29 流れつく寄辺
広大な草原の中を、川がゆったりと流れている。
青い空の色を、水面に落とし込み、射し込む陽の光が、まばゆく煌めく。
若緑色の野には、所々で白や黄色、赤といった原色の花が顔を見せ、肌寒く夏らしくない陽気の中でも、強い主張をしているようだった。
「さーて、どこまで行ったかな」
そう言いつつ、クラウスは聖剣を構えて、怪物を両断する。
目の前の、巨大な羽根無し鳥は、奇怪な叫び声を上げて瞬時に消え去った。
「気配は、未だ続いています。ずっと川下までありますね」
エルージュの手が、西の方角を指し示している。
ヴァシリーが、羽根無し鳥の肉を魔法で切り裂くと、すかさずツァガンがとどめの一撃を食らわせる。
サラの魔法で、首を吹き飛ばされた鳥が、頭も無しに走り回って、ばたりと倒れた。
川沿いに、ぽつりぽつりと出現するのは、異形の怪物どもだ。
それらを、クラウス一行は退治しつつ、川に流された赤い髪の男を追いかけた。
「あれ?」
ひたすら歩き続けて、ふと、気が付いた。
「う、怪物、出ない」
ツァガンが、鼻をひくつかせている。
「どうやら、下流に気配は無さそうです。この辺りで川から上がったようですね」
「うん、そんな気、する」
エルージュの言葉に、ツァガンは同意した。
「でも、どっちだ?川の右岸か左岸か、どの方向に行ったんだ」
彼女の白い指が、その向きをさした。
示された先を、皆の目が見る。手の向く方向には、川の岸辺から、緑の草原へ、そして深い緑の森が見えている。
彼の男は、その森の中へと、姿を消していたようだった。
「北か……」
冷えた空気が吹きつける。
「兄は、どこへ行こうとしているのでしょうか」
「さあな」
青空が、薄曇りの様相を見せていた。
森の中を進むことしばらく、一行は、いつの間にか森の道に出ていた。
怪物は、森の中では、姿を見せなかった。
地面には、何か引きずったような跡が、延々と続いている。
それに気が付いたのは、ツァガンだった。
「びっこ、ひいてる」
「うん?」
「見て、足跡。片方は足の形、片方は長い形」
大地に記された謎の跡を、彼はじっと見つめていた。それは、人の足と、帯状の何か引きずったようなもの、そして円形の跡が、くっきりと残っていた。
「足、ケガしてるのかな?」
「たぶんな、そうしたら近いうちに追いつくぞ」
クラウスの声が、少しうわずっていた。
「それにしては、何も出ませんね」
周囲を見回して、ヴァシリーが言う。
今まで大量に出ていた黒い渦や、異形の怪物などは見えず、森は昆虫や鳥の鳴き声が聞こえるのみ。
「こっちでは、無いのでしょうか?」
「そんなわけないだろう、足跡が……」
突如、鳥の鳴き声が止んだ。
吹き抜ける風に、木々がざわめく。
いる。
見えないが、確実にいる。
見通しのいい、道ではなく、その脇にある、森の中から、それは現われようとしていた。
クラウスが、聖剣を抜く。ツァガンが、身構える。サラが、ヴァシリーが、杖や太鼓を握った。
「来ます!」
エルージュが、透明な声を放った。それは波紋となり、周囲の空間を明瞭に浮かび上がらせた。
草木生い茂る、薄暗い森の中で、蠢くものがくっきりと見える。
「こっちだ!」
それが、飛び出してきた。
大きな一本角の生えた縞模様のうり坊が、脇目も振らずに突進してくる。その数、十近く。
サラの魔法が、広範囲に炸裂し、うり坊は瞬く間に数を減らした。
「まだ来るぞ!油断するな!」
まるで海岸に打ちつける波のように、怪物は、次から次へとクラウスらを目がけ押し寄せてくる。
その姿は様々で、牙の大きい虎や、毛が炎と化した羊の他、有り得ない姿の獣が、奇声を、咆吼を上げていた。
ヴァシリーが、皆を護る魔法の壁を作り、サラが爆発魔法で怪物どもを吹き飛ばす。
ツァガンが、目にも止まらぬ速さでそれらを地に沈める横で、クラウスが聖剣クォデネンツを振るい、怪物を切り刻む。
エルージュは、その四人の体力を支えつつ、黒い渦を一つ一つ、丁寧に消し去っていく。
長い戦いが過ぎ、やがて怪物どもの数もまばらになった頃、俄に上空が怪しい天気になり始めた。
「これで、最後だっ!」
腕を上段に上げ、クラウスは一気にそれを振り下ろす。
袈裟懸けに斬られた巻き角の鹿は、けたたましい悲鳴を響かせて、地に倒れ消え去った。
「あ、雨ですよ」
ぽつり、ぽつりと、大粒の雨が、落ちだした。
「クラウスくん、一旦、雨宿りしましょう」
「ああ」
雨は次第に強さを増し、やがて上も見ていられないほどの本降りが、森一帯に訪れた。
サラは、エルージュが広げた翼に隠れるようにして、木陰まで移動し、男三人は腕を掲げつつ、同じように別の木に身を寄せる。
「急に降ってきましたね」
濡れた髪を絞りつつ、サラはため息をつく。
「あーあ、しばらく動けないぞ、これ」
「参りましたね」
ヴァシリーも、太鼓を雨避けに空を見上げる。
「サラ、私の翼の下なら、雨もかかりませんよ」
「え、でも、エルージュさんが濡れちゃいますよぅ」
「平気ですよ。白鳥の翼は水を弾きますから」
「じゃあ、お言葉に甘えちゃいますねっ」
「はい、どうぞ」
笑顔で楽しそうな、二人を見て、ツァガンが鼻の下を伸ばしていた。
「オイラも、エルージュと雨宿り、したい」
「あっ、こら」
お尻が浮きかけたツァガンを、クラウスの手が尻尾を掴んで引き留めた。
「あ、あぅ」
「このスケベ野郎。お前どさくさ紛れで、何をするつもりだ」
「な、な、何も、しない、よぅ」
「嘘つけ、エルージュの身体に抱きつくつもりだろう」
クラウスの目の先では、サラがエルージュに抱きついている。
「だ、抱きつくなんて、しない。本当」
目が、泳いでいた。
「……分かりやすいな、お前」
尻尾を掴む腕に、一段と力が入った。
「んんんっ、尻尾、やめてっ」
「うるせぇ、ツァガンは俺たちと雨宿りだ、いいな!」
「そんなぁ」
「諦めてくださいね、ツァガンくん」
そう諭すヴァシリーだが、仮面の下から、笑いがこぼれていた。
降り続いた雨が、ようやく止みだした。
一行は再び、赤い髪の男を追うべく、森の道を歩くのだが。
「クラウス、臭い、ない」
雨で手がかりの臭いが流れたのだろうか、ツァガンの顔が曇っていた。
「エルージュ、そっちは分かるか?」
その問いに、彼女は首を傾げる。
「気配は、こっちなんですが、この先で他の気配と入り乱れていますね」
「この先?」
クラウスの双眸が、道の先を見た。
そう歩きもしない距離で、森が途切れ、道は草原の中へと続いている。
「あっ、こりゃ、ダメだ」
思わず、声が漏れた。
「派手にやっていますねぇ……」
ヴァシリーも、肩を落とした。
目の前の平原では、モスクワ軍と西側連合軍が、会戦の真っ最中であった。
両軍は入り乱れ、羽根を背負った騎兵や、槍を構えた一団が見える。
「やっぱり、ポーランドの奴らは強いなあ」
クラウスが、そうつぶやく。
プロシア騎士団員である彼は、敵国の軍の強さを、上司や先輩団員たちから、いやという程に聞かされていた。
ポーランド騎兵は、恐ろしく強い。と。
それは、今目の前で起きている事からも、あまり誇張されていないと感じた。
白い翼を背中に負った騎兵が散開し、敵を撹乱した彼らが、再び集合し、槍を構えて突撃体勢を取っていた。
密集して、敵を蹴散らす羽根騎兵は、戦場において花と称えられた。
彼らが突撃した後には、赤い花が残される。
それは、敵の血で描かれた、真紅の花である、と。
「あいつら、白い羽根、ある。エルージュと同じ、白鳥?」
ツァガンの言葉に、クラウスは軽く吹き出した。
「違うな、あいつらは人間だ。羽根は飾りだよ」
「そーなのか、オイラ、エルージュの仲間、いると思って、嬉しかった、のに」
そう言って、ふと気配に気づいて、ツァガンは振り向いた。
目が合ったエルージュが、微笑んでいる。
それが、なんだか気恥ずかしくて、彼は頭を掻いた。
しばらくして。
黄金の髪が、女の膝に乗っていた。
「うー、さ、さむい……」
髪の主は、ツァガンだ。
彼は雨に打たれたせいなのか、熱を出し、エルージュの膝に頭を預けて、唸っていた。
「本当に、身体が弱いんだな」
がたがたと震える狼の様子に、クラウスは少しだけ憐憫の顔を見せた。
「ツァガンさん、苦しそうですね」
「暖かな上衣があれば、彼にかけてください、汗が出たら拭くようにして、身体を冷やさないことです」
ヴァシリーはそう言って、荷物袋から上衣を取り出し、ツァガンに被せた。
「ツァガン、ゆっくり休みましょう。眠りは全ての傷を癒やしますから」
エルージュは、彼の頭を優しく撫でる。
その手は、シャマンが人々を治療する、慈愛と救済を持つ祈りと同じであり、また、母が子にするような、代償を求めない底知れぬものでもあった。
「……また、生えていますね」
彼女の、白い指が、それをつまんだ。
「あっ」
ツァガンの赤い顔が、一瞬だけ緩んだ。
身体が、悪寒の震えとは、違う動きをしている。
「キノコ……」
エルージュの手にある、それを見て、ヴァシリーは物憂い声を出した。
「そのキノコが、影響をしているんじゃないのか?」
自分の上衣をツァガンに掛け、クラウスは心配していた。
「はい、確かに影響はあります。それも悪い方に」
「もう生えないようにしたらどうだ」
「私もそうしたいのですが、ツァガンが嫌だと言うんです」
エルージュが、困ったとばかりに息をつく。
「なんで嫌がるんだ?抜くと痛がるくせに」
「クラウスくん、どうもおかしいんですよ」
ヴァシリーの肩が、少し震えていた。
笑っていた。
「おかしいって、何がだ?」
「まあ、見てください。エルージュさん、まだキノコは生えていますか?」
笑いながら、ヴァシリーは彼女に問うた。
「ありますね」
黄金の髪から生える、狼の耳の付け根部分に、小さなキノコが見える。
「ちょっと取ってみてください」
それを摘まむ。
その瞬間、ツァガンが小さく、微かにだが、変な声を漏らした。
「あ、あっ、あぅぅ」
びくびくと、狼の尻尾が震えている。
顔が、苦しみとは違う、悶えているような恍惚としたものになっている。
足が、もじもじと動いた。
「え、何だこいつ」
「ツァガンくん、気持ちが良いみたいですよ?」
「はああ?」
「エルージュさんに、キノコを取られるのが、相当快感らしいですね」
笑うヴァシリーだが、クラウスは怪訝な顔をしている。
「でも、俺だと痛いって、言っていたぞ」
「さあ、その辺の理屈は、私にも分かりません。ただツァガンくんは、クセになっているようですけどね」
言い切って、ヴァシリーは吹き出した。
「気持ち悪いです」
容赦のない言葉が、サラの口から放たれた。
日が、暮れた。
ツァガンは、気まずかった。
寒気と頭痛で、意識が朦朧としていたのは、覚えている。
エルージュに、気分が悪いと訴えたのまでは良かった。
だが、そこから何があったか、記憶にない。
目覚めたら、エルージュの膝に、己の頭があった。
頭の下には柔らかな足があり、目の前には豊かな胸と、心配そうにこっちを見る彼女の顔が見えた。
目覚めた自分を、優しく労ってくれたものの、意識が鮮明になるにつれて徐々に分かる、今置かれた状態を思うと、顔から火が出るほどに、恥ずかしかった。
「ね、ねえ、もう、起きても、いい?」
「まだ、安静にした方がいいですよ。熱も引いていませんし」
「で、でも……」
皆の双眸が、こちらを向いている。
クラウスとヴァシリーの、生暖かい目と、サラの、虫を見るような冷ややかな目だ。
「オイラ、恥ずか、しい」
「恥ずかしいとか、言っている場合ではないですよ。まずは身体を治すことが最優先なんですから」
「そうですよ、ツァガンくん」
ヴァシリーが、声をかけてきた。
「エルージュさんの言葉に甘えなさい、私たちは二人の邪魔をしませんから」
クラウスは、野宿の支度に取りかかり、サラは薪になる枯れ枝を拾いに、立ち上がる。
「もう少し、眠りますか?」
エルージュの、白い指が、ツァガンの頬を優しく撫でた。
「うん……」
それがなぜだか無性に心地よく、彼の瞼はゆっくりと閉じられる。
白鳥は、背中の翼を大きく伸ばして、狼の身体にそっと被せた。
狼の黄金の尻尾は、無意識に揺れていた。
深夜。
焚き火は、いつの間にか燠となり、炭は赤々とした色が見えていた。
周囲から、皆の寝息が聞こえる。
エルージュは、火を絶やさないよう、見張りをしながら、ツァガンの額に手をやった。
熱は、引いていた。
――よかった。
そう思うのと同時に、どっと疲れが湧いて出た。
狼の頭を、起こさないように、そっと撫でる。
毛並みのいい、黄金の髪は、燠に照らされて、キラキラと輝いて見えた。
その時、だった。
焚き火から、音が聞こえる。
ぼそぼそと、雑音混じりの不明瞭な何かが、赤い炭の向こうから響いてくる。
エルージュは、目を閉じ、ゆっくりと瞼を開けた。
瞳が、黄金色に輝いていた。
雑音だらけのそれが、ハッキリと人の声として、聞こえていた。
「それで、プスコフは、未だ無事なのか」
しわがれた、声だ。
「はい。あの町は城壁の守りが厚いので、此度の包囲戦にも、充分に持ちこたえています」
似たような声色だが、先ほどの者よりかは、だいぶ若い。
「だが、あれが落ちないとあれば、奴らは他の手立てを講じてくるだろう」
「と、申しますと」
「プスコフの背後にある、ノヴゴロドを狙うはずだ」
「まさか。奴らの手はそこまで伸びません、狙うにしても、まずプスコフを落としてからではないかと」
「いいや、そうではない。ノヴゴロドを、裏切らせる腹積もりだと、余は思う」
「私は、そうは思いません。ノヴゴロドはモスクワに忠誠を誓いました。それは父上の考え過ごしでしょう」
「それは、絶対か?」
「う……」
「人の心に絶対などは有り得ない、今日はそうでも、明日になったら、どうなるか分からん。そうで無くとも、ノヴゴロドは民会が強い、損得で物事を決める奴らだ。こちらが損と分かれば容易に寝返るぞ」
「そうなのですか……」
「早ければ、二、三日中に使いの者が戻る。それによって、兵を向けるか決定しよう」
燃え尽きた炭が崩れ、白い灰がふわりと舞った。
熱気に煽られて上昇するそれは、二つの人影を形作る。
一つは、皺だらけのヒゲを蓄えた老人。
もう一つは、精悍な顔をした、まだ若い少年だ。
「ノヴゴロド」
エルージュは、小さくその名を呟いた。
膝の上にある、狼の耳がピクピクと動いていた。




