10 酒と歌とスコモローフ
ノヴゴロドの通りで、クラウスたち四人は、芸人の一団に取り囲まれていた。
「な、なんだよ、お前ら」
驚きつつも仲間を庇い、クラウスは彼ら芸人を威嚇する。
「この兄ちゃん」
「そうだよ、間違いないよ」
「女の子もいた、獣人も」
ひそひそと、芸人たちは何やら小声で話し合っている。
彼らの衣服は、色とりどりの服に、革製の仮面を被り、手にはラッパや弦楽器を持つ、一目でカタギではないという出で立ちだ。
そんな彼らを、クラウスは警戒心丸出しで睨んでいたが、ツァガンの鼻が何かを嗅ぎ取ったらしく、彼の腕をつんつんとつついた。
「ねー、クラウス」
「なんだよ、こんな時に」
「この人たち、牢屋から、逃がした人たち」
「はあ?」
クラウスは眉間にしわを寄せ、訝しげにツァガンに聞き返した。
「同じ、におい、同じ」
彼の頭の耳がぱたぱたと動き、尻尾も同じく嬉しそうに揺れる。
「同じ?」
そう聞き返した、その時だった。
一団の中から、一人の男が、進み出ていた。
「モスクワでは、どうもありがとう。おかげで助かりました」
男は深々と頭を下げる。
その彼の背後では、芸人たちが一斉に声を出していた。
「牢屋から出してくれて、ありがとうな!」
彼らは、モスクワの宮殿で、共に牢屋から脱出した者たちであった。
とある賑やかな酒場にて。
立ち話も何だからと、やって来たのは、一軒の店だった。
ここでクラウスたちは、彼ら芸人の熱烈な感謝を受けていた。
「うわー、クラウス、おっさんに、ちゅー、されてる」
「私たちは、握手で済んで、よかったですぅ」
サラとツァガンは、おっかなびっくりで、彼の様子を見届け、ヴァシリーは別段気にもせずに、ルーシ式の喜びの抱擁をする。
気の毒なのは、クラウスだけであった。
ひげ面の厳つい男たちに囲まれて、がっちりと握手から抱擁と、果ては口づけまで、彼に拒否権は無く、有無を言わせずにそれは行われていた。
「あ、あ、あ……」
もはや抵抗する気は失せ、すっかり脱力した彼が解放されたのは、だいぶ後のことであった。
「なんだよこれ、なんだよこの国」
「クラウス、すごいな、勇気、あるな」
「うるせー、異教徒の文化だ。くそー」
情けない声で、文句を言う彼に、ツァガンやサラ、ヴァシリーも、苦笑いをする。
四人には、再会祝いの酒が振る舞われ、ようやくクラウスは一息つこうとしていた。
「いやー、モスクワでは、酷い目に遭ったなぁ」
酒を酌み交わしつつ、芸人の一人が、しみじみと語る。
「皇帝が、俺らスコモローフを招聘しているっていうから、行ったのに」
「そうだよな、話が違うよな」
誰かがそう言うと、皆同じように一斉にうなずく。
「やっぱり、お上は信用出来ないわな」
「一体、何があって牢屋に入れられたんですか?」
クラウスが、酒の手を止めて問いかける。
「聞いてくれよ、兄ちゃん」
それは、この国の問題でもあった。
数ヶ月前の事だ。
この国を治める皇帝は、突如命令を国中に出した。
『国内にいる芸人たちは、モスクワに来い。皇帝の御前で芸を見せた者には、好きなだけ銀をくれてやろう』と。
当然の如く、彼らは色めき立ち、我先にとモスクワへと旅立った。
皇帝の御前で見せるには、そんじょそこいらの芸では、喜ばれないはずだ。
もっと、もっと、楽しく、笑いのある芸を見せなくてはならない。
彼らは道中に腕を磨き、技を、歌を、より良いものになるように、鍛えに鍛えた。
ある者は弦楽器を。
またある者は、熊の芸を。
北や南、東西の町や村から、彼らは集い、モスクワに辿り着いた。
これから何が待ち受けているかも、知らず。
お触れを聞いたと言って、彼らは宮殿へと通された。
宮殿は石造りで、その天井は高く、様々な彫刻や、絵画が、芸人たちを出迎えた。
まるで、この世のものではないかという、内装に、彼らの心は浮き足立った。
そして宮殿の玉座の間に、彼の者はいた。
豪奢な、キエフ・ルーシから連綿と続く玉座に座り、煌びやかな衣装と、キエフ時代からの伝統の毛皮の帽子に、黄金の杖を持ち、威厳溢れるこの国の君主は、玉座に腰掛けていた。
圧倒される気迫に、芸人たちは少し怯むが、怖れることはないと、親衛隊に促されて、皇帝御前へと進む。
まず、最初の者が、高らかに口承叙事詩を歌い上げる。
それは、キエフ・ルーシの黄金の遺産であった。
かつての華やかなりし、栄光の日々を、彼は力強く歌う。
向かうところ敵無しの英雄の、連戦連勝の物語は、太陽の公時代のものだ。
だが、その歌の途中で、彼の言葉は止まる事となる。
無表情でそれを聞いていた皇帝が、彼を静かに指し示す。
次の瞬間、彼の心臓を、親衛隊の槍が貫き通していた。
最初、彼ら芸人たちは、何が起きたのか、理解出来ずにいた。
槍からしたたる血が床に垂れ、それが湯気を立てるのを見て、ようやっと彼らはこれが皇帝のやり口であり、罠なのだと、分かり始めていた。
物言わぬ骸になった男を、親衛隊が片付けると、次の者と声がした。
怯え、嫌がる芸人だが、やらねば皆殺しだと脅されて、彼らは渋々従わざるを得なかった。
恐怖の中で、彼らは芸を見せ、ぎこちない踊りや歌を披露し、そして皆死んだ。
次々に死ぬ仲間を前にして、無表情であった皇帝の顔に変化が起きる。
血と小便の臭いが宮殿内を満たし、悲鳴が、叫び声が、響くたびに、皇帝の目が輝きだす。
『いかれている』
誰かが、そう叫び、逃げようとした。
だが、出入り口はとうの昔に封鎖され、そいつも親衛隊の手で殺された。
次第に人の数は減り、次に熊使いの男が、指名される。
血の海の中で、彼は見事熊を操り、音楽に合わせて芸をして見せた。
恐ろしい熊に、可愛らしい芸を仕込み、その愛くるしい仕草で、人々を魅了する。
その素晴らしい芸に、皇帝の頬が少しだけ緩んだ。
その時だった。
飼い慣らされているはずの熊は、突如、制御用の縄を振り切って、玉座の皇帝目がけて突進していた。
あっと思った時には、もう遅く、熊の爪が、牙が、皇帝の肌を引き裂こうと、振りかぶられる。
しかし、その爪牙が届く事は無かった。
熊の身体は、皇帝の目と鼻の先で動きを止め、幾本もの槍や斧が、その腹や喉に突き刺さっていた。
夥しい量の鮮血が、玉座の足元に流れた。
皇帝は立ち上がると、無表情のまま膝をついた。
赤いそれに手を伸ばし、掬い上げ、皇帝はそれを、そのまま己の口へと流し込む。
皆が驚き見守る前で、彼は生臭いそれを飲み干すと、狂ったような笑い声を、血まみれの口から吐き出した。
あまりの常軌を逸した行動に、彼らは為す術もなく、立ち尽くすしか出来なかった。
その後、彼らは、宮殿内の牢屋へと叩き込まれ、気まぐれに行われる処刑に怯えながら、生き続けていたという。
「ミーシャには、可哀想な事をした」
ため息と共に、男が呟いた。
「ミーシャ?」
「熊の名前さ。こんなに小さい時から、一緒に寝起きして、大切にしていたのに」
男が、手でその大きさを示す。
人間の赤ん坊と、ほぼ同じぐらいのその大きさに、クラウスもなぜか心が痛くなっていた。
「あの子は、人を襲う事はしない。自分を人だと思い込んでいたからな」
「辛い思いを、されましたね」
ミーシャを思い出し、涙する男に、クラウスはそう言うことしか出来なかった。
酒場の前にて。
彼ら芸人の話も済み、クラウスら一行と芸人たちは、別れを告げようとしていた。
既に、日は西の地平線近くまで傾き、空は真っ赤な夕焼け色に染まる。
気温は瞬く間に下がり、人々の口から白い息が目立つようになっていた。
「それで、今日はどこかに泊まるのかい?」
芸人の一人が、クラウスに問いかけた。
「そうしたいんですが、泊まるあてが見つからなくて、困っているんです」
茶色の髪を掻きながら、彼はそう答える。
「じゃあ、サトコのところ、紹介するよ」
「兄ちゃん、ついて来なよ」
言われるままに、クラウスら一行は、ノヴゴロドの通りを、彼ら芸人たちと歩く。
市場を通り、教会を通り過ぎ、やって来たのは、なんとも大きな一軒の宿屋だ。
他の町では、見たことも無い、おそらくこの町でも一、二を争うものであった。
「え、ここ、高いんじゃ……」
「いいから、いいから」
宿代が高そうだと、怯んだ彼らを、芸人たちが手を取り、中へと連れ込む。
「クラウスさん、これ、怪しいですよ」
サラが、小声で呟く。
「そう言ったって、仕方が無いだろう。本当にアレだったら、逃げるからな」
流されつつも、クラウスは仲間にそう告げた。
「おーい、サトコー!いるかー?」
宿の受付で、男たちがラッパを吹き鳴らし、誰かを呼ぶ。
「サトコ!お客を連れてきたぞー!」
賑やかに騒ぐ彼らだが、クラウスの心中は穏やかではなかった。
いつ脱出しようかと、出入り口をそっと窺っていた時、受付奥の部屋から、一人の男が姿を現わしていた。
「もう、静かにしてくださいよ、皆さん」
茶色の短い髪に、口ひげを蓄えた背の高い男は、騒ぐ芸人たちを一喝してから、クラウスたちへと頭を下げる。
「ようこそ、お客様」
「え、あ、あの」
「私が、当宿の支配人、サトコでございます」
そう言って、ゆっくりと頭を上げ、にこりと微笑む。
ひげがあるが、まだまだ若いその姿は、笑顔のよく似合う男であった。
宿屋の大広間。
ゆうに二、三十人が飲み食いできる広間にて、クラウスと芸人たちは食事をしていた。
とはいっても、料理は酒場で出るような品ばかりで、酒と黒パン、根菜のスープに、やはり大量の脂身肉だ。
モスクワ近辺と違うのは、魚料理が一品ついてくるぐらいであった。
「え、じゃあサトコさんは、昔、芸人だったんですか?」
忙しそうに食事を運ぶサトコを見て、クラウスは驚いていた。
「そうだよ。サトコは、俺らの仲間で、弦楽器の名手さ」
「そうそう、あいつの腕前は天下一品で、そのおかげでこの宿も手に入れたんだよ」
グースリとは、中が空洞の木箱の天面に、数本から十数本の弦を張ったもので、その形状から、翼型と兜型の種類が存在していた。
彼ら芸人の話によると、サトコは兜型グースリの名手で、その腕前により、水の王と呼ばれる異国の者に気に入られ、巨万の富を得たという。
その得た金で、ここノヴゴロド一の宿を買い取り、芸人たちのために宴会や宿泊と、果ては交易までをも手がけているのだという。
「ノヴゴロドのスコモローフは、芸達者で有名ですからね。あちこちの町を渡り歩くうちに商売を始める者も、少なくありませんよ」
ヴァシリーの言葉に、彼ら芸人たちは、うんうんとうなずく。
スコモローフは漂泊楽士とも呼ばれ、ジプシーとも違う、ルーシの地独特の文化であった。
彼らは町から町へと歩き、祝いの席や宴会などでその腕を振るい、暗く沈みがちな人々の心に、笑顔と明るさをもたらしてきた。
正教会からは、異端と見られ、君主からは、権力に従わない厄介者と見なされ、時には迫害も受けながらも、今までそれが続いてきたのは、それ以外の者、すなわち農民や職人、自由民といった人々からの、根強い支持があったからこそだった。
そして彼らは、各地に残る口承叙事詩を語り継ぐ、重要な者として、今日までその姿を残してもいた。
「ところで、ここからスオミまでは、どの道を行けばいいんだ?」
食事を終え、一息ついたところで、クラウスはヴァシリーに問いかけた。
「スオミの主教座ですよね。カレリアのどこですかね、サラちゃん」
「ヴァラームです、ラドガ湖に浮かぶ島ですよ」
「おや、意外と近いですね」
ラドガ湖は、ここノヴゴロドから川を下ったところにある、この地域最大の湖である。
その湖には、無数の孤島が存在し、その中の一つが、ヴァラームと呼ばれる島で、そこにはスオミ正教会の主教座が置かれ、北方諸民族への布教や、西からやって来る西方教会との衝突の舞台ともなる、歴史ある場所として、存在していた。
「ラドガ湖には、湖内を巡る交易船があります。その船に乗せてもらえば、すぐですね」
「皆さん、ラドガに行くのですか?」
「あ、サトコさん」
話し合う彼らの背後から、不意に声がかかる。
そこには、仕事を終え、酒を片手に微笑むサトコの姿があった。
「ラドガへ行くのなら、私の船を貸しましょうか」
そう言いつつ、彼はクラウスの横へと腰を落ち着ける。
「い、いや、そんな」
「遠慮しないでください。あなたは私の仲間を助けてくれた恩人です、この程度の手助けは当然ですから」
「なんでそれを知っているんですか?」
「話は聞いています。この宿も無料で提供しますので」
酒の影響か、サトコの白い顔が、ほんのり紅く染まる。
彼は、宿をクラウスたちに自由に使ってくれと言い、船まで貸し出すつもりだと告げた。
「そういえば、お名前をまだ、聞いていませんでしたね」
「あっ、これは失礼しました。俺はクラウス、プロシアの騎士団員です」
彼ら一行は、改めて自己紹介をし、サトコら芸人たちと固い握手を交わす。
今回は熱烈な挨拶はなく、食事の場というのもあって、握手だけで済んだのが、クラウスにとって、なによりも幸福であった。
「さあて、食後は俺たちスコモローフの出番だな」
広場の一段上の、宴会用の壇上にて、誰かが声を上げる。
「クラウス、何が聞きたい?歌でも、音楽でも、ブィリーナでもいいぞぉー!」
広場のそこかしこから、彼へと笑い声が向けられる。
突然、リクエストを振られて、クラウスは少し困った顔を見せていた。
「うーん、急に言われても。俺、ここの歌とか知らないぞ」
「そうしたらクラウスくん、せっかくなのでブィリーナを聞きましょうか」
そんな彼へと、ヴァシリーが助けの手を差し伸べる。
「うんそうだな、じゃあ、ブィリーナを頼むよ」
「よーし、ブィリーナだな。どの話にするんだ?」
既に音楽は鳴り始め、静かに英雄の話は動き出していた。
「では、イリヤーを、クォデネンツのイリヤーの話を、お願いします」
ヴァシリーが、壇上へと声をかけた。
「あ、少年時代から聞かせてくれないか?」
クラウスも、何かを思い出したかのように、そう声を上げる。
「少年時代か、物好きだな」
音楽は、笑いと共に、ブィリーナの物語を彩る背景として、歌に溶け込んでいた。
「サトコ、グースリを弾いてくれよ」
「ああ」
杯の酒を飲み干し、指名のあったサトコは、愛器の三角形の兜型グースリを片手に壇上へと向かう。
椅子に腰掛けるなり、すぐに聞こえてくる、短く奏でられる弦の音は、イリヤーが勇者として旅立った季節でもある、冬の雪を思わせる、冷たくも繊細に感じられるものであった。
「この音、雪、みたい」
ツァガンの、黄金の狼耳が、ぱたぱたと動く。
「そうですね、冬はこんな音、しますものね」
音に合わせて、サラの短い足が、ゆらゆらと揺れた。
歌は、イリヤーが協力者に出会い、助言を受け、少しずつ成長する、その小さな小さな歩みから、幕を開ける。
弱く、小さな少年が、勇者になる、その始まりの第一歩から。
どこにでもいる、普通の少年が、英雄になるまでの物語だ。
だが、それは余りにも非力で弱く、退屈な話なので、クラウスの瞼は徐々に下がりだしていた。
――ちょっと、弱すぎる、かな。人気が無いのも、当然か。
うつらうつらとする、意識の中、クラウスはそんな事を思っていた。
商業都市ノヴゴロドの、今宵の宿は、とても賑やかであった。




