27 消えゆく民族
遠くに、スモレンスクの城壁が見える。
川縁の、少し高台に位置するその町は、周囲に広がる草原からも、よく見えていた。
その町に、またも軍馬が出入りしている。
戦の支度に追われているのだろう。
クラウスは、そう思いつつ、目の前の怪物を両断した。
街道脇の木陰で、一行は休んでいた。
目の前で、尻尾を振っているツァガンは、いつにも増して笑顔である。
「またこんなに傷を負って……、無理はダメですからね」
心配しつつも、エルージュの腕はツァガンのケガを懸命に癒やす。
彼女の白い手から、温かな光が湧き出でて、それが痛みを散らすと共に、傷はみるみるうちに塞がっていた。
「で、でも、オイラが、無理、しなかったら、エルージュが、ケガしてたよ?」
「私はケガしてもいいのです。あなたたちの身代わりなど、いくらでもしますから」
「えーっ、それ、ダメー」
言い合いをしているようだが、その実、お互いを思いやる言葉が交わされる。
旅が続き、一日、一日が過ぎるたび、二人が共にいる時間は、次第に長くなっていた。
「仲がいいですねえ、あの二人」
ヴァシリーの顔が、仮面の下でほころんでいた。
まるで、弟が遊んでいるのを、見守るような気持ちで、彼は二人を眺めていた。
「ツァガンさん、すごい尻尾振っていますね」
「根が正直なんですよ、彼は」
サラの素朴な疑問に、ヴァシリーが笑って答えた。
「俺も、国に帰ったら、彼女作ろうかな」
「そうしなさい、そうしなさい。クラウスくんも早く女の子を捕まえなさい」
「簡単に言ってくれるなあ、ヴァシリー」
クラウスも、笑っていた。
スモレンスクの町。
この町が、モスクワ大公国の元に戻ってから、何十年かの時が経った。
かつてここは、隣国の統治下に置かれており、それより以前は、ルーシ諸公国の一つとして、交易を担い発展していた。
そんな活気漲る、大きな町の通りを、一行は歩く。
ゴトゴトと、通りを敷き詰める、木材の舗装が音を立てていた。
通りの両脇には、木造の家々が建並び、それとは少し離れて荘厳なる教会と、石造りの要塞が重厚感を出す。
人々は普段通りの生活を、過ごしていた。
「うーん、何もおかしなところはないな」
「それはそうですよ、ここスモレンスクは、警備の目がありますからね」
一見、町は平和そのものに見える。
戦争の気配は、方々で臭いはするものの、例の男が暴れた様子は、特に見受けられなかった。
この町は、ここ最近だけでも三度、隣国からの包囲に晒されており、住民たちの結束は嫌が応でも強いのである。
その中で暴れでもすれば、即座に軍が鎮圧にあたる。想像に難くは無かった。
「あっ、まずい!」
何かを見たのか、クラウスは突如、皆を路地裏へと押し込めた。
「な、なに、クラウス?」
「しーっ、静かにしろ」
不思議がるツァガンの前で、彼は人差し指を、口の前へ持っていく。
黙っていろ。と、仕草でそう伝えた。
ドロドロと、遠雷のような、腹に響く音が聞こえた。
音は次第に大きくなり、ついに目の前を通り過ぎるにあたって、その正体が何であるか、皆も理解していた。
――親衛隊!
一瞬ではあるが、目に映ったそれは、黒衣をその身にまとい、黒馬に跨がり、腰に箒と狼の頭を下げた、大柄な男どもだった。
皇帝の意を伝えると言っては、民衆を虐殺し、貴族をも手にかける、ある意味タタールよりも容赦なく、恐ろしい者たち。
彼らは、モスクワで奴らに苦汁を嘗めさせられた。
圧倒的な力の差に、屈服せざるを得なかった。
その男たちが、スモレンスクにも、姿を現わしている。
あの時の恐怖と絶望を思い出して、身体が震えた。
「一刻も早く、宿に入ろう。この町をうろつくのは、危険すぎる」
「賛成ですね、ツァガンくんとエルージュさんは、特に目立ちます。見つかったら厄介ですよ」
一行は、路地裏の狭い道を、人目を避けるようにして、宿へと向かう。
「エルージュ、手、繋ごう」
「はい」
白鳥の白い手は、狼の褐色の手が、しっかりと握り、離すことはなかった。
宿の一室。
クラウスは、ぐったりとした表情で、椅子に腰掛けていた。
窓辺には、外を窺うヴァシリーの姿と、寝台に突っ伏すサラの姿がある。
ツァガンは、エルージュの傍で、何やら耳を動かして物音を探っていた。
「まずいですね、外は親衛隊だらけですよ」
この部屋は二階にある。
そこの窓から通りを見下ろして、ヴァシリーはため息をついた。
「迂闊に外にも出られないな」
クラウスが、頭を掻いた。
「どうするか……」
「クラウス、待って」
「うん?どうした、ツァガン」
ツァガンの狼の耳が、忙しなく動いていた。
彼は壁を指さし、聞いてみろとばかりに、耳に手を当てた。
壁の向こうでは、何やら話し声がしていた。
隣室に、男たちが複数いた。
どうやら酒が入っているようだ。少々ろれつの回らない様子で、声が大きい。
「そういやあ――、あれは、どうなった?」
「あれ?」
「ほれ、あの、ペチェラ――、といったか?あの異民族は、どうした?」
「ああ、あれ――か。あれは、もう済んだぞ」
「というと、皆殺しか」
「そうだ、男と子供は念入りに殺してやった。女も全て殺した。今年は雪が無かったから、すんなり攻め込めたぞ」
「もったいねぇ、女は使い道があるだろうに」
がはは。と、笑い声がした。
「だがな、あの辺の女どもは、寝首をかくことがあると聞いてな。油断はできねえよ」
「怖い女どもだな」
「それに、殺した家族の前で、女を犯すほど楽しいものはないぞ。死んだ旦那を見て、最初は堪えてるんだが、そのうちに悦びに泣き狂うんだ。あなた、ゆるして――とな」
「へぇ、そりゃ見物だな」
「最高だぞ、異民族の女は。こっちの女と違って、ガバガバじゃないからなあ」
一段と、大きな声で、男が笑った。
「あと、何だったかな。ソランダーといったか、あの男」
「おう、シャマンとかいう、呪術師か」
「あいつは、一番最後に殺してやった。親と子、仲間が全て死んだ後に屈辱を与えたうえでだ。モスクワ大公国に楯突いた罰だ」
その言葉が聞こえた瞬間、ヴァシリーの脳裏にその光景が広がった。
森の中にある、見覚えのあるペチェラの村だが、夥しい赤い何かが流れている。
流れの元には、人々の骸が横たわっていた。
青年、老人、子供、赤ん坊。皆、目を見開いている。息はしていない。
女は全てが素裸に剥かれ、豊かな肢体を隠すことなく、風に晒している。
ヴァシリーは、それを見ていた。
ソランダーの目を介して、それを見ていた。
ソランダーの身体は、柱に縛り付けられていた。血が、全身を流れ覆っている。
身体の皮膚が至る所で裂け、中の赤い肉と黄色い脂肪が見えている。腫れ上がった顔は原形を留めていない。
衣服は、全て取り去られていた。肌に一辺の布地もない、獣同然の姿だった。
それは、彼が人ではないと宣告されたようだった。
――許さん!
聞き覚えのある、声だった。
――呪ってやる、呪い殺してやる!モスクワめ、皇帝め、楽に死ねると思うなよ!
恐ろしいまでの憎悪を孕んだ、言葉が吐き出された。
彼は、残りの生命全てを使って、おぞましい術を放った。
――お前たちは、欲望に呑まれた!渇きを癒やすのは、人の血肉を啜るしかない!呪われし赤い熊だ!
それは、呪いであり、未来でもある。これから起きることへの、予言でもあった。
周囲の音は全く聞こえない。ソランダーの鼓膜は、拷問によって破裂していた。
黒衣の男が、剣を、ソランダーの口内に押し込んだ。刃先は地面に対して垂直を保っている。
剣が、動いた。
縦に、口から下腹部までを一直線に――。
「はあっ!」
ヴァシリーが、突如息を吐いた。
身体が、震えを止めない。呼吸が、荒かった。
「はあ、はあ、そ、そんな……」
吐き気が、こみ上げた。双眸は恐怖で見開かれている。
「ソランダーさん……」
涙が、溢れた。
ソランダーは、死んだ。
それも、人としての尊厳を踏みにじられ、拷問と屈辱を与えられた挙げ句、殺された。
苦しみ、怒り、形容できないほどの憤りが、ヴァシリーの脳に飛び込んだ。
あまりにも大きすぎる、呪詛の力に、頭が締め付けられる痛みに襲われた。
「ヴァシリー、落ち着いて。深呼吸をしてください」
うなり声を上げる彼に、エルージュが助けに入る。
遺された思いに捕らわれてはいけない、この呪詛は強すぎる。敵味方、関係なく降りかかるこれは、同調した者を片端から蝕む危険性がある。
ヴァシリーの背中を、やや強めに叩き、エルージュは何かを呟いていた。
隣室からの笑い声は、さらに続いていた。
「あと――、あっちはどうだ。サモヤジのネネツといったか」
「ネネツか、まだ時間がかかるな。ここで取れる油を使って、トナカイに火を付けるのは、よかったんだがな――」
「タールの運搬に手間がかかる。それにあまり上手くいかないのが問題だ」
「まあ、あっちはそのうちだ。ペチェラが滅んだと聞けば、従順になるだろう」
「それと、もう一つユグラか。あれは富農どもに任せよう」
「あの辺の富農は――、ストロガノフといったか。自分たちの土地を皇帝直轄地に差し出すぐらいだ、俺たち親衛隊には逆らわんよ」
「しかし、ユグラの抵抗は激しいぞ。貴重な毛皮を商売にしているからな」
「なあに、ストロガノフとユグラは交易仲間だ。奴らを欺いて成り代わるのは、簡単だろう」
「だな、奴らは人間と獣の合いの子だ。ここが少しばかり足りねえのよ」
「違いねえや」
どっと笑い声がした。
クラウスの顔が、真っ青だった。血の気が引いている。
自分たちを助け導いてくれた、北方諸民族が襲われ、ペチェラが既に消えた。
彼ら諸民族のシャマンの祈りは、勇者であるクラウスを支える祈りでもある。
それが一つ、失われた。このままでは、残る諸民族も、いずれは――。
「まてよ、じゃあテングリに行く前のことは……」
彼は思い返していた。テングリに行けと、聖剣クォデネンツが示す前に、何があったかを。
異形の怪物どもが、ひっきりなしに押し寄せて、クラウスは狙われた。
朝昼晩と、休憩中に、食事の前も。時と場所、安寧の時間は破られ、彼らは気力と、体力をすり減らした。
あれは、聖剣の力が目覚めきっていないのだと、その時は判断した。
だが、真実は違った。
勇者を護る、祈りの民族が、一つ消えたからだった。
消えたその場所から、怪物は侵入した。
地の底の進軍を阻む勇者がいる。邪魔をする勇者は、叩き潰せと。
漆黒の悪意をその身にまとい、怪物はクラウスを屠らんと襲いかかっていたのだ。
「このままだと、勇者への祈りが潰えるのは、時間の問題ですよ」
ヴァシリーの額から、汗がしたたり落ちる。
「サーミと、ヴェプサ。あの二つは、どうなんだ」
「分かりません。ただ、どちらも大国の影響下にあります。急いだ方がいいでしょうね」
「ヤコフさん、かなりのご高齢ですよね。元気だといいんですが」
クラウスらを守り、一人、ヴェプサの村で戦っているヤコフを思って、サラが涙した。
「ヤッパ、ヤコフ、ギィダン、ソランダー、チョスヴァ。みんな、オイラの仲間。同じ獣人の仲間……」
ツァガンの声も、いつになく暗い。
沈黙を打ち破るように、またも隣室から物音がした。
扉が開き、複数の男の足音がする。
乱暴で、下品で、遠慮を知らない、暴虐者のそれは、笑い声と共に聞こえていた。
「おうおう、もう酒を飲んでいるのか、いい気なもんだな」
「俺たちは一仕事済んだんだよ、後は寝るだけだ」
「リヴォニアで動きがあったというのに、寝るのかよ」
「なに?」
「おう、ポロツクに近いところでな、村が一つ壊滅していた。俺たち(モスクワ)の仕業かとも思ったが、どうも違うらしい」
「すると、敵方のか?」
「いいや、それでもない。聞いた話だと、一人の男の仕業だとか」
「はああ?一人ぃ?」
「それも、赤い髪の薄汚い乞食らしい。そいつがリヴォニア方面で暴れている。俺たちもリヴォニアの奴らも、何が何やらだ」
「ええ……、なんだそりゃ」
「だがな、好機ではある。あの乞食は魔法を使うらしく、要塞だろうが、城壁だろうが破壊を続けている。どんなに守りを固めようが、壊れた所から侵入は易い。それに、乞食は兵とも違うから、敵も防ぎようがないだろう」
「敵でも味方でもない、男か」
「そうなるな。まあ、利用させてはもらうがな」
乾いた笑い声がした。
汗がしたたって、床に丸い染みが出来た。
「あいつ、だ」
クラウスの喉が、その言葉を絞り出すように、言った。
それは、赤い髪の男のことだった。
男は、ヴァシリーの兄であり、故郷プロシアの町を破壊した男でもあった。
その足は、休むところを知らず、次はリヴォニアへと向かっていた。
「戦争のただ中に、突っ込んできやがったか」
クラウスの双眸が、笑っていた。
「ヴァシリー、ポロツクは、どっちの方角だ」
「ここ、スモレンスクより、西です」
エルージュに支えられて、ヴァシリーは大きく息をした。
先ほどよりも、体は落ち着いたものの、それでも悪寒と震えは、未だ彼を襲っている。
声に、力が無かった。
「俺たちも、西に向かうぞ。今度こそ、あいつを仕留めてやる」
「待ってください、リヴォニアは戦争中ですよ」
「戦争中だろうが、行くぞ。これは俺たちにとっても好機なんだ」
止めるヴァシリーの言葉を振り切るように、クラウスは決断した。
「ですが、外はもう日が落ちます。出立は明日にしませんか、クラウス」
窓辺に射す、赤い陽の色は、今日という一日の終わりを告げようとしていた。
エルージュは、ヴァシリーの様子を心配しつつ、クラウスにそう提案した。
ヴァシリーは、寒いのか、時折身体を震わせている。
「……分かったよ、出かけるのは明日からだ。今晩はゆっくり休むことにしよう」
仕方が無いといった風に、クラウスが言うと、エルージュは少しだけほっとしたような笑顔を見せた。
窓から見える、西の風景は、夕陽で燃えている錯覚を、見せた。




