけて、散開、収束して襲い来る。

 炎に向けて、切っ先を掲げた。

足が、自然と前へ進み出る。灼熱の中、聖剣がその場所へと吸い込まれるように動く。

 何かに、ぶつかった。

それでも、足は止まることをしない。前へ、前へ、聖剣に柔らかい感触が伝わっている。

 炎の壁を抜けた。

 聖剣は、男の組んだ両腕を貫き、アバラの浮き出る胸に、深く、突き刺さっていた。


 夕陽が、広い海原を、赤く染めていた。

 因縁の戦いが、決着しようと、していた。

 クラウスの身体が、離れた。聖剣が引き抜かれ、夥しい量の血が吹き出る。

男とクラウスの足元には、赤黒い液体が溢れ、大地を炎よりも濃い色で覆っていた。

「う、あ、あぁ……、に、兄さん……」

 ヴァシリーが、泣いていた。

 間に合わなかったのか。その悔しさが、胸を締め付けていた。

大きな身体を地面に伏せて、彼は肩を震わせ嘆く。

「ヴァシリー、泣いている場合では、ないです」

 彼を抱き起こし、エルージュは崖に立つ男を見る。

「あぶない!」

 サラが、叫んだ。

 体力を消耗しきったクラウスが、振り向きざまに腕を伸ばす。

 だが間に合わない。男の身体は、既に宙を舞っていた。

「しまった!」

 皆が呆気に取られる中、エルージュが動いた。

赤い髪の男を追うように、崖に向かって走り、自らその身を投げた。

「わ、あ、あ!エ、エルージュっ!」

 ツァガンの叫びが、崖の上に、残された。


 男の身は、海面に向けて、真っ逆さまに落ちる。

意識など、とうに無い。抗わない身体は、流れ出る血液に彩られている。

 その身体が、白い鳥に抱えられた。

鳥は、崖の途中にある、少し開けた平場に降り立った。

「まだ、間に合う」

 鳥――エルージュは、そう言った。

 男を抱きかかえる両腕が、温かな光を発した。光は、瞬く間に男の傷を癒やす。

続いて、祈りの詩が、桃色の唇から紡がれた。

 周囲の景色が、一瞬で暗闇に覆われた。闇夜になった訳ではない、彼女は、男の魂を救うべく、己の意識を地の底深くへ潜らせたのだ。


「あーっ!エルージュ、エルージュぅぅ!」

 崖の上で、狼の咆吼が響いていた。

「ダメです、ツァガンさん!」

「ツァガン、落ち着け!」

 クラウスが、暴れる彼を、必死に押しとどめている。

やたらめったらに振られる拳が、勇者の顔や身体に何度もぶつかった。

「うわあああ!うそだ!エルージュ!返事してーっ!」

 涙と鼻水が、溢れ出る。愛しい女の名を叫び、狼は何も無い宙を掴んだ。

「は、離して!オイラ、エルージュ、追いかける!」

「やめろって、お前じゃ無理だ!」

「じ、じ、じゃあ、な、なんで、止めない!なんで、行かせたぁぁ!」

 狼狽えた彼は、クラウスをなじる叫びを放った。

「お前、エルージュを信じろ!彼女は、空を飛べる力があるだろう!」

「ああああ!エルージュ!」

 もはや、勇者の言葉も耳に入らない。

ツァガンは、何度も、何度も、クラウスを殴りつけた。

 勇者は、無抵抗である。

いつもであれば、やり返すのが常のクラウスだが、今日ばかりは、黙ってされるがままであった。

「エルージュ!あっ、うあ、エ、エル……!」

 そうして、叫ぶ息が乱れ、喘ぐように、彼は呼吸をしゃくり上げる。

真っ赤に泣き腫らした目を、拭おうともしない。鼻水は垂れ放題である。

 何か言おうとしても、言葉が出ない。喉からは、風が通り抜ける音がするのみ。

 そんな彼の背後に、ヴァシリーが近づいた。

「ツァガンくん、エルージュさんは、無事ですよ」

「どういうことだ、ヴァシリー?」

 顔にアザを作ったクラウスが、問いかけた。

「この、エルージュさんの太鼓が、反応しています。反応するということは、生きているということです」

 ヴァシリーの手にある、彼女の半身とも言うべきシャマンの太鼓は、力強い鼓動を、刻み続けていた。

「あ、あっ、あぁ……」

 涙で歪む景色だが、丸いそれだけは、なぜだかハッキリと輪郭が見える。

 ヴァシリーから、太鼓を受け取ったツァガンは、まるで子供のように、太鼓を強く胸に抱いた。

「エルージュ……、動いてる、生きてる……」

 うわごとじみた言葉が、口から漏れる。

ツァガンは、祈り続けていた。


 背中の翼が、羽ばたいた。

エルージュは、暗闇の世界を、ただひたすらに飛んでいた。

 目指すは、囚われしシャマンの魂だ。

 あの赤い髪の男は、どこかで巨悪に魅入られた。魂を身体から抜き取られ、地の底深くに引きずり込まれた。

 その魂は、叫び、もがき、苦しんでいる。奪われた身体を返せと、えている。

 これは、シャマンになるための試練に、よく似ていた。

 異形のものどもに身体を捧げ、貪り喰われながらも、それらを打ち倒す。

打ち倒すには、師匠にあたる者の手助けを必要とする。

 しかし今の男には、師匠がいない。

縁故のあるべき氏族すらも、失われてしまったと、ヴァシリーは言っていた。

 このままでは、男は孤独のうちに死すしか、方法は、ない。

 ヴァシリーは、助けたいと願った。願いを聞くのは、シャマンの務め。

――ならば、助けよう。次代を紡ぐ若きシャマンを、助けよう。

 エルージュの双眸が、深淵の闇を睨んでいた。

 その時。

――いた!

 気配を、捕らえた。男の魂が、この先にある。

 だが、異形の怪物どもの気配も、無数にある。エルージュの身体は、奴らの格好の餌だ。見つかったら、黒よりも黒く、身体を、魂を、染められてしまう。

 シャマンの術で、さらに深く気配を隠し、彼女は男の魂へと近づく。

 魂は、泣いていた。子供のように、怯え、震える魂を、彼女は手にし、そっと胸に抱いた。

 後は、夢中だった。一刻も早く、地上へと戻らないといけない。

異形のものどもは、きっと気づく。これだけの強い魂を奪われたとあっては、何が何でも取り戻すであろう。

 エルージュは、振り向くことなく、羽ばたき続ける。

 追っ手の気配が、足元にする。見ることは出来ない、見たら己も囚われてしまうからだ。

 足に、粘つく空気が絡む感触がした。

――掴まれる!

 そう思った時、彼女の身体は、光の中へと飛び込んでいた。

 目が、覚めた。

 視界がぼやけている。幾度か瞬きをした。

男の姿を見る。赤い、長い髪の男がいる。身体は痩せ細り、枯れ枝のような腕と足が、痛々しく感じられる。

 生きているのか、死んでいるのか、それさえも定かではない。

 男の傍らに、樹が、あった。

 半透明の、実体のない、樹だった。

 それを見て、エルージュは、男が助かったことを、知った。

「あなたの樹は、枯れてはいない」

 これは、シャマンの樹と呼ばれる、ものだった。

この世界に誕生した、全てのシャマンは、皆、自分だけの樹というものを持っている。

 樹は、シャマンの命と密接に連動しており、樹が枯れる時シャマンは死に、逆に樹が無事であれば、シャマンは不滅とされていた。

 そして、樹は常にシャマンの側近くで、影として存在しているものだった。

「シャマンの樹は、あなたと共にある」

 骨と皮だけになった男の手を握り、エルージュは、そう呟いた。


 夕陽が、水平線の向こうに、姿を沈めた。

昼の明るさは、少しずつ失われ、紺青の闇が、天を覆う。

 ツァガンは、動かなかった。

エルージュの残した太鼓を抱えたまま、祈りを止めなかった。

「帰って、くる、太鼓、動いてる、オイラ、待ってる、エルージュ信じてる、から」

 涙は枯れた。服の袖は、鼻水でガビガビである。

 クラウスたちも、休憩を取りつつ、待っている。白鳥の帰還を待っている。

野宿の支度をしようと、クラウスが腰を上げた時、ツァガンの尻尾が激しく振れるのを、見た。

 鳥が、羽ばたく音がした。

 ツァガンが、立ち上がった。

「ただいま」

 望んでいた声が、聞こえた。声の主は、にこやかに微笑んでいる。

「エ、エ、エルージュ!オイラ、待ってたぁぁ!」

 狼が、走った。崖に立つ白鳥の身体に、抱きつこうとした。

「待って、ツァガン」

 だが、彼女の胸には、先客がいた。赤い髪の男だった。


 焚き火が、赤々と燃えていた。

クラウス一行は、これからどうするか、車座になって話し合った。

「その、巨悪とやらを倒すべきだと、俺は思う」

 クラウスは、力強く、そう主張した。

「でも、どこへ行ったか、手がかりが無いですよ」

 サラが、頬杖をついて反論した。

「私は、兄を置いては行けません」

 衰弱しきった兄を抱き、ヴァシリーの腰は重そうだった。

「エルージュ、エルージュぅ」

 ツァガンの尻尾が揺れる。腕は彼女を抱きしめ、離そうとしなかった。

 そんな二人の様を、皆はなるべく視界に入れないようにしていたのだが。

「手がかりは、あります」

 突如、エルージュは口を開いた。

 三人の双眸が、彼女に向く。

前を見据える白鳥の顔と、緩みきった顔で、頬をすり寄せる狼の姿がある。正直、目のやり場に困るものだった。

「ここより南にある、何重もの城壁と町の、豪奢な宮殿に住まう、兵隊を従えた、しわのある老人の元です。ヴァシリーのお兄さんに憑いていたものは、本来その老人に憑いていたものです」

「老人?」

 クラウスが、問いかけた。

「はい、ノヴゴロドで見た、黄金の杖を持つヒゲの老人です」

皇帝ツァーリ……!」

 ヴァシリーの身体が、ぶるりと震えた。

「私たちは、あれを倒さないといけません」

「でも、兄をどうしましょう。どこかで看病しないと」

 エルージュは、背中の翼をたぐり寄せると、白い羽根を一本だけ引き抜き、眠る赤い髪の男の胸に、そっと置いた。

「この羽根で、お兄さんの体力が戻るまで、存在を隠してしまいましょうか」

 ヴァシリーは驚いた。腕の中にいる、兄の姿がみるみるうちに消えていくではないか。

「この羽根は、世界の隙間に通じています。聖剣を隠していた、テングリでもなく、地上や地の底でもない、地平の彼方にです」

 白い羽根だけが、残された。

赤い髪の男は、白鳥の庇護を受け、その存在を世界から隠された。

「世界、の、隙間?」

 ツァガンが、不思議そうな顔で、エルージュと羽根を見ている。

「皇帝は、モスクワに戻っている頃か?」

 クラウスは、ヴァシリーに問う。

「おそらくは」

 ヴァシリーは、黙ってうなずいた。

「また、モスクワに行くんですね」

 サラが、思い出していた。

この旅を始めて、クラウスと共にモスクワの春の呪術師ヴィスナーシャマンを訪問しに行き、そこでツァガン、ヴァシリーと出会った事を。

 それから様々な出来事があり、ルーシの地や北方異民族の地を巡り、果ては大山脈を越えて東の世界で、テングリに至り、エルージュとも出会った。

 勇者は聖剣を手に入れ、今、再びモスクワに行こうとしている。

 暴虐の嵐渦巻く、首都モスクワへ。

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