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30 ノヴゴロド炎上

 ノヴゴロドが襲われている。

その話を聞いたのは、道端で休憩していた時だった。

 この道は、ノヴゴロドから伸びるもので、リヴォニア方面の各町を結ぶ主要街道でもある。

 しかし、いつもは賑わうはずの街道も、戦争が始まってからは、通る人々も激減し、今や寂しいばかりの景色に成り果てていた。

 空は、どこまでも青く、草原は見渡す限りの緑が広がっている。

 西の世界の、どこにでもある風景が、皆の目の前にあった。

「リヴォニア軍が、そこまで攻め込んでいるのですか」

 ヒゲを蓄えた行商人相手に、クラウスは大きく息を吐いた。

「お若いの、それがどうも違うらしいんだ」

「え?」

「リヴォニアの旗は、どんな紋様か、知っているかね?」

「確か、白地に赤の十字紋、だったような」

 クラウスは、記憶の片隅に残っていた、リヴォニア騎士団員の格好を思い出していた。

彼らは、プロシアと同じ騎士団国家なのだが、用いている色が、少し違っていた。

 プロシアは、白地に黒い十字紋様で、リヴォニアは、白地に赤い十字紋様だ。

それが、木綿で出来たタバードと呼ばれる袖無し服にあしらわれており、団員である彼らの揃いのマークともなっていた。

「私たち行商人が見たのは、それではなかった。赤地に馬に乗った騎士が描かれたものだった」

「赤地……?」

 どこかでそれを見た気がして、クラウスは首をひねった。

 戦場の兵士たち相手の行商人が、異形の怪物に襲われていたのを、たまたま通りがかったクラウス一行が助けたのは、昼前の話だった。

 そのまま彼らは立ち去ろうとしたのだが、恐怖に駆られた行商人が、近くの町までついてきて欲しいと求めたため、やむを得ず彼らは同行することになった。

 しかし、町までの短い距離だが、怪物どもは次から次に際限なく出現し、日が落ちるまでに辿り着けると思った道のりは、遥か遠いものに変貌していた。

「赤地に騎士というと、モスクワ大公国のがそれですね」

 ヴァシリーが、何気なく言った。

「モスクワが、援軍に駆けつけたのなら、ノヴゴロドは安心だろう。リヴォニアも易々とは……」

「違うんだよ、お若いの」

「うん?」

「あれは、援軍などではなかった。ノヴゴロドを攻め落とす、敵だ」

 何を言っているのだろう。と、クラウスは不審に思った。

「モスクワは、ノヴゴロドを皆殺しにするつもりだ」

 行商人の顔色が、蒼白だった。


 その日、彼ら行商人は、交易の品を求めてノヴゴロドを訪れていた。

 リヴォニアでの戦況は、日増しに悪くはなっていたが、ノヴゴロドよりも西に位置するプスコフが、未だ落ちずに耐えていることから、戦線はここまで伸びてこない。

 そう確信して、彼らは荷を整理し、必要な物を細々と買い付けていた。

 だが、町に滞在中、不穏な噂が耳に入った。

 トヴェリ近郊の村が、焼け落ちている。

 最初は、リヴォニアの仕業かと、町の者は思った。

 しかし、トヴェリは、モスクワからさほど離れていない町である。

モスクワの喉元とも言える場所に位置し、ここを取られたら、モスクワ大公国は敗北を喫しかねない、重要な町でもある。

 いくらなんでも、そこを易々と落とさせるほど、モスクワは甘くはないだろう。

 では、何者の仕業なのか?

 皆がそう考えていると、今度はヴィシニー・ヴォロチョーク近郊の村が焼け落ちた。

水運で生計を立てている水夫たちは、異常事態だと、口々に民会ヴェーチェに訴えた。

 そして、ヴァルダイの町が落ちるに当たって、勘の良い者たちは、密かにノヴゴロド脱出を図った。

 焼かれる町や村は、徐々にノヴゴロドへと近づいている。

 モスクワから、ノヴゴロドへ。

 これは、何か悪い事が起きるに違いない。

人々は、そう予感し、少しずつ避難を開始した。

 行商人一行は、偶然にも、そのタイミングで町を発った。

それが、結果的に幸福であったと、後々に彼らは思うのだった。

 ノヴゴロド近郊の小さな村が、焼け落ちた。村人は、老若男女、全てが殺されていた。

 その知らせと同時に、町の周囲を、黒衣の者たちと、モスクワの兵が取り囲んだ。

黒衣の者――親衛隊オプリーチニキが、ノヴゴロドから脱出する者を、片端から捕らえ処刑しているという。

 悪夢の、始まり。

 ポロツクへと向かう道中で、彼ら行商人は、その情報を、知る。


 クラウス一行は、遠くにノヴゴロドを望む、湖近くの丘の上に立っていた。

行商人らを、近くの町まで送り届け、情報を得た彼らは、それが真実か否かを確かめるために、ここへとやって来たのだが。

「ツァガン、見えるか?」

 町を取り囲む、大勢のモスクワ軍を眺めつつ、クラウスは聞いた。

「う、旗、ある。赤い、大きな旗」

「模様は?」

 ヴァシリーの声が、おののいていた。

「うーん、馬、乗った人と、大きな鳥?首が二つ、ある」

「双頭の鷲……、皇帝ツァーリが来ているのですか?」

「オイラの目じゃ、そこまで、分からない」

 ツァガンは、首を振った。

「あ、エルージュさんが戻ってきましたよ」

 遥か上空を、白い鳥が、滑るように飛んでいる。

手を振り、合図を送るサラを目指して、鳥は大きく羽ばたき、その姿はぐんぐんと近づいた。

「おかえりなさい、エルージュさん」

「ただいま戻りました、サラ」

 笑顔で迎えるサラの前に、エルージュはふわりと、舞い降りた。

「エルージュ、何か分かったか?」

 クラウスが、ヴァシリーが、彼女の言葉を待つ。

「はい、ノヴゴロドの町は、完全に包囲されています。郊外の家や修道院には、生きている人は、一人もいません」

「そんなに、酷いのか」

 声が、喉につかえる感じがした。

「酷いなんてものでは、ありません。あれは狂気そのものです」

 狂気と聞いて、ヴァシリーが何か思い当たったようだった。

「エルージュさん、赤い旗の下に、誰かいましたか?」

「はい、いました。兵とは違う、黄金の杖を持った、ヒゲのある老人がいました」

皇帝ツァーリ……」

「その老人の横に、似た顔の若い男もいました。まだヒゲもない年頃のようですが」

皇太子ツァレーヴィチも、来ているのですか……」

 ヴァシリーの頭から、生ぬるい汗が噴き出た。

 狂気に捕らわれた、皇帝親子。

その兇状は、モスクワに住む者なら、知らぬ者はいない、とまで言われていた。

 父である皇帝は、人の血と死を好む、冷酷なる支配者として、この国に君臨し。

 息子の皇太子は、そんな父の性格を忠実に受け継ぎ、さらに短気でもある後継者でもあった。

 宮殿クレムリンでの囚人の処刑は、皇帝がしばしば立ち会ったと噂されるが、その傍らに、幼い皇太子が同席していたのは、モスクワ市民でも、知る者はいない。

 だが、ヴァシリーは知っていた。

 薄暗い牢屋で、親衛隊オプリーチニキに連れられて、拷問部屋に足繁く通う、若き皇太子の姿を。

 彼のすぐ下の弟は、白痴であった。それもあってか、皇帝は彼を必要以上に愛し、後継者として常に自分の側に置き、恐怖によって民衆を縛り付けるすべを教えた。

 人は、容易に裏切る。

 金、地位、女、その他、様々な要因で、人は、民衆は牙を剥く。

たとえそれが、親であろうと、上司であろうと、国の主であろうと、人は噛み付き、己の我を通そうとする。

 だから、その思いが出ないうちに、縛り付けろ。縛るものは何でもいい、縄でも、教育でも、恐怖という見えない戒めでもいい。とにかく目覚めさせてはいけないのだ。

 病的なまでに、皇帝は息子に、そう言い聞かせていた。

 教えの甲斐もあって、彼は父と同じ道を歩み始めた。

 血を求める、残虐な心が芽吹いていた。

「ウラジスラフさんと、サトコさん、それと芸人スコモローフの皆さん、無事でしょうか」

 サラの沈んだ声が、聞こえた。

だが、それに返答はない。

 町はどうなっているのか、彼らは脱出できたのか、誰も分からないからである。

 クラウスの気が、重い。

「ウラジスラフさん……」

 赤い髪の、水夫頭をしている彼の笑顔が思い出される。

先祖が聖剣の勇者だという彼は、クラウスに聖剣の存在を示唆し、その身をノヴゴロドまで導いた。

「サトコ、元気だと、いいな」

 ツァガンの言葉に、クラウスも密かに、そう願った。

ノヴゴロドで、彼の宿にお世話になり、さらにラドガ湖からオネガ湖までの、船の手配に、嵐で遭難した時に助けて貰ったことなど。彼から受けた恩は、計り知れない。

 楽しい芸人スコモローフたちの、賑やかすぎる笑い声も、今となっては懐かしい。

――皆、無事であってくれ。

 そう、祈るしかなかった。

 だが、その祈りを打ち破るように、突如、歓声が上がった。

 黒服の者たちが、町の中に向けて、騎馬突撃しているのが見える。


 町中は、恐怖と混乱が渦巻いていた。

なだれ込んできた、黒衣の親衛隊オプリーチニキは、逃げ惑う人々を騎乗したまま、追い立てた。

 逃げ場を失い、転んだ者を、馬の蹄で骨もろとも踏み砕き、路地裏に追い詰めた人を、その手にある剣で切り捨てる。

 道には、たちまち死体の山が築かれた。

「くそっ、間に合わなかったか!」

 ウラジスラフは、妻と娘の手を取り、町中を走り回っていた。

 トヴェリで荷揚げの最中、仲間から知った話を耳にして、慌ててノヴゴロドまで戻ったのはいいが、時既に遅し。

 なんとか町に潜り込めたのは、いいとしても、今度は脱出が難しい。

 自分一人なら、モスクワ軍と真っ向から戦えるのだが、如何せん妻と娘を抱えては、それすらも。

 そうこうしている内に、町中に暴虐の嵐が吹き始めた。

 親衛隊は、屋内に閉じこもる人々を引きずり出し、手当たり次第に暴行と略奪を加えだした。

 このまま、家に引きこもり、座して死を待つよりは、一縷の望みに賭けるしかない。

 ウラジスラフの身体に流れる、ふるき勇者の血が、彼を突き動かしていた。

「サトコー、どーすんだよぉー」

「もう、だから早く逃げなさいって、言ったじゃないですかっ」

 一方、サトコと仲間の芸人スコモローフたちも、町中を走っていた。

「そう言われてもよー、俺たち芸人だぜ、お上に睨まれてるんだ。逃げ切れるわけがないじゃないか」

「変装すればいいでしょうが、それぐらい朝飯前ですよねっ」

「変装して逃げたなんて、俺たち芸人の面子に関わるぞ。ノヴゴロドの芸人が、仲間を見捨てて何になるというんだ」

「こういう時ぐらい、面子を捨ててください。まったく、あなたたちは」

 ゾロゾロと一団を率いて、彼らは路地裏を必死に走った。

 入り組む小径こみちを通り、ようやく目的の場所まで辿り着いたのだが。

「あ……」

「おい、ここもかよ!」

 ノヴゴロド商人の組合場であり、守護教会でもある白壁の建物が、目の前で破壊されている。

 周囲の草むらには、見るも無惨な死体が転がり、流れ出た赤黒い血が、壁を地面を不気味な色に染め上げていた。

 崩れゆく教会からは、黒衣の男たちがひっきりなしに財宝を略奪し、止めろと叫ぶ修道士を片端から切り刻んでいる。

 悲鳴と、怒号と、叫び声が、町を埋め尽くしていた。

「教会までやるのかよ、怖いもん無しなんだな、モスクワとやらは!」

「仕方が無い、町の外へ……」

「だめだ、サトコ!門は塞がれている、猫の子一匹通れやしないぜ!」

 頼みの綱である、守護教会が襲われていると知った今、彼らの安全を保証するものなど、このノヴゴロドの町には、無い。

 逃げようにも、外への道は封鎖された。

 親衛隊の出す、蹄の音が、そこかしこから聞こえてくる。

「サトコ、ここは危ない。一度、宿に戻ってそれから考えよう!」

「……そう、しますか」

「一旦、戻るぞ!遅れるな!」

 しかし、戻ったところで、事態が好転する訳ではない。

 走るサトコの足は、とても重かった。

 荒い息を吐きつつ、彼は自分の宿へと、向かった。


「お父さん、もう、走れないよぅ」

 赤いお下げ髪の女の子が、息も絶え絶えに訴えた。

「あんた、あたしも、もう……」

 太った女も、そう言って立ち止まった。

「立ち止まるな、もうすぐ教会だ、そこまで行けば、きっと助かる。諦めるな!」

 ウラジスラフは、妻と娘に発破をかけ、動くように促した。

「もう、無理だよ、助からないんだよ、あんた。どこの通りにも、親衛隊オプリーチニキがいる、逃げられやしないよ」

「いいや、逃げ切ってみせる。俺の先祖は勇者イリヤーだ、お前たちだけは逃がしてやる!」

「何かあれば、勇者、勇者って、あんたはいつもそうだね」

 妻の、苦しそうな顔が、少しだけ和らいだ。

 そんな彼女の手を取り、ウラジスラフは苦笑いした。

「ナターシャ、俺におぶされ」

「うん、お父さん」

 娘の身体を背中に負い、彼は再び歩き出す。

「重くなったな、ナターシャ」

「そうかな?」

「ああ、そうだ。そうだよ」

 知らないうちに、娘はここまで大きく成長していたのか。

沸き上がる万感の思いを堪えつつ、ウラジスラフは通りを突き進む。

 だが、前方から聞こえる、大勢の者の声に、彼らの身体は固まっていた。

「あんた、誰か来るよ」

「お父さん」

――親衛隊か?

 彼の手は、いつでも戦いが出来るよう、腰につけた斧に伸びる。

 足音は、近づいている。

 声は、こちらへと向いている。

 やるなら、出会い頭の不意打ちしかない。

 斧を掴んだ。手に、じわりと、汗が吹き出た。

「あっ、サトコ、あそこに誰かいるぞ」

「親衛隊では、ないですね。ノヴゴロドの住民でしょうか」

 通りの向こうから姿を現わしたのは、サトコら芸人スコモローフの一団であった。

「誰だ、お前ら?」

 ウラジスラフの手は、未だ斧を掴んでいる。

「そっちこそ、誰だ。俺たちは芸人だぞ」

「なんだと」

 芸人たちの、無遠慮な言葉に、ウラジスラフの顔が厳しいものになった。

「こら、やめなさい。ここで争っている場合ではないでしょう」

 仮面と薄汚い衣服の芸人を押しのけて、サトコは帽子を取って非礼を詫びた。

「失礼しました。私はサトコといいます、この者たちは私の仲間の芸人です。どうかお許しを」

「なんだ、そうだったのか」

 ウラジスラフの、緊張した顔がほころんだ。

「俺は、ウラジスラフ。これは俺の家族だ」

 横にいる妻と、背中の娘も、ぺこりと頭を下げた。

「ウラジスラフさん、あなたも逃げ遅れた口ですかね?」

「そうだ。教会で匿ってもらおうと思うんだが……」

 サトコは、首を振った。

「教会は、ダメです。親衛隊に襲われて、修道士も殺されています」

「本当か?」

「長話は危険です、とにかく一緒に行きましょう」

 彼はそう言い、ウラジスラフについてこいと促し、再び歩き出す。

「あんた」

 傍らの妻が、不安そうな声で、ウラジスラフの手を握る。

「信じるしかない」

 家族を連れ、彼は通りを急ぐサトコの後を追った。


 薄暗い、建物の中。

 窓枠の隙間から、外の明るさが射し込む。

 宿に辿り着いたサトコは、一目散に奥の部屋に入り込むと、何かを探っていた。

「この宿、サトコの宿だったのか」

 暗さに目を慣らしながら、ウラジスラフは室内を見回していた。

 外見から分かる、飾り装飾の立派な宿は、水夫たちの間でも噂になるほどであった。

 あれは、ノヴゴロドで大成功した、商人の宿だ。

 金のある旅人たちは、こぞってこの宿を利用し、芸人スコモローフたちも、引っ切りなしに、その宿で宴会を催している。

そんな、まことしやかな噂は、多少尾ひれが付きつつも、町を彩るものの一つとして、訪れる人々に夢を与えていた。

「お父さん」

「あんた、これからどうなるんだい」

 娘のナターシャと、妻が、ウラジスラフの傍らで震えている。

「大丈夫だ、きっと助かる」

 二人を安心させるため、彼は言い、また自分にも、そう言い聞かせていた。

「ウラジスラフさん、これを」

 奥の部屋から、何かを取り出したサトコが、それをウラジスラフに渡す。

「これは?」

「私の短剣です。これでも無いよりはマシでしょう」

 持っていろ。と、サトコの双眸が訴えていた。

「サトコ、あんたはどうするんだ」

「私は、しがない元芸人です。親衛隊オプリーチニキに立ち向かえる、体力も勇気も持ち合わせていません。この短剣も、私が持つより、あなたが持つに相応しい」

「だが……」

「ウラジスラフさん、あなたは私が知っている男に、良く似ています。力があり、危機を乗り越える勇気をお持ちのようだ」

 そう言って、サトコは彼を安心させるために、にこりと微笑んだ。

「分かった」

 その言葉に応えるように、ウラジスラフは、力強くうなずいた。

「サトコ、親衛隊だ。こっちに来るぞ!」

「皆さん、隠れていてください。物音を出さないで」

 表から聞こえる、雷鳴のような蹄の音に、皆は息を殺して隠れ、サトコは一人、扉の前で待ち構える。

 向こう隣の建物に、奴らが押し入っている。

住民は既に逃げ去った後で、怒声と共に、扉が勢いよく閉められた。

 次は右隣だ。

残されていたのは、老人だろうか。ひとしきり命乞いをする様子が窺えたが、それも直に止んだ。

 サトコの身体が、恐怖に震えた。

 殺されるかも知れない。

 粘つく汗が、額を落ちる。

――クラウスくん。

 思わず、その名を胸中で呼んだ。

力があり、勇気を兼ね備え、聖剣を探して旅をしているという、一人の男の名を。

 瑞々しく、若さと希望に満ちあふれる男は、中年になってしまったサトコの双眸に、とても輝かしいものとして映っていた。

 そんな彼の持つ勇気を、ひとかけらでも分けて欲しい。

サトコは息を呑み、そう願った。

 そんな時、急に目の前が明るくなった。

 開かれた扉の向こうで、黒衣の男たちが、剣を片手に立っていた。

「おらあ!出てこい!」

「うわ……」

 叫び声を上げる暇もなく、サトコの身体は表に引きずり出された。


 薄暗い宿の中から、無理矢理に出されたサトコは、顔をしかめていた。

 大柄な、黒衣の親衛隊オプリーチニキに取り囲まれて、彼の足は恐怖で震えていた。

「おい、お前」

 びくり。と、サトコの肩がわなないた。

「お前は、旅人か?」

 その問いに答えようとしたが、怯えて声が出ない。

 唇は動くのだが、声が、喉に貼り付き、出てこようともしない。

「答えろ!」

 男の手に持った荒縄が、サトコの頬を打ち付けた。

「た、旅人では、ありません。私は、この宿の支配人でございます」

 彼の白い肌に、赤い一筋のミミズ腫れが、走る。

「ノヴゴロドの者だな!」

「は、はい」

「住人は、皆殺しにしろとの命令だ。死ね!」

「ま、待ってください!」

 親衛隊の腕が、振りかぶられたと同時に、サトコは叫んだ。

「こ、これを、どうぞお納めください!」

 震える腕で、彼はそれを懐から出し、親衛隊に見えるように、両手でうやうやしく掲げた。

 手に乗せられたそれは、大量の銀貨が入った麻袋と、黄金細工だ。

「金か」

 親衛隊は、彼の手にある銀貨の麻袋を、無造作に掴んだ。

「これで、どうか、お見逃しくださ……」

「断る」

 サトコの顔を、親衛隊の剣が一閃した。

 両頬から鼻が、バックリと深く裂け、一呼吸置いて、真っ赤な血があふれ出る。

あまりの痛みに、身体の力が抜け、彼は膝から崩れ落ちた。

「サトコ!」

 顔から血を流すサトコの姿を見て、宿から芸人スコモローフたちが飛び出していた。

「こいつ!よくもサトコに手を上げたな!」

 動物のような仮面をかぶり、みすぼらしい服の男たちが、親衛隊に食ってかかった。

「くそ、仲間がいやがったのか!」

「サトコ、しっかりしろ!サトコ!」

「サトコ!死ぬなよ!」

 数を頼みに、芸人たちが暴れ回る中、サトコは誰かに抱き起こされる気配を感じた。

「あんた!サトコを頼むぞ!」

「早く逃げろ!」

 傷口を布で押さえ、その人物は、意識朦朧のサトコを背負い、走る。

「サトコ、お前、勇気あるじゃねえか」

「ウ、ウラジ、スラフ、さん」

 赤い髪のウラジスラフは、妻と娘、それと芸人を幾人か連れて、悲鳴渦巻く町を、ひたすらに駆け抜けていた。

「ねえ、あんた。逃げる当てはあるのかい?」

 妻が、息を切らせつつ、ウラジスラフに問う。

「そんなもん、ねえよ!」

 娘の手を引き、背中にはサトコを乗せる。如何に彼の体力があろうとも、二人分の体重を抱えての移動は、危険が伴った。

 逃げ道はあるのか、隠れる場所はあるのか、彼の双眸は、見慣れた町をくまなく探した。

「ん?」

 だがその時、ウラジスラフの鼻が、おかしな臭いを嗅ぎつけた。

どこかからか、それは漂ってくる。ものが焼け焦げる、嫌な、臭いだ。

 彼の顔が、渋くなった。

「か、川へ……」

 サトコの腕が、町の中心部を流れる、ヴォルホフ川の方向を、指し示した。

「ウラジスラフ、川だ!川にサトコの船がある!それに乗って逃げよう!」

「よし、分かった!」

 火の手が、町の至る所で、起こり始めていた。


 町を流れる、ヴォルホフ川。

だが、その川縁の広場までやって来たウラジスラフらは、目の前の光景に絶句していた。

「おい、何だよこれは」

「う、嘘だろ……」

 川に、船を係留する、桟橋がある。

 その桟橋の周囲、浮かぶ船の隙間という隙間に、無数の人の身体が、浮いていた。

身体は、衣服を着けたままの者や、素裸の者、腕や足が無い者など、様々な姿の者ばかりで、そのどれもが、顔に苦悶の表情を残したまま、川面かわもに漂っていた。

 今年の冬は、雪が無かった。

それゆえに、春の雪解け水はヴォルホフ川に流れ込まず、川の水量は例年よりも大幅に少ない状態だった。

 そこに大量の人間が放り込まれては、如何に雄大な大河とはいえ、押し流すことなど、不可能であった。

「これじゃあ、船を出せやしねえぞ」

 川の上流にある、ノヴゴロドの町を東西に結ぶ橋の上では、今も追い詰められた人々が悲鳴を放ち、川へと突き落とされている。

「お、お父さん、怖いよ」

「泣くな、ナターシャ。俺がついているからな」

 涙を見せる娘をあやし、ウラジスラフは小船の一つに飛び乗るが。

「だめだ、動かねえ。川の底まで、死体が詰まってやがる」

 船にある櫂を使い、なんとか移動しようとするものの、腕に伝わる感触は、いやに柔らかいそれのみ。

水を掻いている手応えは、全くと言って無かった。

「くそっ!」

 櫂を打ち捨て、ウラジスラフは、腰に下げた斧を手に取った。

 船を下り、ノヴゴロドの最も栄えている、市場の方を眺める。

 町の中心部では、勢いを付けた炎が赤々と燃え上がり、周囲の建物を瞬く間に呑み込んでいくのが見えた。

 川に面する、この広場へと至る道には、黒衣の男たちと、モスクワの旗を掲げた兵の姿、そして追い立てられたノヴゴロド市民で、溢れている。

「やるしか、ねえか」

 サトコから預かった短剣を、腰のベルトに差し、ウラジスラフは妻と娘、そしてケガを負ったサトコを、その大きな背中で隠すように立ち塞がった。

 ウラジスラフの赤い髪が、川沿いに吹く風に煽られて、炎のように、揺れる。

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