1 西方の騎士団員
少年は、走っていた。
黄金色の髪を揺らし、息を弾ませて、前へ前へとその足を進める。
ここは、故郷よりも遠き、樹林地帯の真っ只中で、西の世界へと続く、古くからの交易の道でもある。
その道を、少年はひたすらに突き進んだ。
全ては、故郷に住む、氏族の、皆の願いのために。
そこから遥か西にある、プロシアと呼ばれる騎士団の国。
ここは海に近く、平坦な草原と、少しだけ起伏のある丘陵からなっており、豊富な川の水量と、緑多き森林に囲まれた、人が住むには最適とも言える土地であった。
だが、その利便性ゆえに、古くから様々な民族が住み、争い、その所有を巡って、度々戦火が起こるという、動きの激しい場所でもある。
そして現在、ここを領有している国は、元々は傭兵として雇われていた騎士団が興した国であり、対異教徒の尖兵として力を振るう、西方教会の手駒でもある者たちだった。
「おめでとうございますっ」
そんな国の、とある町の門番に、少女は大きな声で高らかに祝いの言葉を告げた。
「あなたが、選ばれました!」
まだ年端もいかない、小柄な少女のそれに、門番の男は、あからさまに不審な表情をして見せていた。
「何だ、そりゃ?」
「だから、選ばれたんです。これはとても名誉なことなんですよ」
にこにこと、屈託の無い笑顔で、そう言う少女に、男はさらに困惑する。
少女は、門番の彼よりもだいぶ小さく、背が彼の胸元に届くかどうか、といったところ。
手も足も、子供のように短い、成長途中という雰囲気を醸し出していた。
「何の遊びか知らないが、俺は仕事中なんだ。からかうなら余所を当たりな」
「遊びではないです、私は父の言いつけで、ここに来たのですから」
手で追い払うような仕草をする男に、少女は急に真顔になって食い下がる。
「大体お前、異端者だろう。怪しいぞ」
金よりも薄い髪色の少女は、北の国に住む者特有の姿をしていた。
温かそうな毛織物のローブには、幾何学的な文様が刺繍されており、手に持つ杖には、彼女の信仰を表す八端十字架が輝く。
――こいつ、東方教会の奴だな。
杖のそれを見て、男の顔がにわかに険しくなる。
それは男の所属する国よりも東に位置し、世界を分ける大山脈よりも西の地域で、根強く信仰されている宗教だ。
東方正教会とも言われるそれは、土着の宗教と複雑に絡み合い、独特の教えとして人々に支持されているものの、西の教会とはかなり性質を異にしており、それゆえに西側諸国からは異端者として、弾圧、征服の対象ともなっていた。
「お話を聞いてください。あなたは、選ばれし……」
セミロングのクセのある髪を振り、少女は必死に訴える。
「悪いが、帰ってくれ、俺は仕事が忙しいんだ」
「そんなぁ」
「これ以上ここにいると、異端者として牢にぶち込むぞ」
男の、凄むような物言いに、少女は眼を潤ませて怯え上がり、すごすごと退散する。
小さな少女の、震える肩を見て、男は少しだけ言い過ぎたかと思っていた。
翌日。
「おはよーございますっ」
早朝から、門番として立つ男の前に、昨日の少女が元気よく声をかけていた。
「また、来たのか」
「はいっ、お話を聞いてくれるまで、諦めませんからねっ」
「めげないな、お前」
「だって、あなたには世界の命運が、かかっていますもの」
そう言って、笑顔を見せる少女に、男はまたも不審な目を向ける。
少女のプラチナブロンドの髪が、朝日を受けて、キレイな銀色に輝いていた。
そんな二人を見て、同じく門番をしている同僚が、声をかける。
「クラウス、そのお嬢ちゃんの話、聞いてやりなよ」
「でもこいつ、東方教会のガキだぞ」
少女の持つ、八端十字架の杖を睨み、クラウスと呼ばれた男は頭を横に振る。
「正教会とか、西方教会だとかは、関係ありません。これはこの世界を左右することなんですっ」
「そう言って、俺の信心を試しているんだな?」
「違いますってばぁ」
食い下がり、説得を続ける少女と、相手をする気の無いクラウス。
いい加減に少女を帰そうかと、彼が苛立ち始めたその時、街道を一騎の早馬が駆けて来るのが見えていた。
「おい、クラウス、早馬だ」
早馬はあっという間に彼らの元へと近づくと、一通の手紙を携えて下馬した。
「ティルジットのクラウスは、お前か?」
「そうだ」
誰何をし、彼に手紙が差し出される。
丁寧に筒状に丸められたそれは、赤い蝋で封印がされており、その印はどこかの国の紋章が打たれていた。
「確かに、渡したぞ」
そう言い残すと、早馬はまた街道を戻り、いずこかへと走り去っていった。
「誰からだ?」
赤い蝋を壊そうと、クラウスの指が動いたところで、少女がそれを制止する。
「待って、その印を見せてください」
「うん、ほらよ」
無造作に渡された手紙を受け取り、少女はまじまじと封印を見つめ、そして驚いていた。
赤い蝋に打たれた印は、故郷の国の紋章であり、そして彼女の父親の印でもあった。
「これ、私の父からです」
「お前の親父?」
「開けてみてください」
首を傾げつつ、クラウスは言われたとおりに、手紙を開き、中身を読む。
手紙には、スオミから、クラウスの住むプロシアに向けて、使者を送ったこと。
クラウスが、北方諸民族、そして正教会の主教たちから、世界を救う勇者として任命されたこと。
使者は手紙の主の娘であり、決して冗談ではないという文言が、大げさな美辞麗句と共に書かれており、文面の最後には、スオミ正教会総主教の名が記されていた。
「ええ?お前、スオミの総主教の娘なのか?」
「はい、私、サラと申します」
そう言って、彼女はぺこりと頭を下げた。
――どうしたものか。
彼は、手紙を片手に少し考える。
スオミの総主教から、プロシアの一個人、それも端くれとはいえ、騎士団員に手紙が届くなど、聞いたことが無い。
ましてや、お互いに信仰の違う者同士である。
イタズラにしては、手が込みすぎだと、クラウスは思い始めていた。
――話、聞くだけでも聞いてみるか。
己の顔を、一直線に見上げるその真摯な表情に、彼の心は僅かだが揺らいでいた。
「しばらくしたら、交代の時間になる。話はその時でいいか?」
クラウスの言葉に、強張っていたサラの顔は緩みだし、赤い瞳の目がキラキラと輝いていた。
太陽が、空の頂点近くに差し掛かった、昼の時刻。
クラウスとサラは、衛兵の詰め所を出て、城壁の片隅で話をしていた。
「俺が、勇者だって?」
仰々しい兜を脱ぎ、クラウスは茶色の短い髪を、ぼりぼりと掻く。
身体が動くたびに鎧が擦れ、軽い金属音が聞こえていた。
彼の身なりは、プロシア騎士団員共通のもので、半袖チュニック型のチェインメイルを着込み、木綿のタバードと呼ばれる、袖なしの上着を羽織った姿だ。
上着には、騎士団の紋様である黒十字が、白地に大きく入った堂々たるもの。
背丈は、この国の成人男性の平均とほぼ同じで、極々一般的な体格であった。
「そうです、あなたはは聖剣を持つ勇者として、選ばれたのです」
「聖剣ったってよ、俺、そんなの持っていないぞ」
腰に下げた彼の剣は、騎士団に入った時に下賜された、普通の剣である。
それはどの団員も所持している、ありきたりなものであった。
そんな彼を見て、サラは首を振っていた。
「今は、持っていないけれど、あなたは聖剣を見つける。そういう運命です」
「見つける?」
「はい、聖剣は、この世界のどこかにあるらしいのです。それをあなたは見つけないといけないのです」
彼女の言葉に、クラウスは呆れた顔をした。
「おいおい、どこかって、そんな大雑把な情報でどうしろと言うんだ」
「私も、詳しくは分かりません。ただクラウスさんをお手伝いしろ、としか……」
しょんぼりした顔で、サラは目を伏せる。
クラウスは、再び手紙を取り出し、文面を改めて読んでみた。
「この、北方諸民族の訴えというのは、どういうことなんだ?」
「それは、ペイガンの者たちです」
サラが、眉をひそめながらそう言うのを見て、彼もそれが何であるか、察していた。
「東方教会でもない、野蛮な自然崇拝者か」
ペイガンとは、自然を崇め、シャマンを擁する者たちを指した、侮蔑語であった。
教会に転んだ者たちは、未だ自然を崇拝する者たちを、知恵の足りない獣の如き愚か者と呼び、差別をしていた。
自分たちが、いかに文明的であるか、そして、彼らがいかに邪悪であるか。
教会の信徒になった者たちは幸福である、と言い聞かせるために、彼らを一段下に見るようになったのである。
「彼らは、ある日、汚い身なりで教会を訪れました。そして私の父に訴えたのです」
そう彼女が話し始めた時、建物の向こうから、大きな火の手が上がるのを、クラウスは目にしていた。
「……火事か?」
響き渡る悲鳴や爆発音に、サラも思わずそちらを振り返る。
「確認してくる、お前はここで待っててくれ」
「待ってください、クラウスさん」
鎧の音を立てながら、クラウスは走り出した。
その彼を追いかけるように、サラもまた、足を動かした。
建物に囲まれた、町の中心にある広場。
そこで起きている光景に、二人は驚き、立ちすくんでいた。
「な、んだ、これは……」
何気ない日常の中にある、人々の憩いの場なのだが。今やそこは、赤々と燃え、周囲の建物を、炎で飲み込もうとする、地獄の炉と化していた。
踊り狂う業火は石畳を這い、焼かれた石は爆ぜ、それは無差別に逃げ惑う人を襲い傷つける。
燃えさかる炎の中心部では、焼け焦げた黒い物体がブスブスと音を立て、中から半生状態の肉塊がはみ出ては、不快な臭いを当たりに巻き散らかしていた。
「う、うぶ……」
黒い物体は、一部が炭化してはいるが、ほんの少し前まで、人であったのだろうというのが容易に想像できる程度には、原形を留めていた。
これらから発する、嗅ぎたくもないその臭いに、サラは口に手を当て目をそむけた。
「無理するな、慣れていないなら、ここから離れていろ」
そんな彼女を庇うように、クラウスはサラをその背中に隠してやる。
だが、真っ青な顔の彼女は、それに返答する気力も無く、ただただ震えるばかりであった。
「後は、俺たち騎士団が……」
そう、言いかけた時、広場のどこからか、聞き慣れない不思議な音が、二人の耳に届く。
強く、弱く、まるで波のような、うねりを伴ったその音は、この広場を埋め尽くすように響き渡る。
それは周囲の炎や建物と共鳴し、乱反射をして、広場を、二人を音の洪水で覆い満たした。
「うあ……、頭が、壊れるっ!」
溢れる音は、クラウスの耳から侵入し、彼の頭蓋骨内を、暴力的なまでの轟音で引っかき回し、痛みを引き起こす。
足が地に着かない感覚。世界の色が消し飛び、白黒の激しい光彩が視覚を支配し、寒気に震える身体に、彼は思わず膝をつき、息は荒く乱れた。
「うえぇっ」
後ろの、見えない場所で、サラが嘔吐する。
まだ子供の彼女は、色々と影響も受けやすく、この惨状を目の前にして耐えられなくなってしまっていた。
「はあ、はあ、くそっ」
こみ上げる吐き気を堪え、立ち上がろうとするクラウスだったが、足は震えでおぼつかず、不快な臭いが、今起きている事柄の、正視すら拒ませる。
それでも痛む頭に耐え、炎を見つめる彼の目。その瞳に、不可解なものが映り込む。
赤い広場の叫ぶ炎、狂う火の向こう側、灼熱の中、動く人影が見える。
「ひ、人が……いる?」
赤い、紅い、炎よりも赤い、燃えるような髪の色の人物だ。
炎と共にそれは揺らめき、手に持つ片面張りの太鼓を、盛んに打ち鳴らしている。
その顔は頭巾で覆われ、表情は窺い知れないが、強い悪意がある、と彼は感じていた。
――あいつが、この騒ぎの原因か?
そう思い、彼はその人物を睨み付ける。
彼の者の姿は、頭に揺れる羽根飾りに、毛織物のゆったりとした服と、その服から垂れる無数の紐状のもの、そして特徴的な丸い太鼓を携えた出で立ちだ。
その格好は、異教徒のシャマン、そのものの姿であった。
「野蛮な、自然崇拝者め」
憎しみと侮蔑を含んだその言葉を、クラウスが呟いた時、赤毛の人物の身体から、炎が噴きだし、それは彼の者の周囲をぐるぐると巡り始める。
そして、一歩遅れて鳴り響く、空気を引き裂く轟音と、重い足音が聞こえた。
音と共に現われたのは、大きな牙を持つ、ライオンの身体に蛇が生えたような異形の怪物であった。
人の身の丈よりも、遥かに大きいソイツは、天に向かって咆吼し、その強さを誇示するかのように、身体を震わせる。
赤い炎を身に纏い、彼の者はさらに何かを唱えようと太鼓を構えた。
「急げ!こっちだ!」
と、そこへ、広場から伸びる路地の一つから、武装した騎士団が駆けつける。
彼らは広場の様相に各々驚くも、隊長の大声一喝により、毅然とした態度で武器を一斉に構え出していた。
「くそ、俺は、何を、やって、いるんだ」
クラウスは歯を食いしばり、腰の剣を抜き放つ。
震える切っ先が、赤毛の者に向けられ、彼の目が、その照準を合わせる。
大きく、一呼吸、二呼吸。
息が整えば整うほどに、身体は臨戦態勢へと移り、震えや痛みは握る剣の感覚に霧散していく。
広場にいる人間と怪物を挟み、騎士団とクラウスが、睨み合っていた。
「クラウスさん、無理はしないでください。あの人はすごく強い人です」
怯えた声で、サラが彼に注意する。
八端十字架の杖をしかと握り、彼女は歯を細かく鳴らして震えていた。
「安心しろ、あんな異教徒なんか、一撃で倒してやる」
「かかれぇ!」
騎士団の隊長が、合図を出すのと同時に、クラウスの足も動く。
熱い石畳を踏みしめ、炎の壁のその向こう、赤毛の者目がけて、剣が、腕が、一閃鋭く振り抜かれた。
しかし、腕の手応えは無く、剣も抵抗の無い中空を切り裂くのみ。
態勢を立て直そうと、彼は慌てて振り向こうとした、その時だった。
「うっ!」
目の前、お互いの息が触れ合いそうな距離で、赤毛の者が、クラウスの顔を覗き込んでいた。
彼は驚き、そして固まった。
それもそのはず、頭巾の隙間、彼の者の目には光が見えず、眼窩のあるべき部分には、黒いもやのようなものが、張り付いていたからである。
虚無の如き目に睨まれ、クラウスの背中を、ひやりとした汗が流れ落ちる。
時間にして、長い時が過ぎたように思われたが、それはほんの一瞬でもあった。
赤毛の者は、頭を激しく振り、声にならない声で、大きく笑う仕草をすると、またも太鼓を叩く。
彼の者から炎が噴き出し、それらはクラウスの身体へと、次々に襲いかかった。
「うわ……!」
重い鎧の胴当て越しに、衝撃が腹に響いた。
彼の身体は、抗う余地も無く、ただ吹き飛ばされるのみ。
ガシャリと石畳に叩きつけられた彼の身体を、今度はライオン様の怪物が襲う。
鋭い牙を彼に向け、その身を引き裂こうと、大きな足の爪が間近に迫る。
「クラウス!しっかりしろ!」
「クラウスさん!」
仲間の騎士団員と、サラの声に、彼は身を起こし、素早く態勢を立て直して怪物に向き直る。
「この、化け物が!」
そう叫び、クラウスは再び剣を振るう。
自身よりも巨大な怪物に、彼の剣は幾度も突き立てられ、生えていた蛇は宙を舞い、鮮血が激しく流れ落ちた。
「一斉にかかれ!」
隊長の、その声に、騎士団員たちは剣を並べて、突撃する。
クラウスも、心臓があるとおぼしき場所目がけて、己の剣を深々と突き刺す。
騎士団員たちの尽力もあり、怪物は次第に動きを止め、その歪な巨体を石畳に横たわらせることとなった。
いつの間にか周囲の炎はかき消えており、町の広場には、再び静寂が戻っていた。