真白の祈り 前編
夜半に降り出した雪は眠るように横たわる一人の女の上へ、まるで薄衣を掛けたようにうっすらと積もった。
一面の白に反射した光が彼女の黒髪を照らしている。
音すらも包み込む静かな雪の中、一人の男が近づきそのまま彼女の脇に屈み込んだ。それに合わせ装身具が冷たい音をかすかに鳴らす。
男は剣をしまうと目を閉じたままの女の息を確認し、彼女を抱え上げた。青白い頬に血の気はないが、少なくとも生きている。急がなければ――。
力強く雪を踏みしめ、男は足早に来た道を戻っていった。
昇り始めた太陽が庭に降り積もった雪を照らす。
目に眩しい真白は、窓にかかる紗のカーテンに遮られ、柔らかな光となって部屋に差し込む。
リサはティーカップの縁を指先でなぞり、湯気立つ琥珀色の水面に映る己の姿を見つめた。
つと、顔を上げ、物思いに耽るように窓の外を眺めた。
「どうしました、リサ」
気遣わしげな夫の声にリサはふんわりと微笑んだ。
「ジェスと出会ってから今日で一年経つのだと思って」
「ああ、そうでした。あの日、貴女は真っ白になって倒れていましたね」
ティーカップをソーサーに置き、懐かしむように妻の顔を見つめるジェスことジェラスティンは一年前のことを思い起こす。
一年前の雪の日の夜、薄雪を積もらせ倒れていた女をジェラスティンは屋敷へ連れ帰った。介抱して目を覚ました女は己の名前と記憶を失くして『真っ白』になっていた。
幸か不幸か、女は自身の境遇を嘆くことなく、恐れることもなく淡々と受け入れた。
混乱はないものの名前がないことを不便に思い、ジェラスティンは乞われるままに『リサ』という名を与えた。
冬を越えて春を過ごし、夏になる前にただの『リサ』から『リサ=クートルガ』となった。
「今夜は帰りが遅いのだったわよね?」
「ええ、クリエメルティルだというのに一緒に過ごせず申し訳ありません」
「いいえ、むしろ連れて行くと言われましても困ってしまうわ。粗相をしてジェスの顔に泥を塗るのも恐ろしいし」
ふるりと震えてみせるリサにジェラスティンは苦笑してみせた。
「我が妻は一体どんな大騒動を起こす気なんでしょうね」
クリエメルティルは、冬の祈りの日であり、その日は神に感謝の祈りを捧げ、大人も子供も夜を徹して振舞われる食事に舌鼓をうち、酒を飲み、歌い踊る。
いわゆる無礼講の日だ。
そんな日に問題を起こす行為となると限られる。
「村の広場ならまだしもお城だなんて……」
「村人全員潰すのだけは止めて下さいね。さすがにあれは居た堪れませんでした」
「……はい」
結婚式の日の消したい記憶を掘り返され、釘を刺されたリサは悄然と頷く。
記憶のないリサを慮り結婚式は王の許可のもと王都で挙げず、この村で執り行われた。城勤めのジェラスティンの元へは、リサにとっても村にとっても有難いことに城からの来訪者が訪れることはなく、宴会はもちろん無礼講となった。
そしてこの時初めてリサは際限なく酒を飲み続けた。村人達から言祝ぎとともに杯を満たしてもらえば飲み干していった。気を良くした男連中は、主役の花嫁であるどころか相手が女であることも忘れたかのように注いでゆき、リサはリサで祝われるままに杯を煽った。そのうちリサの飲みっぷりに負けていられないと一緒に飲む男達は次々と沈没していき、最後まで残ったのはリサ一人である。
女としてそれはどうかと思わなくもないが、ジェラスティンは呆れるだけで結婚初日に愛想を尽かされることだけは回避された。
城での作法もさることながら、そういった過去の所業がリサに城へ上がることを躊躇わせた。妻として勤めを果たせていないのではないかと心配になり一度お伺いを立てたことがあった。付き添いをさせたところですぐさま一人にさせてしまうので必要ない、と身も蓋もない返事であった。城での仕事は無論のこと役職すら明らかにしない夫はどうやらパートナーを連れるには不向き役目を負っているらしい。
リサは記憶がないからか元からそういった性質であったのかおおらか──大雑把ともいうが──に受け止め、必要であればジェラスティンから申し出るだろうと深く気に留めないことにした。
「さて、私はそろそろ出掛けますので村のことは頼みましたよ。いい子にしていて下さいね」
「はい。……子供ではないわよ?」
子供に言い聞かせるような物言いにリサは頬を膨らませた。
「大人はそんな顔しませんよ」
ジェラスティンはその頬に口付ける。知っているわ、とじゃれつくようにリサはジェラスティンの頬へキスを返した。
「いってらっしゃい、ジェス」
「いって参ります」
王城へ向かう為に屋敷内にある転送陣の間へきた二人はもう一度同じようにキスを交わし、ジェラスティンはすぐさま陣に足を踏み入れた。
見送ったリサは、そのまましばらくその場に佇んだ。
甘いわね……
一言ぽつりと零すと、踵を返した。
「リサ、おはよう! お酒たんまり用意してあるからあとで広場にいらっしゃい!」
「おはよう、エマ。ありがとう、楽しみにしているわ。でも無類の酒好きみたいな扱いは止めてちょうだいな」
「ええ?! あれだけ飲んでそれはないわ」
「そうだぞ。今度は負けないからなリサ!」
「オグマには無理でしょ」
「下手すると村一番で弱いもんな」
クリエメルティルでは、よちよち歩きの子供や乳飲み子以外ほぼ全員が酒を飲む。その中で弱いというあたり相当だろう。
どっと笑いが起きたところで、皆各々の準備に舞い戻った。
リサもクリエメルティルで供される料理の仕込みを手伝いに向かった。
ジェラスティンは王城の仕事で毎年村には顔を出したことがないらしい。そして結婚したところでそれは変わらないだろうという村人たちの予想を裏切らなかった。今年も不在の話を聞いても、相変わらず大変なんだなと呑気な反応だった。小さな村での交流を蔑ろにして大丈夫なのだろうか、という概念だけは記憶のないリサにもあったが、むしろ、夫婦生活に影響していないかを心配され、そこはリサがきちんと問題ないと断りを入れておいた。
日が沈み始めた頃、広場に組まれた木々に火が入れられた。皆、大きな焚き火を囲み、酒を飲み始めた。合間にリサや村の女達が朝から準備していた料理を口にする。
「リサ、お疲れ様。しっかり食べてちょうだいよ!」
差し出された芋と薫製肉の香草蒸しをリサは受け取る。薫製肉の香ばしい香りが口の中いっぱいに広がり、ほくほくとした芋の食感に目を細めた。味わいながら食べていたはずであるのにすぐさま器は空になっていた。朝食以降何も口にしていなかったことを今更のように思い出した。昼食を抜いたことを気付かれないようにしようと密やかに思う。なにしろ、夫に限らず村人から事あるごとにもっと食べろ、身体を肥やせと栄養価の高い食べ物を勧められるのだ。失念していたとはいえ、抜いたと気付かれれば延々と器に盛り付けられる羽目になる。叱るわけでなく、笑顔であるのが恐ろしい。それがお酒ならば喜んで受けるのだが、世の中難しいものである。
「そういえばリサがこの村に来たのは去年のクリエメルティルの日だったねぇ」
そろそろお酒に口をつけても良い頃合いだろうかと探していると、目の前にジョッキを差し出される。この村の女たちは皆気が利いている。礼を言って受け取り、それから少しだけ訂正した。
「正確にはクリエメルティルの翌日になるみたいだけれど」
真夜中過ぎに倒れているところをジェラスティンに発見され、介抱されたのだと聞いている。屋敷周辺に獣の気配がして騒がしかったから、と軽く見回りのつもりだったらしい。
「ジェラスティン様もそんな真夜中に帰ってきて大変だったわね。まぁ、そのおかげで綺麗な凍死体が出なかったわけだけど。後から聞いたときは心臓が止まるかと思ったわ。もう二度としないでちょうだいね」
「んなこと好きこのんでする奴いねぇだろ!」
がっはっはっと豪快に笑って、リサのジョッキに乾杯とぶつけてくる。勢い余って溢れる酒が勿体無いとぐいっと飲み干した。
「いい飲みっぷりだな! おい、リサに酒を注いでやれ」
「はいはい。あんたはほどほにしなよ、もう歳なんだからね」
すでに出来上がってる旦那に奥方は釘を刺した。いつでも遠慮ない物言いで、仲睦まじい二人にリサは微笑んだ。
短編のつもりだったのですが、間に合いそうにないので前後編に分けました。
恐れ入りますが続きをのんびりお待ちください。
ふんわり西欧風分が消し飛んでる…(ガクブル)