33 追撃
「おい、ヴァシリー」
「何ですか、クラウスくん」
西へと歩く道すがら、勇者の双眸は、目の前の二人に注視していた。
「あの二人」
彼の手が、ツァガンとエルージュを指している。
手は、そのまま指で輪を作る形になり、その輪にもう片手の指が差し込まれた。
「やったのか?」
「さあ……」
ヴァシリーは、分からないと、首を振った。
「お前、シャマンだろ。そんな事も分からないのかよ」
「何で、私がそこまで知る必要あるんですか。あの二人の事は、もう放っておきなさい」
「うるせえ、俺が気になるんだよ。やったのか、やってないのか、リーダーとして把握しておかなきゃいけないんだ」
「こういう時だけ、リーダーという言い訳を、使わないでください」
ヴァシリーの言葉も聞かず、クラウスは前方の二人に向けて、突撃を開始していた。
「……クラウスくん、意外と下品な考えをしていますね」
呆れて、開いた口が塞がらなかった。
「どうしたんですか、クラウスさんは」
「サラちゃんは、知らなくていいんですよー」
起伏のない、平坦な言葉が、口から漏れる。
人間の悪い面を、見た思いが、した。
歩いているツァガンの身体が、何者かに攫われたのは、突然の事であった。
「おい、ツァガン」
「あれ、クラウス?」
彼は、自分を攫ったのが、クラウスであるのを確認すると、尻尾をゆらゆらと揺らしていた。
「お前、やったのか?」
質問の意味が分からない。
黄金色の目を、何度も瞬きしながら、彼は首を傾げている。
少し離れたところでは、さっきまで仲良く話していたエルージュが、心配そうにこちらを見ていた。
「やったって、なに?」
「お前な、男と女が二人きりになったら、やることは一つしか無いだろうが」
「ううん?」
羽交い締めにされながらも、ツァガンはよく分かっていない様子だった。
きょとんとした笑顔が、彼のバカ正直すぎる性格を、よく表していた。
「この前の夜だよ。お前ら、薪拾いに行って、何をしてた。ああん?」
脅しとも取れる声で、クラウスは凄んで見せた。
「あー、あの日の、か」
「そうだよ。で、やったのか、どうなんだ」
あの夜の、甘いひとときを思い出して、ツァガンの顔が、紅く染まる。
彼女を前にして、好きだと言い、抱きしめて口づけまで交わした。
身も心も、とろけてしまいそうな至福の夜は、とても素敵であった。だからこそ彼は、こう答えたのだった。
「やった」
あまりにも正直すぎる返事に、クラウスは思わず吹き出した。
「おい、本当か!」
「うん、オイラ、やった」
実際は、エルージュに口づけをしただけなのだが、てっきりそのことを言われているのだと思った彼は、ただ『やった』としか言わなかった。
そしてそれだけ聞かされたクラウスは、案の定、勘違いをしていた。
「やったのか、お前、ツァガン。……で、どうだった?」
「なに、が」
「やってみてどうだって聞いてんだよ、気持ちいいとか、ほら、あるだろ」
「んー、えへへ、あのね、柔らかくてね、オイラ、すごい気持ちよかったあ」
緩みきった狼の笑顔に、クラウスは思わず、彼の頭を乱暴に掻いた。
「ああああ、羨ましいなあー、お前ー、このー!」
「わあ、クラウス、やめてえ」
そう言うものの、ツァガンの顔は、笑顔のままだ。
狼の、少しクセのある髪が、ぐしゃぐしゃに乱れた。
「くそー、これでお前も、一人前の男かあー」
「あははは、くすぐったい」
大の男二人が、道端で転げて笑い合う姿は、ある意味とても不気味であった。
鷲の啼く声が、西の地平の彼方から、聞こえていた。
啼き声に乗って、一際強い悪意が、ここリヴォニアの地に溢れていた。
赤毛の男は、踊っている。
踊り歩き、シャマンの太鼓を叩いては、異形の怪物を喚びだした。
怪物は、人を襲い、大地を穢し、生命の力そのものを食い尽くそうとする。
夕陽に照らされて、男の髪が、炎と化す。
早朝。
地平の向こうから、朝日が昇る。
白んでいた空の色が、段々と濃くなり、地面には、薄い靄が残る頃。人々は眠りから目覚めていた。
草原にあるモスクワ軍の野営地では、炊事の煙が立ち始め、皆眠い目を擦りつつも、ゆっくりと動き出していた。
だがそんな中で、突如、一つのかまどから、炎が大きく噴き出した。
膨らんだ火は、まるで蛇のようにのたうち回り、周囲の者たちを次々に呑み込んでいった。
「か、火事だー!」
「水だ、水持ってこい!」
ようやく事態を理解した者が、水をかけた。
それによって、火は収まるものと思われた。
しかし、そうはならなかった。
水によって、細切れとなった炎は、周囲に飛散し、テントや武器、人の頭へと燃え移ったのである。
人々はパニックを起こした。
そうなったら、終いだった。命令も何も人は聞かず、その場を逃げようと、各自が思い思いの行動を取る。
軍は崩壊寸前に陥った。
それを、リヴォニア軍が把握したのは、日がだいぶ昇った頃だった。
斥候として出た兵が、大慌てで帰還し、事の次第を報告したのだ。
これを好機と捉えた彼らは、すぐさま出陣し、鎮火しつつあったモスクワ軍の野営地へとなだれ込んだ。
だが、浮き足だった彼らを待ち受けていたのは、傷ついたモスクワ軍ではなく、黒い渦と、そこから次々に湧き出でる、異形の怪物だった。
それらは、人の腕ほどもある牙を持つ虎や、尾羽が紅く燃える鳥と、家よりも巨大な熊といった、野生では見たことも無い怪物どもだった。
それでも、リヴォニア軍は、戦いを挑んだ。
異形の怪物とはいえ、そう数は多くなかったからだ。
幾人かで一斉に打ちかかれば、なんとか退けることは可能だとの判断だった。
実際に、視界の端々では、モスクワ軍が集団で怪物と戦っているのが、見えてもいる。
隊長格が命じた。
目の前の、怪物どもを、倒せ。と。
命令通り、リヴォニア軍は、よく戦った。
あれらは人間の敵なのだと言わんばかりに、皆奮戦した。
熊の鋭い一撃にも怯むことなく、彼らは矢を射かけ、集団で熊を屠る。
苦戦しているモスクワ軍に対しても、救いの手を差し伸べ、共に協力してそれらを片付ける。
そうして、怪物の姿が無くなり、残されたのは、黒い渦のみ。
モスクワ軍の兵士が、感謝のしるしとばかりに、笑顔で手を差し出した。
リヴォニアの兵は、共に戦った礼だとして、それに答えた。が。
リヴォニア兵の胸から背中へと、剣が突き抜けていた。
その途端、モスクワ軍の笑顔が、とてつもなく不気味なものに、変貌した。
今度は、人間同士での戦いが、始まった。
クラウスは、見ていた。
遠巻きにだが、先ほどまで怪物を倒すために共闘していた者たちが、再び殺し合っている様を。
なんの感情も湧かない。
仕方が無いのだと、思った。
共通の敵というのは、人々を結束させる。共に戦い協力もする。
だが、それらが無くなれば、そんなものはたちまち反故となる。
昨日は友であった者たちが、今日は敵になる。他人の腹の底なぞ、普通の人には分かりもしない。ただシャマンを除いては。
「……行こうか」
抑揚のない声で、呟いた。
野営地を遥かに望む草原を、彼らは歩いた。
目の前を歩くツァガンは、傍らのエルージュとしっかり手を繋ぎ、激しく尻尾を振っている。
――いいな、あいつは。
そう思うと、急に二人が眩しく見えた。
「クラウスくん!」
不意に、背中の上部が強く叩かれた。
「わっ、とと」
あまりの衝撃に、クラウスの足がよろけて挫けそうになる。
「な、なんだよ、ヴァシリー」
「背中に虫がついていましたよ」
「虫ぃ?」
差し出されたヴァシリーの手を見るも、虫の残骸はどこにも無かった。
「いないじゃないか」
「もうはたき落としましたから」
仮面の下の彼の目が、にこりと笑い、手をひらひらと動かしていた。
「大きい虫でしたよー、クラウスさん」
サラが、やや興奮した口ぶりで、その大きさを伝える。
「こーんな大きさで、首のところに噛み付きそうでしたから」
そう言って、両手で大きさを作って見せたのだが、普通に考えて存在し得ない大きさのそれに、クラウスは思わず吹き出してしまった。
「そうか、そんなに大きいやつだったのか」
「はい。もう、こーんな」
「ありがとう、ヴァシリー、サラ」
クラウスは、にこりと笑った。
「クラウスー!怪物、また出たー!」
先に行っていたツァガンが、大声で彼を呼ぶ。
「またかよ、仕方が無いなあ」
聖剣の柄に手をかけ、彼は走り出した。
赤い髪の男が、踊っている。
枯れ枝のように細い腕が、太鼓を叩く。
両足は、裸足だ。歩き続けて擦り切れた皮膚が、ひび割れている。
痛いという感覚も無いのだろうか、割れた足裏のあちこちから、血が滲む。
地面に残された足跡から、黒い何かが湧いて出た。
黒いものは、渦を巻く。渦を巻いて、そこから異形のものがやって来る。
渦は、いくつも発生し、渦同士が集まって、さらに大きな渦になる。
やがて渦は巨大化し、地面全体が黒く染まった。
渦は際限なく大きくなる。ここリヴォニアどころか、世界を全て覆いつくさんとばかりに肥大化する。
男の足は、休むことが無い。
止まることを知らない足が、地面を引きずり、男をそこへと連れて行く。
傾く太陽が、その行き先を見守っていた。
クラウス一行は、怪物どもと戦っていた。
目玉から血を流す巨大牛と、木の葉を矢のように飛ばす狐が、行く手を塞いでいた。
「気をつけろよ、あの葉っぱに当たると、スパッと切れるからな」
そう言うクラウスの手の甲には、一筋の切り傷が刻まれている。
巨大牛が、大きな雄叫びを上げた。
流れ出る血涙が、植物の蔦のように、空中を彷徨っている。
頭部の湾曲した角は、槍の穂先と同じく鋭く尖り、彼ら人間の柔肌を突き貫かんと、狙いを定めていた。
狐が、軽快に飛び跳ねた。
ぴょんぴょんとリズムよく、一定の間隔で、黄土色の身体が揺れている。
揺れる狐の姿が、二重にぶれだした。
二重のそれは、いつしか二体の狐になった。
二体は三体、三体は四体と、数が少しずつ増えていく。
「クラウス、オイラ、牛、やっつける」
「ああ、任せたぞ、ツァガン」
ツァガンの尻尾が、大きく揺れた。頭の耳は、どんな小さな物音も逃さないよう、忙しなく動いている。
その背後には、翼を大きく広げたエルージュが、彼らを援護するべく舞っている。
狐どもが鳴き声を出した。木の葉が、渦を巻くように集まり、一斉にこちらへと向かって襲いかかった。
「いくぞ!」
「はい、クラウスさん!」
「分かりました!」
ヴァシリーの太鼓が音を立て、冷たい風がその身体の周囲から湧き出た。
そのまま風は前進し、狐の葉と真正面からぶつかった。
葉は一瞬で動きを止め、音も無く地面へと舞い落ちた。
サラの魔法が、狐を数匹吹き飛ばした。
狐の身体は煙に巻かれ、弾けるように消えていく。
その煙幕の向こうから、さらに増えた狐が襲い来る。
クラウスの足が流れるように動き、それらを次々に屠っていった。
聖剣が輝く、八端十字架が翻る、太鼓が唸りを上げる。
増え続ける怪物を、一つ一つ確実に潰し、彼らはようやく最後の一匹を潰した。
「よし、後はツァガンを……」
振り向いて驚いた。
巨大牛の頭が、有り得ない方向にまで捻られていた。
湾曲した角を両手で掴み、ツァガンが怪力を振るう。牛の口から泡が吹き出していた。
牛の巨躯が、地響きと共に倒れた。腹の肉が痙攣を起こしている。
ツァガンは牛から飛び降り、嬉しいのか盛んに尻尾を振って、彼女の元へと駆け寄っていく。
「エルージュ、大丈夫?」
「ええ、私はなんともないわ。ツァガンは、どこか痛いところは無いの?」
「ん、平気。オイラ、強いもん」
「うふふ、強がりはダメよ」
微笑んだ彼女の両腕から、温かな光が湧き出でた。
光はツァガンの全身を覆い、細かい傷や打ち身を見る見るうちに癒やした。
「ケガをしたら、すぐに言ってね。傷を癒やすのも、私の役目だから」
「わ、分かった」
ツァガンの頬が、紅く染まる。
彼は無意識に興奮しているのだろうか、目が泳いでいた。
「仲がいいな、あいつら」
クラウスの鼻から、大きく息が出た。
「当たり前じゃないですか。ツァガンくんは、ベッタベタに惚れているんですよ?」
ヴァシリーの肩が、細かく震えている。
言葉の端々から、吹き出すような空気が漏れた。
「二人とも、幸せそうですね、こっちまで幸せな気分になりそうですぅ」
「そうですね、ある意味幸せになりそうですね」
サラの言葉に、ヴァシリーが賛同する。
その途端、クラウスが豪快に吹き出した。
「だめですよクラウスくん、笑っちゃ……」
そう言うヴァシリーも、笑っていた。
「なんで二人とも笑うんですかー」
「お、お前だって、笑ってるじゃ、ねーか」
二人につられて、サラも笑顔になっていた。
夕陽の沈む、地平の涯てで、男が一人踊っている。
男の影が大地に長く伸びる。影は人の形をしていない、空に掲げた両腕が、鳥の翼のようにも見える。
それは、大きな黒い鷲。
大地に囚われた黒い鷲が、声にならない声で、啼いている。
己の運命を、泣いて、いる。




