26 その目の先に映るもの
目の前で、白い翼の女が、くるくると踊っていた。
長い黒髪を優雅に靡かせ、その手に持つ太鼓を軽快に叩き、聖剣に、勇者に、彼女は踊り祈りを捧げる。
それは、朝と夕方の一日二回あり、太陽が昇り始めた頃に、祈りは行われ、一日の終わりである夕暮れ頃にも、彼女のしなやかな身体は、舞い踊った。
白鳥の女が跪き、頭を深く彼へと下げた。
黒髪が、はらりと落ち、白い首筋が、その隙間からのぞき見える。
彼が勇者の使命を果たすまで、白鳥の女は彼に従う定めであった。
北へと向かう、街道の途中。
空の行き足が、日に日に疾まり、季節がようやく春らしくなった。
風は南からの温かさをもたらし、道の両脇に広がる草原も、瑞々しい碧さを帯び始めていた。
その草原の中にある、ぽつんと生えている大木の下で、クラウスはぼんやりと考え事をしていた。
どこか遠くを見ているような、その目の先では、黄金の狼耳と尻尾を持つツァガンと、大きな白鳥の翼を持つエルージュに、銀色の髪が日の光に輝くサラの三人が、仲良さそうに遊んでいた。
「白鳥の、女か」
ぽつりと言葉が漏れた。
――あいつが惚れるのも、無理はない、か。
そう、思った。
ツァガンは、エルージュに一目惚れをしていた。
――胸、大きいもんな。
未だ、成長途中のサラと、大人であろうエルージュを、頭の中で比べてみる。
厚い衣服に覆われているが、ほどよく熟れたその双つの果実は、たわわに実り、男を誘うように揺れていた。
祈りの踊りを披露した時の、腰の動きから考えて、尻の位置も高く、すらりと伸びた両の足は、白く艶めかしく輝いているのだろう。
そして、東の世界の住人である、獣人の例に違わず、たくさんの子宝にも恵まれそうではある。
「俺が迫ったら……」
おそらく、拒否はしない。
勇者の求めに応じて、白鳥の女はその身を捧げるのみ。
どす黒い感情に押し流されて、彼女を欲望のままに貫き引き裂こうとも、彼女は大人しくそれを受け入れるはず。
よからぬ考えが、彼の頭を支配しつつあった。
「そういう馬鹿なことは、だめですよ」
突如、ヴァシリーの声が、背後から聞こえた。
「全部、見透かされていますから。エルージュさんは、何でもお見通しですよ?」
仮面の下の、ヴァシリーの目が、ひややかだった。
「だったら、あいつはどうなんだ」
クラウスが、遠くで笑っているツァガンを、指さした。
「ツァガンのやつ、エルージュのすぐ隣で、それを考えているはずだぞ」
彼は何かを言ったのだろうか、横にいるエルージュが、笑っていた。
「あいつ獣人だもんな、そのうち獣同然に彼女を襲うぞ。素裸にして、組み伏せて、後ろからやるに違いない」
「そんなの、許すわけないじゃないですか。そういうことをしたら、クラウスくんへの祈りが無くなってしまいますよ。だから絶対に……」
「絶対とは言い切れないぞ。あいつは盛りのついた犬だ、腕力じゃあエルージュよりも上だ。力でねじ伏せたら、後は決まっているだろうが」
クラウスの手が、卑猥な仕草を見せていた。
ヴァシリーは、ただただ呆れている。
「ねね、エルージュ、あのね」
満面の笑みを浮かべたツァガンが、隣で尻尾を振っていた。
「はい、少し待ってくださいね」
「う、うん」
呼びかけられた彼女は、サラに魔法を教えている最中であった。
なだらかな草原の丘陵地帯に、三人は腰を下ろし、雄大な自然の中で、日の光を全身に浴びている。
「それで、腕をこう動かしてください。そうすればより広範囲に魔法がかかります」
「こんな単純な動きなんですね、初めて知りました」
「ええ、魔法やシャマンの術は、本来単純なものなのです。人の気持ちが、そのまま反映されますからね」
そう言って、エルージュは優しい笑顔を見せていた。
ツァガンには分からない、魔法というものを話し合う二人だが、それでも彼は、二人が楽しそうにしているのを見て、とても幸せな気持ちで胸がいっぱいだった。
「私、ヴァシリーさんに、魔法を見せてきますねっ」
教えて貰ったそれが嬉しかったのか、サラは弾むような足取りで、ヴァシリーの元へと向かう。
次第に遠ざかるその後ろ姿を確認しつつ、ツァガンがさりげなく身体をエルージュの傍へと近づけた。
「エルージュ」
「どうしました、ツァガン」
「えへへ、その」
微笑み、返事をする彼女に、ツァガンの顔も自然と笑みがこぼれた。
「ん、その、あの」
何を言って良いのか、適切なそれが出てこない。
ツァガンの顔が、恥ずかしいのか、おのずと下を向いた。
「あら」
「うん?」
「ツァガン、またキノコが生えていますよ」
エルージュの細い腕が、彼の頭へと伸びる。
「あふん」
頭のキノコが抜かれると共に、背中を駆け抜ける鋭い快感が襲った。
ツァガンは、思わず気の抜けた声を出していた。
「このキノコ、しつこく生えるんですね。私の術で生えないようにしましょうか」
「はぇ?な、なにそれ」
「二度とキノコがつかないようにするんです、すぐ済みますよ」
「もう生えない、の?」
「はい」
だが、その提案に、ツァガンの顔が曇った。
「やだ」
「どうしてですか?キノコが生えると気になりますよ」
ぶんぶんと、ツァガンの頭が振られる。
「気になっても、いい。オイラ、キノコ、生やしたい」
「でも」
「オイラ、エルージュに、キノコ、取ってもらいたいもん」
「何を言っているのですか、キノコが生えるのは、身体が弱ってきているからですよ。放っておいたら大病の元になりますから」
「それでも、いい」
「困った人ですね」
キノコを防ぎたいエルージュだが、一方のツァガンはキノコを生やしたい。
聖剣の勇者の仲間に、彼女は強く出ることが出来ず、困り果てていた。
と、そこへ。
「おうおう、いい雰囲気じゃねえか、二人とも」
「あら、クラウス」
背後から近寄った者は、クラウスであった。
勇者の登場に、エルージュは笑顔で彼を迎え、ツァガンは少しだけ不満そうな顔を出していた。
「クラウス、あっち、いってて」
口を尖らせたツァガンが、呟いた。
「おっ、なんだあ?俺が邪魔だっていうのか?」
「そ、そうじゃ、ない、けど」
「ハッキリ言えよ、お前」
エルージュの隣に、どっかりと腰を下ろすと、クラウスの腕は自然と彼女の腰へと回された。
「あっ、クラ、ウス」
「どうした、ツァガン」
クラウスが勝ち誇った顔で、エルージュの腰から尻へと手を動かした。
「だ、だめ、それ、そんな、やめて」
ツァガンの顔が、泣きそうになっている。
目の前で、エルージュがクラウスに弄ばれている。
彼女は、目を伏せたまま、その凌辱に耐えている。頬に、ほんのり紅みが射していた。
「あ、あ、う、うわああん!」
あまりの衝撃の強さに、ツァガンは思わず、その場から逃げ出していた。
「あーっはっはっは!バッカだなー、あいつ」
脱兎の如く走るツァガンを眺めつつ、クラウスが笑う。
「からかっては、いけませんよ」
笑いすぎて咽せるクラウスを、エルージュが諫めた。
「ああん?どこがだ。意気地の無いツァガンが悪い」
「彼は、彼なりに勇気を出しています。それを笑うなんて、失礼です」
「ふん、あれが勇気だと?ただの小心者のくせに」
クラウスの腕が、エルージュの肩を抱き寄せる。
「あいつがやる気ないなら、先に俺がやるまでだ。だろう?」
「それは、お断りします」
彼の顔が間近に迫るのを、エルージュは静かに押しとどめた。
「なんだ、俺を拒否するのか?」
「私は神々に仕える従者の身。地上の人と交わるつもりは、ありません」
「お高く止まっているつもりだな」
クラウスが、エルージュの身体を押し倒した。
本当にするわけではない、単純に分からせてやるまでだと、軽い気持ちだった。
「したいのなら、お好きにどうぞ。白鳥を穢す勇気があるのなら」
彼女は、静かに目を閉じた。
突き放した、その言い方に、男の心が苛立った。
男の腕が、女の衣服を捲り上げる。
ひやりとした涼しい風に、彼女の両の足が晒されていた。
「うっ」
だが、その動きは中途で止まった。
何か悪いものを見たかのような、動揺した目を、クラウスはしていた。
ものを言わず、黙って衣服は元通りに戻される。
「悪い、俺が間違っていた」
それだけ言い、彼はエルージュに背を向けた。
捲り上げた、衣服の中に見えたものは、太ももの半ばまで黒く染まった、女の両足だった。
肌にぴたりとつく服や、泥などの汚れではない、足自体がそのものの色である。
彼女の祖霊である、白鳥の特徴は、その背にある翼だけではなかった。
――やっぱり、彼女は人間では、ない。
目の当たりにした現実に、心が動揺しきっていた。
人間と違う、異形の姿の女だ。
その女に、一瞬でも欲情を抱いていた、その事実が恥ずかしかった。
「人間でない女は、嫌ですよね」
草の上に倒れたまま、彼女は言った。
「あ、いや……」
「隠さずとも分かります。自分と違うものは、皆認められないものですから」
優しく言い聞かせるような物言いだが、それはどこか冷たく突き放した、そして遠くのもののように、聞こえる。
「さっきのことは、忘れてくれ。頼む」
「分かっています。一時の、迷いです」
クラウスは、何も言わず立ち上がった。
緑の草の葉が、ひらひらとその身体から剥がれ、舞い落ちる。
あのまま、エルージュを抱こうと思えば、それは出来たはずだった。
その証拠に、彼女は抵抗など一切しなかった。
勇気があるのなら。と、言っただけだった。
その度胸があるのは、彼自身も重々承知していた。
女を抱くのは、初めてでは無い。
商売女ではあるが、幾度も肌を重ねたこともある。
だが、それらの女は、人間だった。最低限、人間だったのだ。
身体が異形の女など、西の世界にはいない。
手足の欠損などは、異形のうちに入らない。それはあったものが失われただけだからだ。
いくら容貌が整っていようとも、背中に白鳥の翼と、足が黒く染まった女など、人間とは認められない。
住むべき世界が違う、獣人なのだ。
心のどこかに澱んでいたそれが、ハッキリと形を取っていた。
分け隔ててはいけない。同じ仲間なのだから。
その思いが強くなればなるほどに、異物を排除しようとする思いも強くなる。
クラウスの胸が、相反する苦しみに灼けた。
「あなたが、勇者の使命を果たすまで、私はあなたに付き従います。たとえ、人間と思われなくとも、あなたの使命を支えるのが、私の務めですから」
彼が、遠ざかる気配がした。
残されたエルージュは、ぼんやりと天を見上げている。
いつもと変わらない青空が、広がっていた。
「……エルージュ?」
そんな青一色の視界の片隅に、狼の耳が見えた。
「ツァガン、ですか?」
「うん」
耳が、嬉しそうに動いていた。
「あ、あの、さっき、ごめん、なさい。オイラ、どうしていいか、分からなくて、その」
「気にしていませんよ」
「で、でも、エルージュが、心配で、その、あの」
起き上がろうとする彼女を、ツァガンの手が助ける。
その動きの最中、彼の目は、少しだけまくれ上がった、その部分を凝視していた。
「エルージュ」
「はい」
「足、黒いんだ」
「……はい」
「白鳥と、同じ、だね」
その言葉に、彼女は伏せていた顔を、彼に向けた。
目の前の、狼の男は、笑顔だった。
「オイラもね、狼。尻尾と耳あるの、エルージュと一緒」
ぱたぱたと、ツァガンの尻尾が、揺れていた。
大きく、毛並みのいいそれは、今の気持ちを表すように動く。
「祖霊が白鳥の人、オイラ、初めて見た。熊とかトナカイは見たことあるけど」
「白鳥は、珍しいですか?」
「うん、父さんに聞いたこと、ある。昔は白鳥の氏族もいたけど、今はもういないって」
「そう、ですか」
「でも、白鳥、残ってた。テングリのてっぺんに、白鳥住んでた」
声が、弾んでいた。
「オイラ、村に帰ったら、父さんに自慢する。白鳥の氏族いたって、この目で見たって、言うんだ」
「ツァガンの村は、どこにありますか」
「えっとね、森と、草原の、境にある。川があって、湖も、ある」
彼の心に浮かんだ、懐かしき故郷の風景が、おぼろげにだが、エルージュにも見えた。
それは、自然豊かな、東方世界の原風景だ。
どこまでも広がる、蒼き天があり。地上には、緑生い茂る深い森と、草がざわめく眩しい青い草原が地を覆う。澄んだ水はその草原を縫うように流れ、やがては大きな湖へと注ぎ込む。
人は、そのただ中に生き、祖霊となる獣を崇め、火を焚き、祈りを捧げる。
天に、神々に、地に、自然に生きる全てのものに。
日々の暮らしを感謝し、今日は昨日よりも、より良い日であるように。
明日は今日よりも、より良い日になるように。
願いは、シャマンが祈りとして、自然に、神々に捧げる。
素朴ではあるが、強い力を持つ、東の世界のいつもの景色の中で。
変わることがない、いつもの――。
「それは、素敵なところなのでしょうね」
「うん、エルージュにも、見せてあげたいな、オイラの故郷」
そう言って、ツァガンは、彼女の横に腰を下ろす。
二人の距離は、さっきより、ほんの少しだけ縮んでいた。
「痛い目を、見たようですね」
何も言わず、黙って座り込むクラウスに、ヴァシリーはそう言った。
「だから、ダメだって言ったでしょう。クラウスくん」
「クラウスさん、何をしたんですかぁ?」
「サラちゃん、クラウスくんは、身の程知らずの悪いことをしようとして、罰が当たったのですよ」
「えーっ、そうなんですか?幻滅ですぅ」
笑いを堪えているヴァシリーと、単に興味津々のサラ。
彼は反論する気も起きずに、全てを聞き流していた。
「ところで、サラちゃんは、他に何を教えてもらいましたか?」
「えっとですねー」
クラウスの背後では、楽しそうな二人の声がする。
そして、目の前では、狼と白鳥が、仲良さそうに寄り添っている。
――田舎、帰りたいな。
寂寥の感が、彼の心を埋め尽くし、それは次第に望郷の念へと募っていく。
彼らの旅は、未だ途上であった。




