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15 サトコ

 むかし、むかし。

とはいっても、ほんの十年前のこと。

 まだ芸人スコモローフだったサトコは、ある日湖のほとりで弦楽器グースリを弾いていた。

 当時からずば抜けた腕前を持つ彼だったが、その頃は生憎と宴会などが規制され、芸人や商人たちは、こそこそと暮らさざるを得なくなり、彼の腕も鈍る一方であった。

 そんな日常ではあるが、腕だけは錆つかせてはいけないと、彼は日夜、湖で人知れず練習を重ねていた。

 音楽は佳境に入り、彼も周囲の風景が見えないほどに熱中していると、目の前の湖面に、不思議な格好のものがいるのに気がついた。

 月夜に照らされて、青白く光る身体のものは、自らを水の王だと名乗り、彼の演奏をいたく気に入って、彼を援助したいと申し出た。

 それからは、何をしても不可思議としか言いようのないことが起き、彼の周りには、金銀財宝に不動産、商船や人々と、様々なものが集まるようになった。

 こうして富と幸運を手に入れた彼は、その元手を上手く利用し、瞬く間にノヴゴロド一の豪商にまで昇り詰めた。

 人生は順風満帆であった。その日も彼は、他の町との交易を終え、ノヴゴロドへと帰ろうと、ここラドガ湖までやって来ていた。

 だが、俄に空は怪しくなり、湖の水は見る見るうちに荒れ、船は操縦不能に陥った。

高波は船を洗い、青い手のような波が水面にいくつも見える。

 ゴウゴウと唸る強風の中で、彼の耳に、彼の名を呼ぶ声が聞こえた。

 ここに来て彼は、水の王にそれ相応の見返りをしていないのに、気がついていた。

 船上の商品や金銀財宝、それらを彼は水の中へと放り込むが、それでも声は止まない。

 サトコ、サトコと、その声は続き、終いに彼は自らその身を投げるに至った。

 訪れた水底の国にて、彼は水の王をグースリ演奏で喜ばせ、水の王もそれに大層ご満悦となり、ようやっと彼は許されることと相成った。

 見返りの品は、忘れること無く届けるよう、約束をして。


 ラドガ湖の底。

クラウスとヴァシリー、そしてサトコの三人は、透明な青色の世界を歩いていた。

 周囲は、どこまでも続く砂の底と、時折転がる岩場、そしてその合間を優雅に泳ぎ回る魚やエビが見受けられる。

 砂のあちこちからは湧水が出ているのか、かげろうのような水流がゆらゆらと立ち上り、まるで薄絹のヴェールのように揺れていた。

「そんなことが、あったんですか」

 水底の国へと続く、湖底の道は、きめ細かい砂地で覆われている。

本来ならば息などできないはずなのに、三人は地上と同じように息をしていることに、少し疑問を持ちながら足を進める。

「もう、だいぶ前の話ですよ。あの時の私は若かった」

 サトコは、そう言って苦笑いをしていた。

 彼の話は、元芸人らしく面白おかしいものであり、長い水の道を、二人は退屈せずに進むことができていた。

「ほら、もうすぐ着きそうですよ」

 そう言って、サトコが目の前の岩場を指し示す。

 ぷくぷくとあぶくが沸き立つ、その岩場の陰からは、何やら賑やかな声が聞こえていた。


 わあわあと、歓声がしていた。

 水底の国は、ラドガの湖底にある、地上とは違う異世界とも言うべき世界であった。

 そこに住まう人々は、皆青白い肌を有しており、人間と似たような姿なのだが、首のところのエラと、身体から生えるヒレや鱗が、人間とは違う様を見せていた。

「うええん、帰りたいですぅー」

 そんな魚のような平たい顔の人々に囲まれて、サラは一人、泣き喚いていた。

「サラー、諦めて踊れー、踊らないと、オイラたち、帰れないぞー」

「そっ、そんなこと言われても。恥ずかしくて、そんなのできませんっ」

 黄金の耳と、黄金の尻尾を器用に動かし、ツァガンは縮こまっているサラに声をかける。

 二人と水夫たちは高波で攫われた後、ここ水底の国へと連れてこられていた。

 水の底とはいうものの、地上と変わりなく動き、息が出来るのは、水の王のおかげだと人々は言い、海と湖水を支配するその威光にひれ伏せと、彼らに説明していた。

 そして、帰りたければ我々を楽しませないといけない、と水の王をはじめ魚の人々に迫られて、ツァガンたちは半ば強制的に、水の王の宴会に参加させられていた。

 ツァガンは楽しそうに、船の水夫たちはぎこちなく笑いながら、水底の住人を喜ばせようと、身体を揺すり手や足を動かしていた。が。

「うーん、踊りは飽きたーなあ」

 人々よりも一段高いところから、低い声がした。

「王さまぁ、次は何をしますかぁ」

 エビの如く長いひげの者が、笑いながら問いかける。

 王と呼ばれたものは、他の人々よりも何倍も巨大で、青白い肌に海藻のような長い髪とひげを持つものであった。

 王は、頭にウニで出来た王冠と、水草を編んだ豪華な服を身にまとい、手にはウミユリの杖を持ち、ゆったりとした動作で、ツァガンたちを見回した。

「次ーは、相撲でーも、しようーか」

 のんびりと、だが腹に響く声が、周囲にした。

「おお、王さまの好きなやつですねぇ」

「おーい、獣人ーの、おまーえ」

 ウミユリの杖が、ツァガンに向く。

「オイラ、か?」

「そうーだ、おまーえ。相撲は知っているーか?」

「知っている。オイラ、相撲強いぞ」

「なら話ーは、はやーいな」

 王はそう言うと、お付きのものに支度を始めさせた。

 宴会場の真ん中を空けさせ、岩の隙間にいたウミヘビたちを使って土俵を作り、昆布をまわしに見立てて、体格の良い魚のものに、それを付けさせる。

「おまーえも、まわしつけーろ」

「オイラのところ、そんなのつけない。上裸だけで、いい」

 ツァガンはまわしを付けず、上半身をはだけて土俵に立つ。

「ま、ま、また、裸……」

 それを見ていたサラは、顔を真っ赤にさせて、恥ずかしそうに手で覆い隠してしまった。

「よーし、準備ーは、いいーな」

 土俵の仕切り板の上には、ツァガンと相手の力士が相対し、そして勝負を仕切る行司役の三名が、並んでいた。

「はい、見合って、見合って」

 大きなホタテ貝の軍配を持つ行司の声に、二人は手を付き、屈み込んでお互いを睨み付ける。

 ツァガンの体格は、中肉中背だが筋肉がほどよく身体を覆う、一切無駄のないそっぷ型だ。

一方、相手方の力士は、ツァガンよりも背が高く、腹回りもかなりある、でっぷりと肥えたあんこ型だ。

 傍目から見ても、ツァガンが不利と思われる組み合わせであった。

「時間いっぱい、待ったなし!」

 かけ声がかかる。

「はっきよーい、のこった!」

 その言葉と同時に、目にも止まらぬ速さで、ツァガンは相手の懐深く潜り込み、両腕で素早くまわしを掴み込むと、そのままもろ差しの格好で相手を投げ飛ばす。

 土俵上で起きた一瞬の出来事に、行司は呆然とし、水の王は目を丸くして驚いた。

「やったあ、オイラ、勝ったぁ」

「お、おーい、もう一番だ。もう一度、取り組みーしろ」

 周囲がざわつく中、水の王は似たような体格の力士を選んで戦わせてみるも、結果は先ほどと同じ。

重心の低いツァガンには、相手の投げや変化技は通用せず、あっという間に下手を取られて転がされる。

 ならば、と水の王が、さらに大柄な相手を探している時、岩場の向こうから、誰かがやって来る気配がしていた。


「おお、サトコでーは、ないーか」

 姿を現わした、その者を見て、水の王は手を叩き喜ぶ。

周囲のものたちも、見知った顔の者が来たということに、皆手を叩いて歓迎していた。

「お久しぶりです、水の王」

 毛皮の帽子を取って、サトコは頭を下げた。

だが、喜ぶ王とは裏腹に、彼の顔は笑みも何も見せない、冷たい表情のままだ。

「ツァガン、サラ!お前ら生きていたのか!」

「二人とも、無事だったんですね!」

「あっ、クラウス、ヴァシリー!」

 思わず走る二人の姿を見て、ツァガンは尻尾を盛大に振り、服をはだけた状態で飛びつく。

「わああん、クラウスさーん」

 涙を浮かべつつ抱きつくサラにも、彼は優しく抱き返していた。

「サラ、よかった、よかったなあ」

「も、もう、帰れないかと思いましたよー」

「みんな元気、オイラ嬉しい!」

「本当によかった、一時はもうダメかと……」

 お互いに再会を喜び、四人は抱き合い笑顔を見せる。

 ツァガンは尻尾を振り、サラは泣き笑い、クラウスとヴァシリーも、涙を浮かべながら無事であったことに安堵していた。

「サトコの旦那、来てくれたんですね!」

「旦那ぁー」

 水夫たちも、雇い主であるサトコの姿に喜び、涙を流す。

 そんな中。

「サトコ、久しぶーりだな。今日は何しーに来た?また財宝が欲しーいのか?」

「いいえ」

 サトコの指が、グースリを爪弾く。

「私は、借りを返しに来ました」

 短い弦の音が、周囲に聞こえた。

音に合わせて、足元の砂から泡が一つ、ポコリと飛び出る。

 次の音と、また泡が一つ。

ポコリ、ポコリと泡がサトコの身体を覆うように、浮かんでいた。

 よくよく見れば、それら泡の中には、彼のこれまで築いてきたものが映っている。

 それには、金銀。

 それには、宝石。

 また、あるものには、不動産と家族。

 そして、交易船。

 それは、今の彼を表すものであり、彼が今まで歩んできた人生そのものであった。

「これらを」

 サトコは重い口調で呟くと、グースリの弦を強く弾く。

音の波紋が広がるその瞬間、泡は一斉に弾け飛び、泡の中に映っていたものも、水の中へと溶けて消えていった。

「これらを、あなたに返します」

「サトコ、お前正気ーか?」

「その代わりに、ツァガンくんとサラちゃん、そして水夫たちを、私に引き渡してください」

「サトコさ……」

 思わず口出ししそうになるクラウスを、ヴァシリーが首を振り制止する。

「しかーし、それでは割りに合わーない。お前の要求ーは多すぎーる」

 水の王は難しい顔で、サトコを睨む。

 人間でありながら、異形の自分と対等に渡り合える、その度胸を王は高く買っていた。

 彼も、時代が時代なら、英雄と言われる器を持つ者なのだ。

 その彼が、海と湖水を支配する自分に、無理難題を突きつけている。

 要求が多いのなら、それに見合う貢ぎ物が必要である。

そしてこの場合、釣り合う品は、人の命だ。

「そうーだな、一つ条件がーある」

 もそもそと服を着るツァガンを眺め、水の王は不気味に笑った。

「相撲で勝負ーだ。そっちが勝ったーら、こいつらは返そーう、だがこっちが勝ったーら、お前ら全員の命を貰おーう」

「相撲だな。オイラ、頑張る」

「ダメーだ、獣人ーは強すぎーる、他のヤツにーしろ」

 自信満々のツァガンを、王は拒否した。

「そーうだな、そこの茶髪のーヤツ」

 手に持つウミユリの杖が、クラウスに向いた。

「えっ、俺?」

「お前ーだ、お前。相撲ーで勝負ーだ」

 突如、指名を受けて、彼は困っていた。

 相撲というものは、今までの人生で聞いたことも、見たこともない。

そんな状況で勝負と言われても、どうすればいいのか、それすら全く分からなかった。

「クラウス、オイラ、教える」

 ツァガンが彼にそっと耳打ちをし、相撲のルールを簡単にだが伝えた。

 丸い場の中で、相手と組み合って、相手の上半身を地面に付けるか、場の外に出したら勝ち。

 その際に、目つぶしなどの危険な技は、使用禁止。

 上半身は脱いでも、脱がなくてもいい。と。

「クラウス、下半身に力、入れる。重さ下なら、投げられない。相手は、足引っかけるか、腕の力で、転ばせるといい」

「とりあえず、クラウスくんには、勝利の祈りをかけましょうか」

「クラウスさん、頑張ってくださいね」

「クラウスくん、君は若いから体力もある。落ち着いて勝負するんですよ」

「兄ちゃん、頼むよー」

 土俵の整備が続く中で、クラウスは仲間やサトコらに声援をもらった。

 全員が生きて帰れる可能性が、自分の勝負にかかっている。そう思うと、否が応でも身体が震え、緊張で焦りが生まれてくるのを彼は肌身で感じていた。

「クラウス、もっと余裕持つ。クラウス、強い、信じる」

「分かってるよ」

 そう言って、クラウスは土俵に向かうべく向き直ったのだが。

「な、なんだあいつ」

「ぶふしゅー」

 土俵には、クラウスの身長の何倍もある巨漢のものが、彼を見下ろすように立っていた。

その胴回りは、ぱんぱんに肉で膨らんでおり、彼が両腕を回しても手も届かないであろうぐらいのあんこ型だ。

 異様なほどの肌白さに、長いひげがいくつも伸びる、巨大なナマズであった。

――こ、これ、無理だろ……。

 冷や汗が、背中を流れた。

「よおーし、準備はいいーな」

 王の合図と共に行司が二人を手招きし、お互いに見合わせる。

――でも、動きが鈍いか……?

 呼吸に合わせてブヨブヨと動く相手の腹を見て、クラウスが油断した、その時。

「はっきよーい、のこった!」

「ぶおおお!」

 目の前の巨漢が、クラウスを仕留めるべく猛然と襲いかかっていた。

「ぐあっ!」

 一瞬で視界は闇に覆われ、足元は衝撃に力を失う。

そのまま彼は投げ飛ばされようと、鎧のベルトに手がかけられていた。

「クラウスくん!」

「クラウス!しっかりする!」

 仲間の呼びかけに目を覚ました彼は、再び下半身に力を込めて、投げの姿勢からなんとか踏みとどまる。

「ぶふーっ、ぶぅー」

 相手方の魚は鼻息荒く、強引に投げに行こうとクラウスを掴むが、彼はびくともしない。

 騎士団員として、日々鍛えた足腰の粘りは強く、まるで足と土俵が一体となっているかのような、不思議な安定感が彼にはあった。

「ぐぬぬ……」

 ツァガンの言った通り、重心が下ならば、投げ技は効きにくい。

後は、腕の力で投げ飛ばせば、いいのだが。

 相手方のまわしに、手が届かない。

大柄なあんこ型の腹に阻まれて、クラウスの手は、空を切る。

――ど、どこだ、掴めるものは……。

「ぴゃあっ!」

 それらしきものを、がっしりと掴んだ拍子に、相手が悲鳴を上げた。

 彼がまわしだと思ったものは、まわしの上に乗る、ぶよぶよの段腹であった。

「おお、いいーぞ、いけいけー」

「人間なんか、つぶしちまえー」

「クラウス!がんばれー!」

 土俵の周囲から、歓声と野次と応援の声が入り交じったものが聞こえる。

 二人は組み合ったまま、息を整えつつ、お互いの出方を窺っていた。

 巨漢の相手は、クラウスを押し潰してやろうと、鼻息荒く押し込むも、彼もそれを阻止するべく全身で押し返す。

 ぐるりぐるりと二人は押しつ押されつ、何度も東西は入れ替わる。

 じりじりと足が摺られ、白熱の一進一退の攻防の中、相手の体力が目に見えて落ちだした、その時であった。

「うおおおお!」

 かけ声と共に、クラウスの足が相手の内股に引っかけられ、二人の身体が、足がくるりと一回転する。

 お互いの体が、土俵に着いたのは、ほぼ同時だった。

「ど、どっちーだ、どっちの勝ちーだ?」

 土俵上の行司は、屈むようにしてその行方を見守り、おもむろにホタテの軍配を上げた。

「勝者、クラウス!」

 一呼吸置いて、歓声が上がった。

「や、やった!勝った!」

「クラウスさん、勝ちましたよ!」

「よ、よかった……」

 ツァガンとサラ、水夫たちは抱き合って喜び、ヴァシリーは脱力し、サトコは一安心とばかりに胸を撫で下ろす。

 一方、勝った彼自身は、何が起きたのか理解ができていない様子なのか、周囲の反応に驚いていた。

「お、俺、勝ったのか?」

「ぶふー、おまえ、強いなあ」

 転がされた力士は、そう言いつつも笑顔でクラウスを助け起こす。

「水の王よ、約束は守ってもらいます」

 サトコが、そう言った。

「分かっておーる。こいつらと船は返そーう、それと」

 足元の砂から、泡が一つ、ぷかりと湧いた。

「いい取り組みだったーから、お前の借りは一つだーけ、許そーう」

「これは……」

 泡の中には、サトコの宿が見えていた。

「これーは、お前のーもの。大事にーしろ」

「ありがとう、ございます」

 サトコは帽子を取って、深々と頭を下げた。

 彼は全てを失う覚悟であった。だが、これだけは、芸人スコモローフたちのためにと買った宿は、許され手元に残ることとなった。

 それは、人々の憩いの場であり、サトコの半生を象徴する、大きな宿だ。

その嬉しさに、彼の目に涙が滲んでいた。

「実ーはな、我ら水底のものーも、あれーには、困ってーいる」

 あれというのは、例の黒い渦のことであった。

今や渦は、地上のみならず、川や湖にまで出現をしているのだという。

 そして渦から出てくる、魚とも貝とも違う異形どもは、在来の生物を片っ端から食べてしまっている。

水の王は陳情を受けて、その異形どもに何度も説得を試みたのだが、やつらは話が通じないどころか、意思の疎通自体が出来ない様子で、忠告を無視しては在来魚を食べ、身体を大きくし縄張りを広げているという。

 それにとうとう怒った水の王は、異形どもを一掃してはいるのだが、黒い渦を消すことまでは出来ないので、定期的な掃除を続けてはいるらしい。

「お前ーは、勇者ーだな」

「そうですが、なぜそれを?」

 大きなものを倒したクラウスを指して、水の王は彼を勇者と、見抜いていた。

「言わなくてーも、わかーる。お前ーは世界が選ーんだ、男ーだ。そして全てーを解決できーる者だ」

 王の背後から、クラゲたちが背中に何かを乗せて、ふよふよとクラウスのところまでそれを運ぶ。

「これーを持ってー行け。いざという時ーに、役にー立つ」

 クラゲの背にある、細長いものは、魚の形をした一振りの剣であった。

その刀身は銀色に光り輝き、片刃であるが、とても鋭い切れ味のありそうな、騎士団員の剣よりも短い、むしろナイフに近いものだった。

「それーは、ニシンを酢漬けにした剣ーだ、酒の肴にはいいーぞ」

――いらない!

 即座に頭に浮かんだそれを、彼は危うく口に出しそうになった。

 確かに、剣からは微かに酢のような匂いがする。

片刃の身は、微妙に曲線を描いており、よく見ればヒレのようなものも見えていた。

「あ、ありがと、ございま、す」

 ぎこちない、引きつった笑顔と共に、クラウスはその剣を渋々受け取る。

「それでーはサトコ、さらーばだ」

 大きな水の王の声がした。

途端に、足元の砂から大量の泡が吹き出し、水の王、そして水底の国は泡の向こうへと消えていく。

 全ては、泡であり。

 全ては、幻でもある。

 泡が、水が、混じり合って溶け、クラウスの視界が、無数のあぶくで埋め尽くされる。

「がんばーれ、勇者ーよ……」

 彼の耳に、水の王の声が、残っていた。


 波が、足元に打ち寄せていた。

気がつけば、クラウス一行は、再びラドガ湖の岸辺に立っていた。

「ゆ、夢……か?」

 だが、目の前には、見知った顔の者がいる。

狼の獣人ツァガンと、銀色の髪のサラに、仮面姿のヴァシリーだ。

 そして、グースリを持つサトコと、彼の部下の水夫たちもいる。

湖にある漁村の桟橋には、嵐の時に乗っていた船が見えていた。

「クラウスくん、夢じゃあないですよ」

 そう言って、サトコはにっこりと笑っていた。

「夢……、じゃないのか」

 呟いて、ふと彼は気づく。

その手には、ニシンの酢漬けの剣が、しっかりと握られていることに。

「現実……」

 目の前で抱き合い、喜ぶ仲間の様子を見ながら、クラウスはなぜだか微妙な顔をしていた。

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