3 キタイ・ゴロド
キタイ・ゴロドの、とある一軒の家。
目的の、春の呪術師の家を前にして、クラウスとサラは顔を見合わせていた。
「あれが、春の呪術師なのか?」
彼らの目線の先には、家の前に一人佇む少年の姿があるのだが、その様子にクラウスは首を傾げていた。
少年のなりは、分厚い毛皮を着た寒冷地特有の装束で、柔らかい毛が襟と腰部分に巻かれた、とても暖かそうな格好であった。
「ちょっと、聞いてみます」
八端十字架の杖を手に、サラは少年へと近づいていた。
「こんにちはー」
軒先の下の、頬被りをした少年は、そう声をかけられて、ひどく驚いたらしく、びくりと身体を震わせつつも周囲を慌てて窺っている。
「わ、あ、あの」
「あなたが、春の呪術師さんですか?」
サラの問いかけに、少年は頭をぶんぶんと振っていた。
「ち、違う。オイラ、その」
あまりにも激しく頭を動かしたせいか、彼の頬被りがほどけ、黄金色の髪が陽光の下に晒された。
ふわふわの、実りに満ちた麦の穂の如く、少年の黄金の髪が揺れる。
そして、そこに生えるのは、同じく黄金色の大きな耳だ。
それは飾りなどではなく、己の意思で動かせる、れっきとした身体の器官であった。
「あ……」
「お前、その頭は」
クラウスの言葉に、彼は思わず頭を抑えた。
見られたという恐怖からか、その顔は真っ赤になり、頭の耳も怯えているのか、ぺたりと伏せられていた。
「み、見ないで、お願い」
そう言ってうずくまる少年だが、臀部から生えるものが揺れる様に、二人は驚くと同時に、珍しいものを見たという顔をしていた。
西の人間には無い、大きな動物の耳と、自在に動く尻尾は、人でもなく、獣でもない、異形の姿としか言いようがなかった。
「オ、オイラ、春の呪術師に、用があって、来た。だから、あの」
「クラウスさん、どうしましょう」
困り顔のサラに、クラウスは、ふうと息をつき、二人にゆっくりと近寄った。
「安心しろよ、俺たちも春の呪術師に用があるんだ」
「えっ」
「俺の名前は、クラウス。こっちの女の子はサラっていうんだ」
彼は少年の緊張を解きほぐすように、笑顔で名乗り、手を差し出す。
慌て怯える彼に、敵意が無いというのを、示すように。
「お前は、なんて名前だ?」
「あの、オイラ、ツァガルトーイ。皆は、ツァガンって、呼んでる」
少しの照れと、大きな心のときめきに、ツァガンはぎこちなく笑いながら、クラウスの手を握った。
「ツァガン、か、よろしくな」
「はじめまして、ツァガンさん」
裏の感じられない、笑顔の二人の様に、ツァガンの尻尾が、ゆっくりと振られていた。
キタイ・ゴロドの酒場。
宿屋も兼ねている、町の居酒屋で、三人は食事を取りながら、会話をしていた。
店の一角では、芸人が、音楽を演奏し、酔った客が、ご機嫌にだみ声で歌をうたう。
賑やかすぎる店内に、ツァガンの耳が、忙しなく動く。
彼の背丈は、クラウスよりも少しだけ低く、異形の姿ではあるが、一方で少年らしさも残す、不思議な雰囲気の男だった。
「う、このメシ、うまい」
三人の前には、豆と根菜のスープに、あまり柔らかくない黒パン、それと脂身の多い肉料理と漬け物、酒が、ずらりと並んでいた。
「にしても、脂身が多すぎるだろう……」
皿に盛られた家畜の肉だが、そのほとんどは白い脂ばかりで、しかも胸焼けしそうな量がこれでもかと乗っていた。
その大盛りの皿を前に、クラウスはげんなりとした顔をしていた。
「こうでないと、この国の冬は耐えられませんよ」
脂身をパンに塗りつけ、サラは平気な顔でそれを口に放り込む。
「でも、オイラの故郷より、こっちのが、暖かい」
口の周りを、脂身でテカテカに光らせながら、ツァガンは呟いた。
「オイラの故郷、もっと寒い。空気も凍る、ぐらい、寒い」
「ツァガンさんは、どこから来たんですか?」
クワスと一緒にパンを飲み込むと、サラが問いかける。
「大きな、山の向こう。ずっとずっと、東の森」
彼の答えに、クラウスは少し考えた。
大きな山とは、この世界を東西に分ける、大山脈のことだ。
その向こうは、人が滅多に立ち入ることがない、大樹林地帯がある。
自然厳しい、過酷な土地が広がっている、と西の世界では、考えられていた。
「すると、東の世界か?」
「わかんない、山の向こうは、オイラみたいな、人しか、いなかった」
ツァガンは、獣の特徴を身体に持っている。
そういった人間が、東の世界にいるとは、クラウスも少しだが知っていた。
だが実際には見たことが無く、彼自身もおとぎ話の世界の事だと、心のどこかで思い込んでいた。
「ルーシの地よりも東に、人がいるとはな」
温かいスープをかき回し、クラウスはごくりと、それを飲む。
「あああ、しょっぱい」
「そうか?ちょうどいいぞ」
「ですよねー」
ツァガンとサラがにこにこと食べ続けるのを見て、クラウスはまたも心の中でこう呟く。
――異教徒の文化だ。
と。
「さて、食事も済んだし、もう一回行ってみるか」
食卓の上には、キレイに平らげられた、空の皿が置かれている。
その半分近くは、ツァガンが食べてしまったのだが、クラウスはなぜか満足そうに微笑み、ゆっくりと立ち上がった。
「う、ど、どこに、行く?」
「春の呪術師の家だ。そろそろ戻って来ているだろう」
先ほどは留守だったのか、声をかけても返答すらなかったが、時刻も大分経ったということで、彼らは再び訪問しようとしていた。
「行くぞ」
毛皮を着込み、表へと向かおうとしたクラウス一行だが、突如、酔客に呼び止められた。
「止めときな」
酒を片手に、そいつは三人の格好を見る。
プロシアの騎士団員に、スオミの民族文様の服と、人とも獣ともつかない者。
一目で分かる、この国の者ではないという出で立ちに、酔客の目が鋭くなった。
「親衛隊がうろつく時間だ、外へは出ない方が良い」
暗く、静かに、酔客は表の人通りを眺め、彼らを引き留めようと首を振った。
いつの間にか、外はどんよりとした雲がかかり、今にも白いものが降りそうな気配すら漂っていた。
「俺たち急いでいるんだ、忠告ありがとう」
所詮は酔っ払いの戯言と、クラウスは考え、上辺だけの笑顔と共に、一行は店を出る。
「注意したぞ、したからなあ」
酔客は酒を飲み、通りへと消えていく三人を、どろりとした濁った目で見送っていた。
春の呪術師の家。
三人はまたも、ここに立っていた。
「いるかなあ?」
「暖房の煙も出ていないですし、まだ留守じゃないですかねぇ」
クラウスが、首を傾げれば、サラは家の様子から、主はまだ戻っていないと推測する。
軒を並べる隣の家からは、暖房の煙がもくもくと立ち上り、灰色の空へと吸い込まれていた。
「どうしよう、オイラ、どうしても、会わないと、いけないのに」
次第に暗くなる空は、ツァガンの心を暗示するかのように、雲がどんどんと厚く垂れ込めた。
「そういや、ツァガンは、なんで春の呪術師に用があるんだ?」
「あ、あの、ね」
パタパタと尻尾を動かし、ツァガンが口を開いたとき、彼らの背後から声がかかった。
「おい、お前ら」
三人が振り返ると、そこには、毛皮の帽子と黒衣の服を身に着けた、強面の男たちが、黒馬に跨がり彼らを睨み付けていた。
その体格は大柄で、馬上というのもあり、三人を見下ろす形で取り囲んでいた。
「ここで、何をしている。ああ?」
――自警団か?
語尾を上げ、威嚇するような物言いに、クラウスの顔が険しくなる。
プロシアにも自警団はいたのだが、それよりももっと厄介な臭いを感じ、彼は男らから目を離さなかった。
「芸人ではないな、どこの町の者だ」
男たちは、三人の格好を見、手に持った箒で一人ずつ品定めをした。
サラ、ツァガン、そしてクラウスを見て、男の目つきが一段と厳しいものになる。
「お前……、プロシア騎士団だな」
「だったら、何だというんだ」
互いを牽制する言葉に、クラウスの手が腰の剣へと伸びた。
「ク、クラウスさん、ここで争っては……」
「サラ、ツァガン、逃げろ!」
怯えるサラを尻目に、彼は剣を抜き放った。
「クラウスさん!」
「サラ、逃げよう!」
クラウスは、黒衣の男たちに、果敢にも飛びかかっていった。
そんな彼の言葉に、ツァガンは咄嗟にサラを抱きかかえ、大通りへ向けて走り出した。
「待て!」
「逃げたぞ!」
空に響き渡る怒号の中を、二人は通りを走り抜けた。
いつの間にか、外には行き交う人々の姿はなく、追いかける黒衣の男たちと、追われる二人だけが、町を動いている状態となっていた。
「殺すんじゃない!獣人は生け捕りにしろ!」
土地勘のないキタイ・ゴロドの町を、二人は逃げ回るも、黒衣の男たちは、あざ笑うかのように、悉く先回りをする。
そうして、追っ手の数はいつの間にか膨らみ、彼らは十数人もの男たちに追いかけられ、路地裏に追い込まれていた。
「さあ、観念するんだな」
サラを背後に隠し、ツァガンは男たちと対峙する。
路地裏は細く、男たちは下馬し、剣と箒を手に、少しずつ包囲を狭めた。
「なんで、オイラたちを捕まえる!オイラたち、なにもしていない!」
「お前は獣人だ、それだけで価値があるんだよ」
じりじりと男たちが迫った。
だが、その彼らの腰に、何かがぶら下がっているのを、ツァガンは目にしていた。
腰のベルトに括り付けられた、灰色の物体は、切り落とされた、狼の、頭だ。
「そ、それ……」
震える指先で、ツァガンはそれを指し、信じられないとばかりに、頭を振っていた。
そんな彼の仕草に、狼の頭を乱暴に手で叩き、男はニヤニヤと下卑た笑みを浮かべる。
「お前も、こうなりたいか?」
「あ、あ、あーっ!」
ツァガンは大声を上げ、我を忘れて素手で男に打ちかかった。
足を踏み込み、ありったけの力でもって、男の顔面目がけて拳を振りかぶる。
「ツァガンさん!」
しかし、大柄な男と獣人の少年の体格差は、如何ともし難く、彼は簡単に捻り上げられてしまっていた。
肩の関節が悲鳴を上げ、首には、男のゴツゴツとした手が掛けられ、動けば動くほどに、彼の首筋に指が食い込む。
「はっ、離せ!」
「おい、こいつを縛っておけ」
男がそう言うと、ツァガンはあれよという間に縄で締め上げられ、口を塞がれていた。
「あ、あなたたち、正教会の者に、こんな仕打ちをして、天罰が」
八端十字架の杖を握りしめ、一人残されたサラが、震える声で訴える。
「あのなあ、嬢ちゃん」
男たちが、見下ろすように、彼女を睨みつける。
自分よりも、遥かに大きい者たちに取り囲まれて、サラは怯え、目に涙を浮かべていた。
「ここはモスクワだ。正教会より、皇帝の方が、立場は上なんだよ」
「あ、ぐ……」
満面の笑みと共に、男の拳がサラの腹にめり込む。
苦悶の顔を浮かべつつ、彼女の身体は力なく路地裏に倒れ伏していた。
暗闇に、赤い点が、一つあった。
赤い点は徐々に増え出し、いつしか巨大な赤い染みとなって、暗闇を覆い尽くしていた。
染みは平面から、立体へ。
ゆらゆらと揺らめくように、暗闇の空間を赤一色で埋め尽くす。
埋め尽くされた空間は、次第に熱を持ち、やがて耐えがたい熱気となって、そこに充満していた。
――あつい。
そう、思うも、声は出ない。
カラカラに乾いた空気が、口内を満たし、水分を奪い、声を発するのを阻害する。
どこか遠くで、何かを叩く音が響いていた。
強く、弱く、うねりを伴った音の波が、熱された空気をかき乱し、赤い色をより強く輝かせる。
それは、炎だった。
全てを焼き尽くす、巨大な業火が、暗闇の空間で、踊り狂っていた。
薄暗い、湿った部屋。
周囲を石で囲まれたそこは、人を人として扱わない、罪人の入る牢屋であった。
「う、うーん」
何か嫌な夢でも見ているのか、ツァガンはうなされ続けている。
そんな彼を心配しつつ、クラウスは寒さに身を震わせて、座っていた。
「彼、うなされていますね」
部屋の隅では、先客らしきボロを着た囚人が、クラウスに声をかける。
「起こして、あげないのですか?」
長い、腰まであるぼさぼさの黒髪を掻き、彼はそう問うた。
「手ひどくやられたんだ、寝かせてやってくれ」
クラウスは悔しそうに呟いた。だが、そう言う彼の顔にも、大きなアザが残っていた。
ツァガンの側には、同じく横たわったまま眠るサラがいる。
彼女も、暴力を振るわれたらしく、腹を抱えたまま微動だにしなかった。
「くそっ、何なんだ、あいつら」
痛む身体で、クラウスは怒りを込めて愚痴を吐いた。
故郷プロシアで騎士団員として、彼は剣の腕を磨いてきたはずであった。
だが、その腕は役に立たず、彼も、仲間も、黒衣の男たちの前に、為す術もなく捕らえられた。
その不甲斐なさに、彼の身体は憤りで震える。
「君たちを捕らえたのは、黒い服の、箒を持った男ですか?」
「……そうだ」
「親衛隊ですね、あれは少し厄介だ」
囚人は頬杖をつき、ふう、と溜息をついた。
「あれは、皇帝の子飼い。権力を威に着て暴れ回る、獣以下の人間です」
オプリーチニキとは、皇帝の直轄地である、オプリーチニナを管理する者の名であった。
だが、それはいつしか形骸化し、今では皇帝の命令のみを聞き、反逆者を掃討するという名目で、各地の町や都市で暴れ、人々を殺し、財産を奪う暴虐者の集団として、民衆からはとても怖れられていた。
これを止めさせようとした貴族は処刑され、その家族や夫人は、拷問と凌辱の末に、広場で串刺しにされ見せしめにされたこともあったほどだった。
「そんなのが、町をうろついているのかよ。とんでもない国だな」
簡単にだが、彼にそう説明されて、クラウスはげんなりとした顔を見せていた。
しばらくして。
「ん、うーん、いたた……」
「お、起きたな」
うなり声と共に、ツァガンは身体を起こした。
「くそー、あいつら、強い」
捻り上げられた時に痛めた腕をさすり、彼はブツブツと文句を言っていた。
「ツァガン、おはよう」
「クラウス、無事、だったのか!」
ぎこちない笑顔を見せるクラウスに、彼は尻尾を振って抱きつく。
「あいたた、そんなに力を入れないでくれ、俺もケガしているからさ」
「あっ、ご、ごめん」
痛そうに、顔をゆがめる彼を見て、ツァガンは慌てて離れた。
その尻尾は、しょんぼりと垂れていた。
「さて、これからどうなるかな」
腕組みをし、クラウスは白い息を吐く。
薄暗い牢屋を見回し、何か手はないかと思案する。
分厚い石壁に、床は冷たく体力を容赦なく奪う。唯一の出入り口である扉には、頑丈そうな鉄錠で鍵がされており、逃げようにも逃げられない状況であった。
「このままじゃ、俺たち、ここで死ぬしかないぞ」
「そんな、オイラ、困る」
クラウスの相棒である、騎士団の剣も取り上げられ、彼らは困り果てていた。
「サラの親父さんに頼んで、なんとかしてもらうしか……」
「無駄、ですよ」
彼の提案に、寝ていると思われたサラが、不意に声を発した。
「手紙を出しても、スオミまでは届きません。彼らは約束なんか守りません」
低く、不愉快そうに語る彼女に、クラウスは途端に何かを察していた。
「万が一、届いたとしても、外国の言うことなど信用すらしません。ルーシ人ですし」
「まいったな……」
茶色の髪を掻き上げて、クラウスは頭を抱えてしまっていた。
聖剣を手に入れ、世界を救うはずの自分が、故郷から遠く離れたルーシの地で、志半ばの終わりを迎えるとは、思いもしなかったからである。
ここは、石造りの牢屋である。寒さは身体の芯に染みこむように厳しく、凍える空気は皆の抵抗する意志を、みるみるうちに奪い取る。
三人の目の前には、絶望の言葉が、見えていた。