12 赤より紅い炎
ヴァラームを発ってしばらく。
クラウスら一行は、案内人の導きにより、カレリアの北部までやって来ていた。
この辺り一帯は、湖沼が多く、それらが無数の河川で繋がり、一種の迷路とも言うべき様相を呈する。
僅かばかりの陸地には、松や白樺など枝葉鋭く、寒さに強い針葉樹林が生い茂り、これから訪れる盛夏の時期に向けて、若々しい緑の葉を懸命に伸ばしていた。
地に這う草花の陰からは、昆虫や小動物の鳴き声が聞こえ、天高く上空からは、鳥たちの可愛らしいさえずりが響く。
そんなおとぎ話の世界のような、幻想の水路を、一行の船は進み続け、これ以上は無理だというところで、陸路に切り替え、彼らは極北近くまで足を運ぶ。
だが、目指すサーミの地まで、もう少しという場面で、案内人の歩みが止まった。
「これより先は、辺境の地。教会の威光及ばない地です」
彼はそう言って、クラウスに進むよう、促した。
「私の案内は、ここまでです。皆さんご武運を」
「分かりました。案内してくれて、ありがとうございます」
クラウスと案内人は、握手をし、お互いに十字を切って別れを告げる。
周囲には、どこまでも続く針葉樹林が広がる。
その中を貫く、一本の道を、彼ら四人は歩いていた。
歩きはじめてだいぶ経った頃、ツァガンの尻尾が逆立った。
「う、ん?」
彼の黄金の耳が、忙しなく動き、何かの臭いを感じたのか、鼻もピクピクと動き出す。
「クラウス、なんか、臭い」
「なんの臭いだ?」
「こげ、くさい」
彼の指摘に、クラウスの手が剣に伸びた。
「クラウスさん、あれ!」
サラの指さす方向には、複数の黒い渦がある。
「気をつけろ、来るぞ」
剣を抜き放ち、クラウスは身構える。
ツァガンやサラ、ヴァシリーも、杖や太鼓を構え、戦いの姿勢を取った。
だが、怪物が現われようかという瞬間、四人を炎が取り囲んでいた。
巨大な蛇のごとく、連なった赤き火は、激しく燃え盛り、のたうち回る。
叫ぶ炎と、狂う熱気。それは咆吼するように、時折爆発めいた火柱を上げた。
「くそ、魔法なのか?」
炎に煽られて、クラウスの剣が熱を帯び出す。
紅い炎は、彼らの退路を断つように、じりじりとその距離を詰めていた。
「クラウス!どうしよう!」
「やだ、熱いですよー!」
目前にまで、炎が迫る中、ヴァシリーが突如叫んだ。
「皆さん、息を止めてください!」
それと同時に、彼の太鼓が、勢いよく叩かれた。
太鼓を中心として、冷たい空気が突風の如く吹き出され、炎はかき乱されて、その勢いを弱める。
だが、弱まった火の向こうから、大口を開けた巨大な怪物たちが、一行に襲いかかっていた。
「いくぞ!」
かけ声と共に、狼のような怪物の口に、クラウスの剣が突き刺さり、彼はそのまま腹までを、一刀の下に切り開いていた。
その反対側では、角を持つ人間サイズのトカゲらが、一斉に氷の飛礫を放ち、ツァガンの身体目がけて、それを激しくぶつける。
サラが爆発魔法で、トカゲを吹き飛ばすと、氷の飛礫をものともしないツァガンが、残ったトカゲに蹴りを叩き込む。
方々で戦いが繰り広げられる中、クラウスの視界に、赤い髪の人物が映り込んだ。
それは、燃えるような色の髪に羽根飾りと、毛織物の衣服から垂れる無数の紐が靡く、余りにも特徴的な頭巾と丸い太鼓だった。
彼の者は、炎の向こう側の、怪物たちの背後に、いた。
「お前、あの時の!」
そう叫び、クラウスの身体が動き出す。
「よくも、プロシアでは、やってくれたな!」
剣を握る腕に、一段と力が込められ、足は大きく大地を蹴る。
鎧も何もない、男の無防備な胴体へと、クラウスの剣は向けられた。
「この野郎!」
勢いよく、振り抜かれる腕だが、その手に手応えはなく、切っ先は宙を切るのみ。
「クラウス!うしろ!」
その声に、彼が振り向くと、そこには彼の者から放たれた炎が、目前にまで迫る。
すんでの所でそれらを躱すも、赤い髪の男は、次々に炎の魔法を放つ。
男の周囲は、炎と熱で陽炎のごとく景色が歪み、異形の怪物どもも際限なく湧き続ける。
襲いかかる怪物を、片端から切り捨て、男へと歩み寄るクラウスだが、その息は少しずつ乱れてきていた。
「きりが無いですぅ、どれだけ出てくるんですかー!」
八端十字架の杖を構えて、サラの爆発魔法が炸裂する。
あまりの標的の多さに、彼女の気は散らされ、魔法はあらぬ所へ飛ぶも、なんとか精神を集中させ、一つ一つに狙いを定めて一気にそれを放つ。
トカゲの身体は、四分五裂に吹き飛ぶが、粉々になった肉片の向こうから、さらに大勢の怪物が、その目を光らせていた。
「オイラ、狼以外、やっつける。狼出たら、ヴァシリー、おねがい」
そう言いつつ、ツァガンの拳や蹴りが、四つ翼を生やした猪へと叩き込まれる。
「ええっ、ツァガンくん、そんな」
「オイラ、狼、傷つけたく、ない。ごめん」
「ヴァシリーさん、狼が出ないように、祈りましょう!」
銀色の、セミロングの髪を乱しながら、サラは手を突き出し、魔法でもって、空飛ぶ猪を粉砕する。
ヴァシリーも、長い黒髪を振り、太鼓を叩いて二人を援護する。
皮張りの太鼓の音が、一つ、二つと響くごとに、つむじ風が巻き起こり、それは瞬く間にトカゲの皮膚を引き裂いていた。
「早く、これを片付けないと、クラウスくんが……」
彼はそう呟き、一人離れたところで、男と対峙するクラウスを見やる。
焦りが、ヴァシリーを油断させていた。
一方、クラウスは。
「はあっ、はあっ、くそっ」
彼は、赤い髪の男を目の前にして、荒い息を吐いていた。
「卑怯だぞ、怪物ばかり、けしかけやがって」
そう罵声を浴びせかけるも、件の男は、全く動じない。
彼に感情はあるのか、無いのか、それすらも不明のまま、クラウスの目が男を睨み付ける。
頭巾の隙間から見える男の顔は、操る炎の魔法とは真逆の、冷たく暗いものを感じさせ、その双眸は底なしの闇が貼り付いているかのよう。
ただただ、漆黒の悪意が、男の身体から滲み出ていた。
――せめて、一撃でもいいから、ヤツに傷を負わせたい。
心の中でそう思い、クラウスは剣を握る手に、力を込める。
彼の身体には、疲労が重くのし掛かり、その呼吸は乱れ、視界も徐々にぼんやりとしてくる。
だがそんな中、途切れる集中力を見定めたように、彼目がけて二本足の狼が複数、襲いかかっていた。
「邪魔だ!お前らっ!」
迫り来る爪牙を躱し、クラウスの剣は狼の心臓へと突き刺さる。
聖剣の勇者としての見えない加護が、彼に力を与え、怪物を次々に切り伏せていく。
そうして、怪物を何匹も屠っている最中、彼の腹に炎の塊が叩き込まれていた。
「うあ……っ!」
思いもよらぬ不意の衝撃に、クラウスの足はよろけ、膝をつく。
剣を杖代わりに、再び立ち上がろうとするも、一度地面に接した身体は泥のように重く、粘つく大地の腕に彼は捕らえられていた。
それを好機と見た赤い髪の男は、ばちを持つ手を大きく振り上げ、自身の身長ほどもある火の玉を宙空に発生させる。
「クラウス!」
そんな彼の危機を目にして、ツァガンは走った。
しつこく湧く怪物らを、破壊力漲る拳で叩き潰し、黄金の狼は一筋の煌めきとなって地平を駆ける。
赤い髪の男から放たれた、大きな火の玉を止めるべく、彼は自らの危険も顧みずにクラウスの前へと躍り出た。
「ツァガン!」
クラウスが叫んだ時にはもう遅く、彼の目前でツァガンの身体は炎に包まれ、黄金の髪と尻尾は赤く熱した空間の中、見る見るうちに焼け焦げる。
あつい、くるしいといった苦悶や叫び声を上げることもなく、その身はただひたすらに灼熱の業火に晒されていた。
「く、クラ……ウ……ス」
だらりと垂れた尻尾と、力なく閉じられる瞼。
ツァガンの身体は、膝から崩れ落ちた。
その皮膚は熱傷で焼けただれ、痛々しいものであったが、彼は身を挺してクラウスを守れたことに、満足した顔であった。
「バカ!お前……」
動かないツァガンに、思わずそう叫ぶ。が、遠くから聞こえる悲鳴に、彼はそちらを振り向いた。
「きゃあっ!」
サラの小柄な身体が、宙を舞うのが見えた。
四つ翼の猪に突進されて、彼女は軽々と吹き飛ばされていた。
か弱き魔法使いは、守ってくれる騎士の助力も無いままに、その身を大地に横たえる。
「サラちゃん!」
ヴァシリーも、怪物の攻撃を防ぐのに手一杯で、倒れた二人を救う余力など、無いに等しい。
「クラウスくん!君は、倒れてはいけない、立ち止まってはいけない人なんだ!」
ばちを握りしめ、激しく打ち鳴らす太鼓の音と共に、彼は無我夢中で叫んだ。
詠唱の言葉が、その口から紡ぎ出され、空気を切り裂く旋風が、周囲の怪物を蹴散らしていく。
倒れたサラを庇うようにして、ヴァシリーは太鼓を盾に次々と魔法を放つ。
そして、赤い髪の男へ向けて、彼は大声でそれを投げかけた。
「兄さん!」
悲痛な声が、空気を裂いた。
彼より発せられた、その言葉に、クラウスは驚き、赤い髪の男は、わずかだが動揺の色を見せた。
「兄さん、私です、弟のヴァシリーです!お忘れですか!」
黒髪のヴァシリーと、赤い髪の男を、クラウスは交互に見た。
彼ら二人の髪の色は全く違うが、着ている衣服や太鼓はほぼ同一でもある。
色とりどりの無数の紐と、片面張りの丸い太鼓に、繰り出すのは魔法というものだ。
二人には、何らかの共通点がある、とクラウスが思っていた矢先であった。
「は、え?何を言っているんだ、ヴァシリー」
「なぜ、こんなことをするのですか、兄さん!」
「兄さんって、おい、嘘だろ……」
叫ぶヴァシリーを、信じられないという目で、彼は見つめる。
仮面の下で、おそらく涙を流しているであろう、その姿は、声がうわずったものであった。
そんな必死に呼びかける彼の声を聞いて、赤い髪の男の様子に変化が起きた。
長い髪を掻きむしり、頭を上下左右に振り乱す。
纏わり付く何かから逃げだそうとしているのか、身体を丸く屈めてその身を震わせる。
煮えたぎる油の噴き出すがごとく、小規模の爆発が周囲に起き始めた、その時。
男は、甲高い金切り声を上げ、遥か上空を仰ぎ見るように、仰け反った。
それと同時に、ヴァシリー目がけて、無数の炎の矢が降り注ぐ。
「に、にい……さ、ん」
密度の高い、白く光る熱の雨が彼を襲い、その身を焼き尽くす。
煙を出し、赤くただれた熱傷の腕を伸ばしつつ、ヴァシリーも力無く、倒れていた。
「ええ……、う、嘘だよな。ヴァシリー、サラ、ツァガン」
そして、一人残されたクラウスの前には、人よりも巨大な猪が複数いる。
猪はよだれを垂らし、鋭い牙を向き出しに、彼へと呻り立てていた。
「起きてくれよ……、なあ、ツァガン」
横たわる黄金の狼に、彼は弱々しくも声をかける。
だが、返事は、ない。
突進してきた猪を、クラウスは躱そうとするが、重く鈍い身体の動きでは、それは避けきれず、腕や胴が牙によって切り裂かれる。
人間よりも大きな怪物の前に、彼の身は易々と傷つくのみであった。
――俺、ここまで、なのか……。
流れ出る鮮血で、視界が赤く染まる中を、クラウスの意識は霧散しかけた。
薄れる景色と、遠ざかる記憶の狭間で見たのは、極北へと至る道の中途に、その身を横たえる仲間の姿だ。
そして、凶暴な顔の怪物たち。
息も絶え絶えに、勇者の瞼は閉じられようとした、その時だった。
――何だ……?
音が、聞こえてきた。
力強く、地を震わせるそれは、ヴァシリーの太鼓の音にそっくりだった。
「悪しきものどもめ、地の底へと戻るがいい」
低く、威嚇する声が、霞む目の向こうから聞こえる。
声と同時に響く音は、クラウスを襲う怪物どもを、一つ一つ消し去っていく。
「大丈夫か?勇者どの」
「あ、あ……」
そう呼びかけられて、彼の張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れた。
「おい、しっかりしろ!」
倒れたクラウスを、男は心配そうに揺する。
その手には、ヴァシリーと似たような太鼓が握られていた。
暖かな掛布に包まれて、クラウスは目覚めた。
痛む身体を押して、周囲を窺えば、ヴァシリーやツァガン、サラが眠っている姿が見える。
「うぅ、いたた……」
「ああ、無理はしないでいい」
起き上がろうとする彼を押しとどめて、男は優しく微笑んでいた。
「ここは、どこだ?あんたは、何者なんだ」
「ここは儂の天幕。儂はシャマンだよ、勇者どの」
再び横になると、円錐型に組まれた柱と、それに覆い被さる毛皮の幕が目に入る。
天幕の最上部は、排煙のための隙間が空いており、その真下には、煮炊きのためのかまどが位置していた。
見知らぬ場所に、見知らぬ異民族の姿と、故郷プロシアでも見たことが無いものを目にして、クラウスは急に心細くなっていた。
「皆は、俺の仲間は、無事なのか……?」
「安心しなさい、みんな無事だよ。男の子も、女の子もね」
「よかった……」
仲間を思う言葉を聞いて、男は大きくうなずく。
男の姿は、褐色の髪と顔の下半分を覆うひげ、そして顔に深く刻まれたいくつもの皺が、年老いた印象を与えるものであった。
頭には、角のついた布バンド、丈の長い膝まである上衣は、暖かな毛織物から作られたもので、衣服を飾る紋様は、スオミとも違う北方民族特有の幾何学模様であった。
「さあ、もう少し眠るといい。眠りは全ての傷を癒やしてくれる」
まるで、父親が幼子をあやすように、男はクラウスに、そう言い聞かせる。
男が何かを唱えるように、口を動かすと、その両の腕から柔らかな青白い光が湧き出でて、それはゆっくりとクラウスの身体を覆い尽くす。
――ヴァシリーの、光と、同じだ……。
心地よい優しい光の中で、彼はそんな事を思い、再び眠りの海へと落ちていく。
蓄積した疲労は、睡眠と共に解消され、傷は男の治癒魔法によって瞬く間に癒やされる。
かまどからは、一筋の煙が立ち上り、天幕のてっぺんから外へと流れ出していた。




