11
レオポールは廊下の柱に凭れながら、鳩尾の辺りを押さえ、低く呻いた。正直、ここ最近の心労によって、本気で胃がダメになりそうである。
元々レオポールの胃は強い質ではないが、ティアナがこの城に来てからの胃の痛み方は尋常じゃなかった。暴走する主人を止め、よく解らないことを言い出した主人を諫め、失礼な事を言い出そうとする主人を制している現在の生活は、相当胃に負担をかけている。
先ほどは、何の気まぐれか主人が勝手に作った資料を元に、結婚式の見直しを各部署に伝えてきたばかりだ。元々、簡素すぎる結婚式に大きくはないが不満を持っていた者は多く、結婚式の見直し案を皆喜んでくれているようだった。
『なんでヴァレッド様は結婚式を見直そうと思ったんですかね?』
行く部署全てで聞かれたことだ。
そんな事自分が一番知りたい! そう叫びそうになるのを、レオポールは寸でで飲み込んで、当たり障りのない答えを返しておいた。外聞の為だとか、外交上必要になっただとか、適当なことを言い繕うのは昔からの得意技だ。
まともな結婚式を挙げると言い出した原因に、ティアナは確実に絡んでいる。皆そう思っているのに、誰一人としてヴァレッドがティアナのことを……なんて言い出さなかったのは、それ程までにヴァレッドが女性を嫌っていると知っているからだ。
彼にまともな想い人なんて出来るはずがない。ましてや結婚生活なんて長く続くわけがない。
それがこの城で働く者の共通認識であり、レオポールもその認識の元、今までヴァレッドに接してきたのだ。しかし、それもティアナがこの城に来るまでの話。
「ヴァレッド様がティアナ様を? まさかねぇ……」
もしかして……と思った事は確かにあったが、それでも今までの彼を知っているレオポールからしたら、そんなことは天地がひっくり返っても起こりえない事のように思うのだ。
レオポールは再びキリキリと悲鳴を上げだした内臓を叱咤して、歩を進める。目指す先はヴァレッドの私室だった。
ヴァレッド様が体調を崩したようだと、そう聞いたのは料理長の口からだ。詳細は聞かなかったが、体調を崩したヴァレッドの為にスープを作りに来た女性がいたらしい。結局は調理台をしっちゃかめっちゃかにして、スープなのか何なのかよく解らないものを作り上げたらしいのだが、それを見かねた料理長が代わりにスープを作ったそうだ。
「雇った侍女に料理の苦手な者などいましたかねぇ……」
ティアナの為にと新しく雇った侍女は三人。カロルも併せて四人の侍女が現在城で働いているのだが、その中に料理の苦手な者など居なかったように思う。それに、ヴァレッドが女嫌いという事を知っていて彼にスープを差し入れに行くような猛者も確か居なかった。
「残る線は、女顔の侍従ですかね。まさかのまさかで、ティアナ様本人がということも? いやいや、それはあり得ませんねぇ」
基本的に伯爵以上の貴族の女性は台所に立つのを嫌がる。それは下につく者の仕事と捉えているからだ。ティアナも元は伯爵令嬢。彼女がいくらお気楽、脳天気、楽天家の少女であろうとも、その辺の価値観は他の令嬢とそう変わらないだろう。
そんなことを考えているうちにヴァレッドの部屋の前に到着したレオポールはノックをしようと手を掲げた。何にしても、体調不良ということなら状態は把握しておかないといけない。家令としては勿論主人の事は心配だ。しかし、それ以上に友人としてレオポールはヴァレッドのことを心配していた。
『……めろ! ……で……める!』
『いけ……わ! …………まは、体調を……に考えて……い!』
『俺……ぶだとっ! い…………なせっ!』
誰かと言い争うような声が聞こえて、レオポールは肺の空気を全て出し切るような溜息をついた。おそらく命知らずな侍女がヴァレッドの逆鱗にでも触れたのだろう。早く侍女を助け出さなければまた面倒な侍女の選考が待っている。
レオポールは自身の胃がまたキリリと痛むのを感じながら、目の前の扉を開けた。
「ヴァレッド様ー。失礼しますよ。体調はどう……」
その時、レオポールの胃は捻切れた。
「自分で飲めると何度言えばっ!」
「私の手を煩わせると思って、そんな風に無理をしてくださるのは嬉しくありませんわ! ヴァレッド様はご自分の体調をっ……」
「だから大丈夫だと言ってるだろうが! 何度も言うが、俺は健康体だ!」
「ご無理をっ!」
「俺の言葉は君に届かない仕様になっているのか!?」
「ヴァレッド様……ティアナ様……」
ヴァレッドは寝台の上でティアナの両手首を掴み、壁に押しつけていた。そのティアナの手にはスプーンが握られているのだが、レオポールの目にはそれは見えていない。サイドテーブルに置いてあるスープにも気づいていない。従って、レオポールの目にはヴァレッドが無理矢理ティアナを襲っているように見えたのだ。
目の前が真っ暗になったレオポールは顔を青黒くさせたまま、膝を折ることなく前ののめりに倒れた。勢いを殺さぬまま床に頭を打ち付けたので、とんでもなく痛そうな音が辺りに響きわたる。ティアナとヴァレッドはその音でようやくレオポールがこの部屋に来たことに気がついたようだった。
「レオ!?」
「レオポール様!?」
ヴァレッドもティアナも慌ててレオポールに近づく。打ち付けた額は赤いが、顔色は青黒い。青なのか赤なのか黒なのかよく解らない顔色をレオポールは駆け寄ってきたティアナに向けた。その目尻には涙がたまっている。勿論、原因は頭を打ち付けた痛みではない。
「ティアナ様、うちの大馬鹿主人が申し訳ありません! ホント申し訳ありません! もーホント、本当に申し訳……」
そのままレオポールは白目を剥いて意識を失ってしまった。
◆◇◆
「ははは、申し訳ありません。てっきりヴァレッド様がティアナ様を襲っているのだと……」
「そんな訳ないだろう! 俺はどちらかと言えば襲われた方だ。被害者だ!」
「まぁ、ずいぶんな言い方ですわね。ティアナ様は良かれと思ってヴァレッド様にいろいろなさっているのに!」
「じゃぁ聞くが、カロル、お前はティアナが暴走ぎみだと感じたことは無いのか?」
「それとこれとは話が別ですわ!」
「ちょっと、二人とも私の部屋で喧嘩始めないでくださいね」
その夜、レオポールの部屋でヴァレッドとレオポールとカロルの三人は話し合いをしていた。レオポールはベッドに体を預けている状態で、カロルはその側で胃腸薬の準備をしている。ヴァレッドはカロルに近づかないように距離を取りながら扉に凭れていた。
最初、ティアナは倒れたレオポールを看病すると言って聞かなかったのだが、騒ぎを聞きつけたカロルによってそれは止められた。自分が看病をするからティアナ様は休んでくださいと、何度も子供に言い聞かせるようにそう言うと、彼女はようやく諦めた。今は部屋で休んでいるはずである。
「ヴァレッド様はお部屋に戻ってください。レオポール様の看病は私がしますから」
厄介者を払うようにカロルがそう言えば、ヴァレッドは盛大に眉を寄せた。
「カロル、何を考えているんだ。まさかこの隙にレオに何かする気じゃあるまいな?」
「あぁ、そうなんですか? 私としては大歓迎ですが」
「そんなわけないでしょう!」
カロルがそう声を荒げると、その一端を担ったレオポールがまぁまぁと彼女を制した。そしてそのまま話を続ける。
「それにしても、ヴァレッド様の看病をティアナ様がねぇ……」
「全部ティアナの勘違いだ。俺は健康体だし、看病の必要はなかった」
「それでも自室に入れたことが奇跡ですよー」
「言っておくが、俺はティアナのことを信用しているわけじゃないぞ! アイツだって女だ! どこで手のひらを返してくるか解ったもんじゃない!」
「はいはい」
レオポールが呆れ顔でそう返すと、ヴァレッドはこれでもかと眉を寄せたが、それ以上は何も言わずにそっぽを向いただけだった。
「あぁ、そう言えば、ティアナ様からレオポール様にこちらを預かってきました」
「私に?」
「レオに?」
カロルがポケットから封筒に入った手紙を取り出すと、レオポールは目を瞬かせて、ヴァレッドは眉を寄せた。レオポールはその手紙を受け取ると二人の前でそれを開いた。ヴァレッドもカロルも興味津々と言った感じでその手紙を覗き込む。
『レオポール様へ
この度はいらぬ心労をかけさせてしまい申し訳ありません。レオポール様はきっと私とヴァレッド様の様子を見て何か勘違いされたかもしれませんが、私はレオポール様の事もヴァレッド様も裏切っておりません。ご安心ください。私は愛し合うお二人の味方です。これからも健やかに愛を育んでください。
では、お二人の愛の行く末が光り輝かん事を祈りまして……
ティアナ』
「え? お二人って……。まさか、今日ティアナ様が言っていたヴァレッド様の愛人って……」
「あ、愛人!? 違うぞっ! ティアナが勘違いしているだけだ! 俺は男色家ではない!」
「…………胃が……」
再び胃を押さえだしたレオポールの体が寝台に沈む。それはもう死期を悟った男の顔だった。
「ヴァレッド様、後は頼みます……」
そのままレオポールは再び意識を手放した。