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18 勇敢なるペチェラ

 空の色が、目に見えて褪せていた。

夏の陽射しは日増しに弱まり、世界の北に住まう諸民族の大地には、早くも冬の訪れを思わせる、北風が吹き始めていた。

「サラ、いい加減に諦めろよ」

 ネネツのシャマンである、ギィダンの天幕の前で、クラウスはサラを見てため息をついた。

 サラは、ネネツの飼い犬である、白い犬を抱きかかえて、いやいやと首を振る。

「いーやーでーすー!ワンちゃんと一緒がいいですぅー!」

「その犬はギィダンさんのものだ、連れて行けないんだよ」

「やーだー!やだやだやだ!」

「困りましたねぇ……」

 クラウスとヴァシリーは、顔を見合わせ、困り果てた。

 もう今日にも、ここを発たないと、行動できる時間が無くなってしまう。

 夏はとうに過ぎ、季節は次の秋へと突入している。

 秋が過ぎれば、直に冬がやって来る。

そうすれば、彼らの足は恐ろしく遅くなる。凍える寒さと、降りしきる雪は行く手を阻み、川の道は結氷して、進むにも困難がつきまとう。

 聖剣を探すにも、雪の中を這いずり回る羽目になる。

 クラウスは、意を決して、サラに言い聞かせた。

「サラ、お前子供じゃないって言ったよな?」

 こくり、と彼女はうなずく。

「つまり大人だ。大人は分別がつく、だめなものはだめなんだ」

 サラの目が潤んでいた。

「俺たちも、犬を連れて歩く余裕なんか、ない。自分の面倒を見るので、精一杯なのは、分かるだろう?」

 サラは仲間を見た。

 クラウスと、ヴァシリーに、そしてツァガンがいる。

 皆、その時、その時を懸命に生きている。世界を救うという重圧に、押し潰される事無く、歩いている。

 特にヴァシリーは、彼女のわがままにも、充分応えてくれていた。

自らも、兄の影に怯えているというのに、それでもサラを可愛がってくれた。

 それを思うと、これ以上の自分勝手な行動は、許されないことだった。

「……分かりました」

 涙を、一粒落として、サラは決断していた。

「サラ、寂しかったら、オイラの、尻尾、触っていいぞ」

 ツァガンが、サラの目の前に、黄金の尻尾を差し出した。

「……いらないです」

 尻尾が、ぴしゃりと、叩かれた。


 空気が冷たさを帯びだした。

天にある太陽は、沈む時刻を日ごとに早め、大地は闇夜に覆われる時が、長くなっていた。

 ネネツの次はペチェラだ。

ネネツのシャマンのギィダンは、そう彼らに言い、一行を南へ向かうように案内した。

 極北ツンドラの荒野を背にし、彼らは再び暖かな針葉樹林地帯へと突き進む。

 開拓民の残した、森の中の道を辿って、南に向けて足を動かす。

 黒い渦の出現頻度は、以前よりも増し、その度に彼らは戦いを強いられる。

強大になりつつある敵だが、それに対抗するように、クラウスらも剣の腕や魔法の力が強くなるのを、肌で感じていた。


 ペチェラの村。

そこに辿り着いた一行を待ち受けていたのは、信じられない光景であった。

「うそだろ」

 小さな、小さな異民族の村なのだが、家々は天幕ではなく、丸太を組んだ木造のものだ。さすらうことを止め、定住を始めた狩猟民の、ささやかな暮らしがあった。

 だがそこに、明らかに異質なものが混じっている。

「おら!いけ!」

 黒衣の服を着た、大柄な男たちがいた。

 腰に箒と狼の首を下げ、異形の獣を足蹴にし、逃げ惑う村人を捕まえている。

捕らえられた女の一人は、物陰へと連れ込まれ、悲痛な叫び声を上げていた。

「なんで、親衛隊オプリーチニキが、怪物を使っているんだ?」

 黒衣の男たちは、犬ほどの大きさの、黒い獣どもを操り、女子供にけしかけては笑っていた。

「私にも、分かりません。あれらは兄の影響のはず……」

 一行は、物陰に身を隠しつつ、様子を窺う。

 黒い獣は、確かに黒い渦から出る、異形の怪物であった。

その証拠に、酔った親衛隊に蹴り飛ばされては、瞬時に消え去っているからである。

 犬のようで、犬でない、巨大な角を持つそれは、村を縦横無尽に暴れ回っていた。

「助けないと」

 サラが、八端十字架の杖を握りしめる。

「で、でも、黒い服のやつ、すごく、強い」

 モスクワでの恐怖を思い出し、ツァガンの尻尾が垂れ気味になる。

 と、その時、親衛隊の一人が、何やら大声で喚きだしていた。

「ソランダー!顔を出せえぇ!」

 それに続き、もう一人も声を出す。

「ペチェラのソランダー!いるのは分かっているぞ!大人しく出てこい!」

 だみ声が、村を埋め尽くす。

 黒衣の男どもが、がなり立てる中、村にある、ルーシ人と変わらない民家の一つから、一人の男が、姿を現わしていた。

 黒髪の、鳥の羽を髪飾りにした、長いひげの中年男だ。

 彼の手には、見覚えのある、丸い太鼓が握られていた。

「何用だ」

 男はそう言い、黒衣の男どもを睨み付けた。

「ソランダー、お前は人心を惑わし、モスクワ大公国に楯突いた。よって皇帝ツァーリの命により、お前を処刑する!」

 偉そうに、男はふんぞり返る。

 しかし、ソランダーと呼ばれた男は、微塵も動じなかった。

「あの、いかれた皇帝か、そんなものは無効だ」

「なあにぃ?」

「無効だと言っている、気狂いどもめ」

「まだ刃向かうか、古びた風習の亡霊如きが!」

 その言葉を発端として、双方は身構えた。

 ソランダーの身体の周囲から、陽炎がゆらりと立ち上り始める。

 黒衣の男の放った異形の犬が、彼を殺すべく、跳躍した。

 ソランダーの目は閉じられるも、手は動き、ゆっくりと太鼓を叩く。

 響くその音と共に、犬は悲鳴を上げ、見えない何かに吹き飛ばされていた。

「ヴァシリー、俺たちも加勢しよう」

「はい、クラウスくん」

 ソランダーの目が開く。瞳は黄金色に輝き、獲物を狙うように男どもを睨む。

 そこへクラウスたちが、乱入した。

 彼を取り囲む、異形の犬を蹴散らし、親衛隊目がけて肉薄する。

「怪物ども!少しは役に立て!」

 男たちは、犬を繋いでいた紐を外し、自らも剣を抜く。

 サラが、八端十字架の杖を振り回し、魔法を放つ。吹き飛ぶ犬。

 ツァガンが、異形の犬の角をへし折り、地にめり込む衝撃で、その身を叩きつける。

 ヴァシリーが、犬から放たれた魔法を防ぎ、ソランダーと合流した。

「あなたが、ペチェラの、シャマン、ですね」

 息を切らせて、ヴァシリーは問うた。

「そう言うお前は、春の呪術師ヴィスナーシャマンせがれか」

「はい」

 二人の目前で、クラウスの剣が煌めきつつ、犬どもを切り伏せていく。

「ここに来た理由は、分かって、いるな」

「はい」

「俺は、お前に言葉を託す。だがその前に、こいつらを片付ける」

「分かりました」

 ソランダーの頭上に、一羽のカラスが、姿を現わした。

「お前、名は何という」

「ヴァシリー、です」

「よく聞け、ヴァシリー。お前はライチョウの氏族だ、ライチョウはお前を庇護するもの、心の内でそれをイメージしろ、そうすれば彼らはお前に力を与える」

 ドン。

 太鼓の音が、力強く鳴り、傷を負ったクラウスらの身体を、一瞬で癒やす。

「勇者、クラウス!」

 地に響く声が、した。

「お前は、勇者だ、リーダーだ!全体を見極めろ、これは狩りと同じだ!」

 ペチェラは狩猟民族だ、人々は複数で狩りを行う。

一人がリーダーとして、全体を見、仲間は獣を仕留めるために、犬を使って森を駆け回る。

 そうして、獲物を追い込み、捕らえる。

 クラウスは、今、その狩りを行うリーダーとして、この場にいた。

 右手には、肉体を駆使して戦う、ツァガンの姿が。

 後方では、魔法を詠唱する、サラの姿が。

 そして、ヴァシリーとソランダーは、サラに合流しようと、していた。

「私は、クラウスくんを、援護します」

 ヴァシリーが目を閉じ、そして開く。

 黄金色の眼が、勇者の背を、見つめる。

叩かれる太鼓の音と共に、クラウスの身体が、ほのかに光った。

――ヴァシリーの、魔法か。

 次第に疲れを感じていた、クラウスだが、温かい光が身体を包むと、その思いは、たちまちの内に、吹き飛んでいた。

 力が沸き上がる。

 剣を持つ、腕が、重さを感じなくなる。

 彼は、目の前にいる黒い犬を、まとめて数匹、両断した。

「くそ、情けねぇ、怪物どもめ!」

 黒衣の男どもが、じりじりと、後ずさった。

「退け!一度、撤退だ!」

 怒号が響く。

 男たちは、クラウスらに一瞥を加えながら、一目散に走り去った。

「まて!逃げるな!」

 それを追いかけようと、ツァガンが動いた。

「止めろ、ツァガン!深追いするな!」

 だが、クラウスの声が彼を制止する。

 ツァガンは、追うのを踏みとどまった。


 ソランダーの家にて。

丸太を組んで作られた、定住民のための家は、隙間風が入らないよう、土や泥で目止めされ、床には熊や鹿とおぼしき敷物が、壁には、無数のシャマンの装束が掛けられ、一種独特の空気が、支配していた。

「さっきは助かったよ。ペチェラを代表して、礼を言う」

 皆に、温かな飲み物を配り、ソランダーは、にこりと微笑んでいた。

「それにしても、親衛隊オプリーチニキが、怪物を使うとはな」

 クラウスが、ぼやいた。

「あれは、皇帝ツァーリと、その取り巻きである、親衛隊の周囲に出現している」

 ソランダーが、一行に語った。

「特に、皇帝。あれが即位してから、数は増えた」

「それは、また、一体」

 ヴァシリーも、問う。

「俺にも分からない。ただ、ヤツが大病してから、何かが変わったのは、確かだ」

 モスクワ大公国の皇帝は、いつも何かに苛立っていた。

 その原因は、幼少期の貴族ボヤールの横暴とも、生来の神経性とも、言われている。

 幼くして、父を失い、皇帝として即位させられた彼は、傍若無人の貴族による、恐怖に怯えていた。

貴族たちは、深夜になると、寝静まった宮殿に侵入し、就寝中の彼の部屋に転がり込んでは、延々と大声で罵り合いの喧嘩をしていた。

 また、ある時は、亡き父の寝室に、泥まみれの靴でやって来ては、土足のままで寝台に寝転んだりしたという。

 しかも貴族は、常に酒に酔っており、幼い彼が抗議しようとも、聞き入れることはしなかった。

 そんな幼少期を過ごした彼は、徐々に精神を病みだした。

 犬猫を、町で捕らえてきては、高い塔の窓から落とすのを、止めなかった。

 貴族の子弟たちと、モスクワの町中を、暴れ回るのも、度々あった。

 だが、それも大人になるにつれて、次第になりを潜めた。

 生死を彷徨う、大病をするまでは。

 大病は、確実に彼の命を奪い取ろうとしていた。

それは、今までに彼が犯した事への、反動でもあった。

 しかし、そこに思いがけないものが、這い寄った。

 這い寄ったものは、命を救う対価として、彼の心に住み着いた。

 病から、奇跡的に生還した彼は、人が変わったように、親政を開始した。

 恐怖という名の、親政を。


「俺たちは、基本的に争い事は、好まない」

 ソランダーは、ため息をついた。

「我らペチェラ――、いや、サーミ、ヴェプサ、ネネツ、ユグラ、その他の者たちは、揉め事を避ける。人の少ない地域だ、争っても何もならない」

――確かに。

 クラウスは、そう思った。

 人口が少ないと、人は増えるのも難しい。

 放っておいても、勝手に増えるルーシ人とは、訳が違うのだ。

「だが、あいつらのやり口には、ほとほと困っている。遊牧、狩猟の民を縛り付け、毛皮税といって蓄えを奪い、女子供を奴隷として連れ去る。獣は片端から狩り尽くされ、森を切り拓き、凍れる大地を腐らせる。所業を上げれば、切りが無い」

 いつの間にか、外は暗い闇夜に、覆われていた。

「奴らは、また来る。皇帝ツァーリの命は絶対だ、守らないと自分たちに死が降りかかる」

 そう言って、ソランダーは立ち上がり、シャマンの装束に身を包んだ。

金属の人型飾りが、いくつもついたそれは、背中に大きな房状のものが、一対、付けられていた。

「俺はワタリガラスの氏族。だが、羽根はとうに失せた、今やこの服のみが、往時を物語るすべだ」

 太鼓の音が、一つ、鳴った。

「男が、いる。男は、上を向く、鹿は、夕陽に向かい、男は、凍れる地へ、歩く」

 また、一つ。

「石」

 また、一つ。

「風」

 また、一つ。

「其は道、幾つもの人が、通りし道。人は、印を残す」

 ソランダーは、息を吐いた。長く、長――く。

「我ら諸民族は、いずれ消える。ライチョウのメリャが、ルーシになったように。獣人は人と同化する」

 彼の目は、悲しい未来を、見つめていた。

 黒い渦は、人々が生み出した。

人が欲を知り、欲にまみれ、森を拓き、地を掘り起こした時から、それは始まった。

 凍る大地が溶け、腐臭が巻き散らかされて、地の底のものは、地上へと進んだ。

そして地上は悪しきもので覆い尽くされ、それらはやがて――。

「だから、シャマンは、勇者を選ぶ。世界を維持するために」

 何も、クラウスで遊んでいる訳では、ない。

 それを倒せるのは、勇者、だけ。

 双頭の鷲を倒せるのは、クラウス、だけ。

 全ては、もう決まっている。

 ソランダーの目が、黄金色に輝いていた。


 その日の夜。

 家の外に立つソランダーに、背後から二つの影が忍び寄った。

「ソランダーさん」

 クラウスと、ヴァシリーであった。

「なんだ、寝ていろと、言っただろうに」

 彼の黒い羽根飾りが、風に揺れていた。

 サラとツァガンは、育ち盛りのせいなのか、ぐっすりと夢の中である。

「手伝いますよ」

「ええ」

 二人は、そう言って、力強くうなずいた。

「仕方の無い、二人だな」

 ソランダーの、ばちを持つ手が、ゆっくりと前方を指し示した。

「この先に、奴らの隊長格がいる。一人だけマントをしているから、分かりやすいだろう」

 ヴァシリーが、詠唱を開始した。

 クラウスの身体が、ほのかに光る。

「俺は、周りの下っ端をやる。お前たちは、隊長格だけを目指せ」

「分かりました」

 ソランダーとヴァシリーの目が、光り輝く。

 クラウスは、静かに剣を抜き放った。

「頭さえ潰せば、奴らは瓦解する。所詮は寄せ集めだ」

「はい」

「いくぞ」

 三人は、歩き出していた。

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