オタサーの◯◯
オタサーの姫という存在がいる。
女性っけの無い、今まで彼女はおろか女性と話したことのないような男たちが集まるオタクサークルに突如加入し、その小悪魔的な態度でもって男を誘惑して人間関係を崩壊させる悪魔の様な女だ。
俺の所属するデジタル研究会。
研究会とは名ばかりの、今どきのオタクが趣味を語らいあう雑談場の様なこの場所に彼女が現れたのはいつの頃だっただろうか?
だが、確実に言えることがある。
彼女がどの様な意図を持っていたにしろ、その来訪が平穏に暮らしていた俺たちの生活をズタボロに破壊する結果となってしまったことを。
彼女が、まさしくオタサーの姫であるということを……。
「よしお様……よしお様、いらっしゃいますか?」
畳にして八畳ほどの大きさの、狭い部室に可憐な声音が響く。
薄暗い部屋にまるで太陽が刺したかの様に穏やかで暖かな空気が満たされた。
彼女は部屋の隅でパソコンの前に座る俺を見つけると、その顔にこれでもかと笑顔を浮かべて、まるでスキップでもしそうな雰囲気で近づいてくる。
「まぁ、よしお様。いらっしゃったらお返事してくれてもよろしかったのに……。意地悪ですわ」
絵画の様に美しい相貌。
天上の楽器を奏でたかと錯覚する様な可憐な声音。
天使の羽を織った言っても過言ではないほどの輝きを持つ白のドレス。
夜空の星々を加工したかの様に煌めく装飾品。
そう、彼女がこそが我がオタサーの姫。
フェルデウス王国継承権第三位。
ユリーナ・アンデヘルト・フェルデウス姫殿下なのだ。
なんでマジもんの姫がここにいるのか? とか、
そもそもどこの国の姫なんだよ? とか、
そんな現実離れした疑問が土砂降りの雨の様に降っては消えていく。
答えはない。
分かっていることは、彼女が姫であるという一点のみだ。
「は、はぁ……ごめんなさい。……姫」
「いいえ、お気になさらないでよしお様。今日も一緒にサークル活動、頑張りましょう?」
「は、はぁ……」
胸元で拳をぐっと握り、あざとい仕草で同意を求めてくる姫。
気をつけなければいけない。彼女はただの姫ではないのだ。
そう、彼女はオタサーの姫。
彼女の本心がどうあれ、その行動はサークルを破壊することとなる。
先ほどまで幸せだった、一人きりの時間に後ろ髪を引かれながら、なんとか気持ちを切り替える。
ここはもう、戦場だ。
「そうそう、今日はよしお様にお聞きしたいことがあったのですわ。キボンヌですわ!」
「あ、はい」
出た。
姫得意の"ネットで聞きかじった単語をすぐ使う"だ。
姫はネット用語が大好きだ。ネット空間という目に見えない世界を多くの人と共有している気分になれるのだろう。
ネットや掲示板でのみ使われる単語を見つけて来てはそれを現実で使いたがるのだ。
しかし十年くらい古い。今どきそんな単語を使っているヤツなんてもはや化石だ。
そして、厄介なのがこれ。
彼女の旺盛な好奇心だ。
質問に答えることは問題ない。
だが、オタク用語とは……なんというか、その。
「よしお様。無知な私に『バブみ』を教えてはくださらないでしょうか?」
非常に説明しづらいのだ。
「……姫、それどこから聞いてきたんですか?」
この姫は情報収集能力は高い。高いのは情報収集能力だけで、自分で意味を調べるとか、ググるとかいう単語が頭の辞書からすっぽりと抜け落ちている。
結果、いつも被害に遭うのは俺であり、かつて在籍していたサークルメンバー達だった。
「はい、実は私、昨日スレッドを立てましたの……。えっと、タイトルは『王国の姫だけど何か質問ある?』ですわ」
「そんなクソス……スレッド立ててたんですか」
某掲示板の皆さん。うちの姫がごめんなさい。
「はい、あんまりワロタな感じではありませんでしたが、その中で『バブみ』という単語が出てきましたの。私それが気になって気になって、夜も眠れませんでしたの」
ワロタの使い方が雑い。こちらが辛くなるので無理して使おうとしないで欲しい。
「えっと、『バブみ』はなんというか、その……」
しかし、女性相手――それも絵本から飛び出してきたような見目麗しいお姫様に『バブみ』を説明するのは難易度が高い。
別に俺がどうこう責められる訳ではないし、何かが変わるわけではないのだが、どうか彼女には清らかでいて欲しいという願いは過ぎたものだろうか?
「もうっ! いけずしないで教えてくださいよしお様! キボンヌ! キボンヌですわっ!」
「その覚えたての掲示板用語をことさら使うの、そろそろやめません? あの、こっちが恥ずかしくなりますんで」
「じゃあ『バブみ』を教えて下さい、よしお様!」
「えええ……」
どうやら姫のワガママ癖が出てしまったらしい。
比較的聞き分けの良い彼女であるが、好奇心が満たされないのは何よりも苦痛らしく、こうやって分からないことがあるとしつこく自分が納得するまで聞いてくるのだ。
『萌え』に関して一から十まで、具体例と用法まで説明させられた同じサークル仲間のひろし君は可哀想だった。
彼はあの後に心を病んでサークルを辞めてしまったが果たして元気にしているだろうか?
現実逃避気味にひろし君に思いを馳せていたが、目の前に興味津々の姫がいるのは変わらない。
どうしたものか……、誰か来てくれないか?
奇しくも、俺の願いは叶うこととなる。
より面倒な方向で。
「これ、姫様。あまりよしお殿を困らせてはいけませんぞ」
「うっ……」
「この声は……じいや!」
――オタサーのじいだ。
床まで届きそうな白い髭を結わえ、茶色のダボッとしたローブと老枝の杖を持った彼はオタサーのじいで姫のお目付役だ。
転移魔法が使えるらしく、いつの間にか現れた彼は、ほっほっほと人好きのする笑顔を浮かべながら軽く姫に対して注意する。
と言うかここは現代日本だぞ? 魔法ってなんだ。
そして俺は知っている。彼も姫と同類なのだ。
「でも、よしお様がなかなか『バブみ』について教えてくださらないのです。私、気になって仕方ないのですわ。賢者と名高きじいならご存知でしょうか?」
「ふむ……『バブみ』とな? はて、わしも諸国様々な文献を読んでおりますが、その様な単語、聞いたことはございませんのぅ」
「じぃでも知らないなんて……やはりこれはよしお様に教えていただくしかないのですね」
「よしお殿、ここは一つ、我々に『バブみ』を教えてくれませんかのぅ? このじいたっての願いですじゃ」
「お願いします、よしお様!」
「は、はぁ……」
ほらきた。
結局こうなるのだ。
じいは姫に対してゲロ甘だ、太鼓持ち程度の役割しかできない。
更には姫以上に知識欲が深い。結局、毎度のことながら姫と一緒に説明を求めてくるのだ。
そして、じいが来たということは……。
「何やらさわがしいな。何の話をしておるのだ?」
「まぁ、お父様!」
「これはこれは、ごきげん麗しゅう。王よ」
――オタサーの王だ。
何しに来たんだ王? 国はどうした王?
彼がどういった国のどういった王なのかは正直よくわからない。
ただ分かっていることは、姫の父親で、定期的に俺のサークルにやってきて、ひとしきりお菓子やジュースを堪能しつつブラウザゲーで遊んでは帰る。
つまり、そういうある種鬱陶しい人種なのだ。
「先日立てたスレッドで出た『バブみ』なる単語の説明をよしお様に求めていたのです。ですが、よしお様がなかなかお答えになってくださらなくて……」
「実はわしもそのスレッドは読んでおってな。ずっと気になっておったのじゃ。よしお殿。すまぬが『バブみ』なる単語の説明をできるかな?」
説明をできるかな? じゃねぇよ。
と言うか、お前もスレッド参加していたのかよ。
いろいろ突っ込みたい所は多いが、あまり強くは出られない。
相手は一国の王だ。ほっぺたにポテトチップスのカスをつけているがオーラが半端無いし、何より俺はコミュ障でまともに会話するのが苦手なのだ。
万事休す。
もはやどうにもならないとすべてを諦め、『バブみ』について説明しようと口を開く……。
「う、うう。えっと、その、『バブみ』というのは……」
刹那――。
「『バブみ』とは、赤ん坊のように甘えられる女性に対して使う言葉ですよ皆さん。母性が深ければ深いほど、バブれる……。その様な場合に使うのです」
「「「勇者殿っ!!」」」
――オタサーの勇者が来てしまった。
オタサーの勇者は勇者だ。
そもそも平然と『バブみ』に関して説明できる辺りからすでに勇者だし、性癖に関してあけっぴろげなところも実に勇者だ。
ちなみに好きなジャンルはおねショタで、理想の姉と若返りの秘薬を探すために世界を旅しているらしい。
この前近所の女子大生にしつこく言い寄って警察に連行されていた。
名実ともに彼は勇者なのだ。
しかし、勇者が来て少し安堵する自分がいた。
彼はこういった単語に詳しく、それらを説明することに関して躊躇や羞恥心といった物がごっそりと抜け落ちている。
この様な場面においてうってつけの人物だった。
「そうだったのですか、……道理でよしお様が言いよどむはずですわ。流石に、その……ちょっと恥ずかしいですものね」
「特に姫はバブみが高いですからね。よしお君もバブみを説明すると自然と姫にバブらざるを得ないから、迷っていたんでしょう」
自然と姫にバブらざるを得ないってなんだよ。ならねぇよ。
「まぁ! 私、そんなにバブみが高いのでしょうか!?」
「ええ、もちろんですよ。そのたわわに実ったオッパイと、ふんわりとした口調は実にバブれます」
完全にお前の趣味だろうが。
「うふふ、そう言われると悪い気はしませんわね。……あっ、失礼しましたよしお様。さっ、どうぞ私にバブってくださいな」
「はぁ、ありがとうございます……?」
「さぁ、よしお君。姫を"ママ"と呼んでみたまえ」
「えっと……、ママ」
「うふふ、甘えん坊なよしお様。よしよし」
姫に頭を撫でられた。
……意外と悪くない。
いや、ダメだ。戻れ俺。
本当にバブってどうするんだ? まんまと罠にハマってるじゃないか。
「よかったですな、姫」
「わははは、流石我が娘だ!」
……サークル辞めたい。
「けど、やっぱり世の中には沢山知らないことばっかり。私、もっともっとよしお様にいろんなことを教えて欲しくなりました」
「ああ、そうですね姫。よしお君ならきっと貴方が望む全てを教えてくれるでしょう。なぜなら、彼はパソコンの大先生だからね」
「ええ、頼もしいですわ! これからもよろしくお願いしますわね。パソコンの大先生♪」
「……はい」
機械的にハイとしか言えなかった。
……サークル辞めたい。
なんで俺はこんなところにいるのだろうか?
そしてこいつらはどこからやってきたのだろうか?
どうか俺の平穏を返して欲しい。
日々、自分の好きなジャンルやゲーム、キャラのことを友人たちと語り合っていたあの幸せな時を思い出す。
失われたものは決して返ってこない。
悲しみに思わず涙ぐみそうになったその時。
「くっくっく。相変わらず苦労しているようだなぁ……」
ぽんっと肩に手が置かれる。
少々の驚きを持って振り向いた先には、まるで死人の様に青白い顔をしたやせ細った男が不敵な笑みを浮かべて俺を見つめていた。
「こんなくだらん茶番、さっさとお終いにして一緒にエロゲーをしようではないか。なぁ、よしお……」
――ついにオタサーの魔王までやってきてしまった。
重ねて言う。もうサークル辞めたい。
だが辞めるわけにはいかない。
もう当初からの部員は俺しか残されていないのだ。
孤独な戦いは続く。
こうして、俺の愛したデジタル研究会は、今日も完膚なきまでに蹂躙されていくのだった。