31 旧き友、そして再会
ノヴゴロドの町は、炎に包まれていた。
ここは、西の国とは家の造りが違い、木材で出来た建物が非常に多く、しかもそれが密集しているために、火の回りはあまりにも恐ろしく、かつ早いものであった。
熱風吹き抜ける町の路地では、喉を灼く高熱のために、窒息死する者が後を絶たず、積み重なるそれが新たな燃料となって、通りという通りを、炎の蛇がのたうつ有様となっていた。
その熱気から逃れようと、住民は町の中心部を流れる、ヴォルホフ川沿いの広場へと移動しつつあったのだが、そこは既に血で染まった、赤の広場と化していた。
「くそーっ、きりがねえな!」
ウラジスラフが、愛用の斧を片手で振るいながら、そう叫んだ。
彼は、向こう見ずに突っ込んでくる、モスクワ兵を片端から薙ぎ倒し、積み上がった死体を矢避けに利用する。
戦いなどしたことも無い芸人たちも、喧嘩なら出来るとばかりに、石を投げ、折れた剣を振り回し、サトコとウラジスラフの家族を守ろうと、必死の形相で暴れ回った。
しかし、所詮は多勢に無勢である。
度重なる衝撃で、ウラジスラフの斧は、いつの間にか柄がへし折れてしまい、彼はサトコの短剣を手にして、さらに戦いを続けている。
芸人らは少しずつ、その数を減らし、川には、さらに多くの死体が浮かぶこととなっていた。
黒衣の親衛隊は、その様子を、遠巻きに眺めるのみ。
町の路地を、クラウスたちは、走っていた。
ヴァシリーの繰り出す風の魔法で、熱気と炎を押しのけて、彼ら五人は目的の場所へと、突き進む。
「クラウスくん、川です!川に気配があります!」
彼の目が黄金色に輝き、勇者を導かんと、その方向を指し示した。
「川……、まさかもう……」
人は、火事の熱に煽られると、水を求めて移動し、そして水に溺れたり、その場で力尽きることが、よくあった。
だからこそ、川にいると言われて、クラウスの脳裡に嫌な予感が浮かんだ。
「死んではいません、生きています!でも、急いでください!」
「分かった!」
クラウスの合図に、エルージュはうなずき、軽く詠唱をする。
一行の足が、ほんの少し光ったかと思うと、その速度は何倍にも増して、通りを駆け抜けた。
町の辻という辻、未だ火の手の回っていない路地には、親衛隊の姿が至るところで見受けられ、住民から奪った金や財宝を、慌ただしく衣服の中へとしまい込んでいる。
「クラウス!いたぞ!」
頭の狼耳をその方向へと向け、ツァガンの足は、皆よりもさらに速く広場を突っ切った。
密集するモスクワ兵をかき分けて、黄金の狼は川までの道を、クラウスのために切り開いている。
「ウラジスラフさん!」
クラウスは叫び、ヴォルホフ川沿いの広場へと、躍り込む。
「お、お前、クラウス?クラウスなのか!」
「はい、お久しぶりです!」
聖剣をその手に携えた彼は、ウラジスラフの姿を確認すると、にこりと笑った。
次いでヴァシリーが、サラが、ツァガンが、ウラジスラフに合流し、モスクワ兵に向けてそれぞれ得物を構えた。
「そ、その声は、クラウス、くん?」
「サトコさん?無事だっ……」
ウラジスラフの背後で、弱々しい声を発した人物を見て、クラウスは息を呑んだ。
「どうしたんですか、その傷は!」
「は、はは、親衛隊に、やられちゃいましたよ」
サトコの、物腰柔らかな笑顔だが、そこには顔を横断するように、切り裂かれた真っ赤な傷口と、流れる血が残されている。
彼は苦笑いでごまかそうとするものの、激痛でそれは歪みきっていた。
「エルージュ、頼む!」
「はい、お任せください」
勇者の求めに応じて、黒髪の、背中に白鳥の翼を持つ女が、サトコに歩み寄った。
「あなたは?」
「私は、エルージュと申します。ヴァシリーと同じく、シャマンを生業とする者です」
そう言って、エルージュは膝を突き、サトコの身体を、両の手から出る暖かな光で覆った。
傷は、みるみるうちに塞がり、消耗しきっていた彼の体力も、内から溢れる充足感で満ちていた。
「さあ、これで治りましたよ」
「ありがとうございます。このお礼はどうしたらいいのやら……」
だが、サトコの言葉に、エルージュは微笑んで首を振る。
「お礼など、いいのです。私は人々を癒し導くのが務め。あなたは、あなたにしか出来ないことをしてください」
「私にしか、出来ないこと?」
「はい。それは、もう答えが出ています。いつもあなたの側にあるもの。今も、お持ちですね?」
そう言われて、彼の顔が、何かを思い出したように、ハッとしていた。
出かける時は、常に背中に負っているそれを触る。
それは、彼自身とも言えるものだった。
「それは、あなたを象徴するものです。大切にしてください」
エルージュは立ち上がり、大きく、ゆっくりとシャマンの太鼓を叩いた。
音は、波紋の如く周囲へと広がり、クラウスらを始め、ウラジスラフに芸人たち、生き残ったノヴゴロドの住民を、暖かい光で次々に癒やしていく。
「よし、反撃するぞ!」
聖剣が、輝いた。
サラの持つ、八端十字架の杖が、くるりと、回った。
ヴァシリーの太鼓が、大きな音を立て、ツァガンが、遠くまで響く低い咆吼を放った。
剣を構えたモスクワ兵が、一斉に突撃を開始した。
その突撃を援護するように、矢が雨のように、クラウスたち目がけて、降り注ぐ。
「こっちは、私が防ぎます!」
ヴァシリーの腕が、天に向かって伸び、強烈なつむじ風で、矢を次々に吹き飛ばした。
「モスクワめ、恥を知りなさいっ」
サラが叫び、前面に出した杖から、魔法が放たれた。
威力のある爆発が、密集したモスクワ兵を吹き飛ばし、その身体を宙に舞わせる。
ツァガンが、押し寄せる兵を片端から叩き潰し、クラウスが、聖剣の一閃で兵の数人をまとめて切り伏せた。
その間、エルージュは絶え間なく祈りを続け、彼ら勇者の体力が尽きないよう、場を支え続ける。
「すげえ。クラウスのやつ、こんなに強くなっていたのか」
ウラジスラフは、感嘆の声を出した。
出会った時とまるで違う、勇者として目覚めた男の働きぶりに、彼はただただ呆然として見守ることしか、出来なかった。
「クラウスは、やっぱり勇者だ。勇者だったんだよ、サトコ!」
「そうです、彼は、クラウスくんは、正真正銘の勇者なんです」
喜び合う、サトコと芸人の会話に、ウラジスラフの娘であるナターシャが、きょとんとした顔をしていた。
「あの人、勇者なの?」
先ほどまで、恐怖に引き攣れていた彼女を、サトコは優しい顔で見つめていた。
「ええ、勇者ですよ。私たちを助けに来た、とても勇敢な男の人です」
ナターシャの澄んだ双眸は、彼の後ろ姿に、魅入られていた。
戦線は、じりじりと進んでいた。
勇者の力を思う存分発揮するクラウスと、それを援護する仲間たちに、そして微々たる影響ではあるが、ウラジスラフやノヴゴロド住民の奮闘により、モスクワ兵は恐れを成し、撤退の考えを示唆し始めていた。
だが。
「クソども!誰が逃げていいと言った!敵前逃亡は処刑だ!」
恐怖を感じ、そこから逃げようとするのは、生き物なら全てが持つものだ。
兵の後方にいる幾人かが、剣を捨て、振り向くも、それは叶わぬ願いであった。
逃げる彼らを待ち受けるのは、黒衣の親衛隊の姿である。
反逆者を掃討する箒と、皇帝の敵に噛み付く狼の首を、腰に下げた彼らは、それがたとえ味方であろうと、容赦などするはずが無かった。
悲鳴を上げ、頽れる仲間を見て、兵たちは退くことも不可能と知り、死に物狂いでクラウスたちに突っ込み、そして倒れる。
そんな時、広場に不思議な音が流れていた。
「サトコ、さん?」
どこかで耳にしたことのあるそれは、ラドガ湖の岸辺で聞いた、あの音色だった。
クラウスは、思った。
サトコが、皆を勇気づけるために、弾いているのでは、と。
弦楽器の名手だという彼は、その力を遺憾なくふるい、英雄を称える曲を奏でる。
音の盛り上がりに合わせて、人の動きが、軽快になりつつあった。
クラウスが、また一歩、モスクワ兵に向けて踏み込む。
兵は怯み、一歩、二歩と後退する。
それが延々と続き、ついには広場から、モスクワの臭いのする者が、排除されようとしていた。
黒衣の親衛隊は、じわじわと下がる圧倒的な人の圧力に負け、細い路地へと押し出される。
「畜生!一旦退くぞ!」
「てめぇら!生きてモスクワに帰れると思うなよ!」
「全員ぶち殺してくれる!」
退き始める親衛隊の姿に、退路が見えたモスクワ兵どもは、我先にと、仲間を押しのけ逃げ出した。
「待て!サトコの仇、逃げるな!」
「あっ、こら!ツァガン!」
頭に血が上っているのか、ツァガンが単独で、親衛隊を追いかけた。
それを止めようと、クラウスが走って彼を追う。
その彼を追って、ヴァシリーが、サラが、エルージュが、路地を駆けていく。
まるで海の波が退いた後のような静寂が、広場に残された。
「サトコ、そこにいたーのかー」
残されたウラジスラフの背後から、突如、間延びした声が響いた。
「何だ?」
振り向く。しかし、そこには、グースリを抱えたサトコの姿があるのみ。
少し遅れて、地鳴りのような、何かがやって来る振動が、彼を襲う。
「じ、地震か?」
その推測は、外れていた。
ヴォルホフ川が、大量の水を従えて、上流に向けて遡っていたからだ。
「サトコーぉぉ!」
死体が隙間無く浮かぶ川に、動きがある。
膨大な水の壁は、川の水位を少しずつ上げ、まるで春先の洪水のような流れを、作り出していた。
その水の中に、異形の、青白い肌のものが見える。
海藻のような髪とヒゲを持ち、手下の魚たちを周囲に侍らせて、彼の者の名を呼ぶ、それは。
「水の王」
サトコは、名を呼び、帽子を取って頭を下げた。
「サトコ、どうーした。この川の騒ぎーは、何事ーだ!」
「王よ、ノヴゴロド住民の、命の危機です。モスクワが、我らを皆殺しにしようとしています。どうか、力をお貸しください」
「お安い御用ーだ、お前には、勇者ーの借りがーある」
そう言って、水の王は、川の流れを生み出した。
死体の浮く、ヴォルホフ川が、ゆっくりと動く。
川下へ、川下へ。死者の身体は、下流のラドガ湖へ向けて旅立った。
動きを止めていた、桟橋のそれが無くなり、繋留された船が、再び自由を取り戻す。
それは、サトコの船も、同じだった。
「さあ、皆さん!船に乗ってください!」
サトコが、広場に残る人々に、乗船するよう促した。
「ウラジスラフさん!あなたも、早く!」
住民が、芸人が、そして彼の家族が乗船するのを見届け、サトコはウラジスラフにも遅れるなと、声をかけた。
「でもよ、クラウスたちが、戻ってこねえぞ!」
「しかし、逃げるのは、今しかありませんよ!」
心配そうに、彼らが消えた路地を見つめるウラジスラフだったが、別の通りから、再び親衛隊たちがやって来るのを、サトコの目は捕らえていた。
「これ以上は無理です!また奴らが来ています!」
「ウラジスラフ!急げぇ!」
「あんたぁ!急いでおくれ!」
「お父さーん!」
サトコが、芸人が、妻と娘が、彼を呼び急かした。
「クラウス、死ぬなよ!」
間一髪だった。
船は、ウラジスラフが飛び乗ると同時に桟橋を離れ、下流へと動き出す。
流れの勢いに乗ったそれは、ぐんぐんと速度を上げて、ノヴゴロドの町を遠くに眺めるに至った。
川沿いの広場では、彼らを仕留め損なった親衛隊らが、悪態をついているのが、見える。
「ツァガン!どこまで追うつもりだ!」
クラウスは、黄金の狼に向けて怒鳴った。
黒衣の親衛隊どもの逃げ足は速く、馬に乗った彼らと、狼の足では、距離が縮むはずも無く、ツァガンは行方を見失ってしまった。
「ど、どこ、行った?どこ、隠れた」
きょろきょろと、辺りを窺う。しかし、憎き奴らの姿は、どこにもない。
「お前、少し落ち着けよ」
クラウスが、息を荒らげながら、ツァガンの肩を掴んだ。
彼は、申し訳なさそうに、クラウスを見、尻尾を振った。
「はあ、はあ、やっと、追いつきましたぁ」
「ダメですよ、ツァガンくん。単独行動は危険ですよ」
「あ、あう、ごめん」
サラが、ヴァシリーが、ようやっと追いつき、エルージュが息の上がった彼らを、優しく癒やす。
「どうする、一度戻るか?」
呼吸を整え、流れる汗を拭いつつ、クラウスが提案した。
「ウラジスラフさん、ついてきてませんね。置いてきぼりですよ」
サラが心配そうに、後ろを振り返る。
「戻りましょうか。親衛隊が、また来ないとも限りませんし」
ヴァシリーの言葉に、一行は再び広場へと戻ろうと、した。
その時、だった。
クラウスの視界に、黒衣の男が見えた。
男は、こっちを見ている。足が、動いた。
「お前……」
声をかけられた。
クラウスは、気取られないように、剣の柄を握った。
「久しぶりだなあ、クラウス!俺だよ、俺!」
彼は、怪訝な顔で、男を見る。
男の姿は、どこからどう見ても親衛隊のものだ。腰に箒と狼の頭をぶら下げて、黒衣の服を着た、暴虐者そのものだった。
だが、笑顔でクラウスに話しかける様子に、彼はどこかで、それを見た記憶が蘇った。
「あれ……、ゲオルグ、なのか?」
「おー、覚えててくれたか!こんなところで会うなんてなあ!」
男は、クラウスと同じ町で、騎士団に勤めていた仲間だった。
「一体、どうしたんだ。お前、騎士団の仕事が、あるんじゃないのか?」
「いや実は、騎士団なあ、辞めたんだ」
「辞めた?」
「ああ、給料も上がらねえし。丁度、こっちで戦争も始まったしな。そうしたら、モスクワで親衛隊の募集をしているってんで、志願してみたんだ」
「でも、お前、親衛隊は、何をするのか、分かって」
クラウスの声が、引き攣れる。
しかし、彼は気が付かないのか、さらに言葉を続けた。
「親衛隊はな、ルーシ人だけの部隊じゃない。プロシアやタタール、西側諸国の騎士団員でも、快く受け入れてくれる、懐の広いものなんだ。現に今、ここにいる奴らは、皆リヴォニアの食い詰め騎士団員だった者たちだ」
声が、出なかった。ノヴゴロドで暴れている親衛隊どもは、騎士団員だった者たちだというのだ。
神聖なる主のために振るう剣を、皇帝のために、振るっている。
かつての同僚の、信じがたい話に、クラウスの身体が強張っていた。
「最高だぞ、親衛隊は。金は奪い放題だし、人は殺し放題、女だって飽きるほどやれる。それに殺せばその分給金がはずむ。ルーシ人は、おつむの足りない獣同然だから、良心も痛まないときたもんだ」
堅苦しいプロシアとは、えらい違いだと、ゲオルグは大笑いした。
クラウスは、茫然自失だった。
人間という生き物の、浅ましさを見た思いがした。
親衛隊どもは、人の欲望を濃縮したような者たちだと感じていた。
人を傷つけ、命を奪い、民衆に恐怖を植え付ける、皇帝の走狗。それらは、ルーシの地に住まう人々特有の残虐さなのだと、信じていた。
だが、実際は違っていた。親衛隊は、ルーシ人だけでは無く、外の、それも騎士団員として働いていた者たちも、含まれていたのだ。
町を守り、人々に笑顔と平和をもたらしていた、誇り高き騎士団が、一皮剥けば悪魔のような所業に手を染めている。
胸が、激しく締め付けられ、汗が滝のように噴き出る。呼吸が、再び荒さを増した。
「クラウスくん、落ち着いてください」
「クラウス、苦しい、のか?」
ヴァシリーが、ツァガンが、異様なまでに汗をかく彼を、心配そうに見つめる。
「んん?こいつら獣人か?」
ゲオルグが、ツァガンの狼耳と、エルージュの白鳥の翼を粘つく目で睨んだ。
「昔話でしか聞いたことないが、本当にいるとはな」
鞘から、剣が引き抜かれる音がした。
ゲオルグの双眸は、真っ直ぐに、エルージュを捕らえている。
「いい身体つきをしてやがる、獣人なのがもったいない」
ツァガンが、二人の間に滑り込んだ。黄金の狼の目が、ゲオルグを敵と見なしている。
「男に用はねえよ!」
腕が、振りかぶられた。刀身が、陽光に照らされて輝き、一条の線となって、ツァガンを襲う。
大きな金属音が、響いた。
わんわんと、鉄のわななく音と共に、剣が宙を舞った。
「クラウス、てめぇ……」
腕を押さえたゲオルグが、悪意のある目を向ける。
クラウスの聖剣が、二人の獣人を、その凶刃から守っていた。
「ゲオルグ、剣を拾え」
手が動き、聖剣の切っ先が、それを指し示す。クラウスは、顎をしゃくった。
「俺に顎で指図するんじゃねえ!」
「うるせえ!お前は、プロシア騎士団員の、恥さらしだ!」
ゲオルグが剣を拾い、すかさずクラウスに斬りかかる。
「クラウスく……」
ヴァシリーが、思わず助けようとするも、それを彼は制した。
「邪魔するな!お前らは下がってろ!」
クラウスの双眸が、怒りで満ちている。
「ルーシ人なんかと馴れ合っているのかよ、お前こそ、騎士団員の恥さらしだろうが!」
「黙れ!あいつらは、俺の、大事な仲間だ!」
剣と剣がぶつかり、火花が飛び散った。
二人はお互いに飛び退り、再び打ちかかる。
「ヴァシリーさん、ど、どうしましょう」
サラが、怯えた顔で、彼にしがみついた。
「せめて、助けを……」
エルージュの腕が動くも、ヴァシリーが無言で止めた。
「エルージュ、これ、男の意地。助け、だめ」
ツァガンも、そう言って首を振る。
四人はただ、見守るしか、なかった。
長い時間が過ぎた、かのように思われた。
黒衣のゲオルグの息が、徐々に荒くなる。剣を握る腕にも、疲れが見えてきたのか、切っ先が震えを止めなかった。
それを、クラウスは見逃さなかった。
一歩。
間合いを一歩だけ、多く踏み込み、ゲオルグの腕を、剣もろとも叩き斬った。
「ぎゃああああ!」
不快な悲鳴が、彼の耳に届いた。
顔をしかめて、血にまみれる男の身体を、クラウスは汚物を見るような目で睨んだ。
「てめぇ、クラウス、こんなことをして、騎士団員が、聞いて、呆れる」
「黙れ、ゲオルグ。二度とその名を出すな」
心臓の鼓動に合わせて、吹き出す血は、夥しい量が流れていた。
「お前、後悔するぞ。俺を殺したこと、一生引きずって、いくんだ」
「……知るか」
痛さに膝をつき、蒼白な顔のゲオルグを、彼は無造作に蹴り飛ばした。
「ゲオルグ、俺からの手向けだ」
男の首に、聖剣が当てられた。
鋭く輝く刀身は、そのまま肉を、骨を断ち切り、地面にぶつかって動きを止めた。
クラウスは、そこから、動かなかった。
通りの向こうから、人々の悲鳴が、聞こえる。
彼は、長い間、そうしていたが、やがてゆっくりと立ち上がった。
顔を見せないように、エルージュに近づき、そのまま彼女を抱きしめた。
肩が震え、息が細かく喘ぐように、吐き出されている。
彼女は、黙って勇者の身体を受け止めた。
優しく、落ち着けるように、何度も、何度も、その背中を撫でさする。
白鳥の胸は、人と変わらぬ温もりを、持っていた。




