13 辺境の民サーミ
「あれ、クラウスだ」
サーミの村。
カレリアにある、ラドガ湖中の島ヴァラームより、北へ向かうことしばらく。クラウスら一行が着いたところは、辺境にあるサーミ人の村であった。
人々は、狩猟と漁労で日々を暮らしており、村には、北方民族共通の木と獣皮からなる、素朴な天幕の家が十ほど建ち並んでいた。
家の外には、狩りに使用するのであろう、罠や道具と共に、細長い一対の板が並べて置かれ、住居の前では、毛足の長い犬が番をするように繋がれていた。
道中、思いがけない出来事があったものの、サーミのシャマンに助けられた四人は、戦いの傷を癒やすために、暫しの休息を取るのだが。
「どこ、行くんだろう?」
水桶を手にしたツァガンは、そう言って首を傾げる。
彼の目線の先には、村のすぐ側まで迫る針葉樹林へと歩くクラウスの後ろ姿がある。
「もう、ケガ、治った、かな?」
黄金の尻尾を、ゆらゆらと揺らしながら、彼は脳天気に呟いていた。
シャマンの天幕にて。
水汲みを終えたツァガンは、天幕にいるはずの人物がいないのに、またも首を傾げていた。
「ヴァシリー、どこ、行った?」
広い天幕内には、サーミのシャマンと、サラの姿だけがあり、先ほどまでここにいたヴァシリーは、どこにも見当たらなかった。
シャマンは、褐色の頭を上げて、ツァガンを一瞥すると、再び手元の方へと視線を落とし、かまどの手入れを行っていた。
「ヴァシリーさん、用事があるって、外に行きましたよ」
サラが、小声で答えた。
「そと?クラウスも、外、行ったぞ」
「あの、それなんですけど、クラウスさん、すごく怖かったです」
天幕の絨毯に座り込むサラだが、どういうわけか、その小柄な身体をさらに縮め込ませている。
何か怖いものを見た後のような、震え怯えた彼女の声に、ツァガンはそっとサラの隣へと腰を下ろしていた。
「クラウス、怖くない。クラウス、優しい、オイラたちの、リーダー」
「そうですけど、今は違うんです。ツァガンさんは気がつかないんですか?」
「え?」
ぶんぶんと頭を左右に振り、サラは泣きそうな目でツァガンを見つめる。
「クラウスさん、ヴァシリーさんの事で、すごく怒っています。怖い目つきでずっと睨んでいるんです、ケガが治ってからずっと……」
サラの赤い瞳に、溢れそうな涙が浮かぶ。
「サラ、泣かないで」
「ど、どうしましょう、二人が喧嘩して、クラウスさんが帰っちゃったら、世界が滅んでしまいます。そんなの、ダメなのにっ」
言葉の途中で、こみ上げるものを抑えきれなくなった彼女は、ポロポロと大粒の涙をこぼしていた。
「わ、あわわ、サラ、落ち着いて」
「どうしたらいいの、なんでこうなったの。わ、分から、ない、分から、ないよぉ」
声をしゃくり上げ、サラは溢れる涙を服の袖で拭う。
そんな彼女の、泣き崩れる様子に、ツァガンはどうしていいか分からずに、ただただ動揺するばかり。
彼は、頭の耳を伏せ、尻尾も元気なくぺたりと絨毯にくっつき、目線はあらぬ方向をぐるぐると彷徨わせていた。
しかし、ツァガンの、困り果てる仕草に気づいたのか、かまどをいじっていたサーミのシャマンが助け船を出した。
「兄ちゃん、抱きしめてあげなさい」
突如、そう言われて、ツァガンは驚いていた。
「あっ、え、ええ?」
「女の子はね、こういう時に抱きしめてもらったら安心するんだよ」
「で、でも」
「いいから、そうしなさい」
シャマンに促されて、ツァガンの手が、涙で震えるサラの肩に、そっと触れる。
『まだまだ子供なんですね』
柔らかな彼女の感触が、己の手に伝わった瞬間、ツァガンの脳裏にいつぞやのヴァシリーの声が思い出された。
彼はそのまま、サラの身体を抱き寄せ、筋肉質の腕で包み込むように、しっかりと抱きしめる。
「サラ」
ツァガンの胸の中で、サラの呼吸は落ち着いたかにみえた。だが。
「うええん、犬臭いですぅー!」
「えーっ、い、犬じゃない、オイラ、狼だよ!」
「同じですぅ、洗ってない犬の臭いがしますぅぅ!」
「違うー」
その声に、サーミのシャマンは身体を震わせ、笑っていた。
一方、村のそばにある森の中では、二人の男がお互いに無言で向かい合っていた。
夏の始まりを告げる、新緑の若芽と、足元に咲く小さな白い花が、安らぎの香りを放ってはいるのだが、そこに立つ二人には、それは全く効いていない様子であった。
背の高い木々から差し込む、明るい太陽の光に照らされて、クラウスの茶髪が、より一層明るい色に輝いていた。
「おい、何か言うことがあるんじゃないのか」
目の前に立つ、仮面を被ったヴァシリーに向けて、クラウスはそう言い放つ。
だが、その言葉に、ヴァシリーは何の反応も示さなかった。
木製の仮面の内に、己の表情を隠し、感情をもその心に押し込めて、彼は何の弁解もせずに、ただ立ち尽くすのみ。
「よくも黙っていやがったな。俺たちを欺いて、何を企んでいた」
クラウスの眉間に、しわが寄った。
「チッ、これだからルーシ人……、いや自然崇拝者は信用できないんだ」
彼の口から出た、唾棄するような言葉を聞いて、ヴァシリーの目が無意識にクラウスの顔を睨む。
「あの赤毛のヤツを、お前は兄と呼んだな。俺の町を壊し、世界を滅ぼす元凶のヤツを、お前は兄弟だと言った」
ここへと至る道中、突如出現したのは、赤い髪の男だった。
それは、ヴァシリーと同じ身格好の、炎の魔法を操る、得体の知れない自然崇拝者のものだ。
そして、彼が旅立つ原因ともなった人物でもある。
「なぜもっと早く言わなかった、答えろ!この、野蛮な自然崇拝者め!」
クラウスは、大声で罵った。
「何がシャマンだ、人々を惑わす妄言吐きが、お前らシャマンは、その口からいくつの嘘をついてきた!薄汚い獣ども!卑しいシャマンどもめ!」
畳みかけるような、クラウスの怒気を孕んだ言葉を聞いて、ヴァシリーは突如、仮面を取り去った。
顔にかかる長い黒髪の下で、彼の、ヴァシリーの瞳が、怒りの色を帯びつつある。
「取り消しなさい」
静かに、だが、沸き上がるそれを押し込めつつ、彼はそう言った。
「私個人を、そう呼ぶのはいい。でも、シャマン全体を侮辱するのは、許しません」
ヴァシリーの、端正な顔立ちが、憤怒によって醜く歪む。
眉を吊り上げ、眼光鋭く、目の前の男を冷静な怒りと共に、睨み付けていた。
「クラウスくん、今すぐ取り消してください」
「うるせえ!お前も、俺を選んだシャマン連中も、同じだ!」
「言っていいことと、悪いことがありますよ!クラウスくん!」
「黙れっ!俺の人生を、故郷を、めちゃくちゃにしやがって!」
怒りの余り、クラウスはヴァシリーの首元を引っつかむと、そのまま背後の立木へ勢いよく叩きつける。
その衝撃で、古びた樹皮や葉が宙を舞い、枝に止まっていた小鳥たちも、慌てて空へと飛び立っていた。
「ぐ……っ」
「お前が、あの男の兄弟だというのなら、お前は俺の敵だ!ヴァシリー!」
締め上げる腕を、なんとか振りほどこうと、ヴァシリーの手はもがき続けるも、騎士団員として鍛え上げられたクラウスの手は、びくともしない。
クラウスよりも、背の高いヴァシリーではあったが、その腕力は彼に遠く及ばない、非力なものであった。
「はっ、ま、待ち、な……さ、い」
「言い訳すんな!あいつを殺したら、次はお前も殺してやる!分かったか!」
息苦しそうに喘ぎつつ、ヴァシリーは彼を制止しようと、声を発するのだが、その言葉すら聞く耳を持たないクラウスの手が、彼の身を地面に投げ捨てていた。
「チッ」
わざと、聞こえる大きさで舌打ちをし、クラウスは一人、村へと戻る。
傷つき倒れた、仲間であった男を振り返る事も無く。
サーミシャマンの天幕の前で、クラウスの足が止まった。
円錐状に組まれた木材に、獣の皮が貼り付けられている、極北の民サーミ人特有の素朴な家の横で、一人の少女が座り込んでいた。
「サラ、何やってんだ?」
「あ、クラウスさん」
声をかけられて、彼女は恐る恐る顔を上げる。
「中に入らないのか?」
「あっ、あの、その、今はちょっと……」
そう言うなり、サラの頬が紅く染まる。
彼女の、恥ずかしげに目を伏せる様に、クラウスは首を捻りつつ天幕の中へと入った。
「ただいま」
「あっ、クラウス、おかえり」
「何だツァガン、その格好?」
天幕の中では、上半身裸のツァガンが、絨毯に座っていた。
その背後には、難しい顔で彼の身体を看る、サーミのシャマンもいる。
シャマンは、無意識に揺れだしたツァガンの尻尾を押さえて、治癒魔法をかけ続けていた。が。
「うーん、これ以上は治りようがないな」
突如、シャマンの手は止み、諦めの言葉と共に大きくため息が吐かれた。
「おじさん、ツァガンの傷は、そんなに酷いんですか?」
「まあ、見てみるといい」
褐色のツァガンの背中を指さして、シャマンはクラウスにも見るよう、促す。
「うわ、なんだこりゃ」
思わず、声が出た。
「ツァガン、酷い傷じゃないか、あいつにここまでやられたんだな」
「えっ?」
「背中だよ、せなか」
「これ、違う。背中、前にケガした、とこ」
そう言うツァガンの背中は、褐色の皮膚が内側から弾けたかのような、ピンク色の皮膚に覆われており、遠目からでも分かる大きなケロイド状となって痛々しく残っていた。
「前のケガ?今回のじゃないのか」
「そう、でも時々、痛くなる」
「確かに、この傷は治る途中のものだ。痛くなるのは、自然に治ろうとする身体の動きだから、ガマンするしかないな」
引き攣れた皮膚のしわを、シャマンは優しく指の腹で触れる。
魔法も効かない、治りかけの火傷の痕は、彼ら獣人特有の力強い生命力が、日々その傷を癒やしていた。
「そうか、じゃあオイラ、ガマン、する」
にこりと笑ったツァガンは、いそいそと上衣に袖を通す。
そんな彼が、着替え終わるのと同時に、シャマンは外にいるサラに声をかけていた。
「お嬢ちゃん、もう中に入っても平気だよ」
声に遅れて、天幕の入り口にかかる獣皮が少しだけ開き、そこから銀色の髪の少女が、顔を覗き込ませていた。
「……ツァガンさん」
「サラ、オイラ服着た。裸じゃない、から」
そう言って、笑顔を向けるツァガンの元へと、サラが駆け寄った。
「ツァガンさん、ごめんなさい!」
「えっ、ど、どうした?」
「私、あなたのケガのこと、知らなくて。モスクワで、ツァガンさんにおんぶしてもらった時に、痛い思いをさせたんじゃないかと……」
だが、サラの心配そうな顔に、彼はゆっくりと首を振っていた。
「心配、いらない。オイラ、獣人だから、あれぐらい、痛く、ない」
「ごめんなさい、ごめ……」
再び涙を流すサラを、ツァガンは優しく抱き留める。のだが。
「やっぱり、犬臭いですぅ!」
「だから、オイラ、狼だってば」
頬を膨らませて、そう指摘するサラと、困りながらも、自分は狼だと主張するツァガンの様子に、クラウスの口からも笑い声が漏れる。
天幕の中に、賑やかな声が満ちていた。
「さて、そろそろ夕飯の支度を、するかな」
日がだいぶ西へと傾き、空が赤く染まってきた頃、サーミのシャマンはおもむろに立ち上がっていた。
「おじさん、俺も手伝いますよ」
「いや、いいよ。勇者どのは客人だ、客人はもてなすのが、サーミの流儀だよ」
「でも、俺」
「いいから、君は体力と気力を戻すことに専念しなさい。勇者クラウス」
不意に名前を呼ばれて、驚く彼を横目に、サーミのシャマンはかまどを準備しながら、にこりと笑顔を見せる。
「待っていたよ、世界を救う勇者どの」
そうして、ゆっくりと彼は語り出していた。
彼、サーミのシャマンは、ヤッパという名だと言い、サーミは人という意味の言葉なのだと、クラウスらに説明した。
彼らサーミは、狩猟と漁労に従事する、いわゆる森林サーミと呼ばれるグループで、元々はトナカイを祖霊とする、東方世界にいた角のある獣人たちでもあった。
それがいつしか、大山脈を越え、西の世界で人間と混血していくうちに、ラドガ湖周辺のカレリアに住むようになり、氏族の特徴でもある角を失っていったのだという。
だが、長い年月が過ぎ、住み続けたカレリアには、スオミやカレルが移住を続け、サーミはさらに奥地の、辺境の地にまで移動せざるを得なくなった。
そうして、住む場所を変え、氏族の特徴を失ったサーミの人々は、ある時を境に、不思議な夢を見るようになる。
黒い、泥のような地面から、異形のものどもが、次々に湧き出でる姿を。
人々は、シャマンであるヤッパにその事を伝え、彼は神々の託宣を受けるために、舞い踊った。
そして一人の若者の姿を、踊りの最中に見い出した。
異形のものどもを、その手に持つ輝く聖剣で切り伏せる、一人の男――。
「それが、俺?」
「そう、儂が見たヴィジョン、そのままの姿だ」
かまどを挟んで、お互いに向かい合うのは、勇者とシャマンの二人だ。
勇者は驚いた顔でシャマンを見つめ、シャマンはそれに微笑みうなずく。
「君の姿は、それから何度も見かけたよ。冬の森、獲物を求めてスキーで走る時や、狩りに同行する犬たちの世話をしている時に、いつも君はいた」
いたというのは、シャマンが、シャマンの眼で見る、現実には存在しないヴィジョンのことであった。
彼らシャマンは、無いものを見聞きし、存在しないものを感知する能力を持っている。
その能力は、ある日突然、目覚めることもあれば、産まれながらにして持っていることもあり、力の継承は親から子へ、師匠から弟子へと、途切れることなく脈々と続いていた。
ヤッパの言葉は、さらに続く。
「森の中を走る君の後ろには、いつもお供らしき獣がいた。地を駆け、空を飛び、勇者を支え共に戦う、勇敢なる獣たちだ」
「獣……」
思い当たるところがあったのか、クラウスはふと横に座るツァガンを見る。
彼の頭に生えるのは、大きな狼の耳と、臀部にあるのは、ふさふさの尻尾だ。
人間ではなく、獣に近いその姿は、ヤッパの言う、お供の獣そのものなのかと、彼は思う。
そんなことを考えながら、ぼんやりとしていると、見られているのに気がついたツァガンが、笑いながらこっちを振り向いた。
脳天気に振られる、その黄金の尻尾に、クラウスも自然と微笑んでいた。
太陽が地平に沈み、闇がサーミの村を覆いだした。
夕飯を早めに済ませたクラウスたちは、長旅の疲れもあって、早々に就寝準備を始める。
サラとクラウスは寝床に転がり、ツァガンは一人、天幕の外へと見回りに出る。
サーミの村は森の中に位置し、夜ともなれば、野生の狼の声が、どこからともなく聞こえてくる。
その狼を追い払うために、彼は遠吠えをし、歩き回っていた。
「あー、ツァガンくんといったか」
立ち止まり、大きく息を吸い込もうと、口を開いた時、ツァガンの背後から声がかかった。
「あ、ヤッパおじさん」
振り向けば、そこにはシャマンの盛装姿のヤッパがいた。
褐色の頭には、トナカイの角が縫い付けられた布バンドが巻かれ、そのバンドから数本の紐飾りが顔の横に垂れており、衣服には、金属のナイフが縫い止められ、人の顔のような飾りが、両肩に乗っている。
ヴァシリーのような、無数の紐飾りなどは、彼には見受けられないが、その腕にはシャマン特有の、大きな丸い片面張りの太鼓が、かけられていた。
「ちょっと、君に頼みたいことがあるんだが、いいかな?」
「うん、いいよ」
尻尾をぱたぱたと揺らし、ツァガンは笑顔でそう答える。
「君の仲間のシャマン。あの子のところまで連れて行ってくれないか」
「あの子?」
「ええと、黒髪の、背の高い……」
「あー、それって、ヴァシリー?」
「そう、その子だ。君は夜目がきく、闇夜に紛れた鳥を探すのは簡単だろう?」
ヤッパの両手にある、白樺樹皮で編まれた籠を見て、ツァガンは彼の頼みを快く引き受けていた。
村から少し外れた、森の中。
ここでヴァシリーは、何をするでもなく、ただぼんやりと地面に座り込んでいた。
「……クラウス、くん」
昼間、彼に言われた恐ろしい言葉が、頭の中でずっと響いている。
あれは、呪詛だ。勇者の吐いたそれは、呪いとなって、ヴァシリーをこの森に縛り付けた。
もっと早く、兄の事を打ち明けていれば、こうはならなかったのか。
もっと早く、全てが分かっていれば。
そう思うも、それらは絵空事にしか過ぎない。
兄の足取りは、師匠である父と共にクレムリンに行って以降、杳として知れず、まさか自分たちが退治していた、異形の怪物を呼び出す側になっているとは、思ってもみなかったからである。
「どうしたら……」
あの時の、クラウスの目は、怒りに満ちていた。
それもそのはず、彼の町を、人生を壊し狂わせたのは、自身の兄であり、そして北方諸民族のシャマンなのだ。
許してくれと、乞い願える立場ではないのは、重々承知していた。
「いたいた、ヴァシリー」
誰にも相談できず、一人思い悩む彼の元に、聞き覚えのある声がかけられた。
「……ツァガンくん?」
「ヴァシリー、どうした、元気ない」
「そんな事はないですよ、私は元気いっぱいですから」
彼は強がりつつ、そう笑うが、仮面のない晒された素顔の目は、真っ赤に腫れ上がっていた。
「ヴァシリーくん、お腹が空いているだろう、これを食べて嫌なことは忘れなさい」
ツァガンと共にやって来たヤッパは、手に持つ籠から平たいパンと茹でた肉を取り出し、ヴァシリーに渡した。
「儂は、サーミのシャマン、名はヤッパという。君は春の呪術師の息子だね?」
「父を、ご存じなのですか」
縋るような彼の目が、ヤッパを見つめる。
「知っているよ、ヴァシリーくん」
その言葉を聞いて、安堵したのか、ヴァシリーの目に涙が浮かぶ。
「君の父は、西の世界でも随一の力を持っていた。シャマンとしての力だけなら、我ら北方民族の誰よりも優れていた男だよ」
「あ、ありがとうございます。亡き父も、その言葉を聞けば喜びます」
涙が、頬を伝った。
「うんうん、君は良い子だ。お父さんの教えを忠実に受け継いでいる、いずれは西方の呪術師として、お父さんを越えることになろう」
「そんな、父を越えるなど……」
「いいや、ヴァシリーくんは春の呪術師の子として、お父さんが為し得なかった、勇者を導く義務を果たさなければいけない」
勇者という言葉に、ヴァシリーの胸が痛みを覚える。
「あの子……勇者どのも、苦しみ迷っている。自分が本当に勇者で、世界を救えるのか、不安で仕方が無いのだ」
「クラウスくんが……」
「勇者どのはまだ若い、君に疑いを持ち、当たってしまうのも無理はない。けれども彼が聖剣を手に入れる頃には、きっと成長できている。儂はそれを信じ待ち続けよう」
父を知る者の、力強い言葉に、ヴァシリーは何かを気づかされていた。
年齢と経験を重ねたシャマンは、自分が未だ持ち得ていないものを持つ者だ。
本来ならば、それらは父や兄から教えられるものだが、彼はその二つを失った。
彼は、この旅を通じて、勇者と共に成長することを、課せられていた。
「君は勇者を導くシャマンだ、それを忘れないで欲しい」
ヴァシリーの両肩に手を置き、ヤッパは大きくうなずく。
そんな時、すっかり暗くなった闇夜の森を、一羽の鳥が、ヴァシリーの頭上に留まるように、飛び回っていた。
鳥は、カエルのような、不思議な鳴き声を発し、木々の枝から枝へと移っていく。
「ライチョウだ。きっと子孫である、ヴァシリーくんを歓迎しているんだよ」
「えっ、でも、私はルーシ人……」
その言葉に、ヤッパは首を振っていた。
「今はね。だが、昔はライチョウの庇護を受けていたはずだ。我らサーミと近しい兄弟よ」
「えっ、ヴァシリー、オイラと同じなのか?」
二人の会話を、ぼんやりと眺めていたツァガンだったが、ライチョウの庇護という言葉を聞いて、嬉しそうに尻尾を振り出した。
「人間と獣人、どちらかと言えば獣人に近いというだけで、ほとんど人間だけれどね」
「それでも、いい、こっちの世界に、オイラに近いやつがいる。嬉しい」
ほとんど人間と、ヤッパは注釈をしたが、それでもツァガンには、疎外感が少し無くなったようで、満面の笑みをヴァシリーに向けていた。
「さて、と」
おもむろにヤッパは立ち上がると、太鼓を構え、静かに目を閉じる。
「ヴァシリーくん、これから君に、儂の見たヴィジョンを伝える。君はこれを手がかりとして、勇者どのを導いてやってくれ」
言い終えるなり、太鼓が一つ、叩かれた。
ヤッパはゆっくりと目を開けると、その瞳は黄金色に輝いていた。
「天に向かう鹿」
またも太鼓が一つ、鳴る。
「草原」
また、一つ。
「青空」
また、一つ。
「騎馬」
また、一つ。
「其は、月と星が支配する、乾いた風の吹くところ」
太鼓が、数回鳴った。
もう、ヤッパの瞳は、輝いてはいなかった。
「天に向かう、鹿?」
「鹿、大きく跳ぶ、それのことか?」
ヴァシリーとツァガンが、不思議そうに首を傾げるも、ヤッパは違うとばかりに首を振った。
「そうではない、だが、儂もそれとしか分からない。天に向かう鹿なのだ」
ヤッパは、それがシャマンのヴィジョンなのだと、二人に言っていた。
「ヴィジョン……」
ヴァシリーが、そう呟いた時、彼の腹が音を立てる。
その手にある、パンと肉で腹を満たしたヴァシリーは、ヤッパに連れられて彼の天幕へと戻ることにした。
闇夜に光るツァガンの目は、どの狼よりも黄金色に輝き、暗い森の中、二人を先導する。
頭上のライチョウは、全てを見届け終えると、再び森の奥へと帰っていった。




