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32 狼と白鳥

 遥か遠くに、ノヴゴロドの町と、そこから立ち上る、灰色の煙が見える。

 クラウスたちは町を脱出し、再び西へと歩いていた。

 あれから、皆がいた広場へと戻ったのはいいものの、ウラジスラフとサトコの姿は、どこにも見当たらなかった。

それどころか、避難していた住民たちの姿すらも、ない。

 広場から続く桟橋を見ると、繋留されていた船の数が、減っているのに気が付いた。

 それに、川の水も先ほどより、多く流れている。

あれほどあった死体も、そのほとんどが姿を消していた。

 どうやら、何らかの理由で、川の水量が増えたらしく、浮いていた死体が流されたこともあって、彼らは船で脱出したのだろう。という結論に至った。

「少し、休まないか」

 黙々と歩いていたクラウスが、突如そう提案した。

先頭を行き、そして立ち止まった彼の様子に、皆は黙って同意することしか、出来なかった。

 あのノヴゴロドでの一件以来、彼のことは、腫れ物に触るかのような扱いに、なりつつあった。

 以前の、ヴァシリーと仲違いした時とは違う、目に見えない憤りが、彼を支配する。

誰かに当たり発散できるでも無く、かといって仲間に言えるわけも無い、鬱屈とした怒りだけが、クラウスの身を、じりじりと焦し苦しめた。

 そんな彼を、サラはどう声をかけていいか分からず、ただただ、うろたえるばかり。

 一方、ヴァシリーも、心を癒やすのはシャマンの務めと、理解してはいるものの、また以前のように暴れるのではないかと、及び腰の状態だ。

 いまいち空気の読めないツァガンが、脳天気に声をかけては、鋭い目つきで睨まれる有様であった。

「あんたは、何も言わないんだな。エルージュ」

 皆と離れ、クラウスは一人、木陰に身を寄せる。生気の感じられない目が、宙空を彷徨い続ける。

 その側に、寄り添うようにして、彼女はシャマンの太鼓を抱えていた。

 周囲には、少しの起伏を有するなだらかな丘陵と、それを覆う緑の草花が、見渡す限りに広がっていた。

「何も言わずとも、誰かにいて欲しい。そんな日だって、ありますから」

 太鼓の表面を、そっと撫でる。

 革張りのそれは、かすかに鼓動をしているように、動いた。

「俺、今回のことで、不安になった。俺も、あいつと変わらないんじゃないかって。それなのに、巨悪を倒す資格が、あるのかって思うんだ」

 エルージュは、彼の言葉を、表情を変えず静かに聞いていた。

「俺の両手は、同じ騎士団員の血にまみれた。この手は仲間を殺して汚れてしまった。聖剣を握る手だというのに……」

 クラウスは、己の手の平を、まじまじと見る。

幾つもの傷と、硬く角質化した手が、うっすらと赤い色に染まって見える。

 それは、罪悪感から来る幻覚なのだが、今の彼には、現実のものとして映っていた。

「そもそも、巨悪って、何なんだ。ソランダーさんは、人が原因だとも言っていたが」

 エルージュが、太鼓を一つ、叩く。

低い、ゆったりとした音が、クラウスの身体を通り抜けた。

「あれは、人そのものです」

 そう言った時、不意に冷たい風が、吹いた。

「テングリが天、すなわち神々を指すならば、あれは大地エルリク、すなわち人々を指します。大地エルリクには人の欲や悪意が眠っています。太古の昔、神々が地にそれを封じたものです。そして掘り起こされた時から、全ては始まったのです」

「掘り起こした?」

「はい。人が大地を耕すことを覚え、木々を伐採し、山から金銀を取るようになった頃です。それによって人は欲と悪意を知り、最初の巨悪が目覚め、勇者がそれを退治したのです」

 彼女は語った。

 最初は、ほんの小さな巨悪だったのだという。

それが、時代を経るにつれて、巨悪は次第に強さを増し、その影響力も計り知れないものになっていった。

 森がひらかれ、野原が耕作地になり、その面積が増えるのに伴って。

 今や、大地を掘り起こしていない地域は、東の世界と、北方諸民族の居住地だけとなり、巨悪の影響は、西の世界全域に及んでいると。

「ルーシ人だけが、残虐なのではありません。西の世界の人は、全てがそうなる可能性を持っています。大地を掘らなければ、人は生きられなくなったからです」

「全て……」

「巨悪を倒せるのは、同じ人。清濁併せ持った人だけが出来ることなのです。正義が強くても、悪意が強くてもダメなのです」

「それが、俺だったのか」

「はい。人を助け、命を滅する。両方があってこそ、勇者の器です」

 漆黒の彼女の双眸が、クラウスを見つめていた。

「これから行く道は、怪物も通れない険しい道です。あなたはその中心を通ってください。中心の道は、テングリに通じるものです。勇者しか通ってはいけないのです」

 その言葉が、クラウスの目を覚まさせた。双眸に、輝きが戻っていた。

 腰につけた聖剣が、その言葉の通りだとばかりに、身震いする。


 空の色が、少しかげりを見せてきた頃。

一行は、再びリヴォニアの地を踏んでいた。

 西側の、整備された町の通りを、クラウスらは歩いていたのだが。

「ばけもの!」

 突如、どこかからか、子供の高い声がした。

そして、小さな石の飛礫つぶてと、いくつもの泥団子が、飛んできた。

 石は、ツァガンが一つ残らず叩き落としたものの、エルージュの白い翼には、黒い泥団子がぶつかり、汚れていた。

「この、クソガキ!」

 クラウスは、走り子供の腕を掴んだ。

 子供は、捕獲されたことに驚き、悲鳴を上げて泣き出していた。

「エルージュ、ごめん。どこか、痛く、ない?」

 泥団子が、重い音と共に、落ちた。

 ツァガンが、心配そうに、彼女の顔を覗き込む。

「ケガは無いですか?」

 サラは、翼についた泥を小さな手で懸命に拭い、ヴァシリーも、遠慮がちにそれを払った。

「エルージュ?」

 しかし、彼女の顔は、強張ったまま、少しも動じなかった。

ツァガンの問いかけに返事もせず、泣き喚く子供と、周囲の大人の視線に、身動きするのを忘れていたのだ。

――化け物だ。

――気持ち悪い、鳥の羽根が生えている。

――狼の耳に尻尾だ、悪魔の手先だ。

 無言の悪意が、己とツァガンに向けられている。

 シャマンの職能ゆえに、充分過ぎるほど分かるそれは、彼女の心深くに突き刺さった。

「こいつっ、自分が何をしたのか、分かっているのか!」

 子供の腕を捻り上げ、クラウスは怒鳴った。

「うわああーん!」

「泣き止め!お前は悪い事をしたんだぞ!」

「あーっ!わ、悪くない!僕は、悪くない!あいつが!ばけものがいけないんだ!」

 幼い子供の口から出た、『ばけもの』という言葉に、彼は思わず子供の頬を張ってしまっていた。

「ぎゃああああん!」

「し、しまった……」

 町人の視線が、クラウスの身体を貫く。

 火がついたように泣き喚く子供を、その場に残し、彼はエルージュの手を取った。

「悪い、この町での休憩は無しだ。次の町に行こう」

「……分かりました」

 勇者に引かれ、白鳥は再び歩み出した。

 ヴァシリーとサラ、そしてツァガンも、彼らを守るように、その場を後にする。

 歩き去った一行の背後を、小石の飛礫が飛んでいた。


 ようやく到着した町の宿で、ツァガンは窓を大きく開け放っていた。

「あ、いたいた!」

 窓から半身以上を乗り出して、大きく手を振る。

視線の先には、上空を優雅に飛ぶ、一羽の鳥の姿が見える。

 鳥は、合図に気が付くと、瞬く間に窓辺まで近寄ってきていた。

「おかえり、エルージュ」

「ツァガン、ありがとうございます」

 鳥の正体は、エルージュであった。

 どうしてこうなったと言えば、この町へと入る直前に、彼らは足止めをされていたからだ。

 クラウスが執拗に粘ったのだが、門番の意志は固く、首は縦に振られなかった。

 その原因が、自分にあると思い立ったエルージュは、策を講じた。

 自分が町の外で待機して、クラウスたちを先に中に入れるよう、仕向けたのである。

 万が一に備え、ツァガンには頬被りと、尻尾を腰巻き毛皮だと偽らせて。

 これが結果的に正解だったらしく、彼らは別の門から、易々と中に入ることが出来た。

 それを確認した彼女は、町の上空高く飛び上がり、旋回していた。

 宿の窓に合図があるのは、今か今かと、待ちわびながら。

「エルージュ、早く、中、入って」

 ツァガンの尻尾が、忙しなく動いていた。

「さて、皆が揃ったし、次は買い出しに行くかな」

「はーい、今回は私がお供に行きまーす」

 サラが、手を上げて立候補する。

「よし、じゃあ行くか。他に何か必要なものはあるか?」

 ヴァシリーが、クラウスに提案している横で、エルージュが、サラにひそひそと耳打ちをしていた。

 買い出しに出かけた二人を見送って、ヴァシリーとツァガン、そしてエルージュの三人は、ようやく腰を落ち着けることが出来た。


 翌日。

 宿の廊下にて、クラウスらは唖然とした顔をしていた。

「ど、どうしたの、それ?」

 相も変わらず、空気の読めないツァガンが、開口一番に言葉を発した。

「見ての通りです。皆さんに迷惑がかかるので、隠しました」

 そう言うエルージュの姿は、背中の翼を覆い隠す大判の布地を、頭からすっぽりと被った状態だ。

「昨日の用事は、これだったんですね」

 前の日に行った、買い出しの際の言づてを思い出して、サラは合点がいった顔をしていた。 

「迷惑って、俺たちはそんなの気にしないぞ」

「いいえ、私の姿は西の世界にとって、おかしいのです。ツァガンはまだいいですが、私の翼は目立ちすぎるのです」

「そ、そ、それ、違う!」

「そうだ、ツァガンの言うとおりだ。外見で何か言う奴なんか、気にしなくていい」

 ツァガンが、クラウスが、即座にそれを否定した。

「この世界は広いんだ、変な格好の奴は、いくらでもいる。翼があるぐらいは変じゃあない」

 そう言って、クラウスが、横に立つツァガンを指さした。

「え、オ、オイラ?」

 ツァガンは動揺しつつも、狼の耳と尻尾を、元気一杯に動かしていた。

 彼は、恥ずかしそうに、口を開いた。

「オイラ、エルージュの姿、とっても、好き。翼、真っ白、きれい」

 言い切って、顔が真っ赤になった。彼女の目も見られなくなり、照れくさいのか、視線があらぬところを泳いでいた。

「おい、ツァガン」

 そんな状態の彼を、クラウスの肘が突いた。

 顔を上げて、驚いた。

エルージュの目に、今にもこぼれそうな涙が、溜まっている。

「あ、あぅ、どうしたの。どこか、痛い?」

 彼女は、違うとばかりに、頭を振った。

そのせいで、涙はこぼれ落ち、女の、赤みのある頬を濡らした。

「おいおいおい、泣かすなよー、ツァガン」

 クラウスが、ニヤニヤと笑っていた。

「女の人に、こんな顔させるなんて、ツァガンくんもやりますねぇ」

 ヴァシリーも、仮面の下で、笑い顔をしている。

「エルージュさん、泣いてますよ、酷い人ですぅ」

 サラも、頬を膨らませて、抗議していた。

――ど、どうしよう。

 想定外の事に困り果てるツァガンであったが、サラの顔を見て、何かを思い出したようだった。

 突如、エルージュの身体を、彼は抱きしめていた。

「おおっ、大胆だな、お前」

 ツァガンの、筋肉で覆われた逞しい身体が、柔らかい女の身体を優しく包む。

 男の手が、自然と女の腰に回され、二人の肉体はあの時の――テングリから下山した時のように密着していた。

――女の人、泣いたら、抱きしめる。ヤッパおじさん、そう言ってた。

 サーミの村で聞いた、それの対処法を、ツァガンは疑いもせずに実行する。

尻尾が、無意識に揺れ続ける。

 それを、男二人は冷やかしの顔で見守った。

「……ツァガン」

「あっ、エルージュ、臭くない?オイラ、狼のにおい、する……」

「いいえ」

 狼の的外れな気づかいに、白鳥はただ、頭を振るだけであった。


 リヴォニアの、なだらかな草原地帯を、五人は歩く。

空には、筋雲が流れ、時折吹く風にも、秋の気配が感じられる。遠くには、湖沼や川があるのだろうか、地平がキラキラと輝いて見えた。

 とはいえ、夏らしい夏が無かったこの年は、次に訪れる季節にも、影響が出始めていた。

 町の周囲に広がる畑は、実りの色どころか、若芽の色のまま、時を止めてしまったものが大多数で、数少ない収穫できた実ですら、中身のつまっていない、しいなと呼ばれるものばかりであった。

 この状態では秋の種まきになど、到底使えず、ましてや食料として利用するにも、厳しいことが予想された。

 そんな若芽のままの畑にも、黒い渦は容赦なく発生し、異形の怪物どもは、作物を荒らし、炎で次々に燃やしてしまう。

 クラウスらは、それらを退治しつつ、旅を続けるのだが、そのうちに、何かおかしい事に気付き始めた。

 土が、黒いのだ。

 もともと土は黒いものなのだが、その色とは明らかに様子が違った。

 生命が息づいている気配のしない、黒さをしている。

 土には、小さな虫が住み着いていることで、耕作に適した土壌になる。

この土は、それがない。

 ないどころか、逆に生命を吸い取るような、邪悪さを醸し出している。

 天の異常の次は、大地の異常。疫病は町や村を襲い、打ち捨てられた農村は数知れない。

 世界は確実に、死へと進んでいた。


 湖にほど近い、森の中。

クラウスたちは、町には行かず、ここで野宿と相成っていた。

 夕食は、ツァガンが狩ってきた野ウサギと、森になっていた僅かばかりの木の実だった。

それらは、エルージュが祈りの文言を捧げて、食材となる。

 薪を集めて火を起こし、得物の肉や木の実は、一欠片だけ火にくべられる。

 それは、自然を崇拝するシャマンの、無事に狩りが出来たことへの感謝であり、また次も狩りが上手くいくようにとの、儀式でもあった。

 腹も膨れた一行は、焚き火を囲んで、何のことはない会話を楽しんでいた。

 炎が、揺れている。ゆらゆらと、命の如く揺らめくそれは、エルージュに遠い記憶を思い起こさせていた。

――火は、神聖なものだ。粗末に扱っては、決していけない。

 あれは、誰の声だったのだろう。彼女の双眸は、炎を見つめたまま。

 そんな物憂い、伏し目がちな女の横顔を、ツァガンは、隠すこと無く眺めていた。

白い肌が、揺れる炎に照らされて、ほんのり赤い色を帯びている。

 艶のある色合いに、ツァガンの胸が高鳴り、尻尾が自然と揺れ出した。

 と、突然、エルージュが立ち上がった。

「ど、どうしたの?」

「薪が足りないようなので、取りに行ってきます」

 そう言って、彼女は歩き出した。

「オ、オイラも、ついて行くよ」

 エルージュの返事を聞くのも待たず、ツァガンは強引に後を追いかけた。


 森の奥に、大きな池があった。

 エルージュは、小さな光の球を、魔法で宙空に浮かばせながら、水辺の回りで薪を拾い集めていた。

 視界の隅では、ツァガンが、同じく薪を拾う姿が見える。

池に、満月の光が反射して、彼の髪と尻尾が、黄金色に輝いていた。

 月夜に、薪の擦れる音だけが響く。足音は、聞こえない。

「あっ」

 薪を拾おうとした彼女の手に、もう一つの手が重なった。

いつの間にか二人は、すぐ側まで接近していたようで、お互いの気配に全く気づいていなかった。

 思わず、手を引く。顔が熱を帯びているのが、よく分かる。

 顔が紅くなっているのに、気づかれていないだろうか。

 不安と恥ずかしさが、エルージュの心に浮かぶ。

 ツァガンは、何も話そうとしない。

 己も、何を言っていいのか、全く分からない。頭の中が、ツァガンの事で、埋め尽くされていた。

 狼の、男。彼は東の世界に住む、若く逞しい獣人だ。輝く生命力に満ちあふれている彼は、とても素敵だと、思っていた。

 それは、ツァガンも同じだった。

 完全に、混乱していた。頭の中が、エルージュでいっぱいになったのは、初めて会ったあの時から、ずっとだった。

 寝ても覚めても、思い浮かぶのは、彼女の笑顔と祈り舞う美しい姿だった。

皆の前で抱きしめてからは、腕に残る柔らかな心地よさが、彼の心を捕らえて放さない。

 白鳥の、女。彼女は自分と同じ、獣人の女だ。漆黒の髪に漆黒の瞳が輝いている。淡雪のような肌は穢れ無き白さを有し、そして豊かな胸と、丸い大きな尻が、己の双眸に焼き付いている。

 胸の鼓動が、いつもより激しくなっていた。

「ツァガン」

 長い沈黙を押し破って、エルージュが口を開いた。

「あなたは、私のことを、どう思っていますか」

 その言葉に、ツァガンは動揺して、返事が出来なかった。

「好き、か。嫌い、か。正直に答えてください」

 いきなり、彼は決断を迫られた。

どう思うかの答えすら、満足にできなかったのに、さらにそれを好きか嫌いかの、どちらかで選べというのである。

 目が、回りそうだった。

 口が、うまく動かない。舌はもつれて、声すらも出せそうにない。

 何度か、喘ぐような音が出て、考えに考え抜いたそれを、ついに彼は口にした。

「す……すき。大好き」

 絞り出すような声で、彼は答えた。

「……ありがとう」

 そう言って、彼女の目から、涙がこぼれた。

「ど、どうしたの?」

「嬉しいのです。あなたも、同じ気持ちだったのが、とても嬉しくて……」

 持っていた薪が落ちるのも構わずに、ツァガンはエルージュを抱きしめた。

 狼の男の腕に抱かれて、彼女は微笑んでいた。

「私も、ツァガンが好き。この姿を、好きと言ってくれたあなたが」

 溢れる涙が、止まらなかった。

 手を繋ぎ、指と指が絡み合う。白鳥は、狼に捕らえられていた。

「私は、強くて優しいツァガンが好き。いつも庇ってくれる、あなたが好きです」

「と、と、当然、だから」

 黄金色の、狼の双眸が、彼女を見つめていた。

「エ、エルージュ、ケガさせたく、ない、から」

「ありがとう」

 涙に濡れる、彼女の満面の笑みは、何よりも尊く、また美しい。

 頬を、一粒のしずくが伝った。

 その水滴を、ツァガンの口が、優しく舐め取る。

男の唇は、頬から目元、そして彼女の唇へと、ごく自然に流れていった。

 柔らかい。と、ツァガンは思った。

今まで口にしてきた、どの獣の肉よりも、エルージュの唇は、柔らかく甘い。

 初めて味わった、その感触に、身体の奥深くから、沸き上がるものがあった。

「ずっと、一緒に、いよう」

 唇を離して、ツァガンは言った。

「エルージュ、守りたいから、オイラの、故郷で、一緒に、暮らそう」

 そう言って、彼はまた、エルージュを抱きしめた。

 ツァガンの胸から、今にも破裂しそうな心臓の音が、彼女の耳に届く。

「……ええ」

 それしか、言えなかった。

 テングリの白鳥は、今、この時を持って、エルリクの狼に我が身を捧げるのだと、さとった。

 満月の光が、二人を祝うように、降り注いでいる。


 翌日。

「ねえ、エルージュ。オイラの頭、見て」

 ツァガンが、彼女の前でしゃがんでいた。

「はい、見ましたよ。キノコは生えていないみたいね」

 エルージュは、微笑みながら、黄金色の頭を撫でた。

 それが嬉しいのか、彼の尻尾が、ぱたぱたと揺れている。

「あれ?」

 そんな二人の様子に、クラウスは首を傾げて不思議そうにしていた。

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