16 湖畔の民ヴェプサ
オネガ湖に、短い夏が訪れていた。
海のように広いその湖は、高まる気温と共に濃い紺碧の色を示し、打ち寄せる波の白さとも相まって、ここが北の世界だというのを忘れさせる、そんな風景であった。
あの悪夢のような嵐から心機一転し、クラウスらはラドガ湖を発ち、オネガ湖へと繋がる川を遡ること数日をかけて、ようやく一行はヴェプサの住む地へと辿り着いていた。
道中、水の王の言う通り、川や湖に現われる黒い渦と遭遇し、出現した異形のものどもを片付ける。
それを幾度か繰り返すうちに、クラウスはいつの間にか己の剣の腕が上達していることに気がついた。
故郷プロシアを出発した時よりも、明らかに違う、足を大地にしっかりと付けている、そんな安定感を、彼は覚えていた。
クラウス、ツァガン、サラ、ヴァシリー、彼ら四人はサトコの船と別れ、これより陸路で彼の地を目指す。
北の異民族たちを訪ねて。
湖が背後に遠く望んでいる。
岸辺近くは草地で覆われているが、そこから少し離れると、途端に深い森が姿を現わす。
ここもかつてはノヴゴロド公国の領土で、重要な交易品である、豊富な木材と獣皮の一大産地として、少しずつ開拓をされてきた。
あそこは『半ば夜の国』。
誰がそう言ったのかは知らないが、この地はそう呼ばれ、夜の霧の中からリスやテンなどが姿を現わす、商人にとってまさに夢のような国だと言い伝えられていた。
だがそんな国も、入植者の活動によって闇夜が明るくなり、焼き拓かれた森が増えるにつれて、獣たちはみるみる数を減らしていった。
獣が消えたことで、危機に直面するのは異民族であった。
獣皮や海獣の牙等を、貢ぎ物として納める見返りに、平穏無事に暮らしていた北方諸民族だが、獣の数は年々減る一方だ。
高まる需要と追いつかない供給に、ノヴゴロド商人はさらに辺境の奥へと手を伸ばすことにした。
道中、今まで協力してきた異民族を、奴隷として徴発しながら。
そして、追い詰められた彼らは、武器を手に立ち上がった。
自分たちのための毛皮どころか、貴重な人手までも奪われては生きてなどいけない。と。
減る貢ぎ物に、異民族の抵抗は激しくなる。
ノヴゴロドからその権利を引き継いだモスクワ大公国は、彼らに強行な態度を取りつつあった。
四人は、森の中の道を歩く。
頭上には猛禽類のノスリだろうか、餌でも探すように、大空に翼を広げて舞っている。
ヴェプサの村へと急ぐ中で、クラウスはヴァシリーにそっと近づいた。
彼らの先には、楽しそうに歩くツァガンとサラの後ろ姿がある。
お互いに年が近い者同士、仲が良さそうにも見えていた。
「ヴァシリー。俺、お前に言っておくことがある」
「何ですか、クラウスくん」
ヴァシリーは仮面を少し上げ、驚いた目で彼を見た。
「俺、許したわけじゃあないからな」
「……分かってますよ」
ヴァシリーは、ついと視線を逸らす。
「でもな、水の王が全てを解決する者だと言った。だから……」
歩き続けて汗ばんできたのか、クラウスの肌がキラキラと輝いて見える。
彼は額を軽く袖で拭うと、少しだけ足を速めた。
「全部、解決してやるよ。黒い渦のことも、お前の兄貴のことも」
そう言って、振り向いた。
彼の姿は、茶色の髪に、眩しいまでの笑顔がある。
沈みかけていたヴァシリーの心に、それは明かりをもたらすものであった。
「クラウス、くん」
「行こう、ヴェプサはもうすぐなんだろう?」
「そうですね、この森を抜けた先です」
ヴァシリーは仮面の下で微笑み、大きくうなずいていた。
夏の森は虫たちの羽音が賑やかだが、彼にとってそれは気になるものではなかった。
ヴェプサの村。
「へへ、オイラ、一番乗りー」
木造の素朴な教会の前で、ツァガンは意気揚々とそれを見上げた。
教会の屋根は、例に漏れず東方正教会の特徴である、たまねぎ型をしており、松の木から切り出された輝く銀色の八端十字架が、その先端に取り付けられていた。
「もう、ツァガンさん、足早すぎですよー」
荒い息を吐きながら、サラも教会前へと辿り着く。
「お前ら、はしゃいでるなあ」
「仲が良いことは、素敵なことですよ。クラウスくん」
年長者二人も、笑いながらやって来る。
「さて、ここがヴェプサだな……、って、あれ?」
あることに気がついたのか、クラウスは辺りを見回していた。
「う?人、いない?」
頭の耳を動かして、ツァガンが呟いた。
木造の、丸太を組んで作られた家々が建ち並んでいる、何の変哲も無い村なのだが、まだ明るい時刻だというのに、人々の姿はどこにも見当たらなかった。
「おかしいな、誰もいないのか?」
「クラウスさん、あの家から、煙が出ていますよ」
村のはずれの、教会から最も遠い場所にある一軒家を指して、サラは言う。
「行ってみましょう、クラウスくん」
「ああ」
今度は負けないとばかりに、サラとツァガンは足早に走る。
青空には、一羽の鳥が、ゆっくりと円を描きながら飛んでいた。
「ごめんくださーい」
木の扉を叩きながら、サラは声をかけた。
少し間を置いて、中からしわがれた男の声が聞こえてきた。
「開いているよ、どうぞ」
「クラウスさん、開いていますって」
扉の前に立つクラウスを見て、彼女はそっと身を引いた。
「お邪魔します」
クラウスの手が扉にかけられ、ゆっくりとそれが開く。
明るい外の光が、薄暗い室内へと差し込むにつれて、徐々にそれははっきりと見えるようになっていった。
サーミの天幕ではない、木造の民家の、ルーシ人と変わらないその家は、異民族の住むものとしては、あまりにも異質であった。
室内には、家具や暖房器具があり、毛皮の絨毯に、狩りに使う弓矢や道具と、そして、シャマンの服や太鼓が、ところ狭しと並べられていた。
そして、その中心に一人、年老いた男が座っていた。
「よく来たね、勇者クラウス」
男は足腰が弱いのか、立ち上がることなく、そう言った。
「こちらに来てくれないか、そこだと声が遠くてかなわん」
そう言って、銀色の髪の男は、目を細めて笑っていた。
「えーと、失礼ですが、あなたがヴェプサのシャマンなのですか?」
クラウスは膝をつき、穏やかに微笑む男に問いかけた。
目の前にいる男は、銀というよりも白髪に近い、背も曲がった皺だらけの小さな老人だ。
手の指は枯れ枝のように細く、その指の何本かは、あらぬ方向を向いていた。
衣服は暖かそうな毛織物で出来ており、サーミと似たような幾何学的な紋様が刺繍されていた。
「そうだよ、ワシがヴェプサのシャマンだ。名はヤコフという」
「ヤコフ……、というと、正教会の名ですね」
サラが、そう言った。
「ああ、ワシは正教会信徒の両親のもとに産まれた。ヴェプサは教化が進んでいるからな」
「でもなぜ、シャマンをしているのですか?」
「選ばれた、からだよ。お若いシャマンよ」
ヤコフは、うんうんとうなずく。
「ワシは選ばれた、そして正教会から転んだ。選ばれたら絶対だ、逃げることはできない、受けなければいけなかった」
クラウスの胸が、ちくりと痛んだ。
「そうしてワシは、氏族のために祈り続けた。くる日もくる日も毎日、この歳までずーっとね」
外から、ピョー、ピョーと何かの鳴き声が聞こえてきた。
「ノスリが鳴いている、またアレが出たようだね」
ヤコフはゆっくりと立ち上がっていた。
「ヤコフさん、どこへ」
「ちょっと外へ行くのさ。お若いの、ワシの太鼓とばちを取ってくれないか?」
ふらつくヤコフをクラウスが支え、ヴァシリーは壁にかけてあるシャマンの装束と太鼓を手に取った。
太鼓は、ヴァシリーのものよりも一回り以上も大きく、小柄なヤコフの身体には、おおよそ不釣り合いなものであった。
「ヤコフさん、太鼓と、服です」
「ああ、服はいらないよ、太鼓だけでいい」
太鼓が必要ということは、装束も必要と思ったヴァシリーだが、ヤコフにいらないと言われて、少々戸惑っていた。
「服はね、目明きが使うんだ。ワシはそうでないから」
「えっ」
太鼓を受け取ったヤコフの目が、黄金色に輝いていた。
ヤコフの家の上空で、ノスリが飛んでいた。
「また出よったな、地の底の亡者め」
しわがれた、しかし力強い声が、ヤコフの口から漏れ出でた。
「おいヴァシリー、どういうことだ、目明きでないって」
目の前で、背筋を伸ばし威風堂々と歩くその姿は、先ほどまでの老人と同じ人物だとは、とてもではないが思えなかった。
「まさかとは思うんですが、でも、うーん……」
「ヤコフじいさん、さっきと、ぜんぜん違う」
「ヴァラームの時と、同じ雰囲気ですね」
ツァガンとサラも、突如変わった空気に、驚きを隠せなかった。
そうこうするうちに、村の各所から、黒い渦がいくつも現われ、そこから異形のものどもが姿を見せていた。
「俺たちも、手伝うぞ」
「そうですね、クラウスくん」
のしり、のしりと重量のある足取りで、異形どもはこちらへとやって来る。
その形は様々で、鼻先から自身の身の丈ほどもある、巨大な角を生やした虎や、明かに頭と胴体のバランスがおかしい、家と同じ大きさの化鳥と、その数は十余りだ。
この道中、一行が散々苦しめられてきた、ものどもだった。
異形どもは、力を付けてきたのか、モスクワ近郊の時とは桁違いの強さにまで成長していた。
助太刀しようと、クラウスが剣を抜こうとした、その時。
「去ねい!クソどもが!」
大地を震わせる、老人の咆吼が空を裂いた。
裂いたと同時に、見えない何かが地を駆け、そして異形は弾けた。
いや、正しくは、引き裂かれた。
「えっ、あ、ああっ?」
家ほどもある異形どもが、この矮小な老人の叫びに屈した。
目の当たりにした現実に、クラウスは気の抜けた声しか、出せなかった。
「ようも、好き勝手しおってからに、ケツの青い小倅め!」
ドカン、ドカン、と太鼓が叩かれ、またも異形は引き裂かれる。
しかし、やられっぱなしだった異形どもも、反撃するべくその身を大きく跳躍させた。
化鳥が、凄まじく甲高い声を出し、魔法の業火を繰り出す。
「わわ、ヴァシリー、魔法、まほう」
「分かってま……」
皆を守ろうと、ヴァシリーが魔法の障壁を出そうとする。
だが、それよりも早く、渦を巻く業火もろとも化鳥の身が二つに分かれた。
「な、な、なんですか、この強さ」
どさくさに紛れて、サラはヴァシリーにしがみついた。
みるみる内に、異形どもは数を減らし、残るは角のある虎が一頭のみ。
「これで、終いじゃ!」
その言葉と共に、虎は裂けた。
クラウスは、呆然としながら、それを見ていた。
そして、またも太鼓が激しく叩かれる。
音の波に乗って、黒い渦は弾けるように、消えていった。
「少し前にな、赤い髪の男が、この村に来よった」
ヤコフが、一行に背を向けながら、語った。
「そしてな、あの異形どもを大量に置いて行った。だから村人は避難した、森に身を隠したのだ。村人の力では対抗できない、だからワシが片付けをしとる」
森の奥深くから、犬の鳴き声がした。
「ヴェプサは狩猟の民。森に守られて、皆は生きている。全て終われば人は戻る」
くるりと、老人は振り向いた、そしてクラウスを黄金色の眼で見た。
「ワシの目は、異界を見る。勇者クラウスよ、お前にワシのヴィジョンを見せよう」
ツァガンの、黄金の目とも違う、輝くシャマンの眼に捕らわれて、彼は身じろぐことも忘れていた。
赤い夕陽が、枯れかけた草原を、赤く紅く染め上げていた。
その赤い草原に、少年が一人、動いていた。
少年の影は夕陽で長く伸び、大地にへばりつくように落ちていた。
赤い紅い、炎のように赤く揺らめくのは、少年の髪だ。
彼の手には、一振りの輝く銀色の剣があった。
それは、錆一つない、まるで彼のためにあつらえたような、不思議な剣だった。
少年は、何かと戦っていた。それは黒くて大きいもの。
赤い夕陽が逆光となって、少年の顔は見えない。黒くて大きいものは、二つ頭の鷲だ。
腕が動き、剣の反射で一瞬だが、少年の顔が見えた。
そこには、茶色の髪のクラウスがいた。
「剣は眠りについている。白い世界、白い鳥に守られて」
ヤコフの声が、クラウスを再び現実へと引き戻す。
「聞け、若きシャマンよ、ワシはお前にこれを伝える!」
太鼓の皮が裂けよとばかりに、ヤコフは叩いた。
「右に杯、胸に掲げ、夜明けに向かえ」
またも、太鼓は一つ鳴る。
「森」
またも、一つ。
「山」
またも、一つ。
「其は全てを阻む、雪の山、だが山の雪は、積もることはない」
そうして、また、一つ。大きな吐息と共に、ヤコフの目は閉じられた。
閉じたと思ったら、そのまま膝をついた。
「ヤコフさん!」
クラウスが、ヴァシリーが、彼を助け起こした。
力なく開かれた、ヤコフの両目は、真っ白に濁っていた。
「ヤコフさん、その目……」
ようやく、クラウスは気づいていた。彼が盲目であることに。
「ワシはな、シャマンになるうえで、両の目を代償にした。正教会であることを捨てるために、その証として両の目を神々に捧げ、異界を見る力を得た」
上空で、ノスリが旋回をしている。
ヴェプサはノスリに守られし氏族だが、その特徴はサーミと同じく、残ってはいない。
「ふう、ふう、歳は取りたくないものだ。祈るのにも体力が要る、だがそれも限界に近いよ」
大粒の汗が、ヤコフの額から流れ落ちる。
「サモヤジ」
「え?」
「サモヤジの地、ネネツへ行け。カマスを知る唯一の者がいる」
「カマス、って何ですか」
クラウスが問うも、ヤコフは知らないとばかりに首を振った。
「ワシも知らん。ただネネツだけが知っている」
そう言って、彼は北の方角を指さした。
「この先に、ホルモゴルィという町がある。ネネツへはそこを通るといい」
ゆっくりと、ヤコフは立ち上がった。両の足が大地を踏みしめる。
「さあ、ここは危険だ。いつまた奴らが出るとも限らない、今のうちに進みなさい」
「でも、俺、ヤコフさんを手伝い……」
ここに一人残される男を思い、クラウスは心配そうに彼を見た。
「いいや、勇者は立ち止まってはならない。そう決まっている」
思わず、クラウスはヴァシリーを見た。
あの時の、彼の叫びと同じ事を、この老シャマンは言った。
これがシャマンの総意だというのなら、クラウスは進まなければいけない。
「行け、勇者クラウス。ワシが生きているうちに、世界を救ってくれ」
小柄な老人は、盲た目で彼を見、そして笑った。
「はい、ヤコフさん」
クラウスも、無意識に十字を切り、頭を下げた。
そして四人は村を後にした。
北へと向かう、細い森の道を、一行はひたすらに歩いた。
道中、黒い渦からまたも異形どもは姿を現わし、その度に彼らは剣を抜く。
そうして、戦いながらクラウスは思う。
これらを、たった一人で立ち向かっている老人は、なんて強い人なんだろう、と。
夏の日は、いつまでも空にあり、北の大地は遅くまで明るいままだった。




