第四回~序章~「アムール鉄道の車窓から」
また今日も、平凡な学校での一日が始まる。
朝のホームルームから始まり、午前の授業、昼休み、午後の授業、そして放課後…。
今日もほとんど誰とも話さずに一日が終わった。はたから見れば今日の私も何一つ
変わらない陰キャぶりで、相変わらず人を寄せ付けない雰囲気を感じ取っていたに
違いない。…しかし、今日の私は違う。
私は今夜、一国の女王になるのだ。
たった一つのクラスのスクールカースト上位に立ち、陰キャを卑下し、扱き使い、
それでいい気になってるやつらですら、今の私は見下すことができる。
独りでに言い表せない爽快感に包まれつつ、私は今日も陰キャを全うした。
帰路の途中、ふと考えることがあった。
もし私がこの世界から消えたら、学校ではどういう扱いになるのだろうか。
無断欠席?それとも失踪を疑われて警察と一緒に街中大捜索?
特に私が消えることで悲しむ人間などいないが、迷惑をこうむる人間はいる。
一応保護者として叔父夫婦が居るし、学校の先生や、最悪の場合本当に警察が動く。
いや、むしろ動いてくれないと私の存在価値ってそんなものなのかとかいろいろ
無駄なこと考えて絶望せざるを得ない。
今日の晩、あのフィルマンとかいう男の人がもう一度来た時に聞こう。
午後7時。
いや、確かに彼は言った。「夕刻にもう一度来る」と。そういうからさっきから
制服のままでドキドキしながら待っていたんだが…。
あれはもしや、本当に夢…?
それは起こりうる最悪の事実だ。考えたくもない。折角この"混沌"などという言葉では
言い切れないくらいつまらない現実から解放してくれる時が来たと思ったのに…。
―――その時、唐突にドアを勢いよくノックする音が聞こえた。
『ドンドンドンドン!』
その音の大きさに思わず身体が反応した。
「エルミール様!遅れまして大変申し訳ありません!朝に伺ったフィルマン・ビニスティです!」
…やっと来たか。
「何やってたんですか…」
などと冷静を装ってドアを開けるが、内心めちゃくちゃ高揚しているのは
言わなくても分かるだろう。
「すみませんでした。こちらの仕事が多くて…。それで、ご決断なさっていただけましたか?」
「はい。まずその前に、一つ質問が…」
「何でしょう?」とフィルマンが眉を上げて応答する。
「もし私がそちらの世界に言ったら、こっちの世界の人は私のことを探すと思うんです。」
「いえ、その心配はいりません。」
即答だった。私が「…え?」と聞き返すと、フィルマンは淡々と説明を始めた。
「あなたが"我が国の人間"となった瞬間、そしてあなたがこちらに戻ってくる瞬間。その間、
あなたという人間は"もともとこの世界には存在しなかった"ことになります。ですから、
この世界の人々からあなたという人間の記憶は消え、もともと生まれてすらいなかったことに
なるのです。」
…なるほど、そういうパターンか。
よく小説で見かける王道なやつだ。ただ今の説明では「私という人間の記憶だけ」が他人から
根こそぎ取られるという事になる。そうなるといろいろと辻褄が合わなくなる
過去の事実が出来上がったりしちゃうわけなのだが、そういう細かいことは置いておこう。
「なるほど、わかりました。」
「…では、エルミール様、こちらの世界に来ていただけますか?」
…というか、来てもらわなきゃ困る。と言いたげな顔だ。
「やります。私、女王になります。」
するとフィルマンはほっとした表情を浮かび上がらせ、
「ありがとうございます。それではこの書面にサインを。」
と言い、懐から紙を取り出し、それをペンと共に私に差し出した。
紙を見てみると、そこには見慣れない…というか初めて見る文字が
連なっていた。
「ここには、あなたが女王になるという契約の他に、正式にこちらの世界の人間になるという
証明の意味も含まれています。サインはあなたがいつも書いている文字で構いませんよ。」
私がサインを書き終えると、フィルマンが朱肉のようなものを私に差し出した。
「ここに拇印をお願いします。ここにあなたの指紋が写った瞬間、
あなたは晴れて我がアムール王国の国民となります。」
不思議な模様のケースの朱肉に親指を付け、それを紙に持っていく。
「目を瞑って、ここに親指をのせてください。」
フィルマンの指示に従い、目を瞑って拇印を押す。
「…目を開けていいですよ」
ゆっくりと目を開け、ふともう一度紙を見る。
そこには「契約書」の文字と、その下に契約の内容が書いてあった。
「…あれ、読めるようになった…。」
そう、私が再び目を開けたとき、さっきまで何が書いてあるかわからなかった
文字をしっかりと頭の中で認識し、意味を理解したのだった。
「すごい…。」
思わず声が漏れる。
「しかし引き換えに、あなたが元々話していた言語の理解は今を以て不可能となりました。
あなたが再びここに戻ってくるまで、お預けということになります。」
そんなまさか…。
私は玄関の靴箱の上にあったカレンダーを見た。が、
「読めない…。」
面白いほどに理解ができない…。
ふと、何とも言えない悲しさに襲われた。もう祖国語を話すことも描くことも聞くことも
できないという事実は意外と寂しいものだった。
すると、フィルマンが明るい表情で口を開いた。
「さぁ、行きましょう。あなたの家の裏手に電車が待っています。」
一瞬何を言ってるのかわからなかった。だがふと耳を澄ますと、
『シュッシュッシュッ』という蒸気機関車のような音がしていることに気付いた。
うちは片田舎にある小さな家だ。家の裏は大きな畑になっている。
でも到底機関車なんて入るわけ…。
走って家の裏手に回る。すると、そこに待っていたのはまさに"絶句"だった。
汽車は畑にはなかった。しかし、"確実にそこにあった"。
大きな機関車は"浮いていた"のだ。
地上から数十メートルのところに、透明なレールの上に載った機関車が
宙に浮いて"停車"していた。
「さあ、行きましょう。」
フィルマンが指をさした方向には、数十メートル上の客車の入り口から地上まで伸びている
階段があった。
私は16ビートで刻む鼓動をおさえながら、収まらない興奮と共に
地上を後にした。一段、また一段と上がるたびに、下の段が消えていく。
もう後戻りはできない。
フィルマン曰くこの汽車は「アムール鉄道」という向こうの世界の会社が運営している
ものらしい。そこんとこのファンタジー要素だけはなぜか欠けているんだなと思った。
「では、エルミール様、出発しますよ。」
甲高い汽笛の音と共に、ゆっくりと汽車は動き出した。
汽車の音、離れていく我が家、星空に近づいていく自分。
これを昨日までの自分が、予想などできただろうか。
私はただならぬ興奮と不安を同時に抱え込み、アムール鉄道の車窓から見える
景色を眺めながら、これから起こる全てのことに立ち向かっていくことを誓った。