1話
厚い雲に覆われていた月が、大地に染み込んだ血の色に輝いていた。
地上では一体何人の魔族たちが死んでいるのだろう。
テオルクは、破壊された鉄城門に敵の大軍が殺到する様を尻目に、魔王城の中枢へ駆け込んだ。
「よくぞお戻りになられました陛下!」
第一侍衛長官のパルテラと五人の侍衛長官が、傷だらけのテオルクを回復魔法で治療する。
城の中枢にいるのはこの五人と、数百の貴族や騎士だけだ。
「悪いなお前達。この様な無様な姿を晒してしまうとは」
「とんでもございません。皆陛下が生きてお戻り下さったことに深く喜んでおります」
「そうか……。だがイフィーレ、ラクスマ、テロビス、マジテリア、ハントル達を犠牲にしてしまった。今頃は情けない主人だと呆れているだろうな」
テオルクを逃すために、敵の足止めをしている5名の侍衛長官の名を聴き、彼らの表情が少し曇る。
「お役目を全うする事が出来るのです。あれも本望でしょう。それは私どもとて同じことです。たとえ、この身が朽ち果てようとも我らは陛下の忠臣で御座います」
パルテラをはじめとする侍衛長官らは、跪いて同意を示した。
テオルクは、自分にはもったいないくらいの出来た配下に一人一人目を合わせた。思わず嗚咽を漏らしそうになるのを必死に堪える。
彼らはそんな弱々しい主人の姿を見たくはないのだ。
魔王として毅然と振る舞い、畏怖すべき存在として君臨する事を望んでいるのをテオルクは誰よりも知っている。
だから彼は、精一杯の威勢を振り絞り、堂々と一歩前に進み出た。
『我の声に応えよ、異世界に繋がりしゲート』
テオルクが高らかに掲げた声に応え、目の前に5メートル四方の大きな漆黒の境界が現れた。
この闇の先が異世界へ続くゲートだ。
テオルクは振り返り、魔界中に轟かんばかりの声を張り上げ、拳を振り上げた。
「魔界にありし全ての者どもよ。よく聴け!テオルク・ハイケイスト・アウローグはいつの日か、この汚泥を拭い去りに、必ずここへ舞い戻るだろう。その時までに首を長くして待っていると良い!」
「「「うおぉぉぉ!!!」」」
こうしてテオルク以下数百の手下達は、魔界から立ち去ったのであった。
ゲートの先は沢山の木々だった。どうやらここは深い森の中であるらしい。
全ての配下がゲートを潜ってきたのを確認し、テオルクは早々にゲートを閉じた。
「テオルク陛下。これからいかが致しましょうか」
傍に控えていたパルテラの声に振り向くと、侍衛長官一同が跪いて下知を待っていた。
侍衛長官をまとめる筆頭侍衛長官のパルテラ。
彼女は白く長い髪をポニーテールに結い、同じく白く透き通った美しい肌。瞳は新鮮な血の様に紅く、顔立ちはまだ大人になりきれていない少女といったところだ。
年齢はテオルクより200程年上の5400歳だが、吸血鬼の彼女を人間の年齢に当てはめるなら、18歳くらいが妥当だろう。
因みに吸血鬼だからといって、太陽の光に弱いだとか、杭で心臓を貫くと死ぬなどということは全くない。ただ、定期的に血を摂取しなければ魔力が尽き、太陽の光に焼かれ灰となって死んでしまう。
「パルテラ、お前は周辺の状況を確認しろ。特に、敵対勢力となり得る対象がないか入念にな。あと調査隊の編成はお前に一任する」
「畏まりました」
パルテラが頭を垂れたのを確認し、テオルクは立派な角を生やしたミノタウロス族の男に体を向けた。
「ガリバン、お前は周辺の警戒にあたれ。だが、さほどの脅威でなければ捕縛し、私の下まで連れて参れ。可能な限り殺すな」
「承知致しました」
ガリバンはミノタウロス族の侍衛長官で、物理攻撃全振りの武人だ。単純な力比べであればテオルクに匹敵するほどの力の持ち主である。
「次にカリソナだが、お前にはこの地に拠点の建設を任せる」
黒髪セミロングの美女が不可解な表情で顔を上げた。
カリソナは魔族と人間のハーフ、つまり半魔族だ。
本来半魔族は、出世したとしても騎士止まりという血統主義社会の中。彼女は純血の貴族を凌駕する力量で、テオルクの最側近に成り上がった実力派魔族だ。
「恐れながら陛下。この様な薄汚い森を拠点として据えるおつもりなのでしょうか」
「ああ、そのつもりでいる」
「承服致しかねます。陛下をこの様な場に留まらせるなどもってのほか。その御身はもっと華やかな場が相応しいかと」
カリソナは他の侍衛長官と比べるとやや気難しい性格だ。特にテオルクに関してとなると妥協はしない。
「ではカリソナよ。お前はどうするのが良いと考える。言ってみろ」
「はい。この世界は魔界とは違うこともあるでしょうが。人間や同族の拠点があるものと思われます。人間の拠点を殲滅するか、同族に頼るのが最善では」
「ふむ、前者についてはいずれそのようになるだろう。だが、後者については、私が頼る御方は魔神陛下ただお一人。他の者に頭を下げろなどとお前は、私を愚弄するつもりか」
「っ……滅相も御座いません。そのようなつもりでは、平にご容赦を」
「許す。お前は私の身を案じてくれたのだろう。分かっておるぞ」
「陛下の御慈悲に感謝致します。……しかし、先ほど陛下は他の拠点をいずれ殲滅すると仰られましたが、何故今ではないのでしょうか。陛下が御下知とあればこのカリソナ、この身一つででも国を滅ぼして参ります所存」
カリソナは見た目は穏やかな美人なのだが、やはりどうも脳筋が過ぎる。
「その心意気は立派であるが、気持ちだけ受け取るとしよう。そうだな、何故今ではないのかという問いであるが、ここはかって知ったる魔界ではないということだ。どこにどれだけの勢力があり、我らに害が及ぶか及ばぬかはまさに未知数。その様な状態で周囲に敵を作るなど早計である」
「……確かにその通りで御座います。この世界では他に、陛下の様な強大な気配を感じなかったが故に、そのような事にまで頭が回っておりませんでした」
「分かれば良い。個の力は無くとも、団結の力で我らを悩ませた人間の底力を決して忘れてはならぬ」
「ははっ!」
今はもう魔界で魔族に反乱を起こす人間はいなくなったが、1000年程前には500年もの間、人間の勢力と過激な争いがあった。結果的には魔族の勝利で終わったが、魔族の魔王が数人倒されるほどのそれはもう甚大な被害を被った。
「それ故にカリソナ。私は慎重に慎重を重ね、この世界の情報が集まるまで、表には出ずこの地を仮初の拠点とするつもりでいるのだ。異存はあるまいな」
「御座いません。その任しかと承りました」
「うむ、では低位のアンデットを召喚し早急に事にあたれ」
「はっ!」
ようやく頭を垂れたカリソナにホッとしつつ、テオルクは杖を携えた初老の魔族の名を呼んだ。
「セロクフ」
「はい陛下」
「我が軍は今し方の戦で、9割強の兵を失ってしまった」
「左様でございますな。早急に兵力の増強を急ぐべきでしょう」
「うむ。そこでお前には、残存兵力を再編成し、戦力の拡大をはかってほしい。故に、私の兵を一時お前に預ける。手を出せ」
「はっ」
セロクフは低い姿勢のままテオルクの下へにじり寄り、両手で水を掬い上げるように差し出した。
テオルクは右の掌から、直径30センチ程の大きさの黒い霧を作り出し、それを彼の手におさめた。
瞬間、彼が小さく身震いし、感嘆の声をもらした。
「なんと……!まだこれだけの兵を隠しておられたとは、流石はテオルク陛下で御座いますな」
「予備の戦力をとっておくのは当然のことだ」
「ごもっともで御座います。兵はしかとお預かり致します」
「任せたぞ」
セロクフが身体の中に黒い霧を仕舞うのを確認する。
そして一息ついてから、期待の一心で此方を見上げるサキュバスの少女を見やった。
「フィオンは私に付き従え」
「はい!御身はこのフィオンが必ずや御守り致します!永遠に!」
フィオンはサキュバスの能力の他に、防御力に特化したスキルを有している。侍衛長官の誰かから護衛として指名するにはこの上ない力量の持ち主だ。
ただ彼女やその部下達は、サキュバスの性質の所為で、事ある毎に主人の子種を求めるという所が最大の難点であった。
自分の護衛に襲われそうになるとは、まさに本末転倒だ。テオルクが上位の魅惑を防ぐ対魔術を会得していなければ、とうの昔に彼女の部下共々まとめて孕ませていたことだろう。
「あ、ああ、頼んだぞ。……では各々、任務遂行に早急に取り掛かれ、散!」
テオルク魔王軍による、異世界征服活動がここに幕を上げた。