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14 嵐

 船が、森の中の水路を、下っていた。

カレリア北部の針葉樹林は、川岸の際までその生育範囲を伸ばしており、そこにはリスや野ねずみ、ライチョウなどの小さな獣たちが、忙しなく動き鳴き声を上げていた。

「次は、ヴェプサに向かうんだったな」

 船の向かう先、ラドガ湖へと至る川を見ながら、クラウスは言った。

 サーミの村を発つ時に、シャマンであるヤッパが指し示した次なる場所は、ヴェプサだ。

 ヴェプサはカレリアの東にある、オネガ湖周辺に住まう民族で、そこに辿り着くには、ラドガ湖を経由しないといけないのであった。

「ヤッパさん、私たちに同行してはくれませんでしたね」

 サラは銀色の髪を風に靡かせて、そう呟く。

「彼は、氏族のために祈る職務があります。無理強いはできないですよ」

 そんなサラに、ヴァシリーは仕方が無いと声をかけた。

「どうだかな、俺を勇者に選んで後は勝手に頑張れよって、そういうことなんだろう?」

「それは違……」

「クラウス、それ、違う!」

 ヴァシリーが反論しようとした時、ツァガンが大きな声でそれを否定した。

「なんだぁ?ツァガンまで俺に文句あるのか?」

「そ、そ、そうじゃない!ヤッパおじさん、クラウスのこと、待ってる、言ってた!」

「はあ?」

「オイラ、う、うまく言えない。でも、おじさん、待ってるって、クラウス、信じてるって」

 黄金色の頭をわしわしと掻き、ツァガンは足りない言葉を、身体を使って表現しようとするも、それはクラウスに通じてはいなかった。

「うるせえ、この田舎者の犬ッコロが。お前、ヴァシリーに味方するんなら、今すぐ川に落っことすぞ!」

「オイラ、クラウスも、ヴァシリーも、サラも、大好き。喧嘩、よくない!」

「クラウスさん、ツァガンさんもこう言ってますし……」

 白熱する言い争いを、いい加減終わらせようと、サラが恐る恐る声を発する。

「サラ、お前はどっちの味方なんだ!」

 だが、諫めようとした彼女に対しても、クラウスの怒気は向けられていた。

「あっ、ク、クラウスさん、です……」

「そう思うんなら、黙ってろ!これは俺とヴァシリーの問題だ!」

 あまりのその怒鳴り方に、サラは怯え目に涙を浮かべる。

そんな彼女を庇うようにして、ツァガンが二人の間に割って入った。

「クラウス、サラ、泣かすの、だめ」

「泣かせていない!サラが勝手に泣いたんだろ!」

 ますますもって語気を荒らげるクラウス。

そんな彼の心に同調するかのように、生ぬるい風が川面を滑り、空にはどんよりと雲が低く垂れ込め始めていた。


 一行を乗せた船が、ラドガ湖へと差し掛かった頃、状況はさらに悪くなっていた。

 湖の水面は白く波立ち、強風に飛ばされた水しぶきが、雨粒のように船体を叩く。

船の水夫たちは、このまま進むのは無謀と判断し、船を一時避難させようとするのだが。

「このまま、進んでくれ」

 クラウスが、それを頑として譲らなかった。

「クラウスくん無茶ですよ、この天候では船が転覆する危険があります」

 思わず諫めるヴァシリーへと、彼の鋭い目線が突き刺さる。

「ヴァシリー、俺は勇者だぞ、選ばれた男なんだ。こんな波ぐらい、シャマンの護りとやらで突破できるだろう?」

「そんな無理を言わないでください、水夫さんたちまで危険に晒すんですよ」

「つべこべ言うな、俺が行くって言ったら行くんだ」

 苛立ちを見せるクラウスの様子に、これ以上の説得は意味が無いと彼は判断し、水夫たちに頼んで船を沖合へと進ませた。

 船がかなり揺れる事も考慮し、ツァガンには酔い止めの魔法をかけ、一行は振り落とされないように、船に固定された物へ掴まり、荒天ただ中の湖へと突入する。

 湖面はうねりを伴った大波が支配し、空は濃い灰色の雲が渦を巻いていた。


 ラドガ湖の中程まで来たところで、天候は最悪になっていた。

 横殴りの強い雨と、吹き抜ける強風は激しく、波はうねりを伴って高く伸び、湖面と空は濃い灰色に覆われ、もはや上下の違いは無いものとなっていた。

 そんな状況では、船は当然の如く制御不能に陥り、為す術もなく荒波の中を翻弄されていた。

「う、うわ、わわっ」

 船は大きく揺れ、強風と叩きつける大きな雨粒に、クラウスの肝が冷える。

彼は強行したことを、少しだけ後悔しつつあった。

「きゃああ!」

「サラ!オイラにつかまって!」

 吹き荒れる強風が体重の軽いサラを襲い、その身を一瞬だが、ふわりと吹き飛ばしそうになるのを見て、ツァガンの手が彼女の短い手を、しっかりと握った。

「あっ、あ、怖い、怖いよぉ」

 彼女の、大きな赤い瞳に涙が浮かぶ。

獣人は少女を守るように、己が胸に掻き抱き、少女は恐怖も相まって、彼の身体へしがみついていた。

「くそ!ヴァシリー、お前なんとかしろ!」

「無理ですよ!天候を変えるなんて、私にそこまでの力は……」

 クラウスが、恨みがましい目つきで、ヴァシリーに怒鳴りつけた。

 頭上の雲は荒々しくうねり、時折急激に吹く突風が、彼らを船体から引きはがそうとする。

雨はますます激しさを増し、絶え間なく響く雷鳴と、まばゆい稲光が頭上を駆け巡っていた。

「たっ、高波だあ!」

 そんな中、水夫の叫び声が聞こえた。

彼らの指さす方向を見れば、家一軒ほどもある大きな波が、今まさに覆い被さろうとしているのが見える。

「あっ、うわああっ!」

 誰かの叫び声と共に、波は船の甲板を舐めるように滑り、船上のものを掠め取っていく。

「げ、げほっ、げほ!」

 濁った水が鼻や口から体内へ、休むこと無く一気に流れ込み、クラウスはその苦しさに思わず咽せる。

 湖底の泥や砂が混じった水は、彼の身体を容赦なく傷つけ、鼻から喉の奥までを、ヒリヒリとした焼け付く痛みで支配した。

 気がつけば、さっきまでいたはずの、ツァガンとサラの姿は無く、ヴァシリーも船縁ぎりぎりでかろうじて踏ん張っている状態なのが、クラウスの目に映る。

 各々が自分の身を守るので手一杯の中、またも大きく傾く船体目がけて、横腹から大波が押し寄せるのが見えた。

 濃い灰色の空に閃光が走り、それと同時に轟音の如き雷鳴が湖面を、船体を震わし、波頭を砕けさせた荒波が、彼らを飲み込もうと目前まで迫る。

「あ、あ……」

 もはや、それに対して彼は言葉すら出ず、見開いた目に、今にも崩れそうな波だけが映り込んでいた。

心臓は激しく鼓動し、汗とも雨とも分からないものが、額を次々に流れ落ちていく。

 喘ぐような呼吸に足は震え、抗いきれない恐怖が、彼の身体を縛り付け――。

 そして、視界は真っ暗になった。


 数日後。

どこまでも広がる青空と、目の前には静かにさざめく湖面が広がる。

 あの嵐が嘘のように、湖は平穏を取り戻し、水上には小さな船が浮かんでいた。

水が荒れた後は、魚が掛かりやすいのか、遠くで漁をする小船からは、楽しそうな声が微かに聞こえてくる。

 そんなラドガ湖の岸辺に、男が一人、佇む。

 茶色の髪に、腰につけた剣が僅かに揺れる。男の目はぼんやりと湖を見つめていた。

「ツァガン……、サラ……」

 男が、今はいない者の名を呼ぶ。

 嵐の最中に、二人は消えた。

大波が船を洗い流した時、彼らの姿は無くなっていた。

――死んだのだろうか。

 ふと、頭に浮かんだその言葉を、彼は振り払おうと首を激しく振る。

「いいや、きっと、どこかで生きている」

 気休めにも似たそれを、自身に言い聞かせるように、彼は呟いた。

 ここまで共に旅をし、戦い続けてきた仲間を、自分の無謀な行動で危険に晒し、挙げ句失ってしまった。

 後悔の念は尽きること無く、男の心を責め苛んでいた。

――死体は流れ着いていない。でも、生きている情報も、ない。

 二人は、生きているのか、死んでいるのか、それさえも不明なまま。

死体を見れば諦めもつこうが、手がかりになりそうな遺留品が流れ着くこともない。

 そもそも、船が転覆沈没したというのに、船体の一部や残骸が打ち上がりもしないのは、全くもって不可解であった。

「クラウス、くん」

 そんな、悲しみに暮れる彼へ、一人の青年が背後から近づいていた。

「ヴァシリー」

 彼が振り向くと、そこには仮面を被ったいつもの、ヴァシリーの姿があった。

「まだ、見つからないのですか」

「……ああ」

 岸辺に打ち寄せる波の音が、二人の耳に聞こえた。

「私も、近隣の漁師に聞いたのですが、そういったものは上がっていないそうです」

「そうか……」

 力のない返事が、クラウスの口から漏れ出でた。

「……一つ、聞いてもいいですか?」

 ヴァシリーの目が湖面を眺めつつ、彼に問いかける。

「どうして、私を助けたのですか」

 二人は目を合わせず、遠くを見つめたままであった。

「なんとなくだ」

 船が転覆した後、湖へと落ちたクラウスは、荒れ狂う波間に浮かぶヴァシリーの姿を見つけた。

 彼は、湖面に叩きつけられた衝撃で気を失っているのか、微動だにしていない様子で、波を被ろうが、うつぶせにひっくり返ろうが、全く反応する気配がなかった。

 助けないと。

そう思った時には、既にクラウスの手は、ヴァシリーの身体を掴んでいた。

 二人は荒波に翻弄されつつも、自力で岸まで辿り着き、近くの漁村に助けを求めた。

 幸いにも、その村はノヴゴロドへ向かう定期船の中継地で、彼らは人づてに伝言を頼み、他にも流れ着いた者がいないか、探して回った。

 だが、それは空しい行動に過ぎなかった。

「これから、どうしますか」

 ヴァシリーが、問いかけた。

「進むしかないだろう」

「ツァガンくんと、サラちゃんは」

「これだけ探しても、手がかりの一つも見つからない。そういうことだ」

 クラウスには、勇者としての強い護り、そして北方諸民族の祈りがついている。

 そして、その勇者を導くヴァシリーには、亡き父の護りが。

 サラには、父であるスオミ総主教の護りがあるはずなのだが、その効力は発揮されず、ツァガンに至っては、護りなどあるわけもなかった。

「次は、ヴェプサ、ですね」

「……そうだな」

「ヴァラームには、寄りますか?」

 ヴァシリーの提案に、彼は振り向く。

「そうするか。親父さんにも、知らせないと……」

 そんな事を話し合っていると、集落のある方角から、誰かが近づいてくるのが見えた。

「おーい」

 その人物は、大きく手を振っている。

「誰だ?」

「村の人……、ではなさそうですね」

 豆粒のように見えた人物が、ようやく判別できるまでに近づいた時、二人はそれが誰であるか気付き、驚いていた。

「おーい、クラウスくーん」

 見覚えのある、毛皮の帽子と揺れる衣服に、すらりと背の高い口ひげの男は。

「あっ、サトコさん!」

 ノヴゴロドの豪商サトコ、その人であった。


「サトコさん、どうしてここに?」

 息を切らせて、サトコは二人に駆け寄る。

そんな彼を、二人は驚きの目で見つめていた。

「はぁ、はぁ、ふ、船が、沈んだと聞いて、慌てて来ましたよ」

 サトコは、船がやられたとの情報を定期船の水夫から知り、宿のことを放り投げて、ここまで急行したのだという。

「いやー、この歳で走るのはキツイですね、もっと運動しておけばよかった」

 クラウスよりもだいぶ年上だが、それでも三十歳前後だという彼は、年甲斐も無く走るような年齢ではないことを、彼らに見せ笑っていた。

「でも、君たちが無事でよかっ……」

 言葉の途中で、何かに気づいたサトコは、慌てて話題を逸らす。

「あ……そ、それでですね、船が沈んだ時の事を、詳しく教えてくれませんか?」

 彼はなぜか転覆時の様子を知りたいと、申し出ていた。

「沈んだ時?」

「ええ、少し気になることがあるのです」

 クラウスとヴァシリーは、お互いに顔を見合わせる。

「そうだな、あの時は嵐で、大雨と強風が絶え間なく続いていて……」

「雷も、激しかったですね」

「湖内は荒れに荒れて、家ぐらいある高波が船に被って、船上のものを全部流して、それから、横波で船がひっくり返って」

 あの恐怖の一部始終を、クラウスは思い出すのも嫌であったが、サトコの求めに応じて渋々ながらも証言していた。

「ちょ、ちょっと待ってください、今の、高波が攫ったっていうのは?」

「え?そのままです。水の、いや、水が手のように見えて、荷物やら何やらを、こう掴むみたいに……」

「その時、誰かいなくなりましたか?」

「……ツァガンと、サラ」

 悲しげに、クラウスが言った。

「やはり、そうか」

 サトコは肩に下げた大きな麻の袋から、何かを取り出す仕草をした。

「やはりって、何か知っているんですか?」

 クラウスの声が大きくなる。

「私が昔、遭遇したものに、とても似ています」

 麻袋から出てきたのは、サトコの愛器、兜型の弦楽器グースリであった。

「これはおそらく、水の王の仕業です」

「水の王?」

「私が、今の地位にいられるのも、その水の王のお陰なのです」

 グースリの弦を、サトコは一本、爪弾いた。

 その音に呼応するかのように、目の前の湖面が俄にさざ波立ち、魚たちが驚いた様子で飛び跳ねては、深みへと潜り逃げていく。

「水の王は、私に富と幸運をもたらしました。ですが、その見返りを忘れると大変なことになります」

 美しいグースリの音色が、岸辺に満ちる。

「クラウスくん、見てください!」

「なっ、なんだあれは」

 ヴァシリーの指さす先には、泡立つ水面と、轟音を響かせて割れる湖の水が見える。

開かれたその隙間は、人一人がやっと通れるほどの道が、湖底へと続いていた。

「行きましょう、クラウスくん、ヴァシリーくん」

 グースリを携えて、サトコはその道へと歩き出す。

クラウスとヴァシリーも、目の前で起きる事柄に多少混乱しつつ、彼の後を追う。

 ラドガ湖の底は、とても夏とは思えないほどに、冷たくひんやりとしていた。

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